物の値段を考えると、一瞬どっちだがわからなくなる。価値があるから高いのだろうか、それとも高いから価値があるのだろうか。値段にはある保証が含まれていて、それが大きければ大きいほど、保証されるものが大きいと考えれば、値段が高いものほど価値があることになるのだが、最近の傾向はそうではないように見える。
安かろう悪かろうと言われた時代もあったが、ある程度の品質が保証されるようになると、値段を指標にしなくてもいい時代がやって来た。ところがそのまま妥当な値段が決められると思うと、どうもそうではないらしい。この現象の典型例の一つがバブル全盛期の物の値段なのではないか。投資の対象となりそうな物品はあらゆるものに法外な値がつき、それがさらに投資欲をかき立てさせるから、更なる上昇を招いた。レストランでの食事にとんでもない値がついたのもその時期で、高級を超える超高級が謳い文句になったところもある。高ければ高いほど客が飛びついてくる時代だったようで、その高値に見合う味だったかどうか誰にもわからない。物の値段は色んなもののバランスで決まるから、この決まり方が一概に悪かったとはいえないが、どうも庶民にはほど遠い存在だったようだ。実際その頃に何か高級なものに飛びついた記憶もないし、そちらへ回す資金の余裕もなかったから、ある意味幸いだったのかも知れない。そんな狂乱の時代が過ぎ、誰もが溜め息しか出ない時を迎えると、逆の現象が目立つようになってくる。安いことが一番で、まずはいかにしてコストダウンを図るかが経営者の手腕にかかることになった。品質がある程度より上に保たれているかぎり、消費者にとっては値段が安いほうがいいに決まっているわけで、こちらの競争も勢いがついてしまい拍車がかけられることになった。ここでも食べ物がその対象となりやすいらしく、ハンバーガー、牛丼などの外食産業で激烈な安値競争が展開された。経営者から見て、実際にどの値段が適正なのか、ここでも誰にもわからないような雰囲気になった。競合他社の息の根を止めるはずの安値合戦が実は自分の首を絞めることに繋がると考えたところは少なく、結局安い物しか買わない消費者の行動に振り回される結果となった。こういう現象がそのままデフレと言えるのかどうかわからないが、物の値段が下がるという意味ではその線に乗っかっているようだ。ただ最近になるとその流れが停まり始めたことがはっきりしてきた。幾つかの要因があるが、たとえば質の問題で言えば、昔の米国にとっての日本製と同様に、今の輸入品の一部には劣悪な製品が増えていることとか、コストダウンを図る段階で一部の国に輸入先を限定しなければならなくなったことなどが挙げられるだろう。最近の食肉業界の混乱を見るかぎり、安い物には必ずリスクが伴うことがよくわかる。リスク分散などと巷で騒がれていたにも関わらず、自らの庭ではそんなことは起きないとばかり無視を装った結果が現状を招いたのではないだろうか。これは、生産者側に言えるだけでなく、消費者にも言えることで、安いことだけを選択の要素とすれば、こういう結果が降りかかってくる。高ければいいとしていた時代から、安ければいいとする時代に、時が移り変わろうとも質とその価値の関係をどう結びつけるのかが肝心ということなのではなかろうか。そろそろ高いものへの戻り現象が出始めているようだが、今度こそはもう少し落ち着いた線で留まってくれることを望みたいものだ。経済の周期性が振り子のようなものだとすれば、ちょうどいいところはあっという間に過ぎてしまうのかも知れないが。
価という文字には、色んな意味が含まれるのだろう。元は、能うという言葉から始まっていると辞書には書いてあるが、ものの値打ちがそのものの価値に能うことを考えれば、なるほどと思えてくる。それにしても、価を決める要素とは何なのだろう。少なくとも、それ自身が決めるのではなく、何か別のものが決めるようだが。
漢字シリーズはある縛りを持つことになるのであまり好きではないが、たまの遊びといったところだ。どちらにしても思いつきに過ぎないから、その範囲を狭めることになるだけなのだが、題材に困ってくるとこれが苦しみを増す。せいぜいここまでとしたいが、では何を最後に持ってくるのか、これまた問題となる。それはあとのお楽しみとして、価という言葉に引っかけた話を始めることにしよう。政治の世界の話はあまり好きでもないし、このところその場しのぎの話題ばかりで読んでもつまらないものが多い。歴史的な出来事が次から次へと起きているかのごとく自画自賛を繰り返す施政者の戯言には、耳を傾ける価値を見いだせなくなっているからだ。論点はあくまでも自分が選んだものに限り、そこから外れてくるとはぐらかす言動を繰り返す。元の論点が核心をはずしており、それに対する批判が核心を突いていたとしても、そんなことには耳を貸さない姿勢が貫かれると、過去の悪政者との類似を思わずにはいられない。改革という名の看板のすり替えはこれまでに何度も行われてきたことだが、それにしてもこれほど大規模なものはないし、その流れに沿った言動の変遷には、論理回路の欠落を想像してしまう。まあ、そこまでひどいことはないだろうが、それにしてもこのままどこへ進もうとしているのか、道先案内人のいない旅のような感じさえしてくる。確かに、新しいことを始めようとすれば、旧来の制度を護ろうとする人々との軋轢が深まり、思うように事が運ばなくなる。その際に、さらに急激な変化を導入することで、全てをひっくり返すやり方と、逆に速度を緩めて徐々に変革を進めるやり方と、二つの方法があるように思える。今のところ、前者の選択をしつつ、その実何も変わらないという看板の交換とでも言うべきやり方を採用しているようだが、冷静に見れば見るほど、不思議な改革に思えてくる。様々な組織の民営化に関しても、莫大な労力をつぎ込んだ挙げ句、実質ではほとんど変化していないものが多いし、元からある民間の組織との共存という新たな問題を生じている。巨大な組織であればあるほど、純粋な民間にはない特長を持つわけで、それを売りにすればするほど、他の組織に圧力をかけることになる。もし、それに対して妨害しようとすれば、民営化の真意が蔑ろにされるのではないか。はてさて、どうしたものか、元の改革に賛成しないものには対策さえ思い浮かばぬ。これとは別だが、ある恐怖感から逃れるために別の恐怖感の方を選択した結果が今の派遣問題なのではないか。同盟国との関係、ひいては近隣諸国との関係を心配することで、遠くの国のことの方を選択する。それによって、どんな結果が出てくるのかやはり心配なのだが、直近の心配、恐怖の方が上回ってしまったらしい。この辺りの経緯は、すぐには外に出てこないと思うが、ある程度時間が経過すれば徐々に明らかになっていくだろう。それも国内からではなく、外からの情報漏洩によって。どちらの場合も、本人は時間が経てば何が正しかったかが明らかになるとか、歴史上でしか判断できないとか、現時点での判断を曖昧にしようとしているように見える。あれほど世間の評判を味方につけ、それを追い風に動いていた人が、今の評判を陽炎のように見るようになった。さて、その結末は、やはり時の流れを待つしかないのか。
そろそろあの季節が近づいてきている。数字とにらめっこしながら、四苦八苦する人も多いはずだ。個人事業主は当然のことながら、株式投資をしている人たちは、損得によっては関わらざるを得ない。特定口座なる制度が導入されて、気楽になった人でも場合によっては、手続きを行う必要が出てくる。
国民の義務として税金を納めることは常識と思われているが、実際のところ納めた金の使い道が下らないと思うと、義務を果たした意味が無くなるように思えてくる。納税は国を成立させるために重要な制度だが、景気の良いときならまだしも、悪くなってくると恨めしく思えてくることも多い。そんな中で、政治家の常識として減税を基本におき、増税は禁句といった雰囲気があるのは、仕方のないことかもしれない。それにしても、手続き自体は面倒なもので、毎日きちんと整理してあれば問題ないのだろうが、日が迫ってから慌てて準備しようとするからどうにもならなくなる。給与所得者は一般には源泉徴収制度にかかっているから、雇い主が全ての手続きを行う。実際には事業主が届けるような経費の申告も、ある額が設定されている形になっているので、自動的に行われることになる。この辺りの制度は、米国とはかなり違っていて、あちらでは納税者本人が必ず自分で申告することが義務づけられている。どちらが良いとは言えないのだろうが、自動的というのは結局誰かが勝手に決めたことであり、個人が自由に設定できないことだから、自由を重んじる国にとっては忌み嫌われることなのだろう。それでも、医療費やら住宅購入やら退職金やら、ちょっと通常と違う出費や収入があったときには、申告する必要が出てくる。多くの場合、一度納めた税金が戻ってくるからだが、逆の場合も当然ある。給与とは別の収入がある場合にも、源泉徴収されることがあるが、総計してみると納めた額が足らないことになる場合がある。慣れていないとこの複雑さにはついていけない。そんなこんなで、あと一週間ほどで手続きが開始されるが、また混乱するのだろう。株式投資の損得に関しても、様々な制度が導入され、さっぱりわからなくなった。とにかく、投資の意欲を増すために導入されたものの場合、期間限定とされているが、その期間が延長されたり、よく似た別の制度が導入されて混乱する。官僚達はきちんと理解したうえで行っているのだろうが、国税庁のサイトでも一覧表から抜け落ちているものがあり、はたして無意識のものか意図的か、首をかしげたくなる。購入の時期、利益の額、様々な要因が関係しているようで、ちょっと複雑な感じだ。投資家の場合は売買損益だけが問題となるが、企業の場合は保有する株式の価値をその時の資産として計上しなければならない。売るまでは本来の価値が出てこないのだが、保有資産として考えるから必要になる。株価が下落していた当時、保有株式の価値を何を基にして計算すべきかが議論されていた。下落していたわけだから、購入時よりも見かけの価値は下がっている。だから、資産の目減りが起こり、企業の財務状況の印象を悪くするなどと言われていた。実際のところはよくわからないが、こんなことが真面目に議論の対象になること自体、数字の分析力に問題があるように思えた。数字はとても冷たいものであり、そこに感情などが入る余地はない。にもかかわらず、何か感情的なものを求める気持ちがどこかにあるようだったからだ。
朝刊を開くと大量の広告が飛び出してくる。近隣の商店の広告がほとんどだが、様々な業種が入り混じり、それだけを見ていると経済状況は良さそうに見える。実際のところ良いのか悪いのか業種によって様々だから、一概には言えないのだろうが、宣伝に力を入れること自体、悪いことではなさそうだ。
中でも、電器店の広告はかなり力が入っている。多色刷りが少なくなっているのに、両面フルカラーの多種多様な電気製品の広告で、それを見ているだけで何となく売り場の大きさが想像できる。これは個人の電器店ではとてもできないことであり、最近の家電小売業界の情勢を如実に表していると言える。北関東を本拠にする業界最大手の二つの企業は、元々関東を中心に家電販売の大型店舗を展開してきたが、順調に拡大するとともに関西方面にも進出している。首都圏も関西圏もそれぞれ地場の家電小売店舗があり、どれもそれなりの大きさを誇っていたが、最大手に比べるとやはり見劣りがする。この業界はかなり競争が激しく、競合店で売られている価格より値引きするといった値引き合戦も止まるところを知らず、表面的には共倒れを思わせるほどの状況にある。しかし、実際に話を聴いてみると、売り場に並んでいる製品の一部はそれぞれの小売り会社が電器メーカーに特注したものであり、他の会社が売っている製品とは見かけが似ていても製品番号が違うものとなる。これを違う機種と解釈するかどうかについては聞きそびれたが、そういう可能性もあり、他店との差別化をこういった形で図っていることがわかる。電気製品の価格は以前はメーカー標準価格、いわゆる定価からどのくらい値引きされているかで、想像することができたが、最近はそうもいかなくなっている。メーカーが小売の段階での価格を設定することは様々な圧力を生み、小売店とメーカーとの関係を依存的なものにしかねないという考えから、強制的な価格の設定を妨げる指導がなされているからだ。そんな中で、生まれてきたのがオープン価格と言われるもので、市場が価格を設定するという考えから出てきたものらしい。確かに高くても売れる品物を高く売ることは別段問題ないだろうし、売れなければ価格を下げてでも売る必要が出てくる。そういった仕組みから出てきたものがオープン価格なのかもしれないが、売り始めの段階ではどういった仕組みで価格が決まるのか、どうもはっきりしないところがある。競りやオークションといった形式をとる段階では、こういったやり方は分かり易いのだが、小売の段階でその形式はとられていない。どの辺りが妥当な価格になるのか消費者が検討したという話も聞こえてきたことがなく、小売りの立場でどのように価格設定しているのかも話題に上らない。もっと困るのは、電化製品の場合多くの企業が同じような製品を売り出すから、買う段階でそれぞれの比較が必要となるが、決定要素の一つとなる小売価格の比較が難しいことである。市場原理から決まるものだから流動的となり、固定価格を提示することが不可能なのだろう。それにしても消費者にとっては不便なものである。秋葉原や日本橋に出かけて、ぐるぐる回ればいいと考えるのは、都会に住む人々だけに通じるものである。電化製品に限らず、色んな製品にこういった仕組みが採り入れられ、一見価格設定は公正になったように見える。ただ、どうもどこか腑に落ちない点もあるのだが。
色んな話題が巷に溢れているとはいえ、忘れ去られてしまったものも多く、たまに仲間内でどうしたのかと話すこともあるのだが、皆が忘れているからなんともならない。それでも、ひょんなことから舞台に再登場すれば、あっという間に時の話題に返り咲く。そこにある事実にはなんの変わりもないはずだが。
こんなことを思ったきっかけは、米国からの容疑者の引き渡し要求に対して、政府が動きを起こし始めたというニュースが舞い込んできたからだ。その時はかなり大きな話題として取り上げられ、ここでも触れたことがあったのかもしれないが、その後の展開はすっかり舞台裏に移ってしまい、まったく目に触れることが無くなった。米国の研究機関に勤めていた研究者がある遺伝子に関わるものを国外に持ち出した、という話から始まったこの事件は、遺伝子スパイ事件という名前までつけられて、一般の視聴者にむけて解説された。しかし、実態ははっきりとはわからず、国内の受け入れ機関の調査から確かにそれが持ち込まれたことが確認されたが、使われた形跡がないとして事件性を確認することができず、その辺りで表舞台の話題から消えてしまったように感じる。実際には共犯者として米国内で逮捕された日本人が司法取引で、遺伝子を盗んだことを認めたために、こちらに戻ってきた研究者に対する容疑は晴れないままどころかさらに悪い状態に追い込まれていたようだ。そんな中で二国間の交渉では依然問題として取り上げられ、検討されてきたようだが、結局日本政府の決定としては引き渡しということになった。但し、本当に引き渡すかどうかについては、これから裁判の形式をとって決定されるから、今のところはその手続きを始めたという段階に過ぎない。とはいえ、こういう話が舞台上に戻ってくると、それまで忘れていたのか無視していたのかはっきりしないが、とにかくあっという間に様々な情報が提供される。その中でちょっと驚いたのは本人の居所で、こちらの研究機関の調査のあと情報が途切れていたのでまったく知らなかったが、医療業務に戻っていたことだ。確かに医学部出身で医師免許も持っているのだから、なんの不思議もないことだが、それにしても研究畑に長くいた人が大丈夫なのかなと思ってしまう。この事件の成り行きは色んな面から興味深いが、さてどうなることやら。二国間の容疑者引き渡しでは、事件を起こした国での犯罪性だけでなく、滞在する国での犯罪性も問題になるそうで、その辺りが争点と言われているようだ。遺伝子に関わるものを持ち出すことが窃盗にあたるかどうかを問題にするようだが、あちらではもっと重い罪が待っているようで当事者としては何となく釈然としないのではないだろうか。特に、窃盗とするためには金銭のように価値をもったものでなくてはならず、このものがその価値を有するかどうかも争点となるらしい。与えられた情報から得たものだから、どこかに情報操作が加えられているのかもしれないが、価値のないという形でそのものをみなすことで何とか事件性を消滅させるといった戦略が浮かび上がっているようだ。まあ、言葉の遊びなのかもしれないが、価値のあるなしで論争を繰り広げるとして、無価値のものを持ち帰る意義はどこにあったのか、素人目にも不可解に見えるがどうだろうか。
この頃はニュースに事欠かない雰囲気がある。次から次へと新たな話題が提供され、無理をして探し回らなくてもいい感じだ。それが良いことか悪いことかあまり考えたくはないが、現実がそうなっているのだから受け入れるしかない。それにしても、世紀末と言われたときから数年して、まさかそんなことになるとは思わなかった。
特に気になるのは食べ物に関することなのではないだろうか。食料自給率が低いこの国では、色んなものを他の国に頼るしかない状況が続いている。たとえば、魚にしても自国の領海内で捕れた魚を食べている率はかなり低く、実際には遠くの方から冷凍で運ばれてきたものが多い。特にマグロは近海物が珍重されることからわかるように、ほとんどがどこか別のところで捕れたものだ。最近は、スペインのように一度捕獲したマグロをいけすの中で太らせてからこちらに送ってくる国も出てきて、蓄養と呼ばれているようだが、新しいタイプの事業と言えるのだろう。そんな中で、心配されたことが次々に起きている。まずは、国内でも報告され、大騒ぎになった狂牛病がこの国向けの最大の輸出国で発覚し、輸入禁止の措置がとられた。輸出国の言い分も理解できなくもないが、今までの経緯からして当然の措置と言えるだろう。そういうときにごり押しのごとくの態度をとるのはいつものことで、論理性の危うさを理解するには良い例となったのではないだろうか。いずれにしても、何らかの解決策を講じる必要があり、願わくばこちらの方式を採り入れて欲しいものだ。経費の問題など様々な障害が山積しているから、そう簡単に納得するとはとても思えず、長引きそうな雰囲気はあるようだが。そうこうしているうちに、別の肉類に問題が起き始めた。今度は鶏肉である。鳥インフルエンザなるものが蔓延しているようで、人への感染が報告されるにつれて問題が大きくなっている。元々、猛威を振るうインフルエンザが鳥や豚を介して、人への感染が広がる図式が報告されていただけに、こういう時には心配が大きくなる。他の種類の動物を介することによって、病原性が高められたりする可能性が考えられているかららしい。実際のところはさっぱりわからないが、悪いことが起きないような方策はとられるべきと言うしかない。輸入牛肉を主体にした外食産業では、その代わりとして輸入鶏肉を使った商品の売り出しを図ったようだが、このままだとそちらも危ない感じである。そんな中で、そろそろ在庫が尽きてきたとして、牛丼の販売をやめるところが出てきた。最大手が会見で明らかにしたように、業界全体が販売中止を実行し始めたわけだ。これで当分の間食べられなくなることを惜しむ人々が店に殺到しているらしいが、業界全体がこのまま輸入再開を待つとも思えない感じがある。安価なものを供給することの障害が様々報告されたあとだけに、そろそろ別の形の商品の供給が水面下で図られているのではないだろうか。いつものごとくの横並びの対応を見ていると、その辺りの計画まで横並びかと疑いたくなる。さてどうなるか、春が来るまでには明らかになるのだろうか。
どういう学校を卒業したかということは、そんなに重要なんだろうか。就職活動に有利にするために、より良い大学に入学することに全力を尽くし、その結果として大企業に就職したという話は一昔前ならよく聞いたものだ。しかし、最近は学歴不問を謳う企業も多くなり、そういう雰囲気は幾分静まったかのように思える。
とは言え、未だに学歴偏重の気配を感じることも多くある。たとえば、就職活動で資料請求したときにそんなことを感じたと話す人々がいる。人材発掘に金をかけられた時代であれば、すべての請求に応じていたのだろうが、不況と言われるようになってからは選別が行われるようになったらしい。つまり、返信する経費も勿体無いので、その時に有名大学に在学する人には資料を送るが、そうでない人は無視するわけだ。その際に、自らの学歴を実感すると溜息を漏らした人もいるが、学歴不問を謳う企業でもそういう選別が行われたりすると、はてアピールだけのことかとも思える。いずれにしても、かなりの率で大学に進学する時代になると、どんな大学をどう出てきたのかが問われるようだ。そんな風潮から、様々な場で学歴詐称の問題が表沙汰になるようになった。以前、議員に出馬する時点で学歴の問題を取り上げられ、毎日のようにマスコミに登場していた女性がいたが、最近はとんとその話を聞かなくなった。まあ、熱しやすく冷めやすい業界だから、当然のことなのだろうが、それにしてもと思うことは多い。同じような事例として、このところ話題になっているのは、女性問題の発覚に端を発して批判の矢面に立たされた元議員を先日の選挙で堂々と破って当選した新人議員である。どうやら学歴に問題があったようで、それを次から次へと暴露しながら、話題に上らせ続けている感がある。いくつか面白いと思うことがあるが、たとえば選挙において彼の学歴を投票の理由に挙げた人はどのくらいいるのかとか、選挙期間中に何故そのことが問題にされなかったのかとか、そんなものがある。いずれにしても、弱点を握れば一気呵成に攻め立てる業界だから、どこまで突き進むのか果てなく見えるが、どうなるのだろうか。しかし、事前の調査が不十分なまま発覚後には続々と新事実が浮かび上がるのは毎度のことで、本当のスクープとは何かと思える部分もある。まあ、それはそれとして、ずっと昔の人で留学していたけれどもそれほど知られていない人もいるから、議員の学歴はそんなものかなとも思える。その元議員は九州選出の人で与党のかなりの立場まで上り詰めた人である。米国のある都市のcity collegeを卒業しており、その大学にも記録があったと思う。ただ、あちらのカレッジはユニバーシティに入るための段階に過ぎず、さほど評価されない。とは言え、50年くらい前のこととなればすごいわけで、そんな評価があっても良いようにも見えた。確かに、そこまで大物になると学歴なぞは関係ないと言えるわけだが、人物の資質を見るときにその人そのものではなく、その履歴を問題にする考え方はいかがなものか。誰しもその気持ちはあるだろうし、気になるからこそ自分のこともそう考える。まあ、そんなものかも知れないが、ちょっとどんな人かを見てみたらどうだろう。