パンチの独り言

(2004年3月1日〜3月7日)
(正気、万策、教騒、入略、乱反射、密室、広角)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



3月7日(日)−広角

 久しぶりにデパートの中をウロウロすると、いろんな発見がある。と言っても、買い物をする楽しみがあるわけではないから、多くの場合人間観察と新しいもの探しみたいなものである。最近の傾向は、どこでも同じだが、老人が増えたことだろう。それとともに、売り場にも変化が現れているのだろうか。
 デパートで老人が増えたことを最も実感できるのは、売り場ではなく料理店が入っている階である。一流の店が軒を並べて、といった感じのするところに、夫婦だったり、団体だったり、いろんな形で70歳前後の人々が列をなしている。ある程度名前が通った店ばかりだから外れが少なく、一人の客でも嫌な顔一つせずに受け入れてくれるから、好都合なのだろう。一方で、こういう現象が出てくるということは外出する人々が増えてきた証しで、それだけ元気な老人が増えている証拠なのだろう。財産が少なく、やっとの生活を送るという形で伝えられている年金受給者とはまったく違った種類の人々のような気がするが、実際にはそういう人の方が多いのではないだろうか。確かに生活に苦しむ人もいるだろうが、その一方で同じ環境下でまったく違った生活様式を送っている人もいる。捉え方次第なのだろうが、そんなものなのかも知れない。老人、老人と何度も書くと怒られそうだが、とにかくそういう表現しかなさそうなので、この際容赦していただくとして、そういう人々の多くは階段など利用しないし、エスカレータもほとんど使わないようだ。専らエレベータ、それも操作する人が乗っているいわゆるデパートのエレベータがお気に入りのようだ。専門に操作する人が乗る場合、よく見ているとドアを閉じる前に外に出て、周囲をうかがってから中に戻り、ドアを閉めている。ドアの外は広がった空間なのに、ドアを通してみると狭い範囲しか見えず、近づいてくる客に気づかないことがあるからだろう。彼らが操作する場合には、ドアの開け閉めも手動となっている場合が多く、まさか自分が外に取り残される心配もない。それに対して、自動運転と表示してある方に乗り込むと、自分で行き先の階の釦を押したり、ドアの開閉釦を押さなければならない。横から近づく人がいても、気がつかずにさっと閉めてしまうことが多いのだ。特に、釦が並んでいる位置からは自分に近い側からやって来る人の姿に気がつかないことが多い。そんなとき閉まりかけたドアに突入してくる人もいて、場合によっては怪我をするかも知れない。無茶をした人が悪いのだろうが、操作していた人も何となく嫌な気がするものだ。そんなことが起こらないようにと、最近ドアのところに鏡が貼り付けてあるエレベータを見かけるようになった。それも平たいのに、カーブミラーのように広い範囲が映し出されている。ある会社が開発したものらしいが、平たい鏡を凸面鏡のようにする仕掛けに工夫がある。でも、よく似たものには既に何度もお目にかかっているようだ。透明なプラスティックの薄い板でできた拡大鏡である。同心円の溝が掘ってあり、凸レンズと同じ効果を生みだす。これと逆の形をとれば、凹レンズと同じになり、凸レンズは凹面鏡、凹レンズは凸面鏡と同じ能力を持つから、それを鏡に貼り付ければ、凸面鏡のようになるのではないだろうか。なるほど便利な仕掛けだなと思って見入ってしまうが、さっさとドアは閉まってしまい、じっくり見ようと思っても無理なようだ。他にも、飛行機内の荷物室に付けて、死角を無くすのにも役立っているそうで、薄い板状なので使い方は色々とありそうだ。

* * * * * * * *

3月6日(土)−密室

 エレベータの話題をもう一つ。今度はちょっと薄ら寒くなりそうな話題である。ある日、エレベータホールに入ると人の声がしていて、閉まりかけたドアが目に入った。慌ててボタンを押して、開いたドアから中に入ると、そこには一人だけ。想像するに、大きな声の独り言だったようだ。
 こういう場面に出くわすと、何となくばつが悪くなる。入ってこられた方は、まずい場面を目撃されたという気持ちになるだろうし、入っていった方は、素知らぬ顔をせねばならぬと顔を強張らせてしまう。こんなときの独り言にも程度があって、鼻歌を歌うのと大して変わりのないものから、病的なものまで色々である。その時、独り言を言っていた人はパンチの前をブツブツ言ったり、にやにやしながら歩いていた人で、その時から少し気味が悪いと思っていたから、あちらが降りていくまでは何となく落ち着かない気持ちになった。ああいう場面に自分が入ってしまうと、エレベータの密室性を実感する。もし、あそこで何か起きていたらと考えたら、ぞっとするわけだ。真昼の人が大勢いるところでさえそんな気持ちが起きるのだから、真夜中の人気のないアパートでとなったら、慌てて逃げ出してしまうかも知れない。最近は、内部に監視カメラが設置されているものも増えてきて、ホッとすることもあるが、しかし何か起きてから誰かが助けに来るとしたら、間に合うはずがない。何かをしでかそうとする人々に注意を与える程度の効果しかもっていないような気がするのだ。いろんなところで起きている犯罪の報道を見るたびに、自分の身を守るためにはどうすべきか考えたりもするが、結局のところ、そういう場面に遭遇しないようにするしかないような気がしてくる。しかし、現実には色んな建物でエレベータに乗らねばならない機会があるし、密室は危ないと言って階段を使えば、そこも人気の少ない一種の密室なのだからなんともならない。自分の身は自分で守るべきと言われるが、限界があるわけで、たまたま異常者に出くわしてしまったらどうにもならないかも知れない。こうも世の中が全体的に物騒になると、家に閉じこもってじっとしているのが一番安全なのだろうか。訪問者があっても、絶対にドアを開けてはならないとか、まったくどこでどう崩れてしまったのだろうか、この国の安全神話は。プライバシーという言葉が切り札のように使われるようになり、いろんなことがこれを盾にすることで妨げられるようになったら、今度はそこから生まれる歪みが蔓延してしまった。こうなると何が歪みの原因かを検証すべきなのに、どうも鉾先は歪みを取り除くことだけに向けられているようだ。そう簡単に解決するとは思えないが、社会全体の歪みをどんな形で検証し、その原因を見つけだすか、その辺りに今後の展開の良し悪しがかかっているように思える。うっかり、密室に閉じ込められないように、気をつけながら成りゆきを見守っていこうか。

* * * * * * * *

3月5日(金)−乱反射

 同僚とエレベータに乗り合わせた時に、ふと尋ねられた。そのエレベータにも当然照明がついていたが、小さな正方形の窓をつけた形で横には広がっていない。ところが、ドアの横にある壁面に映るその姿はまるで蛍光灯が横たわっているように見える。なぜ、小さな正方形が横に伸びた長方形のように映るのか、というのが質問だった。
 何でも不思議に思うことは重要だとよく言われる。しかし、どうやったら不思議に思うことができるのか、ということを教えてくれる人はほとんどいない。やり方を教わらずに、やれと言われても、どうにもならないと子供心に思った人もいるのではないだろうか。もう少し親切な大人達は、ちゃんと見てみろと言う。じっくり観察すれば、どこかに不思議なところが見つかるはずだと言うのだ。でも、そう言われてがんばってみても、何も起きなかったことの方が多いのではないだろうか。観察と言われても、何をどう観るのか判らなければ、どうにもならないからだ。では、何をどう、を探し当てるにはどうしたらいいのか。実際にはそこにあるはずのものでも見える人と見えない人がいるわけだから、見える人の見解を聞きつつ、そのように観る訓練をするのが関の山なのではないか。人真似ではいけない、と言う人もいるが、何をしてよいのか判らない時にはまず真似てみるのが一番なのかも知れない。何しろやるべきことが見つからないわけだから、探しようもなくどうにもならない状態なのだ。ここで大切なことは、真似るのに適した人が自分の身の回りにいるかどうか、ということである。どんなことでも真似ればよいというわけではない。真似るのに良い例もあれば、悪い例もあるのだから。小さい頃、近所の年上の子供の中にそういう良い例を見つけだした子供は運がいいのかも知れない。それによって色んなことが見えてくるだろうし、小さい頃にそういう経験をすれば、どうすればいいのか自ずと分かってくることが多いからだ。ちょっとしたことを捉えて、そこから納得のいく答えを導きだす。そんなことを繰り返しているだけでも、一端の論理形成ができるようになる。始めは大層なことなどできなくてもいいが、小さなことを積み重ねることで何となく形ができてくるものだ。理科離れとか算数離れとか世間で話題にする人がいるが、実際には学校での勉強のやり方によって、離れるかどうかが決まっているのではないと思う。それよりずっと以前の、目の前にある物事の捉え方を身につけていく段階で、何となくそういったものの方向が決まっているのではないだろうか。さて、始めの質問に戻ろう。壁面の特徴はと言えば、縦に細かい線が入ったような金属の面である。無理矢理説明をつけるとすると、こんなことが言えるのかも知れない。縦の細かい線は細い溝で、そこに小さな正方形が映ると、溝の中が凹面鏡のようになっていて、色んな方向に光を反射する。すると、平らな面だったらこちらではなく違った角度に反射するはずのところでも、こちらに反射するのではないだろうか。もしそうなら、平らな面なら小さな正方形と同じ像が映るはずが、縦の細かい溝がある面では小さな正方形が長細い長方形に見えるのかも知れない。縦方向にのびる溝では、像は横に広がり、縦には広がらない。そんな説明をしてみたのだが、同僚の反応は今一つだった。

* * * * * * * *

3月4日(木)−入略

 学生時代、金が無いせいもあって、新聞はとっていなかった。読みたくなれば、図書館に行けばいいし、卒業の年になると研究室でとっているところがあり、そこで読めばよかった。と言っても、スポーツ欄と三面記事を読むのがせいぜいの状態だったから、新聞を読まない学生がいると言われてもピンと来ないところがある。
 本を読めとか、新聞を読めとか、最近の若者に対する要求は切迫しているように見える。今そうしなければ一生後悔するとでも言いたげな人生の先輩達の言葉に、振り回されている人も多いようだ。確かに、大学を卒業する頃になると就職活動を当然行わねばならないから、それに向けてスポーツ紙だけでなく経済紙にも目を通すようになる人は多いようだ。人間というのは本来必要と思わなければ実行しないものだから、活字を読むことも何かしらの必要性が出てこないと行わない。では、読書は何のためにと思う人もいるだろうが、この場合は何かしらの欲求があるからだと思う。生活が安定し、目的意識が強くなってくると、必要性が第一要件となることが多く、将来のためにという言葉もほとんど届かない状態にある。だから、一生後悔すると言われてもどこ吹く風という反応しか返ってこない。そうなると余計に心配する人々は、さらに声を大きくして必要性を説くわけだが、観点の違いはいかんともしがたい。こういうやり取りは活字離れが前提となっているが、最近は昔と違う形態の手紙のやり取りが頻繁となり、活字そのものには接しているのではないかという意見がある。携帯電話によるメール交換がそれで、一時の電話での声のやり取りだけに比べると、文字を介した情報交換だから活字に接しているというのが、そういう意見を持つ人の主張だ。実際にそういう機能をもつ携帯電話を購入して、それを使ったメール交換をやってみると、彼らの意見がどこか外れているように思えてくる。こうやってパソコンで文章を入力する場合、一つ一つの文字を順々に入力せねばならない。ある意味大変な労力で、これを携帯電話の入力法でやろうと思うと、その手間が頭をよぎり躊躇してしまう。ところが実際に手にして文章を入力し始めると、事情がまったく違うことに気がつく。なるべく手間を省けるようにと配慮してあり、定型文が表示されるようになっている。だから、場合によっては一つか二つの文字を入れるだけで、文章全体を完成させることも可能である。なるほど、こういうやり方があるのかと感心したが、活字離れという観点から、これには大きな欠点があるように思える。ある決まった言い回しを使い始めると、それを何度でも繰り返すようになり、新しい言葉を使う気持ちが起こらなくなる。誰しも面倒なことはいやだから、簡単に文章が作れるのならそちらの方が良いに決まっている。そうなれば、使用頻度にしたがって表示される定型文を選ぶ作業をした方が、いちいち文字入力するよりもはるかに短時間で文章を完成できる。これでは同じことを何度も繰り返すだけで、そこからの発展や上達は望めないのではないだろうか。その代わりに、へんてこな文字を使ったり、符牒のようなものに精を出したり、自分たちの世界にのめり込む場合も多い。こんな状況からすると、話し言葉が書き言葉になったから、活字に戻ってきたと喜ぶのはちょっと早すぎるのかも知れない。

* * * * * * * *

3月3日(水)−教騒

 「構造改革」という言葉は、一世を風靡したと後の世で言われるだろう。根本的な改造を行うと触れ回った口上と実際に起こった上辺だけの書き換えの間の深い溝を、どんな形で表現するのかまだわからないが、今の状況から言えばただ叫び声が木霊したというのがせいぜいである。しかし今その上にいる人々にとっては騒ぎと片付けられないところが辛いだろう。
 いろんな組織の改革を行うと言い放つことはそれほど難しくはない。どんな計画があるのか明確にしないままでも、改革を進行させることはできるからだ。つまり、改革は本来はより良いものにするのが目的であるが、今の状況では単に変えることに目標を置いているに過ぎないわけだ。国が関わる組織は総じて大規模なものが多い。民間の組織と比べて桁違いの場合もあって、自由競争原理に則って同じ土俵で勝負することが必ずしも良い結果を生むとは限らない。そこに基本があると思った人は沢山いたのだろうが、実際の改革はそこを無視してただ変えることに集中した。その結果は民間的な企業努力をすることが糾弾されるような状況を招いた。過去に行われた民営化と今回のものの違いがどこにあるのか考えてみると、そこには棲み分けの有無があるような感じがする。担当する場所の違いや専売などといった制限によって、国の機関と民間が分離されていたのが過去の例であって、今進行中のものはこの棲み分けが明確でなく、民営化即自由競争という図式が出てくる。となれば、組織力、体力といったものが勝負を分ける場合もあるわけで、いざ多種多様な計画が出された途端に、勝負が決している場合も出てくる。対岸の火事のように見ていたことが、実際にはどんどん飛び火してくるわけだから、民間もたまったものではない。予想できたこととは言え、お題目ばかりを先行させた結果後戻りできない状態になってから、厳しい現実を突きつけられたわけだ。それにしても、拳をあげていた本人にそれほどの深慮があったのかといえば、どうもそうとは思えない雰囲気である。まるで、新聞雑誌の見出しのような国民の注目を浴びれればいいといった感じである。これとは別のものだが、教育の世界にも自由化の波が向かってきている。学校法人の聖域だったものが、収益を目的とする企業による進出が可能となったからだ。学習塾の存在を考えれば、どこにも不思議なところはないとも言えるが、どんな結果を生むのだろうか。その上、高等教育の現場でも構造改革の一環として、国立大学の法人化が取り上げられ、この4月から始められる。新聞紙上を賑わしている話題だが、実際のところどんなことが起きるのかは現場の人間にも、担当省庁の人間にもわからず、ましてやそこに子息を送り込もうとする人々には何も見えてこない現実がある。既に、私立大学のような学校法人が存在するわけだから、それと同等のものになると考える向きもあるが、そうなる保証もない。公立という特長を失った組織に、何ができるのか不安視する向きもあるだろう。自由競争が最良の環境であると考えるのは勝手だが、何を競争するのか見えない中で走らされるのはかなわないことではないか。これまでの構造改革と同じ道を辿るとすれば、早晩安っぽい鍍金をしただけの器が目の前に現れるだけなのだが。

* * * * * * * *

3月2日(火)−万策

 季節の変わり目に落ち着かない人も多いだろう。ちょっと暖かくなったと思ったら、急に冬に逆戻り、自然はこちらの思うようには動いてくれない。科学技術が発達すれば何でも制御可能になるという夢を語っていた人もいたけれど、夢は夢のままで終わらせた方が良いのかも知れない。すぐに思い上がる人々を見ていると、ついそんな気がしてくる。
 誰でも、変化があるのを当たり前だと思いつつ、何とかそれを先読みして、対策を講じたいと思うものだ。中でも自然災害は被害が甚大なだけに、ある程度の予測が立てられると助かるのにと思っている。最近は台風や集中豪雨もある程度予測を立てることができるようになって、警報などが出され、迅速に対応すれば被害を小さくすることができるようになった。と言っても、まさかという思いにしがみつく人々の一部は、何も起きないことを願うのみで行動を起こさず、被害に遭ってしまうこともある。天候の急激な変化による災害に関しては、予報精度の向上によってかなり抑え込むことができるようになったが、本当の意味で予期できない地震などの災害に関しては、まだまだそこまでは進んでいないようだ。それでも、地震予知に力を入れて研究を進めている国としては、何とか面目を保とうとする動きからか、少しずつでも進歩しようとする勢いは持ち続けているようである。天変地異のような天災による被害は計り知れないものだし、たとえ対策を講じても十分と言えないことも多い。その上、対策のための経費が意味あるものかどうかが問題となるから、ほんのたまにしか起こらないがとても大きな被害を及ぼす災害に対する対策をすべきかどうかは重大な選択課題となる。気候変動や地殻変動など、いろんな変化が人々の生活に及ぼす影響は良いものも悪いものもひっくるめて、避けがたいものであり、今のところ制御不能のものである。だから、少しでも被害を少なくするための対策を講じるしか方法が無い。これとは違う話だが、経済変動は人間の活動そのものが要因となって起きるもので、人がきっかけを作るのだから、対策を講じるより前に何らかの方法で抑え込むことができそうに思える。しかし、現実には予期せぬ変化が起き、悪い方向への変化を小さくする手当てがなされても、功を奏しないことも多い。全体の大きな変化を制御することは安定的な生活を送るために重要なことだから、いろんな人々がいろんな考えに基づき提案している手段があるけれども、実際にあらゆる変化に有効な手段は今のところ見つかっていないようだ。それぞれの要因を列挙して、その変化を計算によって予測することはそれほど難しいことのように思えないが、現状では不可能である。すべての要素が明らかになれば予測可能と言われた天気予報も、実際にはそれだけでは十分でないと言われるようになり、カオスなる研究分野が世の中に出てきた。天候の変化に比べたら要素の数は少ないはずの経済変動も、実際には表に出ない変化や評価できない心理的な変化が関わってくるとなると、同じような歴史を辿るしかないのかも知れない。可能ならば制御することもいいのだろうが、気候変動や地殻変動と同じように、対策の立て方に工夫をする必要があるのだろう。国のレベルから個人のレベルまで、いろんな階層で違う対策がありうるが、被害を小さくするためにはそれぞれに考えねばならない。

* * * * * * * *

3月1日(月)−正気

 日本の裁判は時間がかかると不評である。さすがにお上のやることでも文句が出る世の中になってきたから、重い腰を上げて迅速な対応がなされるようになったが、それでも大きな裁判になると理由もなく時間だけが流れているように見える。噂では裁判官の数が足りず、掛け持ちばかりで能力の限界を超えているらしいが、はてさてどんなものなのだろう。
 長期に渡る裁判がさらに延ばされる要因には裁判官の異動の問題があるようだ。担当する裁判所が決められているから、そこに所属する裁判官がある裁判を担当したとしても、別の裁判所に異動となれば任を外れて、新しい人が担当することになる。もし、その度に訴訟の内容を一から精査するとなれば、無駄とも思える時間が過ぎてしまうのもやむを得ない。そんなやり方では、担当する裁判を在任中にさっさと済ませる以外に方法が無いのかも知れない。その意味では最近の裁判の進め方はずいぶんと早くなり、無駄な重複も少なくなったようだ。最近問題になっている発明対価の話にしても、その分野に通じている裁判官はほとんどいないから、代わるたびに事情を説明する必要が出てきて、大変なことになるはずだ。それでも、刑事事件で数多くの罪状に問われた被告に対する裁判となると、どうにも長い時間がかかってしまう。何しろ被告自身が何も話さなくても、それぞれの事件の証拠を紹介し、その証人を尋問するだけで時間がかかるものだから、それが複数、多数となればかけ算で増えていくことになる。つい先日もそんな裁判の一つにやっと判決が下りた。予想通りの判決で皆一様に納得していたようだが、罪の重さからすれば極刑とは言え物足りないという声が聞こえる一方で、正当な裁判が行われず不服を申し立てる声もあった。後者は当然ながら被告の弁護を担当した人々からのものだが、被告からの声を一切引き出せなかった人たちに、そういう論法が可能になるという考え方には同意できないものがある。裁判は正当に行われるべきという主張に間違ったところはないだろう。しかし、正当に行うために必要な手続きにはどんなものがあるかという問いに彼らは答えたのだろうか。そちらの方が気になった人も多いのではないだろうか。確かに、刑を決めるための裁判のはずが、既に確定してるかのごとくの運び具合では不満もあっただろうが、それにしてもやり取りの無い状態で何を主張しようとするのかさっぱりわからなかった。この事件は宗教色の濃いものだったから、この国に住む人々の宗教観との兼ね合いを議論する声もあるようだ。つまり、あらゆる宗教がゆらゆらと蠢いているのに、多くの人々はこれといった信心の対象は持たず、場面ごとに使い分けているような行動をとる。そんな世界だからこそ、こんな事件が起きたと結びつける考え方である。解釈は色々とあるだろうが、相変わらずの短絡的な考え方に呆れたりもする。一方で、最近の若者は、という声の中には、指令待ちの習慣が身に付き、傾向と対策に明け暮れた人々にとって、救われる道を示してくれることは魅力的なものであり、それがこの事件のきっかけを作ったというものもある。きっかけは前のものだろうが、後のものだろうが、あり得ないものでもないだろう。しかし、ある意味の狂気に走らせた力はどこから湧いてきたのだろうか。無関係な人々からすれば狂気に見えることも、熱心な信者にとっては当然のことに見えるのだろうか。宗教に端を発した狂気は歴史上には数えきれないほどある。だからといって、宗教を危険視するのもおかしいと思うが、ある一線を越えるために何の効果もなかったかというと、それも難しい気がする。人の考えというのはなるほど複雑怪奇なものとするしかなさそうだ。

(since 2002/4/3)