パンチの独り言

(2004年2月16日〜2月22日)
(貧富、入出、高評、液晶、爛熟、対話、無名)



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2月22日(日)−無名

 先日、民放テレビで報道番組のあり方に関する討論会が流れていた。当然の意見に当然の対応、疑惑の報道に基本的理念、何とも虚しいかぎりの内容で、一般視聴者の意見をこういう形で吸い上げたつもりになれる人たちの傲慢なのか無知なのかわからない姿勢に呆れてしまった。見ている人は皆同じことを思っているという思い込みの恐ろしさだろうか。
 呆れたわけだから、始めから終わりまで見続けたなどとはとても言えない。ちょっと観て、なるほど、やっぱり、と思ったら、そこでおしまいである。中でも再認識させられたのは、受け取る側の姿勢である。流す側が責任を持って正しい報道をすべきとか、個人的な意見を言わずに事実だけを流すべきとか、そういう考えを持つ人が沢山いた。ここで注意しなければならないのは、何が「正しい」のか、何が「事実」なのか、ということなのだが、実はその点には誰も意見を挟まない。彼らにとっては、そこで起きていることが「事実」であり、細工をしないことが「正しい」のである。事件の現場をどちらからどう映すかで、そこに見えるものが違ってくる、という話はどこにも存在しない。また、同じ事件について、話す順序を逆にするだけで、内容が違ったように感じられるという話もない。流れてくるものをそのまま信じ込む姿勢を無意識にだろうが、意図的だろうが、貫けば、こんな意見が出てくるのだろう。自分たちが信じるに足りる報道をするのが流す側の責任という点にだけ気持ちが集中している。受け取る側が流れてきたものをどう分析するか、という話はどこか異次元のもののようである。事実と思われるものを流す責任は当然報道する側にあり、それをきちんと実行して欲しいと思うのは当たり前のことである。しかし、実行されているから鵜呑みにして良い、というところまで論理を進めるのは非常に危険なのではないか。ほんの一面しか流れてこなくても、それを違う面から覗いたらどんな風に見えるのか、想像することが受け取る側に必要なことなのではないだろうか。この論理もうっかりすると別の解釈をされるから要注意である。つまり、受け取り側がそういう見方をするから流す側が無責任になってもいい、と言っているわけではないのだ。権威のあるものに対する姿勢の問題なのだが、これは逆に権威のないものに対する姿勢の方を見ると面白いことがわかる。ネット上に溢れている種々雑多な文書に対する人々の姿勢のことである。受け取る側は、一部の人は権威のない人の書いたものは信じられないという姿勢を貫くし、別の人々は何でもかんでも信じ込んで風評に振り回される。流す側に立つともっと面白く、本人特定ができないのだから無責任な噂を流したり、誹謗中傷的な文書を作成するのに躍起になる。この辺りは受け取る側に立ったときの気持ちの裏返しなのかも知れないが、名が知れないことが無責任と等しいと思うところに原点がありそうだ。これほど普及した社会では実際には匿名性は当然のことであり、それ自体が責任の有無に影響することはほとんど無くなっていなければならない。にもかかわらず、未成熟な人々が無理解をまかり通させている。この裏側には有識者の発言を鵜呑みにする心があるのではないだろうか。そう考えると報道姿勢に対する意見もどんな人間から発せられたものか、想像がつきそうである。

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2月21日(土)−対話

 携帯電話の功罪が色々と取りざたされる。便利、効率、そんな言葉を並べることによってその利用価値を主張する人々がいる一方で、それ自体を否定するのではなく、その大きさと別のものの大きさを比べることで悪い点を主張する人々がいる。前者が目に見えるものであるのに対し、後者にはどちらかといえば心理的なものが多いようだ。
 それぞれの主張の正誤を指摘してもつまらない。どちらにしても本人がどう感じているのかが重要で、他の人にとってどんな影響があるのかを論じても焦点がぼやけてしまうように見えるからだ。ただ、そうは言っても、周囲の状況を見ていると奇異に映るものもある。最近よく感じることに、カップルの行動の不自然さがある。この不自然さは、こちらから見ればおかしく見えるだけで、当事者達にとってはなんらおかしなところが無いのかもしれない。もしそうでなかったら、さらに悩みが深くなるから、ちょっと困ってしまう。見かけるだけだから、実際にどうなのかはわからないのだが、二人で歩いている人々が時々会話をすることに違和感を覚える人はいないと思う。しかし、それぞれが携帯電話を使って、別のところにいる人と別々に話しているとしたら、それはとてもおかしく見えてくる。この二人はどうして一緒に歩きながら、別の人との会話を楽しんでいるのか、さっぱり理解できないからだ。同じようなことは、喫茶店などの中で、同じテーブルに座っている人々がそれぞれに携帯電話でネットを楽しんでいるときにも起きる。これもまた、これらの人々がそこにいるのは何故なのか、わからないからだ。こんなことを見ながら、悩んでいたりしたら、もうどうにもならないのだろう。さすがに、ちょっと違和感を覚えるだけで、おしまいになるのが普通である。そんなことを気にしても仕方がない、というのが正直な感想だろう。一緒にいるということを特別に考える方がおかしい、と言われるようになったら、もうおしまいなのだが、集団と個に対する考えが少しずつ変わっているような気もしてくる。これは世代による違いではなく、おそらくかなり広範囲にわたる傾向で、個に閉じこもるというと言い過ぎになるのだが、そこに向かっている老若男女を見ていると、ちょっとした不安感がよぎるのも無理はないのでないだろうか。そんな中で、電車などの中での携帯電話の使用を何とか規制しようとする動きが出てきた。ただ単に使ってはダメというのでは無理があるというのか、電車の中の棲み分けを意図する呼びかけが始まった。車中の使用を規制する点では変化がないのだが、本来は電源を落とすなどの措置を意図するもので、特に心臓ペースメーカーの使用者に対する配慮からくるものだ。しかし、ここ数年の呼びかけにも関わらず、同調する動きは見られず、何の効果も得られていないことから、別の戦略が練られたようだ。ペースメーカーの使用者には優先席付近にいてもらうことにして、その周辺での電源を切る行動を促進しようとするものだ。しかし、様子を見ているかぎり、ほとんど効果は上がっていない。この状況が今後変化するかどうかわからないが、今の流れからして法的拘束力を持たない措置には無理があると言えるだろう。もう一つの問題は、電磁波の影響をどう考えるかということにもあるのではないだろうか。ペースメーカーを使っている友人は携帯電話を利用している。仕事の都合からそうせざるを得ないからしているわけだが、そんなことを聞くと上の措置に疑問を感じてしまう。ただ、彼は右の耳に機械を当てるなどの注意を払っているから、そばにいる人の胸ポケットにある携帯電話の影響は実はもっと大きいものかもしれない。また、電話以外の機械から出る電磁波の影響はどうか、ということにも引っ掛かりを覚える。とにかく、そう簡単な話ではない。しかし一方で、自分が他人に及ぼしている影響を考えない風潮があるのも事実である。一朝一夕に解決するとは思えないが、これほど何も起きない状況では、ゆっくりとした変化も望めない気がしてくる。

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2月20日(金)−爛熟

 子供を見ていると、日々、月々、年々の変化に目を見張る。歩き出すなどの肉体的な成長だけでなく、考えなどの精神的な成長、どれを見ても潜在能力の高さを意識するし、それが徐々に発揮されることに生き物としての素晴らしさを感じる。機械の場合、能力に変化があるというのは、機械そのものが変わることを意味するのと大いに違う。
 人間のそんな変化を実感できるのは、おそらく成人するまでくらいだろうか。あとは、大きな変化がなく、そのまま年老いていくように見えることもあるだろう。実際には、小さくともちゃんと変化が起きていて、それはそれで意識することなのだが、どちらかというと加齢現象のようなものが多いから、どうしても負の印象が強くなる。だから、それを成長と呼ぶのはどうしても難しくなる。しかし、人生を考えたとき、そういう変化がその豊かさを決める要素となる。そんなことに気がつかない人もいるのかもしれないが、目に見える変化だけが意味を持つと思ってしまうと、どうしてもそんな考えに陥りそうだ。経済についても同じようなことが言えるのではないか。成長、拡大する経済を当たり前と思い、それがいつまでも続くと思っていた人もたくさんいた。さすがに、バブルがはじけてからは、そんな考え方をする人も少なくなったと思うが、それでも何かしらの成長を望む人がいなくなったわけではない。常に、収入が増える、財産が増える、そんな増えることがもっとも重要であると考える人はまだまだ一杯いるのだろう。しかし、全体的な成長が止ってしまった今、その中で自分だけが伸び続けると考えるのには、どうしても無理がある。確かに、勝者と敗者がいるとみなせば、そういうことは起きるだろう。しかし、常に勝者であり続けるのはとても難しいことだし、それだけを追い続ければ様々な軋轢を生じてしまう。そんなことはどうでもよく、ただ自分の持ち分が増えればいいのだと考えれば、それほど苦労しなくても実現することができるのかもしれないが、さすがにそこまでしたいとは思わないから、まあ適当にと考えてしまう。そんなことを前々から思っていたが、先日ラジオで京都大学の橘木という経済学者が江戸時代の状況を解説するのを聴いていて、なるほどと思うことがあった。江戸時代は鎖国状態だったから、国内の様子だけで大抵のことを議論できる。その中で、人口の増減はほとんど起きず、いわゆるゼロ成長期にあったと考えるべき状況だったというのだ。そんな状態で、成長を望み続けるのは困難で、一時的な変化があったとしても、全体としてみれば大した変化になっていなかった。まるで今の経済状況を見るようだ、という意見である。では、人々の生活にはまったく変化がなかったのか。元禄時代を引き合いに出すのが良いかどうかはわからないが、文化的な面での変化が起きていたことは確かなようだ。経済的な成長を望むことが難しくなったとき、人間は違った面での成長を意図するようになるのかもしれない。あるいは、成長を考えるのではなく、単に興味を向ける方向が変わるだけなのかもしれない。いずれにしても、あの時代のことをもっと深く考えてみることが、今の時代の生き方を考える上で、重要であるように思えるわけだ。どのくらいの人が納得していたのかわからないが、全体の変化が見えなくなったときには、見方を変えることが大切であることを紹介していたように感じた。

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2月19日(木)−液晶

 携帯電話の普及率は一時期は倍々ゲームの様相を呈していたようだが、さすがに長続きはしなかった。ある限られた集団の中の出来事として当たり前のことなのに、そういう変遷にも大騒ぎをする。何かを落ち着いて考えることのできない人種にとって、身の回りに起きることすべてが不思議なことに映るのかも知れない。理解しがたいことなのだが。
 普及率の伸びにのみ依存していた出荷台数に最近変化が現れたと報じていた。頭打ちになったところで更なる出荷を促すためには、二つの手段しか思いつかない。一人の人間が複数台数の機械を保有することか、あるいは古くなった機械を新しい機械に換えることである。ひょっとするともっと画期的な戦略があるのかも知れないが、そんなことはすぐには思いつかない。今回の変化は後者によるもので、その要因となったのは新機能であった。電話に電話をかける以外にどんな機能が必要なのか、そんな疑問に答えてくれるのが携帯電話で、iモードなるものは画期的な提案となり、異様なまでの普及を見せた。その後大きな変化が生まれてこなかったが、今回はドコモではなく別の携帯会社の機種から新たな変化が生まれた。当初はどう考えても大して役にも立たないと思えたが、最近では皆が手に手に携帯電話を持って、被写体に向けている姿ばかりが目立つようになるほど、凄まじい勢いで普及していった。カメラがついているかどうかが重要な因子となり、カメラ機能を手に入れるためだけに新しい機種に乗り換える人が増えたのが、出荷台数の増加に繋がったわけだ。パンチも周囲の人々に比べると乗り遅れたと思っていたが、それでもiモード前の機種を購入し使っていた。それがつい最近ちょっとした不注意から蹴飛ばしてしまい、アンテナ上部を破損したことに始まり、何度か静電気の火花が本体との間で飛ぶのを感じているうちに、液晶画面上部のアンテナなどの表示が消滅してしまった。こうなるといくら大切に使うことを主義としている人間でも、使いにくさの方が大きくなってしまう。そんな状況から仕方なく、二週間ほど前に携帯電話の販売店を訪ねることとなった。新機種がずらりと並ぶのを見ながら、カメラはいらないと呟いていたが、カメラのついていないものにはなぜか万歩計がついており、どちらにしても歓迎できない気がした。結局は、最も安い機種を購入したが、液晶のトップ企業の作る表示画面は予想以上に鮮明に感じられ、加齢現象による障害も覆い隠してくれそうである。前の機種はもう少しで6年を経過するほど使ったから、まあ優良使用者と言えるのかも知れない。それにしても、この6年間の進歩たるや凄まじく、iモード、カメラ等々新機能のすべてを理解できるはずもない。液晶の画面をこすってみると、意外に硬い感じがして、どんな材質なのだろうかと気になった。その後、液晶の基板がガラスでできており、その最大手がコーニングであることを新聞で知った。コーニングはガラス製造でも最大手だが、一部主婦には良く知られている製品を出している。料理に使う耐熱ガラス食器で、これはパイレックスと呼ばれ、パロマー天文台の反射望遠鏡にも使われた。液晶の基板ガラスがどんな材質なのかよくはわからないが、硬さの具合が何となくパイレックスに似ているような気がしてしまう。液晶一つとっても、様々な技術が集められた結果であることがこんなところからもわかるのではないか。

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2月18日(水)−高評

 毎日出版される書籍の数はどのくらいなのだろうか。どんなに本好きの人でも、それらすべてを読むことなどできない。何らかの篩を使って、気に入った本、興味が湧いた本を選び出し、それらに目を通すのがせいぜいである。それでも人それぞれに読む本の数はかなり違っているらしく、毎日一冊のペースという人もいれば、月に数冊という人もいる。
 数が多いのは仕事柄の場合がほとんどだから、これを読んでいる人の大部分は月に二三冊くらいしか読まないのではないだろうか。いずれにしても、数の多少はあれ、種々雑多な中から選ぶためには何かしらの篩を持つ必要がある。以前は新聞雑誌の書評が入り口となっていたようだが、最近その辺りの事情が大きく変わりつつあるようだ。まず、衛星放送のブックレビューなる番組があるようで、そちらの辛口の評価を参考にする人が出てきた。それでも、身近な存在ではなく、どこかの偉い評論家の人々の意見を聞いているわけだから、上から下へという流れがあることは否めない。専門家の評価は実際には偏ったものであると感じる人も多いらしく、さらに市場原理から売れやすいものへ、評判をとりやすいものへ話題が流れる傾向が強いため、こういった書評を参考にしない風潮が出てきた。批判するだけでは大切な篩を失うだけだから、代替の篩を見つけねばならない。そんな中で登場してきたのが、書店の従業員によるお薦めの言葉のようなものだ。平積みにされた本の上にユラユラと揺れるメッセージカードといった光景を、いろんな書店で見かけるようになった。以前は新聞などの書評のコピーを貼り付けただけのものが多かったが、最近はそこで働いている人の直筆のものが多くなっているのだそうだ。そんな中からベストセラーが登場するに至って、出版社の側からもプロの書評よりそちらの方が重要かも知れないという意見が出てくるようになった。自分たちと同じ高さにいる人々の評判を重視しようという動きが一般の読者の間に起こっているようだ。専門的なことを説かれてもわからないが、隣の人の意見はよくわかるといった感じなのだろうか。それはそれで一つの考え方と言えるだろう。これと似たことが出版界の別の世界にも起きている。書店にわざわざ出向くのは面倒という人たちのためにインターネット上で書店を開いた会社が出てきたのだ。元々は米国で設立され、ネット上のことだから国境はないといった感じで、全世界に広がった組織である。一般書店よりも素早く対応し、流通システムが複雑なこの国でも利用者が増えていると聞く。こういうサイトは幾つかあって、それぞれに特徴を持ち、定価とは異なる価格で販売する例も少なくない。特に、洋書に関しては一部の伝統ある洋書販売会社と違い、その時点での為替レートに近い換算価格となるからかなりの低価格で購入することが可能である。そういうところを覗くと、本の紹介が通り一遍にあるだけでなく、一読者の書評なるものも紹介されている。これはまるで書店の従業員によるお薦めと同じような感覚で、一般読者の意見を吸い上げる方式として評価されていたようだ。と言っても、この国ではそういうことに精を出す一般読者はごく少数に限られるようで、ほとんどの書籍の欄には何の書評も存在していない。しかし、海の向こうでは事情が違っているらしく、多くの書籍に読者からの書評の投稿があるのだそうだ。そういう中である事件が起きたとラジオが伝えていた。書評の投稿者の本名が何らかの原因で表示されてしまったというものだ。本来は匿名での投稿を基本としていたのに、それが表に出てしまった。それだけなら個人情報の漏洩になるのだろうが、事件はそこにはなく、投稿者が著者本人や同業者たちであったことにある。自分たちと同じ高さと思っていたら飛んでもないことだったわけで、この世界の複雑さを垣間見たということらしい。それにしても、本は手に取って選ぶ、という気持ちが強い人間にとっては、他人の評判や噂で買おうとするなんて、と思えてしまう。最初から最後まで他人の篩を使うことに抵抗がないのだろうかと。

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2月17日(火)−入出

 市場と聞くと若い人たちは何を想像するのだろう。いちばと読むか、しじょうと読むかで、明らかに違うが、ここで書いているのは前者の方である。大阪に住んでいる人なら黒門市場、京都なら錦市場、金沢なら近江町市場、などと、各都市に大きな市場が存在する。でも東京には、思い当たるところがない。築地は中央市場で、卸売りが中心だから、ちょっと違う。
 ひょっとすると、こういった大きな市場を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。しかし、もう少し上の世代になると、自分たちの身の回りに合ったあれを思い出す人が多いと思う。スーパーマーケットなるものが大都市に出店し始めたころ、周辺にあった市場は大打撃を被った。その後大規模小売店という分類が出され、それに対する規制が課せられるようになったところを見ても、その打撃の大きさが想像できる。その後、中小都市にもちょっと違っていたのかも知れないが、同じような出店競走が見られるようになり、同様の結果が導き出された。さらにもっと小さな町になると、今度は周囲の大規模店に出かける人が多くなり、小規模商店は店をたたむか、コンビニに転向せざるを得なくなった。そんな経緯で、ご近所の小売店やそれらが集まった市場はそのほとんどが姿を消した。売り手の顔が見えなくても、安くて質の良いものが手に入る大規模店や、身近にあっていつでも開いているコンビニの方に、消費者の気持ちが動いたからである。その状況は今でも変わっていないのだろうか。未だに多くのスーパーには買い物客がやってくる。しかし、その一部はコンビニの方に流れ、スーパーも昔の盛況は影を潜めてしまった。安いことよりも便利なことに流れているのが最近の消費者動向のようだ。一方で、大量仕入れ、大量販売という形式で値段を下げるやり方だけでは、質を保つことが難しいという判断からか自社ブランドなる方向に向いた経営は選択の幅を狭め、仕入れ方式の硬直化を産んでしまったためか、傾く速度を速めたように思える。廉価販売を前面に出しながら、基盤となるのは質の保持である姿勢が見えて、良いものと映っていたが、実際にはその姿勢が自らの首を絞める結果に結びついたようで残念なことである。そんな流れが過去のものになろうとする今はと言えば、悪徳業者の違法な行為が目立つようになって、質のことを真剣に考えねばならないときが来ているようだ。半年も前に採卵した卵を販売したり、地元産として輸入した牡蛎を販売したり、そんな具体例を始めとして、国産と称して外国産のものを売ったりする話はそこら中にある。商いは信頼に支えられるものであるのが、当たり前と思われた時代から、信じる者は救われない時代になってしまったのだろうか。目の前にいる小売業者がたとえ信用できる人でも、その前の仲買いの人は、卸しの人は、生産者は、と次から次へと昇りつめていくと、顔の見えない人々が増えてくるだけだ。目の前の人が信じる人の信じる人の信じる人の、と繋がることを望むしかない。さすがにそんな期待ばかりしていられないから、もし末端の消費者がその流通を調べることができれば、と思ったりする。情報化社会と言いつつ、肝心な情報はまったく流れず、下らない雑多なものばかりが流れる状況を変えるためには、たとえばこんな情報を流せばいいのではないだろうか。牡蛎の事件を思い出すと、発覚したきっかけは仕入した数量と出荷した数量が地元産と外国産で一致しなかったことである。こういう流れは、卵の事件でも使えるものだろう。それぞれの企業の物品の流れを追うことが流通の仕組みを監視するために重要であり、それによって様々な不正が暴れるだろう。価値のある情報を流してこそ、情報化社会の成立が現実のものとなる。目の前の人の顔が汚れているかどうか、確かめる術になるのではないだろうか。

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2月16日(月)−貧富

 さて、昼ご飯に何を食べようか。社員食堂へ行っても、近くの食堂に行っても、並んだメニューから選ばなければならず、面倒と思う人もいるだろう。その点、牛丼屋では牛丼を頼めばいいから気が楽である。その上、安いと来ているから大いに助かる、と思って利用していた人もいたのではないだろうか。
 こういう人たちは牛肉の供給の問題から、無期限で我慢しなさいと言われてしまったようだ。事態は深刻と伝えるメディアもあるが、はたしてどんなものだろう。無いなら無いなりに、何か別のものを見つけ出す。そんなところではないだろうか。例の牛丼をほとんど食べたことの無い人間がこんなことを言っても信じてもらえそうにもないが。ただ、スーパーで牛肉の細切れを見たときは、ちょっと作ってみようかと思った。でも、評判の味にはほど遠いものになるに違いない。さて、そんな騒ぎの中、廉価な昼食を供給していたファーストフード店が次から次へと撤退することになると、小遣い銭の少ないサラリーマンにとっては大いに痛手だと報じるところもあった。確かに、一日千円で様々なものを賄うのは大変と言われれば、頷かざるを得ない。だが、一方で、首を傾げたくなるところもある。最近、いろんなレストランでバイキング形式の昼食をウリにするところが増えてきた。イタリアン、中華、寿司、その他様々な料理店で、気軽に本格的な料理を食べられるというのが人気の理由のようだ。そういう店の近くを通ると、ビジネス街にあるものを除けば、多くの場合主婦と思わしき女性達で賑わっている。いくら安いところでも、千円を下ることはない。そんな店のそんな企画が繁盛しているのである。そんなことを思い出すと、はてサラリーマンの悲哀に同情すべきかどうか、大いに疑わしくなってくる。こういう現象が見え始めたのは、米国形式のいわゆるファミリーレストランが、いろんな都市に進出し始めてからではないだろうか。休日ともなれば、家族総出でブランチを楽しむ。そんな光景が見られたが、ファミレスは休日専用の場所ではない。年中無休、24時間営業のところも珍しくないから、平日の客の確保には苦労するのではないかと思うのが自然である。ところが、平日も一杯の客がいて、どうしたものかと思うことがたびたびあった。これはずっと昔の出来事だから、バブル期以降の今ではちょっと違った光景が見られるのかも知れないが、とにかく、昼間小さな子供を連れた若い奥様達がにこやかに会食する姿が目立っていた。当時から、夫の小遣い銭をどう切り詰めるかが話題になっていたから、その裏側でこんなことが展開されるのを見て、驚くばかりだったが、今は舞台が変わったとはいえ、まだ同じようなことが起きている。そんな中で、牛肉騒ぎの話をそちらの方に発展されても、何とも言えない薄ら寒い感覚が残るだけである。小遣い銭の話はそれぞれの家族の問題であり、今回の騒ぎとは一切関わりない。しかし伝える側から見れば、何とかそういう結びつきを強調することで、もっと興味を持たせようとしているのだろう。そういう扱いを受ける人々のことをもっと違った角度から捉えるほうが、よほどましな話になると思うのは、こちらの勝手な思い込みなのだろうか。

(since 2002/4/3)