パンチの独り言

(2004年2月23日〜2月29日)
(真意、素性、褒美、探究、唯一、まさか、魅せる)



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2月29日(日)−魅せる

 最近、本の売れ行きが芳しくないそうだ。発行されている種類はどんどん多くなっているのに、売れるものは少なくなっている。これはある意味恐ろしい傾向で、売り手は手を変え品を変え試しているのに、買い手の方にはほとんど響かない。売れる本を出すことが絶対とは言えないが、これだけ売れない本が巷に溢れているのが怖い。
 本が売れないということはつまり本を読む人が少なくなったということで、それだけ活字離れが進んでいることである、という声が大きくなって、色んな心配が起きているようである。小さな頃から本好きだった人は別だが、多くの人はある時期突然本を読むようになったのではないだろうか。それ以前は読書よりも外での遊びといった感覚で、より面白いものがあればそちらを選ぶのが子供の常である。それでも、ある時期から本を読むようになればましで、結局これまでの一生の間に一度もそんな時期を迎えたことのない人も多いようだ。こういう人たちから見ると自分のことは脇において、子供たちの本嫌いが気になってしまうようである。自分たちがそれまで不自由を感じていたのなら、自ら始めればいいのに、それはさておき自分の子供に押し付けをしようというのは何とも不思議な感覚である。小さな頃から始めないと身に付かないような習慣ならいざ知らず、読書くらいはどんな年齢からも始められるものである。本が嫌いな人々でも、漫画が好きだとかテレビが好きだとかいった人は沢山いる。その多くは、画像によって様々なことが理解できるからという印象を持っているようだ。その一方で、活字の大切さを主張する人々は、文字によってもたらされた情報から様々に想像し、理解することの重要性を説いている。どちらが大切なのか一概には言えないのだろうが、どちらもそれぞれに大切な活動を伴っている。このような画像と活字の違いは、単にメディアの問題だけでなく、人の話にも色んな影響を与えているようだ。さすがに井戸端会議での隣近所の話の時に、絵を見せながら相手を納得させるなどということはないのだろうが、講演会などではその違いがはっきりと出る。昔風のただお話を聞かせるという形式の講演会は、一般に評判が今一つではないだろうか。確かに、万葉集とか源氏物語とかの古典の解説をする場合には、画像を見せることも困難で、どうしてもお話が中心になるから、仕方のない部分がある。しかし、今現在起きていることを解説するうえでは、言葉によって耳に訴えるだけでなく、画像によって目に訴えることが重要となる。それだけで、聴いている人たちの印象ががらりと変わることが多いからだ。本質は、と言えばさほど変化はないのかも知れないが、印象は大切である。そういう意味で、実演ほど強烈な印象を植え付けるものはない。同じことを映像で伝えても、どこか物足りないところがある。ただ一つの目で見たものを伝えているだけなのかもしれない。一度人の目を通ったものはどうしてもどこか伝わる情報の量が減っているのだろう。直接見せるとか、手に取って見させるということがとても大切なようだ。画像は同じものを伝えているようで、実は間引きされた情報を伝えていることに気づくべきなのかもしれない。文字に比べるとそのものずばりを見ているように思い込んでいるから、余計にたちの悪いものとなる場合もある。

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2月28日(土)−まさか

 最近報じられている事件にある特徴が存在するように思える。別に、最近の傾向でもないのだが、まったく別のところで起きた事件に関わった人々の中にある心理的な特徴とでも言うのだろうか。逆に見ると、こういう心の動きがあるからこそ、心配性にならずにすむのかもしれない。
 心配するかどうかというのは程度の問題で、過ぎたるは及ばざるがごとしの典型なのではないだろうか。気になった事件とは、たとえば道路を走っていたトラックのタイヤが外れて、歩道を歩いていた幼児に当たり死亡させてしまったものや、養鶏場の鳥が大量死しているのに報告を怠った話などである。まったく違った状況で、まったく違った感覚から起きた事件のように見えるが、どちらの場合もまさか自分の身に降りかかるとはという思いがあったような気がする。タイヤが外れる事故は既に死亡事故も含めてかなり多くの事例が知られている。更に、車自体の欠陥とも思える話が流されたこともあり、特に大型トラックの後輪は特殊な構造をしているためもあって、注意を要するものとして知られていた。それにも関わらず、タイヤが外れた車の持ち主や運転手はまさか自分の車にという思いがまずよぎるようだ。免許を取得するために教習所に通っているときには、車の運転を始める前に必ず点検をすることと教えられるが、実際に免許取得後にそれを守っている人はほとんどいないだろう。自家用車では特段規定がないように思うが、職業運転手の場合きちんとした規定が設けられているはずだ。にもかかわらず、点検を怠り、こんな事故を起こしてしまう。あるいは、もっと極端な場合、異常を感知しながら放置することで事故に繋がることもある。どちらの過失が大きいのか、心理的には違うように思えるが実際にはほとんど変わりがない。点検をしないとどうなるかは予見できるわけだから、それを怠るのも同じ程度の過失と見なせるからだ。では養鶏場の方は、どこがどう似ているのだろう。毎日死んでいく鶏を見て、何らかの病気を想像することは容易である。今回の事件もそういった考えに至っていたと報じられたようだから、狭い鶏舎で飼われる鶏に蔓延する病気が頭に浮かんでいたことは確かなようだ。問題はその先で、現在世界的に流行しているある病気が同時に頭に浮かんだかどうかである。一般人であれば、新聞などの報道から、大量死は即あの病気と考えてしまうが、関係者はまったく違った方に考えを巡らせていたというのだ。この話を信じるかどうかは別にして、考えがこんな方向に向うのは、まさか自分のところにという思いがあるからではないだろうか。リスク管理という話はある責任を負わねばならない人々にとっては当然の話のように扱われているが、実際に現場に立っている人の心の中にはそれとは逆方向の動きが常にあるようだ。目の前の問題をやり過ごせばそれでいいと思えば、本来のリスクを負う必要がなくなるように見える。しかし、起きるかもしれないというリスク本来の姿からすれば、かもが現実になったときに大きな代償を支払う必要が出てくるのが当然なのだ。簡単なようで実行するのは難しいが、肝心なことだけに守って欲しい。

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2月27日(金)−唯一

 おだてられて木に登る人はいないと思うが、それでも何かの形で評価されたいとか褒められたいと思う人は沢山いるだろう。誰かが評価したとしても、それを素直に受け取れない人々は、色んな意味で不幸なのかも知れないが、実際にはそういう回路のある人は悩まずにすむことが多いようだ。
 この頃よく話題に出てくる鬱とかの精神的に重荷を背負ってしまった人には、自分のやっていることの意味を見出せなくなってしまった人が多いようだ。自分で見つけられないときには、他人が見つけてくれる、つまり他人から評価されることが救いになることが多いが、社会情勢のせいなのかそういう状況になっていないようで、皆がお互いに救いを求めている形になり、一種の袋小路に陥っている組織が増えている。褒められても素直に受け取れない、というのは、結局誰かが褒める行為が先にあるから、そんなに心配ないのだろうが、皆が褒められることを望みつつ、それが叶えられない状態にあると、かなり厳しいと言わざるを得なくなる。そういう状態では内側からの力だけでは打開するには十分ではなく、結局外からの力が必要となる。社会情勢が問題になるときには、全体がそんな苦境に立たされているだろうから、それさえも望めなくなるのかもしれない。そうは言っても、グローバル化などという言葉が氾濫する時代だから、どうにもならない停滞期にある国でも他の国からの援助を受ければ何とかなるようだ。一部の企業はそんな形で苦境を脱したように見えるが、実際には内側の力だけでも十分であったのに自己評価がそれを認めず、それが手痛いに繋がる大きな要因になっていたということなのかもしれない。何度も出てくる話だが、自分で自分を評価するには何かしら心の余裕みたいなものが必要で、次から次へと追いつめていく圧力が心に掛かるような状況では無理な話である。学校や職場で成果を求められるのは当たり前なのに、それを要求されること自体に違和感を覚える人々が出てきたのは、実際にはそういう現場とは別の社会でも同じような事態に追い込まれるようになったからだという意見がある。つまり、人生を考えたときに成果を求めるだけではなく、何か別の形のものを追い求めることも大切なのに、成果の有無が人生すべてを決定するかのごとく振る舞う社会に問題があるというのだ。人生を豊かにする手段は色々とあるにも関わらず、単一的な考えが蔓延し、それ以外の評価基準を認めないという圧力が社会を構成する人々それぞれに互いにかけられているとすれば、それは個人にとっては非常に強く、跳ね除けることが難しいものになる。成果第一主義とは職業にはある程度当たり前のところだが、その出来不出来が人間の価値を決めるとなると行き過ぎである。どこかがずれて、ボタンの掛け違いのようになったからなのだろうが、それを直すためには自分たちの中から変えていく以外に方法はない。色んな人間がいていいはずで、皆が同じの方が怖い。

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2月26日(木)−探究

 このところ、企業と元社員の間での訴訟が話題になっている。以前ならば、待遇改善やら不当解雇やらの問題が多かったのだが、今話題となっているのは先日も取り上げた発明の対価というものである。高度成長期の社員達が発明をしていなかったのかと言えば、そんなわけはなく、何故こんなことが起き始めたのか不思議に思う人もいるだろう。
 一般常識から言うと、社員が所属する企業を訴えるなどというのはよほどのことという感覚がある。元、という言葉がついているから、当然雇用関係は切れてしまったのだが、それにしても人間関係を思うと何故と思うほうが普通のように見える。しかし、最近の動向は今まで抱いていた感覚とはまったく違った様相を呈しているとしか思えない。こういう状況を見ると、根底にある人間関係そのものが崩れているのではないか、という疑いが強まってくる。ただ、こんなことは個々の事例によるものだから、全体の流れとしてそんな動きが出てくるのはおかしい。そうなると、社会全体の人間関係がすべて以前とは違うものになったと見るべきなのか。いくら何でもそんなに事を大袈裟にする必要はないだろう。変化があるとしても、まだその途上にあり、それが変なものでも、軌道修正をかければ良いくらいの状態ではないか。人間関係は脇に置いておくにして、ではこのところの訴訟の判決に対する議論の具合はどんなものだろう。対価という形で、発明に関わった人々に報酬を与えることに関して、反対する人はいないようだ。ただ、対価の評価基準やそれまでの経過との関連に関する問題が山積みであることを指摘する人は多い。さらに、多額の対価が支払われるようでは、様々な問題が企業に対して出されることを指摘する声も多い。つまり、発明を促進するために報償金などの形で多額な予算を計上することは、企業の経営をさらに難しいものにするから、研究開発そのものを自社で行うことが難しくなるとか、こういう状況では適切な対応をしないと優秀な人材が海外の企業に奪われてしまうとか、いろんな心配をする向きがある。元々、対価を引き合いに出す形式が根本的に間違っているとし、特許法の改正を求める声が強くなっているのも事実だが、こういうやり取りの中で気になることがある。今に始まったことではないが、いわゆる頭脳流出なる問題である。劣悪な研究環境では優秀な頭脳が海外に流れ出てしまう、という意味で使われたこの言葉は、元々研究者に対して使われたものだが、企業の研究開発に携わる人に対しても同じ心配がなされるようになったわけだ。面白いと思うのは、自国の利益、自社の利益が最重要課題であり、研究分野全体の進展は二の次といった考え方で、どこで研究をやろうとも進めばいいではないかという考えとは明らかに違うところだ。企業の場合は、確かに儲けに繋がることを重視するのは仕方のないところだが、人材という意味からすると目の前の人間がどんな成果を挙げるのか予見できないうちから議論すべきことか理解に苦しむ。とにかく、そんな心配から待遇改善や環境改善を図るわけだが、必ずしも良い結果を産んでいるようには思えない。環境改善により研究環境が良くなったら、すぐに画期的な研究が生まれるわけでもないから、改善の成果の無さをどこかに反映させねばならないし、待遇改善によって集まる人材が必ずしも良い人材とは限らないことも悪い方向へ向かう要因となる。研究に携わる人々が何故それを行うのか、人それぞれの理由や動機があるはずで、それに応えることが企業や研究機関に求められているのである。ただ、金や地位で解決すればいいという考えでは効果は望めないと思うのは、ずれた考え方なのだろうか。生涯一研究者、などという言葉を漏らす人々を見ると、一律に行うことよりも大切な何かがあるような気がしてならない。

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2月25日(水)−褒美

 やる気という一言が、いろんなところで交わされるようになってきた。やる気が無い、というのは、学校の勉強でのことだけかと思っていたら、いつの間にか職場で頻繁に聞かれるようになり、経済状況が悪くなるにつれて、その声は大きくなっていったように思える。その流れから、何かしらの報酬が必要という考えが当たり前となっているようだ。
 職場での報酬は昇進や昇給などといった目に見える形のものから、毎日の上司からの激励や励ましといった精神的なものまで、色々とあるように言われている。確かに、人間は褒められればすぐに木に登ると言われるほど、他人から褒められたり、評価されることを喜ぶ動物である。何のために仕事をするのかという動機づけは人それぞれだろうが、動機が何であれ苦しみや悲しみばかりより、楽しさや満足感が得られるほうが良いに決まっている。そんなことからやる気を失う人々を奮い立たせるための方策として何かしらの報酬が必要ということが言われるようになったようだ。しかし、ここまで書いてきた報酬は外から与えられるものだけであり、心理学の世界ではそうでない報酬の存在も認められている。内から出てくるものというのは、心理的なものという意味で、自分で自分を褒めると言ったマラソン選手のように、自分の達成したものを自分で評価することで、さらに大きなやる気を出そうとする動きのことである。これは簡単なように見えて、実はとても難しいことのようである。まず、自分の仕事を第三者的に見て、その達成度などを評価する必要があること、そうでないと単なる自己満足にしかならず、周囲の評価との乖離は大きくなるばかりという最悪の結果を生みかねない。次に、正当な評価ができたとしても、自分で自分を褒めるという行為自体に抵抗を覚える人も多い。それも他の人々の評価とは別に自分なりに評価を下した上で、ということになると先ほどの乖離の問題との兼ね合いがかなり微妙になる。いずれにしても、やる気を出すための要因として、内的なもの、外的なものが数多くあることは確かなようだ。そういう中で、組織ではどんな手法が適当かを検討しあいながら、何とか全体として良い方向に向かうように工夫を繰り返さねばならない。疑い深い性格が多い国では、この辺りの兼ね合いが非常に難しく、上手くいかないことも多いようだ。これとは別に元々の問題として教育現場でのやる気のことが、最近再び注目されるようになっているらしい。こちらの方は、成果とか達成度を測る指標があるような無いような状態だから、さらに難しいというべきなのかも知れない。受験やらが達成度の計測に使われた時代はもう過去のものとなり、最近ではそれほどの競争が成立しないから測りようが無いとまで言われることもあるようだ。ただ、そういった議論の中でちょっと不思議に思えるのは、内的な要因があまり出てこないことである。自分が何かに満足するとか、知ることが喜びに繋がったとか、そういう問題を取り上げることが少なくなった。一つには、そんな段階に至る子供がほとんどいないという思い込みがあるようで、そこまで持ち上げてやれねばならないとまで言い出す始末である。そんなものかと思いつつ議論を聞いていても、どこかずれているような気がしてならないのは何故だろうか。報酬を前面に出して検討してきたことが、こういう問題を産んでいるように考えたら、少しわかってきそうな気がするのだが、どうだろう。

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2月24日(火)−素性

 安全とか環境という言葉が巷に溢れるようになってきた。どう安全か、どんな風に良いのか、そんなことはどうでも良く、ただ、これらの言葉が並んでいれば受け入れられる。どこかの国際機関が定めた基準を満足したからと表示される記号はそれ自体おかしなものと思うが、何の基準もなしに安全だの環境だのと主張するよりはましなのかも知れない。
 特に、製品に関して、安全性が高いとか環境に良いといった言葉は付加価値を高める役に立っているようだ。確かにものによってはこういう要素も付加的なものというより、かなり本質的なものになるのだろうが、わざわざ声高に主張する場合、付加的な要素であることの方が多いのではないだろうか。付加的だから余分であり、どうでも良いというわけではない。しかし、製品にとっての本質をぼかす方向に働くものであれば、それはやはり感心できないことである。性能第一というやり方で生産を繰り返してきた反動で、他の要素に消費者の目が注がれていると察した途端に、そちらの方にどっと流れていく。まったく、何も考えていないのではないかと思えてしまうが、逆の見方をすれば考えすぎて手を打ちすぎているとも言える。そんな具合に、あっちこっちふらふらとするたびに、方針が揺らぎ全体的な方向性がつかめなくなってしまうわけだ。社会の揺れがさほどでもないときには、揺らぎが大きな組織も大した影響を受けないが、全体が大きく揺れる時期にはこういった組織は傾いてしまうこともある。そんなときに組織内から元に戻す力が出てくればいいのだろうが、一度傾きかけたらそのままというところも多く、結局外からの注力を頼みにするしかなくなるのだろう。本質は何かに戻ればいいと言うのは簡単なことだが、一度見失った本質を探しだすのは難しいものだ。安全や環境に流れていた雰囲気も最近は少し本質的なところに戻ってきているように思える。ただ見えているだけで、何が本質か定まっていない部分では結局わけがわからない状況にあるのかも知れない。中でも安全を特に強く訴えられていたのは、日々口にする食べ物ではないだろうか。農作物の残留農薬の問題は今ではほとんど輸入されたものだけに当てはまるようになったし、肉類の問題はこのところ話題にならないことが無いほど注目されている。安全が当然となってくると、次に食べ物で大切なのは何になるのだろうか。一つは栄養価、もう一つは味ということになりそうだ。栄養価はいろんな要素があって消費者が自分で判断することはできないが、味の方は自分たちで何とかなりそうである。味の本質を見極めるなどと言われると腰が引けてしまうが、美味しいと思えるくらいにしてくれれば、誰にでも判断できそうだ。中には、体に必要なものという感覚でしか扱っていなかったのに、最近は味の大切さが再認識されているものも沢山ある。食塩はその代表例で専売制のときには、誰にでも扱えるものではなかったから、そういう動きも少なかったが、最近は自由に扱えるようになり、様々な製品が店頭に並ぶようになった。中には単なる食塩の値段と一桁以上違うものも売られており、味を求める人々が買っていくらしい。そういう時代になると広告に力が入るものも出てくる。なるほどと思いながら、店頭で見かけたその製品の明細を読んでみたら、原産地が表示されていた。生産地の話題も広告で出ていたからてっきりあそこと思っていたら、地球の裏側だったのでちょっと驚いたものだ。確かに内海の汚れているかも知れない海水から作られるよりも安全には違いないが、ではあの商品名は何を意味するのか、首を傾げてしまった。

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2月23日(月)−真意

 インターネットが普及するに連れて、頻繁に聞くようになった言葉にハッカーがある。辞書によれば、仕事ではなくコンピュータの機能を最大限に引きだす人という意味と他人のシステムに侵入する人という意味がある。本来は趣味が高じた前者を指す言葉として出てきたものが、ネットの普及とともに後者の意味で使われることが多くなった。
 hackというのは切り刻むという意味らしいが、それが転じてのことなのだろうか。こういう俗語的用法はその経緯を知らないとさっぱり理解できないのが難点だ。繁華街にうろつく女子中高生が使う言葉とそんな事情はそっくりに思える。元々システム構築において、脇の方からいろんな知恵を授けてくれる存在だったのが、その難点を指摘することが頻繁となるにつれて、徐々に侵入のみを対象とする人々を指すようになったようだが、被害が大きくなるにつれ、法的措置がとられるようになった。いわゆるハッカーとそれを取り締まる人々の戦いを記録した本が出版されるなど、特殊能力を持つ人々に注目する向きはあったようだ。しかし、人間が作ったものには欠陥があるのが当たり前と言われるようになり、システムを複雑化することによる防衛手段が講じられてくると、そんな人々の話題は遠ざかっていたように思える。それよりもネット社会での話題の中心はコンピュータウィルスの方に移り、それに付随したウィンドウズのセキュリティホール、安全性欠陥とでも言うのだろうか、に耳を傾けるようになった。とはいえ、企業や公的機関のデータベースを管理する立場の人々にとっては、依然としてハッカーの存在は気になるものであり、事が起きれば甚大な被害を受けるものとして、警戒の手を弛めることができない。そんな中、ある大学職員による侵入が報じられ、本人の縁戚関係も含めて、話題となった。逮捕された当時、既に他の人々の同様の手口による侵入が報じられており、早晩動きがあるものと思われたが、いよいよその時が来たようだ。こういった手口を真似る行為には、いろんな動機が考えられる。たとえば、本当にそんなことで可能なのかという興味から試す人々、実際にやってみたいという興味から試す人々、データを手に入れるために行う人々、それぞれ様々な動機がある。興味本位の場合、したいという気持ちから起きることだがら、大した考えもなく実行に移す人が大部分のように思えるが、今回のこれに該当する人たちにはかなりの注意を払った跡が見えるらしい。侵入において最も注意を払うのは自らの足跡を残さないことであり、そのために特に肝心なことはどこからアクセスしたのかをわからなくすることなのだそうだ。一般にアクセスした場合プロバイダを経由するから、どこをどう通ったのか一目瞭然なのだが、それをいろんなところを経由させることで複雑にし、すぐには足跡が追えないようにする。警察犬の嗅覚を撹乱する方法や推理小説などでお目にかかる足跡消去法などと似たものかも知れない。何れにしても、記録が残ることには変わりなく、完全に消去するのは難しい。その辺りの事情は上に書いた実録本を探してみたらわかるのかも知れない。それにしても、興味本位と言いながら、そこまでの細心の注意を払うのは、自らの行為の意味するところを理解した上でのものと言えないだろうか。

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