パンチの独り言

(2004年3月29日〜4月4日)
(もらい事故、過熱報道、節目、詰め込み、蓄財、寝不足、原風景)



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4月4日(日)−原風景

 思いがけなく早起きしたからといって寝不足になるとは限らない。表面的には睡眠時間だけが指標になるのだが、実際にはどんな眠り方をしていたかのほうが重要という話がある。夜中に何度も起きる人、寝言を言い続ける人、鼾のひどい人、いろんな人がいるけれど、結局寝ているときの眠りの深さが問題とのこと、まあ自分でもわからないものだが。
 体調の良いときには様々なことを楽観的に捉えることができるし、実際上手くいくことが多い。風邪を引いたり、頭痛がすると、何か他の事に気を取られる感じがして、どこかで引っ掛かってしまう。歯痛の時に散々な目に遭った人は多いと思うが、痛みに神経を奪われて集中力が低くなった結果なのだろう。単純に体調だけが仕事の効率などに影響を与えるわけではなく、ちょっとした心への影響が様々な副作用を生むことも多い。心配事があったりすればてきめんだが、社会情勢もある程度の影響を与えているような気がする。高度成長期には、ほとんどの人が前向きに進んでいる気持ちになり、後ろを振り返ったり、下を見たりすることは少なかった。しかし、経済成長が止まり、停滞どころか縮小が始まってしまったような気持ちになると、つい下を見ることが多くなったし、後ろを見ることも増えたような気がする。これは個人的なものだけに限らず、社会全体が昔を懐かしむようになっているから、多くの人が同じような感覚を持っているように感じられる。悪いことばかり起こるとつい良いときを思い出すというのは、人生を歩むためには重要なことかも知れない。悪いことをさらに悪く考え、その考えが心の中を満たしてしまうと、どこか別のところに向かって爆発するしかないような気がする。最近はガス抜きなどという言葉が出回るようになったが、まさにそのことを言っているようだ。自分にとって不利なことを他人に話すことで気を紛らわす人もいれば、単に別のことを考えるだけでさらに悪いほうに進むことを避ける人もいる。いずれにしても、一つのことに気を取られているときには別のことが目に入らず、ろくなことが起きないようだ。そんな気持ちでいると昔の光景を思い出すことが多く、マスコミで取り上げられる話題もそういうものが増えてきたような気になってくる。昔は身の回りにごく普通に見られた風景が今はほとんど見られなくなり、そういうものがあったことさえ忘れかけていたところに、目の前にそういうものが紹介されると懐かしく感じる。そんな思いを持ちながらあるテレビ番組を眺めていた。それこそ、子供のころには聞いたこともなかった言葉がその主題になっていたが、そこに展開される映像はどれもどこかで見た記憶がありそうなものばかりであった。便利な生活を追い求めた結果、そういう自然との共存を放棄し、人工物で溢れた町に住むようになってしまった人たちにとって、こういう風景はとても懐かしく思えるものだろうが、では実際にその中に生活の拠点を戻したいと思っているかと問えば、また違った答えが返ってくるだろう。失ったものを懐かしく思い出すけれども、それを手に入れることはまた別のものを失うことになる。どちらが自分にとってより大切なものか、そんなことを考えたとき、画面の向こうに広がる景色は時々眺めれば済むものに思えるのではないだろうか。

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4月3日(土)−寝不足

 いつもならちょっと風が吹いただけで散ってしまう桜の花が今年はしっかり粘っているように見える。開花の時期にもう一度寒くなったのが良かったのだろうか、うまくいけば入学式までもちそうな気がしてくる。ただ、天気が下り坂ということでひと雨来てそれまでなのかも知れない。
 桜に比べると白木蓮の方は雨と風にやられてほとんどの花びらが落ちてしまい、歩道の上で茶色に変色している。それと相前後するような感じで、近くにある枝垂れ桜が赤みの強い桃色の花を咲かせ始めた。もう本格的な春の訪れと言えるだろう。そうは言っても少し雨が降ればまた気温が下がるから、風邪を引かないように注意せねばならない。単身で暮らしていると、少し体調が悪くなるだけで、あっという間に落ち込んでしまうことがある。低空飛行だから体力や気力を下げないように注意することが肝心なのだが、何にどう気配りするのかとなるとさっぱりわからないものだ。一方、春は気持ちの起伏が激しくなるのだろうか、明るい気持ちになる人もいれば落ち込んだ気持ちになる人もいる。ちょっとしたことで、稜線からどちらかに転げ落ちるように自分では止められない状況に陥る。周囲の人々がそれに対して気を遣ってくれると、いろんな意味で助かることが多いが、そうもならないときもある。特に季節物の場合、皆が同じような状況に置かれているわけだから、他の人に対する気配りをする余裕など無い場合も多いし、逆に攻撃性が増してしまい落ち込みを後押ししてしまうこともある。様々な花たちが咲き始め、気温も上がってくるから、精神的に高揚することが多いはずなのだが、その変化についていけずに落ち込む人もいるわけだ。新しい生活を始める人にとっては、さらにその上に別の変化が被さってくるわけだから、難しさが増してしまう。それだけ精神的な疲労が蓄積するわけで、何とかそれを取り除く術を手に入れないといけないのだろう。そんなことを思いながら春について考えてみると、春眠暁を覚えずという言葉が思い出される。いくら眠っても寝足らない気がするといったところなのだが、逆に見れば春には良く眠ることが大切という意味にならないだろうか。様々な変化に対して、精神的にも肉体的にも適応するのがやっとという状態で、それらによって生じた疲労を取り除くのに一番の方法は睡眠というわけだ。そう考えると、仕事中に欠伸が出るのも仕方がない気がしてくるし、電車やバスの中で居眠りする人が増えるのも当然のことに思えてくる。いろんな変化に思い悩むことも大切なことなのだろうが、その一方でしっかり睡眠をとることを忘れてはいけない。これは何も仕事中や教室での居眠りを推奨しているわけではないから、誤解しないように願いたい。

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4月2日(金)−蓄財

 年金の問題で世の中は賑やかになっているようだ。老後の生活に直結する話だから、無視できるはずはないというのが、肝心なところである。個人的にはこの国の健康保険制度と年金制度は制度的にはとても良いものに思うが、最近の動向を見ていると表面と中身の違いの大きさが問題になっているようだ。
 数十年前に学生をしていた頃、バイトで稼いだ金をせっせと貯金していた。当時の利率は5%を超えていたはずだから、ただ預けているだけで金が増えるというとても魅力的なものであった。しかし、その後の移り変わりは周知の通り、なんだかんだと言っているうちにどんどん利率は低下し続け、ほとんど無いに等しいところまでやって来た。それに対して手数料なるものが設定され、利率の低下に伴ってその金額の大きさが重要な意味を持つようになった。そういう世の中の流れは、資産運用という形で預貯金とは異なるものに金をつぎ込むことを促すようになり、老後の生活を支える手段として大切なものという認識が広められた。ただ、そういう動きの中で不安定な対象に投資した人々は、ある時期を境に明暗が分かれてしまったようだ。株に対する投資もそういうものの一つで、昔から一部の人たちの間では行われていたが、土地などと同様に天井知らずという思い込みが広がるとともに一般の人々の間にまで流行していったようだ。その結果は、一部悲惨なものであり、一部明るいものであったのだろうが、他の投資と比べても同じような傾向にあったから、全体的な風潮だったとして片付けられることが多い。自分の持っている金が増やすことに興味の無い人はほとんどいないという仮定から、資産運用は重要な事柄という扱いが今でも続いており、特に年金制度が危ういものとなり始めてからはその勢いが増しているように感じられる。しかし、この辺りの動きに疑問を感じている人もいるのではないだろうか。預貯金のことを考えれば、自分が働いて手に入れた金の一部を積み立てていくわけで、それを使わなければ積み立てただけ資産は増えていく。それは利率のあるなしに関わらず、積み立てという行為によってだけでも増えるものである。それにさらに利息という形で加わる金の量が減ってきたわけで、積み立てられたものが自動的に減っていくわけではない。日々真面目に働いて、それによって得た金の一部を老後のために残しておく、という考え方はどこも間違ったものではないが、資産運用という立場から見るとどこかが間違っているような印象を与える。せっかく資金を殖やすことができる機会があるのに、それを自ら逃す手なぞあるものかとでも言わんばかりなのだ。今でも、資産運用の手引書を見ると、預貯金、株式、その他に対する運用の仕方を、年齢によって説明したものがあるが、別段その通りにしなければならないものではない。また、自分が貯めようとする金だけでは不十分であるという考えがあるとしたら、それは端から不十分なわけで十分にするような努力が必要だろう。確かに、運用によっていろんな可能性が広がることは事実だが、それをしなければ生き延びられないという考えを説くのはおかしい。極端に言えばタンス貯金でも、瓶に入れて床下に置いておいても、いいのである。地道に生きようとする人々を冷たい目で見るのはどこかずれているように思うのは、こっちがずれているからだろうか。

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4月1日(木)−詰め込み

 誰にでも当てはまる話ではないが、子育てをしているときによく言われることに、二歳の子供と三歳の子供の違いがある。一歳までは動きも少なく、言葉もあまり出てこないから手がかからないのに、二歳になると行動範囲の広がりと言葉の習熟からいろんな意味で手がかかるようになる。それが三歳になると理解力が増すことで、更なる変化があるという。
 理解力は、論理が成立していれば納得が得られるからとても重要な力の一つとなる。また、相手のことを察する気持ちがそれに加われば、いろんなことを学ぶことができるので、親の側から見ればいろんなことを教えやすくなるわけだ。そんな経緯があるせいなのか、何事にも納得が重要であるとする人々が多い。しかし、何かを習い覚えるときに、何故とかどうしてという疑問を挟まずに、単純に取り組むことが必要な場合が多いことを忘れていないだろうか。繰り返して覚え込むという方法をとる場合、その途上で疑問が浮かんでしまうと、単純な反復が妨げられることが多い。それでもさほどの障害もなく、達成できる子供もいれば、疑問にばかり集中してしまい、結局何事にも中途半端になってしまう子供もいる。どちらの子供にしても、疑問が出てくるのは何かを納得したいからなのだから、それが障害になるとしたら、疑問を出させないことが重要と言えないだろうか。こう書くといかにも無理矢理覚え込ませて、泣こうが喚こうが反復練習をさせるのが一番と言っているように聞こえるかも知れない。ほとんどそれに近い部分もあるが、明らかな人権蹂躙を実行せよというつもりはない。しかし、物事を覚えるとき、習うときに、自らの立場をある場所に置かねばならないことも多いのではないだろうか。子供にとっては、他にいくらでも楽しいことがあるから、押しつけられたことはすべて拒否したいのだろうから、何の押しつけもなければ単なる放置となり教育とは呼べない代物になってしまう。ある程度の楽しさは、やっていることの楽しさよりも、達成感による楽しさで得られるとするほうが良いような気がするのだ。何事にも納得、理解が必要であるとする人々は、いろんな形で子供たちにわからせようと努力する。このやり方はいかにも正しいように思え、それを実践している人も多いだろう。しかし、これらの人々が納得、理解した事柄は多くの場合、習うときに得たものというより、身に付けた後に気がついた理由付けのようなものなのではないか。もしそうだとしたら、いかにも意味のある、納得しやすい理由でも、対象となるものをきちんと身に付けた後でこそ、意味を持つものがほとんどであるように思える。教育において、常に理解が必要とした上で実践しようとすれば、様々な障害を越える必要がある。それに対して、無理矢理進めることとすれば、いかにも理不尽に思えるが、障害の高さは意外なほど低くて済むのかもしれない。漢字を覚えるときに何かのこじつけがないとできないとする人がどれだけいるのかわからないが、算数では何かが無いとする人が多い。この違いはどんなところにあるのかはっきりとはわからないが、円周率の問題も、台形の面積の問題も、理由ばかりに囚われていて、進めない子供が沢山いるとしたら、そこに意味があるのかどうか。パンチの場合、台形の面積を求める式が何故あんな形をしているのか理解したのは、ずっと後のこと。知らないから覚えられないというものではないと思う。理解、納得ばかりを連呼することの意味の有無を考えさせられるものの一つのようだ。

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3月31日(水)−節目

 季節の変化は急激なもの、と頭ではわかっているつもりでも、体の方はついていかない。暖かくなったり、寒くなったりを繰り返していくうちに本格的な春がやって来たようだ。まだ全国なものとは言えないが、それでもこの辺りの桜は満開に近づき、少しくらい風が吹いても寒いとは感じないほどの陽気になってきた。
 いよいよ新年度を迎えることになり、関係のあるなしに関わらず、国の機関の法人化が毎日のように報じられている。大学の法人化が何を生み出すのか期待半分もなく、皆冷ややかに見ているだけだろうし、病院の法人化はサービスの向上などと訴えて、クレジットカードの使用が可能になることを主眼に置くようでは、患者主体の業務にとって何が重要なのか、さらにわからなくなる。変化を促すという意味での一連の改革はある程度の効果を上げているのかも知れないが、意味のある効果かどうか疑わしいのは共通認識の一つなのではないだろうか。こんなことばかり書いていると、相変わらずの文句の連呼になるだけなのだが、どうもこのところの情勢を見るかぎりそういう材料の枯渇は望めない。批判が無くなれば安定した上質の生活が送れるかといえば、そんなわけもなく、やはり何らかの変化を促す意味での批判は必要なのだと思う。これは別に自分の意見を正当化しようとするものではないが、全体の流れに乗っていれば安心と信じている人々にとっては耳障りな雑音にしか聞こえないのではないだろうか。流れが速度を増せば喜び、流れが絶えてしまうと叫び、逆に流れ出すと恐怖に顔を引きつらせる。そんな行動をしていても、皆と一緒ということが重要と思う人たちにとって、流れを妨げる要因となりそうなものは邪魔者としか思えないのだと思う。それにしても、その流れを作っているのがどんな種類の人々なのか、こういう人たちは考えたことがあるのだろうか。全体の流れは自然にどこかから湧き水のように湧いてくるものと思っている人には、どうでも良いことなのだろうが、気になる者にとっては非常に引っ掛かるものである。情報操作の一種なのかも知れないが、最近の流れはそうとしか思えないものがかなり多く、ちょっと不安になるところがある。この独り言を書き始めてからこれで丸二年になるが、結局のところ文句を垂れる日が圧倒的に多かったのではないだろうか。楽しい話をすることも重要だと思うけれど、人の愉しみを聞いてもつまらないと思う人間にとっては、それよりも人と違う見方を示すことの方が大切だと思える。これから、同じことが続くのかどうかどこにも保証はないが、いずれにしてもそんなに簡単に方向性を変えることなどできない。次にはどんなことが起きるのか自分でもわからないが、こんな書き物を続けるのがやっとのようである。また、新しい批判の対象を見つける前に、さっさと今日の分は終わらせておくことにしよう。

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3月30日(火)−過熱報道

 報道には公共性があると言われる。公共性の有無が報道の意義にある程度の影響を与えるというものだが、昔から議論されている割に、出歯亀的な記事の数は減らない。法的な制限をかける動きもあるが、結局情報の送り手と受け手の両方に何らかの良識を期待するしかないようだ。
 噂話を情報として送りだすことの意味は、送り手にとっては話題性の有無によるわけで、それが結局公共性と同じ意味に解されているようだ。ということは、噂程度のものかどうかは問題ではなく、受け手の関心が得られるかどうかが問題なわけで、そこには事実の確認というものは必要とならないようだ。書いてしまうと簡単なことだが、実際には近所の噂話と変わりないものが流布されるわけだから、渦中の人々はたまったものではない。しかし、古今東西人々はそういう話に興味を抱いてきたから、こういう流れが絶えることはありそうにもない。そういう中で、法的な制限を加えれば、権利主張が前面に出てきて、それ以上の議論は起きそうにもない。問題は別のところにあるのだが、良識という得体のしれない代物に任せることで、別の次元に運ばれてしまい、権利の議論と同じ場には出てきそうにもない。少し違う話なのかもしれないが、最近の報道にも過熱と思えそうなものがある。製造物に対する責任の一つについてのもののようにも見えるが、実際には少し違った側面がある話だ。車輪の離脱についての報道は、初期段階での報道の不手際があったと結果論的には言えそうな気がするが、その辺りの真相は闇の中だろう。実際には企業の責任を追及することでその役目は完璧に果たしているという主張が出てくるだけだろうから。一方で、このところそこら中で報道され続けている回転扉の話の方は、すさまじい勢いで企業の責任を追及している。この報道を見ていて不思議に思うのだが、死亡した子供の責任、あるいは親の責任はどんなものだったのだろうか。この国では被害者はあくまでも被害者であり、その責任を問うてはいけないという不文律があるからだろうか、今までのところそういった話題はまったく出ていない。その代わりに、扉の製造者と管理者に対する責任追及は激しいものになっている。車輪の話と扉の話は、企業の責任を問う点では同じ話題のように思えるが、事故の性質からするとかなり大きな違いがあるのではないだろうか。どこかから勝手に飛んできた車輪で轢き殺された人と、扉を通ろうとして挟まれて死んだ人、同じ状況にあると言えるのだろうか。こんなことを書けばいろんな反論が出てくるに決まっている。それを覚悟して書いておきたいのは、子供を見守る責任はどちらの親にもあったけれども、それはどんな形で果たされたのかということである。安全性を高める努力をするのは製造者の責任であることに異論を唱えるつもりはないが、道路で飛びだそうとする子供を親が止めるのは当たり前で、一人で走り出す子供を止めなかったのは仕方がないとする勢いに疑問を持つだけである。危険を予知できなかったとすれば、それは何を意味するのか。報道のあまりの過熱ぶり、集中砲火ぶりを眺めるに、こういう勢いだけの行動を冷静に分析する気持ちを忘れることの方が、言論弾圧より恐ろしいことを生み出すような気がしてしまう。

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3月29日(月)−もらい事故

 交通事故の話題が新聞に載らない日はない。このところ死者の数は減り続けているとはいえ、何千人もの犠牲者が出ているわけだから、一日当たりの数を考えれば当たり前のことだろう。事故を起こしたことのある人からすれば、事故は過失もあるが、偶然の重なりとしか思えないことも多い。運が悪かったとは被害者の側からすれば言われたくないことなのだが。
 その一方で、偶然と片付けてしまうには無理のある事故がある。過労運転や飲酒運転などは明らかな過失があり、事故が起きなかったのは単に運が良かったからだけということになる。そういう事故に巻き込まれてしまった被害者はたまたまそこに居合わせただけで、何の過失もない場合が多いから、余計に腹立たしくなり、加害者に対する怒りがおさまらないのだろう。ただ、事故の性質によっては、その被害が大きくなる場合とそうでない場合がありそうだ。以前報道された事故の中でも、大型輸送車の引き起こしたものの被害の大きさには驚かされる。特に、渋滞などにより停車していた車の列に後から突っ込んでいく事故の場合、車体重量が大きければ大きいほどその被害は大きくなる。死者が出た事故のあった現場を通るとわき見禁止といった注意を促す看板が出ているが、過労運転をしている運転手に対して効果があるのかどうかわからない。料金所の存在が渋滞の原因だから、その点の解消を図ることが重要だと思えるが、現状を見るかぎりその対策は不十分なようだ。高速道路の終点での事故の多くはこういった渋滞最後尾の車への追突であり、前方不注意が直接の原因とはいえ、渋滞解消の対策の不備も指摘されるべきだろう。これが構造欠陥であるとするのは簡単だが、どういった改良が効果を上げるのか明確になっていないために、欠陥と片付けるわけにもいかないところもあるのだろう。これとは別のものだが、道路の構造から来る問題に対面通行がある。高速道路を運転していて、安全を実感できるのは、対向車がいないからという話がある。確かに渋滞に突っ込んだ場合被害が大きくなるが、そういう場合を除けばどの車も同じ方向に進んでいるから、相対速度は大きくならない。このことは高速道路を逆行する車が起こした事故を考えればよくわかる。サービスエリアやパーキングエリアから、ちょっとした勘違いが元で逆に走り出してしまう車があるという。構造的な問題が指摘されることも多いが、その事故を起こした人の多くが死亡しているから、勘違いの原因はわからないままなのだろう。そういう場合を除けば、高速道路では前から来る車に注意を払う必要はない。しかし、建設途中の道路に限っては道路を早く使えるようにという配慮から対面通行による開通が図られる。便利になるようにという考えがあるのだろうが、ちょっと走ってみて恐怖を覚えた人もいるのではないだろうか。事故が無ければ何の問題もないが、一端事故が起こると両方向の通行が妨げられることが多く、無関係の人々にも被害が及ぶ。安全に走っていれば問題ないと言われても、何となく信用できない気がするのだ。二車線あることによって、何かの際にも回避できる場合も、対面通行では困難となる。確かに、不十分な形でも通してくれることによる恩恵は大きい。しかし、何かあれば、どうにもならない。こういう部分の責任はやはり運転者が負うのだろうか。この構造もまた渋滞のきっかけを作ることになるから、別の意味の危険性も孕んでいるのだ。まあ、世の中に車ほど便利で危険なものはないという話もあるが。

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