パンチの独り言

(2004年3月22日〜3月28日)
(匿名、不変、表出、目移り、曲解、裁き、回避)



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3月28日(日)−回避

 証券業界関連のホームページを見ている人にとって、「責任」という言葉を見るとどんなことが連想されるのだろうか。証券取引の慣行に変化が現れたことから、あらゆる機会を捉えて喧伝された「自己責任」を連想する人が多いのではないだろうか。制度の変更や制限の実施などによってこういう言葉が生まれたと思う人もいるだろうが、実際にはそうでもない気がする。
 人間は身勝手な動物であり、良いことがあると自分の功績を主張し、悪いことがあるとすべて他人の責任にすると言われる。実際には、人間に限ったことではなく猿でも同じような行動をするらしい。とは言え、そういう心の動きを悟られないように、やせ我慢をするのかどうかはわからないが、他人のせいで起きたことも責任は自分にあるとするという広き心は見かけ倒れとなり、特に金銭の絡んだものについては本音丸出しのやり取りが当たり前になりつつあった。そんな社会の動きから、責任は本人にあるということを強調して自覚を促そうという意図からか、あるいは逆に自分への責任を回避しようとする意図からか、「自己責任」という言葉の連呼が始まったのではないだろうか。当たり前のことを当たり前といえず、常に確認が必要となるというのはやはりどこかに歪みがあるような気がしてならない。同じような観点から始まっているが、まったく違った方向性を持っているものにPL法がある。製造物責任法という名称は今一つ理解しがたいものがあるが、Product Liabilityの頭文字をとったとなれば、何となくわかってくるだろうか。何らかの製品を扱うことで起きた事故にはそれを作った会社や人物にも責任があるというもので、それまでは明らかに誤った使用法をした場合には使用者にのみ責任があり、製造者は責任を負う必要がないとされていたものが、そうではなくなったことで話題になった。実際には、製品の欠陥が製造者の過失によるものかどうかが論点だったはずなのだが、間違った使用法を明記しておかないのも欠陥と見なされかねないという解釈から、とんでもない注意書きが連発され、そっちの方に話題が集中したようだ。元々、名称からわかるように法律の輸入品であり、こんなことが議論されるのはどの国なのか少し考えればわかりそうである。こういった注意書きは本家でも乱発されており、訴訟国家と呼ばれるだけのことはある。たとえば、レモンの香りのする洗剤にレモンの絵を貼り付けたら飲み物と間違えて飲んでしまったという事件が起きたらすぐに、「飲み物ではありません」という但し書きが付け加えられたそうだ。作ったものに製作者が責任を負うことは当たり前のことのように思えるが、常識を超えた誤使用の場合どう扱うべきなのかということが問題になるのだろう。電子レンジにペットの濡れた毛を乾かすためには使用できませんと書くべきかどうか、知らない人が悪いと言われてきた社会が知らせない人が悪いと言われるようになった。知ろうとしない人に知らせるためには、そこに書いておけば読まない人が悪いと言えるという論法なのだろう。大きな窓ガラスに知らずに突っ込む人は慌て者という見方から、見えにくいものを見やすくすべきという意見への転換である。透明なガラスの透明たる利点を無くせというのでは何とも不条理に思える。いずれにしても、常識で片付けることは常軌を逸した行動をとる人々に対して非常識であるとでも言うのだろう。いかにも整備された社会の構築がなされたと言いたがる人もいるのだろうが、常識とか当たり前のことを教えずに済ますことの方がよほど危ういように思える。まるで舗装道の薄っぺらなアスファルトの下に空洞があいているような感じだ。色んな安全装置が装備されるのはありがたいことかも知れないが、心の安全装置は外からくっつけるという代物ではないのだから。

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3月27日(土)−裁き

 ラジオを聴いていたら、司法書士が裁判で弁護士の代わりができるような仕組みが作られたという話が紹介されていた。何とか改革の一環ということのようだが、簡易裁判所での裁判に限り、それも小額のものに限られているとのことだが、裁判に訴えることを容易にするためらしい。確かに、地方によっては弁護士がいなくて困っているから、良いことかもしれない。
 確かに、裁判に訴えるしか方法の無い場合については、こういう仕組みができたことは意味をもつだろう。しかし、はじめに裁判ありきという考えから、こういう仕組みの必要性を説くのはどうかと思う。この国にはお上が様々な問題に対して口を出すという形の裁きが伝統となっており、当事者が訴えるという形式は裁判制度が採用されてから一般的なものとなってきた。だから馴染みが少ないというわけで、問題解決に手間取る例も数多く紹介されている。裁判という形で訴えたり、専門家を介して調停を図れば、様々なことを中立的で、迅速に解決できるというのが、裁判制度を推進しようとする人々の論点であり、主張することが最重要であると言われる。確かに、権利を主張することの重要性は最近の多方面の議論を見れば容易に想像できるが、しかしその一方で、裁判自体がはたして正当な判断を下しているのかどうか、そちらの疑問に答えてくれる話は少ない。何事にも戦略があり、裁判における勝ち負けに関しても当然作戦というものが存在するようだ。裁判王国と呼ばれるある国では、誰を弁護士として雇うかによって勝ち負けが決まり、そこに存在するはずの犯罪性や論理性が弁護士の実力によってどちらにでもなるという話がある。犯罪の有無は事実の有無と同じで、そこに存在するかどうかだけにかかるはずなのに、それが裁判の進め方によって逆の結果さえ生まれるというのだから驚きである。法律の解釈という問題に限って言えば、様々な解釈がありうる中でどれが適切かを問うわけだから、唯一無二の答えがあるわけではないだろう。そういう場合には、どの解釈を選択するかは人それぞれであり、見解の相違をどちらの方向にまとめあげるかは法律家の手腕にかかっているのかもしれない。しかし、犯罪を犯した人間に関して、その犯罪の有無までもが左右される解釈とはどんなものなのか想像するのは難しいのではないか。裁判がすべてそういうものであるとは言わないが、そんな可能性を孕んだものであることは裁判先進国の状況を見ると明らかなような気がしてくる。こんな形の制度改革では、そういったものに対する議論はほとんど無く、どちらかといえば利便性だけを対象とした議論から生まれるものが多く見られる。特に最近の改革の動静を見ると、本質的な議論はほとんど無く、利害に関わることや利便性についての議論ばかりが集中的に行われているように感じる。証拠に基づき、何らかの判断を下す裁判制度では、採用される証拠によって判断がどちらにでも転ぶ場合も多く、それによって当事者は右往左往させられることもある。脱輪事故の補償問題は妥当な判断に基づくものであったように当時は考えられたが、原因の所在によってまったく違った判断が必要となった。所詮はその程度のものであり、人間の判断とは絶対的なものではないというのであれば、仕方のないところだろうか。しかし、当事者にとっては害を加える側に回るか被る側に回るかの明らかな違いが出てくるわけだ。そう考えるといい加減なものに任せることに警戒するのが自然に思えてくる。

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3月26日(金)−曲解

 久しぶりの晴天に、運転中の眩しさを避けるためにサングラスを取りだした。このところの寒さで縮こまっていた桜の蕾も赤みが増しているように感じられる。そろそろ開くとなれば、今週末辺りが見ごろだろうか。寒さが和らぐのはありがたいが、急に暖かくなるとあっという間に良い時期が過ぎてしまうから、ちょっと考えものだ。
 夜の間に降った雨が地面にまだその痕跡を残していた。雨が降ると紙が濡れて役に立たないから雨天中止になるし、どうも日程があわずに先送りにしていた久しぶりの古紙回収の日だったので出しに行ったら、古新聞は大部分持ち去られたあとだ。古紙回収業者が自治体が行っている回収日に回収場所を巡回するという話をよく聞く。通常なら何かと交換という形で回収しているのに、この日ならばただで回収できるからだ。こういう商売が世の中に出てきたのがいつのことだったのかすぐには思い出せないが、要らなくなったものを必要なものと交換するというちり紙交換という商売は一時期かなりの隆盛を誇った。しかし、古紙の相場が暴落し始めると当然ながら交換されるトイレットロールの数も激減し、近所の人々に見られることや出しにでる手間を考えてそういう形で古紙を出す人も減っていった。そうなれば、回収業者の数も減るわけで、必要なときにやって来ないという悪循環が始まり、それとは別に起きた資源回収運動のようなものから自治体や学校が回収作業に関わるようになってきた。小学校のPTAが関わるようなものでは、担当になった保護者が回収場所に集まり、集まった古紙を整理したり、誰かが持っていかないように見張ったりしていたと思うが、そういう形もただ面倒だということで少なくなっていったようだ。その後、専ら自治体がそういう役目を負うようになったが、ゴミの回収と同じような場所を回収場所として使うために、見張りが立っているわけでもなく、古紙がそこに放置されているように見えるところもある。そんな中を早朝からトラックが行き来するわけで、出した側から見れば自治体が回収しようが業者が回収しようが自分たちにとっての利益はほとんどないからどうでもいいことに思える。そんな心理をうまく利用しているといえるのだろうか、古紙回収業者はさっとやってきて、パッと積み込み、あっという間に去っていく。近所の人々も利害関係がほとんどない物に関わるのも馬鹿らしいのだろうか、見て見ぬふりをしているのではないだろうか。しかし、古紙といえども資源であり、それが回収場所に提出されたところで自治体の財産と見なされるのではないだろうか。それを無断で持ち去る人々は窃盗を繰り返していると言えないのだろうか。以前から疑問に思っていたが、先日そういう古紙の中から札束が見つかったという事件が報道され、その所有権に関して自治体が名乗りを上げたとされていた。法律上の判断は至極簡単なものなのだが、見つけた人の功績はなどという話を持ち出すことで、話が混乱してくる。結果次第で法律の解釈が変わるとでも言わんばかりの勢いだが、最近の社会動向を見ているとそんな形での議論の多さに呆れるばかりである。関わった人々に不利にならぬように解釈するのが法であると言う人々がいるが、一部の話題になった例だけにそれを適用するのでは何の意味もないと思う。声を出して注目を浴びた人々だけが恩恵に浴せるというのでは、静かに従った人々が馬鹿を見ているわけで、万人のための法律の意義は無くなるのではないだろうか。この辺りの話、また、いつか続きを書くことにしようか。

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3月25日(木)−目移り

 卒業となれば、次に引っ越しがやって来ることも多いだろう。そろそろ引っ越しのトラックがわが物顔で駐車して、交通の妨げになることが多くなる季節だ。自分の時も含めて仕方がないと思うことにしているが、それにしても傍若無人としか言えない場合もあって、無性に腹が立つことがある。
 引っ越しのためだろう運送会社のトラックがアパートの横に止めてあった。そろそろ学期末なのだろう、小学生がえらく早い時間に帰っていて、後の扉を開けっ放しにしたトラックを覗き込んでいた。普段なら閉まっている扉が開いていれば、中に何があるのだろうかと興味を持つのはある意味当たり前である。こちらは車を走らせていたから、チラッとしか見えなかったが、興味深そうな雰囲気が漂っていた。単なる思い込みなのかも知れないが、子供はかくあるべきものと思う。周りの事物すべてに興味を持ち、眺めたり、手に取ったり、嗅いだりして、どんなものかを確かめる。植物ならばまず危ないことはないが、動物だとうっかり手を出せば傷つくこともある。そういうことを試すことによって、いろんなことを学び、手を出すことの危険性を認識するのである。たとえば、高層のアパートのベランダから下を覗き込むことはあまりに危険だから、まず試させてからというわけにはいかない。そういう極端な場合にはこれまた当然のごとく親が注意を促す必要がある。しかし、すべての事柄に関して事前に判断してやることは危険回避に役立ちそうに思えるが、実際には自己判断を妨げる結果を生み逆効果となる。一部の親子関係にはこんな図式がぴったりと当てはまり、親の顔色ばかり窺う子供を作りだすことにある。親子が永遠の続く関係ならばいざ知らず、どこかで断ち切るべき、あるいは別の親子関係を築くために変えねばならないものだから、極端に密接な上下関係として形成すべきものではないだろう。何にでも興味を持つ子供というのはある意味危険であるが、それをうまく見守りながら良い方向に向かわせることが親の務めなのではないだろうか。虫を毛嫌いしている母親にとって、狩ってきたネズミを飼い主に見せに来るネコのように、いろんな虫を見せに来る子供はとんでもない存在と思えるのかも知れないが、ちょっと我慢して相手をすることが必要だろう。土いじりをすれば手が汚れて、そこに黴菌がいれば病気になると思うのも勝手だが、そんなことを言い出せば無菌室で子育てをせねばならないことに気づいて欲しい。ちなみに、黴菌はある生き物を言い表した言葉ではなく、カビと細菌を合わせて表現する一般に使われる言葉で、正式な学術用語ではない。最近は魅力的なものが増えすぎて、興味が散漫になり、子供たちは不幸な境遇にあると指摘する人々がいるが、一方でゲームのようなものに集中しすぎて、他のものに対して興味を持つ機会がなく、不幸になっている場合もあるのではないだろうか。何にでも興味を持つというのは散漫を意味しており、広げたうえでどこかに収斂するのが通常の道筋と思える。その意味では、一部に興味を固定させることの方がさらに悪い結果を生むのではないだろうか。まあ、大人も子供も魅力に打ち勝てないことが多くて、反省しきりになるのだが。

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3月24日(水)−表出

 町中を歩いていると、着物や袴姿の若い女性を見かける。そろそろそんな季節なのかと思いながら見ているのだが、男性の方はほとんど目立たない。卒業式に出るからといって、紋付き袴を付ける男はまずおらず、無難なリクルートスーツで身を固める人が大部分なのではないだろうか。女性の方も和服姿は少なくなり、こちらも目立たぬようにしているようだ。
 卒業式といえば、やっと手にいれた卒業証書を持って、お世話になった先生にお礼を言いに行くというのが当たり前と思っていたら、どうもそうでもないらしい。いつ頃からどこで始まったものなのかさっぱりわからないが、最近は謝恩会なるものが多くの大学で開かれるようになった。少なくとも、昔の世代には聞きなれぬ言葉で、何をするのかさえ想像がつかない。話を聞くかぎり、世話になった恩師をパーティーに招いて、感謝の気持ちを表現するというものらしいが、言葉だけで済ますことに違和感を持つ人がいることに不思議な気がしてしまう。はじめの頃は、おそらく有名私立女子大学辺りで行われていたものだと思うのだが、マスコミに取り上げられるようになってから、いろんな大学で開催されるようになったようだ。性質からして、学生が主体となって開くものであり、大学側からは何の関与もない。しかし、テレビなどで取り上げられるものを見ていると、一流ホテルで着飾った学生たちが、といった印象があり、舞台を整える必要性が感じられる。下世話な話題になってしまうが、一体どのくらいの経費がかかっているのやら、貧乏学生にはとても大きな負担に思えてしまう。金のない人は感謝もできないということなのかというのは、余計な心配なのだろうか。それでも、景気の良かったころに比べれば、ずいぶん縮小してきているのだろうが、どんなものだろう。そういえば、どこかで聞いた記憶があるのだが、小中学校の卒業式のあと、父兄、と言っても中心は母親だろうが、が主催する謝恩会が開かれるという話があった。子供たちを無事に卒業させてくれたことに対する感謝ということらしいが、このことにも理解できないという気持ちを持った。言葉でなく、何か物で感謝の意を示さねばならないという考えがあるのかどうかわからないが、そんな席を設ける必要がどこにあるのだろうか、まったく理解できない。中元や歳暮を担任の先生に贈ることは個人的なことだからと禁じられて、こういう形式で全体で行うことは構わないというのは何だかおかしなことのように思える。個人的な企みは良くないが、全体的なものは良いというのだろうか。感謝の気持ちを一言表せばいいと思う人がいても、そういう集団行為の中ではまるで裏切り者のように扱われるのではないだろうか。こちらの方も最近はあまり聞かなくなったから、少なくなっているのかも知れないが、気持ちの表し方の難しさを感じてしまう。

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3月23日(火)−不変

 春は本当にやって来るのか、と思えるほど寒い日が続く。さすがに大雪とはならなかったが、車の上には少しだけ積もっていた。東京での桜の開花宣言が嘘のような天候が続くが、それでもちゃんと春はやって来ているというのだろう。草花の方は、人間よりもずっと落ち着いているように見える。
 テロ不安など政治、経済情勢が安定しているとは言えない状況が続いているが、春先はいろんな指標が発表される。土地の価格の発表があったが、依然として下落傾向にあり、一部の地域に限って上昇が見られたり、下落の割合が小さくなっているだけのようだ。こういう指標が発表されるたびに、景気の回復はまだまだ先のこと、という印象が植え付けられるが、実際のところはどんなものだろうか。バブル期のことなど、誰も思い出したくないのかも知れないが、当時の地価の上昇は天井知らずと思われた。現実にはそんなものは存在せず、天井に達した途端に大きな反動に襲われ、地価に関してはその後の低迷期が続いている。上昇期に先行組と追随組があったように、下降期にもそんな区分けがありそうだ。こういった傾向は様々なものに現れていて、まるで景気回復の兆候が一部の大企業から現れ、他の大企業、中小企業という順に広がっていくのとよく似ている。都心の一部には既に地価の上昇が始まっているところが見られるが、それらは何かしらの話題になっているところで、毎日のようにマスコミに取り上げられている。一種の宣伝効果が上がっているわけで、目玉となるものが一つ出てくるだけで、他のものまで引きずられるようになるのだ。こんな流れはバブル期にもあったわけで、全国レベルでのバブルと、地域限定のバブルの違いと言えるのかも知れない。そう考えると回復の速度が増せば増すほど、天井の存在が意識されるようになり、早晩どこかに落ち着くか、再び下降に転じるか、どちらかになるのだろう。こういう流れを追いかけるように、注目されている地域での住宅建設が盛んになるようだが、これだってすぐに供給過剰になるわけだし、数年経てばバブル価格だったと言われるようになるのかも知れない。投資の対象として考えたら、いかに先行逃げ切りを実行するかが肝心なところで、話題を追いかけているようではまたババを引かされる羽目に陥りかねない。資産運用などと言われるとつい手を出したくなるものなのかも知れないが、そこには常に落とし穴も待ち受けており、ちょっとしたことでこういう流れが逆向きになる場合もある。何しろ、テロが一つ起きるだけで、様々な影響が全世界的に広がり、それによって地域限定のバブルもはじけてしまうかも知れないのだ。まったく、難しい世の中になったものである。上昇要因は数少なく、下降要因は数限りなくある。そんな中で安定を求めれば、結局のところ今のまま暮らし、何も変わったことをしないのが一番なのかも知れない。それではつまらないという思いのある人は、試してみるしかないのだろうけど。

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3月22日(月)−匿名

 本の話題となるとやはり何とか賞というのが一番注目されるのだろうか。ちょっと時間が経ってしまったが今回の芥川賞は、史上最年少、それも女性二人ということで話題になっていた。当然ながら本の売れ行きも好調なようで、こういう形で注目を集める必要があるのかも知れない。それまでの記録保持者からは色々と文句も出ていたようだが。
 書籍に関して注目を集める賞の多くは、小説に対して送られるもので、大きく分ければフィクションということになる。一部のものを除き、何もないところから何かを作りだす作業は特別な才能を必要とするのだろうし、多くの著作を世に出すとなればさらに大きな困難が待ち受けている。いろんな悩みを抱えた人も多く、芥川賞のような新人賞を受けた人たちの中にはその後名前を見かけなくなった人もいるようだ。創作とはそんなものだと言ってしまえば簡単だが、そういうものを好んで読んでいる人たちからすればこういう人の存在は重要なのだろう。その一方でノンフィクションと分類される書籍も沢山世に出されている。こちらの方は事実に基づくものだから、まったく新しいものを作りだす必要はないが、逆に事実をどういう形で伝えるかが問われるようになる。事件の詳細を伝えるものとして新聞の存在があるが、それに比べると本という形式で世に出てきたものはもっと細かな点が伝えられるだけでなく、そこに関わる人々の心の動きや歴史などの様々な背景が加えられるから、その構成によってかなり違ったものが出来上がるわけだ。事件や主題となる事柄に関わった人々に対する取材から内容を組み立てるのだが、それらをすべて披露することはほとんど不可能である。それよりも取捨選択して、著者の意図するところをはっきりさせるものを並べることが重要である。そういう意味で小説とは違うタイプの創作が必要となるのかも知れない。もう一つノンフィクションと分類される書籍にエッセーがあり、日頃感じること、世に伝えたいことを書き綴ったものが数多く出版されている。どうも先人の思想や知恵を参考に人生を送りたいと思う人が増えているらしく、一部のものはかなりの人気のようだ。それとは別に、明治、大正時代に書かれたものが再び人気を博している例もあるが、最近次から次へと出版されるものでかなり売れているものもあり、著者の人気のほどがわかる。エッセーが注目されているのは、新聞や雑誌を見ても分かり、気軽に読めるからか数えたことはないが、新聞には毎日10近くのものが掲載されているのではないだろうか。但し、その中の一部はエッセーと見なすべきものかどうか意見の分かれるところだと思う。これらはすべて署名記事のようなもので、よく知られた人物が感じたところを記すものである。だからそこには人物的な背景が当然存在し、それとの関わりを含めた形のものがほとんどである。そういうものと比べられるものかどうかわからないが、ネット上に溢れている書き物は書き手の顔も名前も知られていないものが大部分であり、ちょっと事情が違ってくる。どちらが良いとか悪いとかいうものではないが、名前の有無によって責任の有無が決まるわけではないし、内容の質が決まるわけでもない。ただ書き手によっては実像を知られないように考える場合もあり、逆の制限が加えられることも多い。どんな印象を持たれているのか気になりつつも、訴えたいことを書き記す。簡単と思うか、難しいと思うか、人それぞれなのだろう。

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