パンチの独り言

(2004年3月8日〜3月14日)
(意識下、決断、塩梅、眩惑、鑑識、慧眼、遠慮)



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3月14日(日)−遠慮

 何度も書くことだが、人はそれぞれに違う。だから、なるべくそれを理解し、受け止めるように心掛けるが、だからといって何でも許してしまっては、おかしなことになる。最近の世の中の流れはどちらかというと、あとの問題が大きくなり、自由と責任などという繋がりが強調されるようにさえなってきた。
 この頃特に話題になるのは、若い世代の傍若無人ぶりだが、彼らから言わせれば、いい年をした大人どもの傍若無人ぶりの方が目に余るとなる。そんなことで競っても仕方のないことで、実際にどういう点がお互いに問題と思えるのかを話し合うべきなのだろう。ただ、たとえそんな機会を設けたとしても、実際に傍若無人ぶりを発揮している人々はその場におらず、何の変化も期待できないから、お互いに無駄な時間の使い方は避けるべきなのかもしれない。傍若無人というのは、おそらく遠慮会釈無くとか、場もわきまえずとか、そんなことを表しているのだろうが、この辺りはどうも人それぞれの感覚に違いがありそうである。常識という言葉で片付けられているものの代表格でもあるが、実際には人それぞれどこまでが遠慮すべきことであり、どこからが自己主張せねばならないことかかなり大きな違いがありそうだからだ。組織の中で目上の人の意見には従わねばならないとすると、それが犯罪に関わるかどうかの区別無くとなるから、おかしな場面に出くわすこともあるだろう。会議で意見を求められても、上司がいる前では遠慮するのが当たり前という世界では、発言は求められていないわけで、はたしてはじめの要求は何だったのかということになる。それぞれの世界で、それぞれのやり方があり、それらが局所的な常識であり、それを覆さないことが組織の一員としての役割となる。元々そんな考えが当たり前だったのだが、その考えに基づく行動がある崩壊を回避できなかったがために、根本的なところから見直さねばならないという考えが大勢を占めるようになった。その辺りから、自己主張の重要性が論じられているようだが、以前の雰囲気で育った人々の多くは急な変更に応じられるわけもなく、結局は一部の人々に引っ張られる形になり、以前と大して変化の無い状況にあるようだ。先日もある会合で若い人々の意外な行動に驚かされた。招待状がいるわけでもないし、対象が決められているわけでもなかったが、会合の性質から比較的年齢の高い人々が集まっていた。おそらくその場の雰囲気に気圧されたのだろう、彼らは場違いを意識したのか遠慮して会場を後にした。気圧されたことを弱気とかいうことで批判するつもりはない。年上の人々が集まった席で、若年層が意識するのは当たり前のことだからだ。驚きは、そんな当たり前のことを理由にせっかくの機会を手放すことにある。集団化に見られる均一性はこういう状況とは逆のものだが、この辺りは皆同じを良しとして育った人々に多く見られる傾向なのかもしれない。

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3月13日(土)−慧眼

 当たり前のことだが、人はそれぞれに違う。しかし、その程度が過ぎると不安になり、共通点を探すことに躍起になる。特に日本人は普通とか典型という言葉が好きで、typicalであれば安心できるようだ。しかし、欧米人から見ればtypicalは異常であり、それぞれに違うatypicalが当たり前になる。
 いくら人それぞれと頭でわかっていても、気持ちの奥底まで納得できるものではない。更に、自分の心の動きとなれば、他人の心を覗けないから、違いがあるのかどうかさえわからず不安が募る場合もある。そんな気持ちが高じてくると様々な活動に支障を来すようで、そんな例の一つを数週間前の「新日曜美術館」で紹介していた。この番組で紹介されるのは芸術家に決まっているから、その時紹介されたのも画家の熊谷守一であった。今残っている絵の多くは、まるで子供が描いたようなものが多く、大家の絵かと思えるが、その境地に達するまでの葛藤はかなりのものだったようだ。特に、若くして期待され、その期待に押しつぶされそうになりながら、本来ならば最も輝くはずの時期を何も制作できずに過ごしたという話には、才能のある人にしかわからない難しさがあるように思えた。彼の第一の苦しみは、母親の死を迎えたときの彼の心境にあり、その場でも冷静に観察する眼を持つ画家としての彼の才能を自分自身で歪んだものと捉えたところから始まったようだ。普通の人ならば親の死を悲しみ、打ちひしがれて過ごすはずの場面で、生を失っていく自分の母親の姿を冷静に分析する自分は、どこか他の人々と違った一種異常な存在なのではないかと思うところは、孤独を感じさせるものであった。その後、自らの子の死に直面して、違った苦しみを感じつつ、放り出したはずの絵筆をとって子供の死を描こうとする姿に、自ら気づき再び絵筆を投げ出したのも、彼の心の葛藤の大きさを感じさせるものだった。結果的には、創作活動を再開して、新しい境地を開拓したのだが、そこまでの道のりは簡単には理解できない。ただ、晩年の彼の作品にあらわれている観察眼の鋭さは、結局のところ母の死に際して彼が見せた冷静な観察と結びつくものであり、鋭さゆえに自らを苦しめる結果となった才能だったのではないだろうか。他の人々と違うかもしれないと思う心が、更に大きな苦しみを生み出してしまったのかも知れないが、芸術家とは他の人との違いを際立たせる職業であるはずで、違いを喜ぶことはあっても、忌み嫌うことなど無いように思える。しかし、あまりにも日常的なことに違いを見つけてしまったことが、ある意味の不幸を生みだしてしまったのではないだろうか。あの番組を見ていない人にはわかりにくい話だろうが、ちょっとした類似点を見つけて、なるほどと思ってしまった。あれから一年、経験した人は皆それなりに思うところはあるのだろう。

熊谷守一記念館
熊谷守一美術館


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3月12日(金)−鑑識

 うまくいく、というのは人それぞれの感覚かもしれない。何事も一番でなければならない人にとっての「うまくいく」は一番になることだが、そんな人は世の中に一人しかいないわけだから、他の雑多人々にとっての「うまくいく」はまったく違ったものになる。それも人それぞれに違うはずだ。
 このくらいのことは皆良くわかっているはず、と思っていたら、どうもそうでもないらしい。何事につけて、うまくいかないという感覚を持つ人が世の中には多く、自信の無さだけが目に付いてしまう。自分を信じるから自信というのだと言われても、信じられないものは仕方がないとか、現実にうまくいっていないからとか、まあ、返ってくる答えには明るい兆しさえ見えないものが多い。巧く世渡りするためにも、うまくいくことが非常に大切なはずなのだが、そういう感じがしないことには話にならない。傍から見ていると、小さなことには違いないのだが、以前とは違う何かを身に付けていることがはっきり見えることがある。自覚が無いのだろうと、その辺りを指摘してみても、その違いを理解する気持ちも起きないらしい。何とも八方塞がりとしか言い様のない状況である。皆が皆そういう状況にあるとは言えないが、かなり多くの人々がそんな態度をとるから、この頃の若い人たちに多い感覚のようである。こんな中で成功体験の重要性を説いてみたところで、理解されることは難しいのかもしれない。何しろ、大きな仕事を成し遂げた有名人の成功を「成功」と捉える人々にとって、日常に転がっているちっぽけな石ころのような「成功」は、無価値のものに見えるのだ。大きな成功が小さなものの積み重ねという話もよく聞くが、こちらの方も受け取る側にとっては、大きなものの存在があまりに大きく、それが大前提になっているわけだから、それを持たない者には成功を語る資格なぞないと言い返されてしまう。こうなると堂々めぐりの迷路に追い込まれたようなものである。ちょっとやそっとの助言で何かが変わるはずもなく、ただ同じ状態が続き、何もかもがうまくいかないという捨てぜりふが何度となく吐き出されるだけになってしまう。それにしても、何故こんな考え方が定着してしまったのだろうか。確かに、この国では伝統的に自分の行いを過小評価することが大切だと思われてきた。謙譲とか遠慮とかいう言葉にもそんな意味が込められているのかもしれない。しかし、世の中の流れに変化が現れ、正当な評価こそが大切と言われるようになると、そんな心構えはおかしなものとして見なされるようになってきたように思える。にもかかわらず、自分のやったことは大したことはないと言うのは、何故なのだろうか。正当な評価を下してもなお、大したことがないと判断できるからだろうか。はたまた、小さなことには価値が無いという正当な評価がどこかで下されているのだろうか。このところの大きな変化の連続で、自分たちもその辺りのことをはっきりと認識できないまま進んでいるのだろうか、どうもよくわからない。いずれにしても、たとえ小さくとも「成功」を正当に評価する眼を持たないことには、大切なものが見えてこないのではないだろうか。

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3月11日(木)−眩惑

 南極で観た星空という写真が新聞に載っていた。当たり前のことだが、見えている星座はまったく違う。それはそれで面白いことなのだが、それよりもそこに写っていた天の川のきれいなこと。さすがに人の生活拠点が無くて人工光がほとんど無く、さらにこの季節観測者を悩ます黄砂などの塵の影響もないのだから、当たり前なのだが。
 国内でも山の上とか山の奥に行けば、まだ満天の星空を見上げることができるのかも知れない。それにしても、もう30年ほどそういうところに出かけたことがないから、どんな雰囲気だったのかすっかり忘れてしまった。空が暗くて、光の散乱を起こす塵が少なければ、見える星の数はどんどん増してくる。そうなれば、いろんなものが見えるわけで、たとえば北斗七星の柄杓の柄の部分には二重星があるというのも、少し目が良ければ見えるはずだ。古来から昴と呼ばれたプレアデス星団も7つくらいまでは数えられるだろう。目が良いというのは視力で言えば2.0とかそのくらいだが、アフリカとかモンゴルで遠くのものばかりを見ている人たちの中には、4.0(たぶん、2.0の半分の文字を識別できる)という人もいるのだそうだ。鍛えれば良くなるという話もあるが、真偽のほどは定かではない。しかし、こういう視力とは少し違うのかも知れない目の識別能力の話を昔聞いたことがある。ガリレイの話で有名なのは地球が動くかどうかだが、そういう考えに至った理由の一つとして挙げられるものに、木星の衛星がある。望遠鏡を使ってガリレイが発見した木星の4つの衛星にはガリレオ衛星という名がつけられているが、望遠鏡を使わないと見えないと言われているこれらの衛星を肉眼で見ることができる人の話が天文雑誌に掲載されていた。二つの物体を一つの塊としてではなく、別々の物体として識別する能力を分解能というが、ある間隔をもって位置する二つの物体は遠くに離れれば離れるほど二つのものと識別するのが難しくなる。ほとんどの人たちにとって木星は一つの惑星として見えていて、そこに4つの暗い衛星があるとは気がつかない。しかし、ある人にはそれがはっきりと見えているのだという話は、冗談半分として読むしかなかったような記憶がある。自分に見えないものが他の人には見えるということは中々信じられないからだ。本当にそんなに遠くの小さなものをはっきりと区別する力があるのであれば、月面のクレーターなどのでこぼこ模様は鮮明に見えて面白いでしょうね、という質問に対して、月面は眩しすぎてうまく見えないという答えには、さらに驚かされた。単に二つの物体を区別するだけの能力では、明るい惑星の横にあるくらい衛星を見ることは難しい。それだけでなく、さらに暗い星を見つける感度も実際には必要になるはずなのだ。そういう人たちにとって、太陽の光が反射して見えている月面は、暗闇でこちらを照らす懐中電灯のように眩しいものなのだろう。人の持つ能力は、人それぞれとは言え、こういう不思議な力を持つ人がいるとは、自分が持っていないだけに想像がつかない。

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3月10日(水)−塩梅

 この国の広告は特殊だと言われることがあるのだそうだ。テレビのCMを見ても、新聞の全面広告を見ても、何の宣伝かわからないことが多いと言われる。製品そのものの宣伝をするより、良い印象を視聴者や読者に与えることの方が大切であるという考えからなのだそうだが、そんなものなんだろうか。
 そんな広告は数限りなくありそうだが、最近気になったものに、桜の樹の医者が登場するものがある。老いて弱った樹を元気にさせるために大切な事柄を訥々と話すその人は、何代目かの樹の名医なのだそうだが、その中に世話をしすぎず、放りっぱなしにせず、といった感じの表現があった。ああでもないこうでもないといじりすぎては自分の力で何とかしなくなり、かといって放置しすぎると病気にやられてしまう。要は水と土が大切というわけで、その広告の目的がはっきりとするのだが、付かず離れずという雰囲気が別のことを思い出させてくれた。樹とはまったく違うが、気の方の病気を扱う医者の話である。最近、気の病の話がいろんな世界で取り上げられている。気難しいことを考え続けなければならない大学の先生に多く見られたそれらの病気は、今では会社でも家でもどこでも当たり前のように見られるようになってきた。一つの驚きだったのは、ブラウン管の向こう側でもこういう病に侵される人の数が増えてきたことで、それらの人々はいつの間にかスポットライトを浴びる現場からいなくなり、復帰したという知らせが入ってからいないことに気がつくことも多い。その経過を報告する意味で出版される本も多くなり、専門医からだけでなく、闘病生活を送った人々からの声を直接聞くことができて嬉しいという人もいるのではないだろうか。それにしても、以前はほとんど見かけたこともなく、話題にもならなかった病気の患者が、こんなに身近な存在になったのは何故なのだろうか。これを不思議に思う人も世の中には沢山いるのではないだろうか。一つの考え方として、いろんな意味のプレッシャーが世の中に溢れるようになってきたというものがあるだろう。また、人間の育ち方に変化が現れ、プレッシャーに弱い人間が増えたという考えもありそうだ。他にも社会の問題、人間自身の問題といろんな方向にもっていくことができるが、先日たまたま見ていたテレビの番組で話していた専門医の話が印象に残った。それは、昔も今も潜在的にこういう症状を持つ人の数はあまり変化していないのかも知れない。しかし、社会の変化によって、そういう人を包み込む力が徐々に無くなりつつあるのではないか、というものである。ちょっと様子がおかしいと世話を焼き、励まし続ける人がいる一方で、全体の流れから外れた人々を排除しようと力を入れる人がいる。どちらの場合も、気の病を持つ人々にとっては重圧になり、症状が悪化することが多い。それに比べると、昔はいい意味でも悪い意味でもそういう人々を無視する傾向があり、流れから外れかけても長い目で見守ろうとする人々がいた。少し症状が重くなったときに、圧力をかけるわけでもなく、しかし完全に存在を否定するわけでもない状況に置かれると、自分の力で戻ってくることができる場合もあるのだそうだ。外からの力に耐えられないが、内からの力では立ち直れるとでもいうのだろうか。無理解がたまたま良い方向に働くこともある。中途半端な理解よりもより良い結果を生み出す場合もあるのだろう。

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3月9日(火)−決断

 情報化社会になったといわれるが、はたしてどれほどの恩恵に浴しているのだろうか。当たり前のことだが情報には役に立つものと立たないものがあり、それとは別に本物の情報と偽の情報がある。一部からしか流れ込んでいなかった時代から、あらゆるところに溢れる時代になり、それらの取捨選択が重要視されると聞くが、どんなものだろう。
 投資家の話を聞いていると、いろんな情報源を持っている人たちはそれらを使って投資に役立て、儲けていると信じている人たちがいる。一昔前なら、そんな表現が当たっていたのだろうが、最近では量的な観点から言えば、ほとんどの人が同程度の情報量を持っているように見える。そうなってもなお、信頼できる筋の情報を握れる人とそうでない人の違いは大きいと思っている人が多いようだ。では、巷に溢れている情報は単なるガセネタなのだろうか。もしそうだとしたら、そんなものに振り回されないで、自分の信じるところを貫けばいいのではないだろうか。以前は公になる情報に関しても、それを手に入れる経路を持っていないがために出遅れることがあったのかも知れないが、今は公になることはつまりネット上に公開されることと同じ意味に使われるから、違いは目立たなくなっている。これらのものはすべての人の目に触れるから、格差が出ることもないだろう。良い情報に接していないと信じている人たちは、それ以外に裏で取引される情報があり、それを手に入れることで売買益を上げる人々がいると信じているようだ。実際にそうなのか、答える術を持っていないが、そんなこともたまにはあるのかも知れない。しかし、それ以上に大きな影響をもつものがあるのではないだろうか。ガセネタと呼ばれる情報は、様々な経路を通して広がり、いろんな人々に伝えられることになる。流れているときにガセと判断する人もいれば、それを鵜呑みにしてしまう人もいる。前者は巷に流れるものの多くは単なる噂であり、信憑性が薄いという判断をするが、後者は何でも信じ込んでしまう。その違いがいろんなところに現れ、振り回されることによって損失を膨らませてしまった人も多いだろう。しかし、同じように振り回されても運が良いと他の人同様に儲けることができる場合もあり、そういう人々にとっては、噂に振り回されることも結果的に問題なしということになる。投資には賭事と同様に絶対というものはなく、こうすると何とかしやすいという表現がせいぜいである。にもかかわらず、絶対に儲かると聞けば、つい耳を傾けてしまうし、さらに一歩進めば、金をつぎ込んでしまう。絶対に儲かるということが無いのと同じように、絶対に損をするということもないのだろうから、こういうやり方に乗っかってしまった人の中にも、資産を増やす結果になる人がいる。単なる巡り合わせといえばそうかも知れないが、人より早く情報を手に入れたからというだけかも知れないのだ。そういうことを耳にするたびに、やはり情報が大切と思うのだろうが、はたしてこれは正しいのだろうか。人より遅く歩いていくほうが良い場合もあるわけで、こういう捉え方をしても、いろんな場合がありうる。どのやり方が良かったのかを論ずることはできるかも知れないが、それを予測することはやはり無理である。結局情報を集めることでなく、それをどう使うか、決断をどうするか、といったことの方が大切なのだろう。

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3月8日(月)−意識下

 確定申告の手引きを眺めていると、そこには国の歳出がどのように使われているとか、教育のために生徒一人当たりに使われる経費とか、そういったものが何気なく書き込まれている。教育の義務にはいろんな意味が含まれるから、こういう形での寄与も当然認識されていなければならないのだろう。
 書類に記入していると、源泉徴収額よりも、社会保険料の額に唖然としてしまう。人にもよるのだろうが、給料とは手取りの額と思っている人が多く、源泉徴収票にある金額を見て驚く人もいる。雇用者はそれ以上の額を従業員に使う必要があるから、人を雇うというのも大変なことだ。天引きという制度はいろんな手続きを簡素化できてとても良いように思えるが、実際には手取りにしか心が届かず、税金やら保険料やらに使われた自分の給料がどれほどのものなのか意識することが無くなる。どうせ手元に残らないものだから、それはそれで十分だと言う人もいるだろうが、やはりどの程度の税金を納めているのかくらいは意識したほうが良いのかも知れない。ただ自分で申告するとなるとこの手間が尋常でなく、こちらの方をもっと簡素化できないものかとふと思ってしまう。この辺りのシステムにも意識させないように複雑怪奇な世界を作り出している意図が出ているような気がする。税金の使い道を知ることは大切で、構造改革などという表向きの謳い文句で騙されてはいけない。改革によってどんな変化が生じ、直接的な影響と間接的な影響を合わせたうえで、どんな利点があるのか提示してこそ、この辺りの意味が出てくるはずだ。しかし、実際にはそういう細かな点に注意を喚起してしまうと、議論が進まなくなるという論理でまず変えておいてからというのがこのところの常道となっている。あまり意識していないとはいえ、こういう作業に携わる議員の使う金は当然税金によって賄われている。どんな使われ方をするのか気にすべきだが、実際には遠い世界の出来事のように扱い、何の関心も払わない。そんな状況からか、いろんな不祥事が噴出し、またぞろ秘書給与の話が飛び出してきた。人は意識下で行うか、無意識に行うかで、その行為に対する責任の重さを区別することを常としているようだが、今回の事件では様々な不祥事が話題になった時期に起きていたとして、より悪質であると解釈する向きが多い。意識すべき状況にありながら、知らなかったと片付ける神経も信じられないが、意識的に行えば悪質だとする考えには首を傾げたくなる。殺人を犯すときに殺意があったかどうかが争点となるから、それと同じように犯罪を犯すときにその意識があったかどうかが争点となるという論理だろうか。疑問に思ったのは、これによって重い罰を与えるべきという考えにではなく、無意識とか無知というのであれば仕方ないとするような考えに対してである。意識的を強調する人々の脳裏にはある議員のことが浮かんでいるのかも知れないが、その世界をよく知らず、誰かの教えに従っただけだから、という片付け方がどこかにあるのかも知れない。実際には、意識のあるなしに関わらず、詐欺は詐欺であり、立場からすれば明らかに重罪である。こういう背景を罪の軽重に使うのは、あとからこれらの人々の区別を行うためなのかと思えてしまう。

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