パンチの独り言

(2004年3月15日〜3月21日)
(漂流、屈従、分離、雇用、展示、手落ち、不即)



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3月21日(日)−不即

 春先の天気は安定せず、三寒四温とはよく言ったものと言われるが、どうも今年の春はそれ以上に不安定なようだ。暖かさに誘われて咲いてしまった花が引っ込みのつかない状況になるほど急に真冬の天気に戻ってみたり、慌ててしまいかけたコートを引っ張りだしたら北風と太陽の話のように無理矢理引っぱがされたり、振り回され通しである。
 近くの白木蓮の大木もこの暖かさに誘われて一杯の花を咲かせているが、よく見ると日当たりの良いところとそうでないところで咲き方が違う。今綺麗に咲いているのは南側の日が良く当たる部分で、北側の日陰になりそうな部分はまだ蕾のままだ。と言っても、まだ葉が出ているわけではないから日射はほとんど通り抜けてしまうから、日当たりの良さはあまり変わらないようにもみえるのだが、どこかに違いが現れているのだろう。春を代表する花である桜と同じように、葉が出るよりも先に花が咲く白木蓮はくすんだ灰色とも言える世界に鮮やかな白を運んできてくれる。桜の花のピンクで春を感じる人もいれば、白木蓮や辛夷の花の白で春を感じる人もいるだろう。梅の花は少し早すぎる感じがするし、水仙の花もそんな感じだ。花が咲いているのを見ても春の訪れが近いのを感じるだけで、まだまだ寒い日が続くのだから。人間の生活では、ちょっと暖かくなったり、寒くなったりするだけで、その装いに変化が現れる。それに比べると植物の方は、そろそろその時期ということになれば、前後の気温に少しは左右されるとはいえ、一度開いた花を閉じてしまうことはできない。擬人化して話をするわけにもいかないが、こういう不安定な天候が続くときどんな気持ちでいるのかを尋ねてみたくなることもある。まるで外套を片付けた途端に寒の戻りがあり、やせ我慢をする人と同じような感覚なのか、はたまた我慢などというものはなく、ただ予定された行事をこなしているだけなのか。自然にあるものからは季節感が感じられるが、いざ人間の生活に関係したものに目を移してみると、そこには季節の無いところが沢山見られる。店で売られている野菜の多くは、季節を無視したもので、いつでもどこでも手に入るようにという人間の欲求が満たされているものの代表格だろう。それでも、野菜よりは果物の方に少しだけ季節があるようで、最近は苺の良い香りが店内に漂っているし、柑橘類の種類も少しずつ変化している。肉の方は季節感も何もありはしないで、かえって最近話題になっている病気に左右されるところが大きい。魚も養殖が増えたせいか旬が感じられなくなりつつあるが、養殖できないものに関しては季節外れとなれば冷凍や干魚として出回るようになるから、少しは変化があると言えるのだろう。元に戻って花の方だって、最近はいろんなものがハウス栽培されていて、季節に関係なく手に入るようになっている。少し上の世代になれば本来の旬を知る人も多くなるのだろうが、若い世代にとってはそういう区別が意味のないものになっているのであろう。季節は巡り、その中に愉しみを見いだすという気持ちを、自分たちの欲求によって否定した上で、改めて季節を感じるために自然の中に出かけるとは、何とも贅沢な営みではないか。自然に振り回され続けた歴史に対する反発なのかも知れないが、何を目指しているのやら。

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3月20日(土)−手落ち

 テレビを見ていると何かの製品の広告ではなく、別のものの宣伝をするときがある。以前から有名だったのは、JARO、ジャロと呼ばれる組織のもので、正式には日本広告審査機構という、不当表示ならぬ不当広告を取り締まる組織だ。一時期は、何とか虫というのを流して話題になったこともある。
 組織の性質からすべて民間放送で流されるわけだが、公共の電波に詐欺に関係するものが乗ってはいけないという観点から、特に厳しく取り締まっているようだ。但し、テレビやラジオに限らず、新聞誌上や折り込みの広告に関しても、同様に審査の対象となっているようだ。自らの力で自らの間違いを正すという姿勢から生まれた組織で、自分たちのやっていることに責任を持つと言えばいいのだろうか。昭和49年に発足しているにも関わらず、あまり知られていなかったので、テレビに広告の時間を設けたといったところだろうか。いつ頃からか、名前は覚えてもらえるようになったようだ。この組織と似た印象を受けそうなのが、BROと呼ばれる組織である。ジャロと同じようにテレビの宣伝の時間に流れてくるから、はじめは仲間かなとも思ったが、内容はずいぶん違っているようだ。さらに、ある時期から民間放送だけでなく、本来企業の宣伝を行わないNHKでも流されるようになったから、かなり性質が違うものと見るべきなのかも知れない。BROはかなり複雑な名前を持つ組織で、正式には「放送と人権等権利に関する委員会機構」という名称である。まったく長ったらしい名前だし、ちょっと考えただけでは何を目的とするのかわからない。これだけでもわからないのに、ちょっと調べてみると、この組織がいつの間にかBPOなる組織に統合されたとある。おかしいなと思ったが、どうもNHKで流れているのは、こちらの方かも知れない。この組織の正式名称は、放送倫理・番組向上機構であり、さらに多くの問題を取り扱う組織のようだ。とにかく、最近のマスコミの動きには辟易とする人々がいるだけでなく、直接的な被害を受けたと訴える人も多くなっているから、自分たちでこういう組織を作って、自ら解決方法を探っていこうとするものらしい。つい最近話題になった週刊誌発売差し止めに関する話の中でも、この組織のことを引き合いに出す人がいて、こういう問題は裁判所が扱うよりも自分たちでこういう組織を使って解決すべきと論じていた。しかし、ちょっと考えてみるとその論法が成り立たないことに気がつく。人のプライバシーは他人に触れた途端に侵されると言われるが、こういった機構が審査をするのは、そういう事件が起きてしまってからである。問題の本質を捉え、同様の事件が起きることを未然に防ぐという意味で、自らにある制限をかけるのは重要なことであり、そこに役割があることは認めるが、最初の犠牲者は事前に防ぐ手だてを持てないことになる。組織や社会で考えれば重要な役割でも、それがある個人の人権を守れないのではその個人にとってはまったく無意味な組織と見なすしかないわけだ。そういうことを無視して、自らの手で自らの行動を律するなどといくら論じてみても、今現在問題になっているものに対しては何の意味もなさない。こんな議論は一時のまやかしに過ぎないことになってしまう。こんなところにもある種の人々の考え方の歪みがでているように思えるが、今回の事件でも差し止めの命令が出たあとでも電車内の中吊り広告が存在するという矛盾が生じていた。言論統制などと覗き見趣味を咎められたことに反論するより、こういう構造矛盾をしっかり捉えることの方が本質的と思えるのだが。

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3月19日(金)−展示

 企業にとって広告を始めとする広報活動は自らの活動の具合を消費者に知らせる手段として重要なものである。しかし、テレビなどのマスメディアを介したものは印象を考慮に入れたものであり、細かな点まで受け手に伝えることはできない場合が多い。本来は製品を直接見せることが良いはずで、そういう活動もあるようだ。
 そんな形式の一つに展示会なるものがある。業界内の人々を対象にしたある意味で閉じた形のものから、モーターショーなどに代表される一般消費者を対象にしたものまで様々な形態があるが、大きな会場で種々雑多な企業がその思いを込めた製品や提案を紹介しているのをみると、テーマとなる業界の活性の度合いがわかってくる。たとえ不況といわれるときでも、こういった活動をやめるわけには行かず、その状況だけで景気の動向を図ることはできないかもしれないが、本来の企業活動よりももう少し先の将来を見据えた内容のものだと、そこへの投資の多少などが展示会への参加やその規模の大きさに直接影響するはずだから、ある意味設備投資などの将来投資に対する企業の考え方に左右されるわけだから、景気の動向を表すよい指標になる場合が多い。政府が出す経済指標からは、景気の回復がみられるような解釈が出されているが、その手の数字を信用しない人も多く、実際にそれらの動きからだけでは不況からの回復を読み取ることは難しいと思う人が多いのではないか。しかし、そんなものよりも、実際に企業がどんな方面に投資を始めているのかとか、ベンチャーと呼ばれる新しい形態の企業がどのくらい出ているのかということを見たほうが、もっと直接的に状況をつかむことができそうに思える。とはいえ、テーマによっては、一般消費者が興味を持つ段階に達していないものも多く、結局足を運ぶのは業界の人々だけとなる場合もある。それでも、お互いに互いの企業がどんな活動をしているのかを見ておくことは、これから先の投資を考える上でも重要なことだから、皆かなり力を入れて観察しているようだ。その状況を見るかぎり、ある分野に関してという限定があるとはいえ、景気の回復を実感できるほどのレベルに達しているように感じた。こういうときは、ベンチャーと大企業が先行し、それをより小さな企業が追いかけるという図式が一般的だから、まだ全体的な回復とは呼べないのかもしれないが、確かに感じられると言えそうな雰囲気はある。新しい分野と言っても本来はそこへ思い切って展開を図る企業ばかりではなく、実際には旧来のものの中にある新しい分野に合致する項目を表に出す場合が多いわけで、やはり流行に乗ることも重要なようだ。猫も杓子もというのが良いとは思えない面もあるが。

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3月18日(木)−雇用

 景気が回復しつつあると言われても、失業率は下がってこないし、大学生や高校生の新卒採用者の数にも目立った動きが無い。そんな中で、相変わらず若者のフリーターについての問題が取り上げられ、パートを含めた雇用形態についていろんな意見が出されているようだ。雇う側の利点を考えると、中々難しいところでもあるが。
 こういう形態とは少し違うが、10年ほど前から知られるようになったものに、派遣という形態がある。ある企業にとって必要な人材を登録されたものの中から選んで、派遣するという会社が出てきて、はじめのうちは何事かと思っていたが、優秀な人材を供給した結果、顧客を獲得し、かなりの伸びを見せてきた。そのうち、企業のみならず、公務員が働く場にまで派遣社員が見られるようになり、その実力が評価されているようだ。派遣社員を受け入れる企業にとっては、ある能力に長けた人材をさほど冒険しなくても使うことができるという利点があり、またリストラなどという思い切った改革を行わなくても、不必要になった部署を契約打ち切りという形で簡単に切り捨てることができるから、特に不景気な時代には重宝される仕組みのようだ。始めの頃は、事務職員や秘書などという事務を行う職場において専ら採用されていたようだが、いつの頃からか、研究開発に携わる職場にまで派遣社員が目に付くようになってきた。製薬企業などは研究開発はその根幹をなす部門だから、秘密保持などといった見地からは、社外の人間を出入りさせるなどということは考えられなかったが、仕事の内容や部署によっては可能であると考えるからか、正社員ではなく派遣社員でまかなうところが出てきた。ちょっと考えると、いくら直接的に関与しないとはいえ、以前なら部外者立ち入り禁止だった研究所内に社外の人間を入れるということにはかなりの危険を伴う気がする。守秘義務は、派遣社員に対しても適用されるのだろうが、誰が誰に対してこれらの義務を果たさねばならないのか、今一つ理解できない部分がある。同じことは公務員にも言えて、公務員ならば退職後も守らねばならない義務を派遣社員に適用することは無理があるように思える。そういう不具合があったとしても、直接雇用の困難さを考慮すると、こうせざるを得ないのかも知れないが、何らかの危険性を秘めているような気がする。不景気と思われた時代にはこういう雇用形態が重宝されたのだろうが、景気が回復してくるとそろそろ元の形態に戻る動きが出てきたようだ。大手のメーカーも正社員の募集をかなり増やしてきているようで、来年卒業する学生にとっては少し明るい兆しが見えてきていると言えるのではないだろうか。しかし、そういう状況になると派遣社員を送り込んでいる会社にとっては、その席を正社員が埋めることになるだろうから、かなり苦しいことになるのかも知れない。また、新卒採用に関しても、依然としてメーカー志向を持つ学生が膨らんだ市場に向かってしまうから、採用自体が困難になる可能性もある。企業形態によっては、景気の回復が必ずしも良い方向に働くとは限らないこともあるのかも知れない。まあ、大手メーカーは正社員として雇っておいても、景気が悪くなればリストラすることが知られてしまったから、その辺りの事情は単純とは言えないのだろうが。

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3月17日(水)−分離

 最近街角で見つけた言葉がある。「歩車分離式」、はて、何のことやら、と思う人が多いのではないか。その現場に立っていてさえ、ちょっと考え込んでしまったから、言葉だけを見ても想像がつかないかも知れない。ある交差点に掲げられていたもので、信号機に関するものである。
 今までにも、時差式信号という表現に出くわしたことは数限りなくある。交差する道路の片方が赤になっても、もう片方が青のままという形式の信号で、おそらく見込み発車をする運転者に対する警告の意味をなしているのだろう。信号形態は交差点ごとに違う場合があり、特に初めて訪れる都市では、まったく見たこともない形態の信号が設置されていることもあり、戸惑ってしまうことが多い。米国ではあえて表示していないところでは、信号が赤でも安全確認をすれば右折(この国での左折にあたる)可能だが、この国では左折可能の場合に表示が設置してある。ただ、都道府県ごとに考えが違ったり、設置できる状況がかなり限定されていることもあり、そういう表示のある交差点はそれほど多くない。何しろ、歩行者がいるかどうかの確認を怠ると事故につながるから、歩行者との関係をどう扱うかが問題となるからだ。そんな交差点によそ者がやってくれば、後から警笛を鳴らされることになる。場合によっては、そんな特別規則のことなど免許試験以来すっかり忘れている人もいるだろうから、慌てて行動を起こし事故を引き起こす場合もあるはずだ。車と歩行者の関係は明らかに、加害者と被害者の関係という図式を映したものであり、歩行者は自分の身を守るために様々な防衛策を講じなければならない。横断歩道を渡ろうとする歩行者を見かけたら、車は止まらねばならないはずだが、そんなことをする人の数はかなり少ないようだ。特に往来の激しい道路では交通の流れを遮断することになり、後続車から顰蹙を買うことになるから、なるべく穏便にという思いもあって止まらない人が多いのではないか。いつの頃からかそういう場所には歩行者用信号が設置されるようになり、押しボタン式で信号を操作することで、安全に渡れるようになった。信号があれば、歩行者は安心して道路を横断する。しかし、交差点では右左折をする車があり、青信号で渡っているはずの歩行者の方に突っ込んでくるわけだ。場所によってはそこにかなり大きな危険が潜んでいて、事故が多発することも多い。そのために考え出されたものの一つにスクランブル交差点があり、歩行者だけが横断可能な時間を設け、ついでに斜め横断も可能にしたものだ。都心の歩行者、車ともに往来の激しい交差点に設置されている場合が多い。今回見かけた歩車分離式は、このスクランブル交差点の方式を真似たものであり、歩行者と自転車の専用信号として、車用の信号とは別の動きをするようになっている。交差する二つの道路に対する二つの信号にさらに歩行者信号が加わって、全体として三つの信号が順々に青になるような仕掛けである。その交差点も鉄道の駅前にあり、朝夕のラッシュ時には車の往来が激しいだけでなく、近くの学校に通う学生の行き来が多くなるから、安全のために変更になったものと思う。ただ、習慣とは恐ろしいもので、たまたま通りかかった学生は歩行者信号なぞ目もくれず、同じ方向に向かう車が動きだしたらそれにつられて横断しようとしていた。しばらくの間、混乱が続きそうな雰囲気である。

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3月16日(火)−屈従

 ペンは剣より強しという言葉がある。剣という力による弾圧とペンという言論による反抗という図式が当てはまるのだろうか。両極にあるものといった印象を持って接してきたが、最近必ずしも互いにかけ離れた存在とも言えない気がしてきた。剣に加勢するペンとでも言うべき言動が見受けられるからだ。
 そうは言っても、直接的な支持というものではない。おそらく表面的な意図はまったく違うものであり、力に屈しないように訴えかけるもののはずである。しかし、現実にはある力に屈しないように訴えることが、別の力に加勢することに繋がることがたびたびあり、ごく最近起きた西班牙の列車爆破事件ではそのことを痛感させられた。画面の中で飛行機が高層ビルに突っ込むシーンを忘れられない人は多いだろうが、心のどこかでもうああいった事件は起きないのではないかという淡い期待を持っていた人もいると思う。しかし、今回の爆破事件はまったく形態が異なるとはいえ、200人ほどの死者を出すという大惨事になり、初期の政府発表とは異なる組織の関与が徐々に明らかになっていった。確かに、それまでの国内情勢からして国内の過激な組織の反抗を疑うのがまず第一だろうし、おそらく多くの人々がそう思っただろう。しかし、事件の規模や手口が今までのものとは異なることから、別の可能性を指摘する声ははじめから大きかった。全世界の国々が気掛かりに思っているテロ活動は今のところ中東を中心とする組織によるものが大部分で、国内情勢が不安定な国を除けば国際テロ組織と言うべきものが対象となっている。そんな中で軍隊を送り込んだ国を支持した国々に何らかの制裁を加えようとする動きがあったとしてもなんら不思議なところはない。とは言え、どの国がどのようにと思いを巡らせてみても、簡単に答えが出るはずもなく、それぞれの国にとってできる限りの備えをするのが精一杯だろう。この国とて例外ではなく、今回の事件のあと、さらにその可能性が高まったとする人々も多いようだ。暴力を否定する声は大きくなり、テロの効果もどちらかといえば反感を買うだけで、賛同の声は上がってきそうにもないのだが、今回の事件はちょっと違った様相を呈する結果となった。国内のテロ組織がはじめに疑われたのは単にその活動の歴史にあるだけでなく、今回の事件の起きた時期によるところも大きい。総選挙という国の進むべき方向を決める重大事の直前に起きた事件は、その結果を左右するものとなる可能性も高く、そういった意図がどこかにあったと考える向きもある。今後も同盟国の支援に力を注ぐとする現政権とそれに反対する野党との対決という図式は、ちょっとしたことがどちらかに有利に働く可能性を秘めていたわけだ。結果は明らかになったように、現状維持ではなく、方針転換を国民が望むというものとなり、そこには爆破テロの影響がまったく無かったとは言えない状況がある。テロに屈しないという意味には、テロのような暴力によって引き起こされるかも知れないあらゆる動きを否定することが含まれるように思うが、今回の結果は明らかにその影響を受けたと言わざるを得ない。問題となるのは、それぞれの人々の中での決定のプロセスではなく、そこに影響を与えた事件とそれに関する報道にあるのではないだろうか。確かに政府の発表はある思い込みによる偏った考えを表面化したものであり、間違った方向へ情報を導こうとする意図があったとも思える。しかし、その一方でテロに関する報道にはそういう意図がまったく無かったと言えるのだろうか。テロが起きた経緯、それを起こした組織の意図、そういう類いの情報を流すことによって、決定のプロセスに何らかの影響を与えたとは言えないのだろうか。選挙結果とその後の変化を報じるニュースを聴くかぎり、そういう思いが大きくなる一方なのだが。

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3月15日(月)−漂流

 世の中全体が豊かになってくると、どこかしら楽をしようとする心が動き出すのだろうか。最近の話題を拾っているとどうもそんな気がしてくる。例として悪いが、ぼったくりバーの何とかポッキリという表現を思い出してしまうのも、そんな時だ。最小単語数で英会話もばっちりとか、これだけ覚えれば合格を勝ち取れるとか様々だが、同じことを主張している。
 生活に対する不安が無くなったから、足らない部分があっても大したことにはならないという思いがあるからか、あるいは安定した社会では昇りつめたとしても大したことはなく、様々な努力が報われることはないという思いがあるからか、何しろ効率良く生き延びることに気持ちを集中させようという風潮が出てきた。誰しも無駄なことはしたくないから、そういう売り文句が出されるとすぐに飛びつくのだろうが、大体の場合最低限を選択すればどこかで物足りない結果に終わることが多い。無駄とはあとになってからわかることで、始める前から無駄になることが決まっていることなどほとんど無い。にもかかわらず、そういった表現が前面に出され、その言葉に躍らされるのは、楽をしたいという気持ちが皆の心の中にあるからだろう。この頃は特に効率を重んじる考えが大勢を占めるようになっているから、こんな流れに更なる拍車がかかってしまうようだ。詰め込み教育が生み出した歪みを修正せねばならないと論じる人たちの多くは、そういう教育を受けた世代であり、それによって失ったものが大きいと感じているからこそ、そんな主張を繰り返すのだと思う。しかし、実際に強調される弊害ばかりに目を奪われてはいないだろうか。彼らの世代がある程度の成功を収めてきたのは、まさしくそういう詰め込みによる強制があったからこそと考えることはできないのだろうか。時代の流れは振り子が振れるが如く、あっちに行き過ぎれば、次にはこっちに行き過ぎる。動くことをやめてしまったら、次に動き出すことができないから、常にどこかに動いていなければならない。わかりきったことだが、そんなわけであっちこっちにふらふらしてしまうものだ。詰め込み強制の時代から次には自由選択の時代となってきたのだろうが、そこに現れてきた歪みに対して講じられて来た策は振れをさらに大きくするものだったようだ。そろそろ気がつき始めた人々から、昔の教育方法を懐かしむ声が聞かれ、強制や押しつけが一概に悪いものではないという認識も生まれてきているようだ。人間の特性として引き合いに出されるものに、何にでも興味を持つというものがある。赤ん坊や小さな子供を見ていればわかるように、周囲の出来事事物に対しての興味の示し方はかなりのものである。確かに、それ自体が危険を生むきっかけになるから、あるところで止めに入らねばならないのは事実だが、親が親心なのか老婆心なのかを発揮して、将来役に立つもの以外はやめさせようとすることがあるらしい。それでも我が道を行くという生まれながらにして強い心を持った子供は何の影響も受けないが、素直な心を持つ子供たちは興味を持つこと自体を悪いことと見なすようになるかも知れない。そんな流れがあるところに、自由選択という船が浮かべられても、ただ淀んだ流れに漂うだけになるのではなかろうか。帆をかけて、風を吹かすことも、時には必要だということを、認めてもよい頃かも知れない。

(since 2002/4/3)