今年の桜は例年になく長持ちしたように思う。開花する時期に少し冷え込んだのが原因かも知れないが、愉しみは長いほうが良いというのがよくわかった。と言っても、いつかは散りゆく花である。周辺の並木はもうすっかり葉桜となってしまい、さて次の花は何かなと見回す時期となってきた。
桜前線の北上の速度が急に速まり、もう既に本州の北端に達しようとしている。同じように、山々では麓の方から咲き始め、山頂に向って上昇の勢いを増しているようだ。昔から、人々は山の稜線に桜の木を植え、なるべく長い期間花を愛でることができるような工夫をしていたようで、そんなことで有名になっているところもある。今年は麓でも咲いている期間が長かったから、まだ大丈夫かなという期待を持って、そんなところへ出かけてみた。上中下の千本と更にその奥に千本といった形で呼ばれている桜の名所には毎年沢山の人々が押しかける。元来信仰の山であったはずだが、最近はそんなことを微塵も感じさない人々がやって来るようになり、道のあるところ車のいけないところはないといった感じである。便利とか楽とかいう言葉が信仰という守り受け継がれてきたものを蔑ろにしていると受け取るべきか、はたまた信仰などは既に忘れ去られたものと受け取るべきか、まったくわからないが、こちらは麓から徒歩でよろよろと山を登っていった。予想通り、下の千本、中の千本はすっかり葉桜となっており、一部に山桜と八重桜が咲いているのみだ。そんな状況では花よりだんごが前面に出てきてしまい、道沿いの茶店で売られている草餅、わらびもちなどに目がいってしまう。それでも上の方に行けば何とか、という期待も見事に裏切られてしまい、かなりの距離を登ったにも関わらずわずかに残る山桜の花が神社の前にあっただけだった。上の千本までの道程は険しく、バスも運行されていたがせっかくということで登り続けた。その甲斐は桜の花とは別のところであって、山の中腹から見渡す麓の新緑に溢れる景色は見事だった。これに桜の花が加わればと思っても、まさに無い物ねだりであり、十日ほど早く人込みの中を登らねばならなかったのだろう。神社を越えて更に奥へと歩を進めたのは、最後の期待の奥の千本を見るためだったが、こちらは山桜がほとんどで花の数も少なくいささかがっかりさせられた。旅に生き、旅に死ぬといわれた僧侶の庵がひっそりとした雰囲気を出していたが、笑いかけた膝には帰りの道が気がかりとなっていた。幸い帰りの最終バスに乗り込むことができ、立ったままで曲がりくねった道に振り回され通しだったが、何とか無事に麓の駅に辿り着くことができた。桜の時期が終わってしまったとはいえ、それなりの人出で賑わっており、遊園地などと違いこういうところはまだまだ衰えないものだという思いがよぎる。とは言え、季節ものであることには違いがない。戦国武将も愛した桜も、時期が外れてしまえば山の木々の一つに過ぎないのだろうから。
事件が起こるたびにハゲタカかハイエナのように振舞う人々にとっては、その重要性や本質などどうでもいいことなのかも知れない。世の中には事件と呼べるものが溢れているから、次から次へと標的を見つけ出し、それを連日のように熱く伝える。解決しようとは一切思わず、ただ熱烈に訴え続け、次の獲物が来るのを待つ。
こんな表現が当てはまるのかわからないが、そんな印象を持つ人は他にもいると思う。回転扉の話がどこへ飛んでいってしまったのか、それより重要な、と言うより人目を集められる、事柄が起きれば、すぐにそっちへ乗り換えてしまう。そんな流れに流されてしまう人々は不幸かも知れないが、当事者でもないのにそういう流れに乗ってしまう人がいたとしたら、それは不幸でも何でもないだろう。世の中には危険なものが溢れているのは周知のことと思う。しかし、現実にはそうではなく、危ないものには札を付けよとか、全体安全なものを作れとか、危ないところへ行かないように法律を作れとか、まったくどうなっているのか、自分で自分の身を守る気持ちや何が危険かを考える頭をどこかに忘れてきてしまったかのように思える。便利なものには危険が伴うと考えていた時代には、色んな形で自己防衛手段を講じるようなところがあった。しかし、国民の安全を守るのは政府の仕事などと論じる人たちが出てくると、それをどこまでも広げてしまう動きを促すことになってしまった。法律で雁字搦めにされることを何とも思わない人々は、それが安全に繋がると信じているらしい。ちょっと道に出てみれば、とても便利なものに遭遇する。何か一つ思いついたものを、と言われても答えにくいかも知れないが、ここで話題にするのは車だ。とても便利なものだが、年間数千人の死者を出す凶器でもある。危険と言われて話題になっているものとは比べ物にならないほど危険な凶器である。しかし、それらを撤去せよという話は出てこない。便利すぎて生活に無くてはならないものになっているからだ。その代わり、車を運転する人には免許という形の特権を与える形である程度の修得を義務づけているし、道を歩く人々も信号を守ったり、横断時には左右を注意することを習慣としている。何気ないことだから意識していないが、そういう形の自己防御を身に付けているのである。それでも、無茶な運転をする人がいれば事故が起きるし、犠牲になる人も出てくる。これは何も若者や暴走族に限ったことではない。先日、目の前を走っていた車には老人を示すものと身体障害者を示すものが貼り付けてあった。これは何を意味するのか、人によって解釈が違うかもしれない。しかし、その車は三台前の車が通るときに赤になった信号を何の躊躇いもなく走り続けていった。その瞬間、二つのステッカーは権利主張のように見えてしまった。あの運転者にとって義務はどこかの引き出しにしまい込んであるものなのかもしれない。権利のみが大手を振って突き進んでいくといった感じに思えた。この国はそういう国になってしまったのかもしれないと。
小学生のころエジソンの伝記を読んだら、彼は子供のころに「何故?」といつも聞いて回っていたとあった。母親はそれでも自分の子供のことだからそれなりに答えてやっていたが、学校の先生はそういうわけにはいかなかった。授業の妨げになるということで注意され、結局は学校をやめたとあったような記憶がある。
いろんなことに疑問を持ち、取り組むことは、あの時代には評価されなかったのだろうか。教師に教えてもらうのは単なる受け身であるべきであり、生徒が自分の方から積極性を見せてはいけなかったのだろう。今の教育体制を見ていると、どうもそうではなくなっているようだ。疑問を持つことの大切さ、自分で何かに取り組むことの大切さがかなり強調されていて、そういうことをすることが人間形成にとって最も大切なことであるといった話が巷に溢れている。だめと言われるとつい逆らいたくなるのが子供の習性なのか、言うことを聞けと言われた時代にはそれを無視したり、勝手な行動をしていた子供がたくさんいたように思うが、どんどん自分たちで考えろとか、自らの力を使えと言われると、皆と一緒の行動をとろうとするらしい。どちらが良いのかわからないが、大人に逆らうことは成長するうえで欠かせないことの一つなのかも知れない。そんな世の中の流れに従っているわけでもないのだろうが、あらゆることに理由とか原因を求める風潮があるようだ。いわゆる説明責任のようなものである。何故うまくいかなかったのか、どうして失敗したのか、悪いほうでよく使われるわけだが、いい結果を生んだときにも説明の必要はありそうだ。しかし、一方で何にでも説明がくっつくことに面倒くささを感じている人もいるのではないか。選べないこと、変更できないことについて、説明してもらってもどうせ変えられないのだからとなると、ブツブツ説明されるのが単にうるさいだけになる。それでも、責任のある側は一生懸命説明するわけだ。こんな状態が長く続くと説明されることに慣れてしまい、大切なことを聞き逃すことが増えてきそうでちょっと怖くなる。もう少し選んでくれないものかと思うのだが、そう簡単にはいかないのだろう。世の中には説明が溢れていると感じたことの一つに、ちょっと変な話だが交通情報がある。高速道路などで車を走らせていると渋滞や工事の知らせが電光掲示板にでていることがある。事前に知らせてくれれば心の準備もできるし、いろんな意味で役立つことが多いのだが、最近それにちょっとおまけとも言える一言が加わるようになった。道路の渋滞にはいろんな原因があって、それによって形態が違ってくることがある。おそらく、その辺りの事情を運転者に知らせようという配慮からそんな一言が加えられたのだろうが、なるほどと思えないものもある。自然渋滞、事故渋滞、工事渋滞、この辺の話はすぐに理解できるのだが、もう一つ別の原因による渋滞が生じることがあるようだ。反対車線が渋滞しているとそれが気になる人がいるらしい。特に事故による渋滞の場合、事故を起こした車の残骸が直後であればそこにあるから、事故がひどければひどいほど興味をそそるものになる。以前は事故によるわき見渋滞といった表現が使われていたようだが、先日見かけたものには見物渋滞と表示されていた。確かにどんな渋滞かがわかっていいのかも知れないが、こんな説明が必要なのかと車を走らせながら首をひねったものだ。事故でなく見物ならば通り抜けるのにかかる時間はそれほど長くないというのだろうが、そう言われてもと思う人もいるだろう。ご親切なことで、といったところだろうか。
この頃、平和ボケという言葉をよく目にしたり、耳にしたりする。戦争の無いという意味だけでなく、危険の無い安全な環境にいることによって、危機回避や争いといったものに疎くなることを指す。この国に限ったことではなく、世界の各所にある感覚のようだ。
平穏無事に毎日の生活を送ることができること自体を悪いと言う人はいないだろう。しかし、そういう生活にドップリと浸かってしまい、他の人々の事情を理解できなくなることを諌めているもののようだ。当然、政治の中心にある人や企業のトップに対して幾度となく浴びせられた言葉だが、一部の人を除けばお互い様なのではないかと思えてくる。程度の違いこそあれ、皆こういう安定した生活を当たり前のこととして受け取り、それを享受している。それだけで惚けているとは言えないのだろうが、その中で他の国で起きたことや起きていることに対して関心を持てなくなったり、対岸の火事程度にしか感じなくなってくれば、やはり平和ボケと言われても仕方のない状態となる。これは何も国際情勢に限ったことではなく、日々の生活にもそんな形のものが現れている。現状維持を第一とし、良くも悪くも変化を望まないという姿勢はこのところ保守的と言われる高齢者層に限らず、これから階段を上らねばならない若い世代の中にも強く現れるようになっている。現状を維持すれば、先人の踏み跡を辿ればいいので、余計な苦労をしなくて済む。ここで変化を促せば、良い目が出るかも知れないが、悪い方に傾く可能性は否めない。悪くなるかも知れないことを始めるよりも、大したことの無い現状を維持する方が楽だし、安心できるというのが彼らの持っている論理のようだ。これは現状が未来永劫にわたって安定して継続するという読みの上に成り立つものであり、安定という意味からすれば平和ボケと通じるところがある。こんな傾向は年齢の上の層から下の層へと広がっており、それは不安定な時代には見られなかったものである。おそらく、やっと安定してきて余生を生きようとするときに求められた現状維持志向と少し違っていて、ずっと安定だから若い頃から長い間の現状維持を求める気持ちからきているのだろう。この傾向の若年化はどんどん進んでいるらしく、今や教育現場の中にまで入り込んでいるように見える。バブル崩壊後の不況から就職事情が悪化し、以前には信じられないほど厳しい環境下に学生は置かれているようだ。そういう中で就職率の低下が問題となっていたが、事情が好転し始めているのに相変わらず就職できない人が減らない状態が続いていると言う。これは求人の増加が景気の回復より一段遅れて進むと傾向を表しているとも考えられるが、一方で学校を卒業する人々の就職意欲が低下したままであるという意見がある。こんな意見を持つ人々からは、就職したくない人々は決断を渋っているように見えるようだ。現状を維持すれば安心だが、自分で何かを決断すると状況が変わり、その結果が自らにのしかかってくるという不安に満ちあふれているというのだ。周囲の変化が激しかった時代には自分が変化しなければ流されるという不安が大勢を占めていたが、変化の無い淀んだところでは動かずに泡沫のように漂っている方が安心となった。では、こんな平和ボケだらけの時代にどんな生き方を選ぶべきだろうか。
新年度に入って二週間である。実際には、三週目となるのだが、会社では新入社員のほとんどは研修中だろうし、学校では今週に入って初めて本格的な授業の始まりというところも少なくないだろう。就職、進学した人々にとっては新たな生活の始まりで、心機一転目の前の課題に取り組もうと心に誓っているといったところか。
新しい生活が始まるとどんな人間でもそれまでとは違った気持ちになるのだろう。古い生活で崩れていたリズムを取り戻そうと努力したり、いろんなことに取り組もうと頑張ったりするようだ。そんな雰囲気が通勤通学の場面でも見られることがある。電車やバスで通っている人々にとっては環境の変化は慎重な行動を引き起こすようだ。朝の通勤通学の足を利用する場合にも、それまでならぎりぎりの時間で良いと思っていたのに、急に余裕をみて電車やバスに乗り込もうとする。ぎりぎりとは人それぞれの判断だから、意外に大きく広がるらしく、乗客の数もそれによって分散するが、慎重をきそうとすると急に一部の列車やバスに乗客が集中することがある。心理的なものだからそれが良いとか悪いとかは言えないが、そうすることによって意外な副作用が出てくる。乗降客が増え、さらに交通機関の乗り降りに不慣れな人が増えるから当然停車時間が想定よりも長くなる。そうなると電車もバスもダイヤどおりには運行できなくなり、原因を作った不慣れな人々だけでなく普段からそれを利用している人々にも思わぬ影響を及ぼすわけだ。それがひどくなると乗り継ぎがいつもどおりにはいかなくなり、結局予定した時間に目的地に着けなくなる。まあ、この時期限定のものだからと諦めるしかないのだが、こういう心理はほんの一週間しかもたないから、結局のところ連休が始まる頃には正常に戻っている。それはそれで迷惑を受けた人々からすれば、ホッとすることには違いないのだが、毎度のこととはいえどうも変なことだと思えてくる。新しいことを始めるにあたって心に誓うものがあってというところまでを理解することはそれほど難しくはないが、そういう誓いがこんなに早く崩れてしまうものなのかとそっちの方が気になるわけだ。直接悪影響が出ないように調整するだけだから、本人にはそれほど大きな影響はないのだろうが、それにしてもせっかく始めた早めの手当てとでも言うべき良い行動を、こんなに早く捨ててしまうのはいかがなものだろうか。ちょっとしたことにすぎず、効率良く生活するためには不要なものという考えから変更するのだろうが、本来の良さを実感する暇もなく、さっさと楽なほうに移るというのはどうかと思える部分もある。まあ、本人の好きなようにということなのだから、他人がとやかく言う必要もないことなのだが、迷惑を受けるのはかなわないとしてもせっかくなんだからと思えてしまう。
少子化高齢化が叫ばれて久しい。健康な生活を送ることが寿命を延ばし、人生の愉しみを長く多く持つことに悪いことなど一つも無いはずなのに、何故だか長生きが先々の心配を大きくしているようだ。一方で、国全体の生産を支えるための新たな人材の供給は子育てへの不安からだろうか、減少し続けている。
こういった変化はいつまでも続くわけではなく、どこかに安定点や転換点が見られるはずなのだが、今のところはっきりとしたものは現れていない。そういう状況では不安を抱くなと説得しても、そういう思いをよぎらす人々を止めることはできない。ただ、こういった思いは心の中の大きな部分を占める人とそうでない人がいて、どこに違いがあるのかわからないが、とにかく両極端な形になることが多いようだ。いずれにしても、減り続けている若年層のことを心配する人がいて、彼らへの期待がさらに大きくなることがある。そうなると、手取り足取りあらゆることに口を出し、足を踏み外さないように配慮し、頼りになる戦力を育てようとする人も出てくる。失敗しないことはいろんな意味で重要なのかも知れないが、自らの力でなく、他人の力で手に入った成功が本人にとってどれほどの意味を持つのか疑わしくなる。特に教育現場では成功体験なるものが重視され、場合によっては間違ったことでも正しいことに解釈するようなことさえ起きているようだ。正しいか間違っているかは、人それぞれの判断もあるだろうから、こういうやり方が一概に誤りとは言えないが、それにしても何かが欠けているような気がしてならない。自分たちに施されなかったものを下の世代に施すというのは、時代の流れとしてよくある展開で、そういう輪廻のようなものがいつまでも繰り返されることで、ある程度バランスのとれた社会が長続きすることになるのかも知れない。それにしても、これは極端に流れすぎているのでは、と思えるのだ。社会が安定してくると、それほど深刻に考えなくても、社会の許容度によって大抵のことが成立する。そんな中で、大いなる実験のような雰囲気のものがこのところ実行に移されているように感じられる。集団教育の現場である学校では、こういう流れが一度動き始めてしまうと小さな修正を繰り返してもそう簡単に元の流れに戻すことは難しい。その中で一人だけ別の方向に動こうと思っても、集団という性質上かなり大きな困難が待ち受けることになってしまうし、最近の子供たちの行動からすればこういう動きはかえって危ない結果を生みだすことになりかねない。教育は学校でという先入観というか固定観念がこれほど根づいている時代も珍しいが、こういう流れを見ていると集団の中で個を見失わないためにも、家庭での働きかけが重要になってくるように思える。教育とは教科を教えることだけでなく様々なものがあるはずなのに、どうもこの辺りもおかしな解釈がまかり通っていることに違和感を覚える。身近なものだけに、その存在をどう扱うのか難しいところもあるかも知れないが、まずはいろんな試みをしてみればいいのではないか。集団を対象とするものより、個を対象とするものの方が、あらゆる面で対応しやすいはずで、そんなに難しく考えなくても何とかなるのではないだろうか。
人質事件の報道で、いろんな疑問を持った人がいると思う。まず、衛星テレビ局の報道の姿勢、いつものことながら迅速な対応で期限設定にも協力しているように見えるのは不思議である。次に、国内の報道の姿勢、人質と自衛隊と焦点をどちらに絞るべきなのか迷っているのか、何とも消化不良のように映った。
初期段階としてはそんな印象を持ったが、世論の流れに合わせようとする動きなのか、はたまた自衛隊関連の話題は断定的な回答により取りつく島を見失ったためなのか、二日目からはとにかく人質関連の話題に集中していたように見えた。驚くべきは、一部の局を除き、どこも同じ顔触れの登場となったことで、特に同時間帯に違う局で同一人物が出ていたように見えたことだ。こちらも混乱していたから、ひょっとすると勘違いなのかも知れないが、あっちとこっちの局の綱渡りだとしたら、何とも理解に苦しむ状況である。利用できるものは何でもという考えが、いろんなところにあるものだということなのかも知れないが、それにしても報道の姿勢としてはたして正しいものなのかどうか、首をひねってしまった。特にテレビの番組に言えることなのかも知れないが、すべてにおいて消費者絶対主義がまかり通っているように見える。消費者が喜ぶもの、支持するものであれば、どんなものでも構わないとでも言うのだろうか。以前どこかの民放がそういう姿勢を明確にしたと友人から聞いたことがあるが、その後も同様の姿勢が保たれ、他局についても右に同じくといった感じだ。人質事件については、いろんな事情から情報が開示されないことが多いが、国内での幼児誘拐などの事件では報道の自粛などの姿勢がきちんと守られている。しかし、今回の場合などは犯人がテレビを利用する作戦に出たことから、初期段階では情報の流れに何の制限も加えられなかった。それでも、交渉を模索する段階に入れば、他の事件同様情報は開示されず、はじめに獲物に食いついた人々はその行き場を失ってしまったようだ。その結果としての報道方針なのかも知れないが、伝えるべき相手は国内だけでなく、あちらの国にもいるわけで、そういうやり方を重視するところがあっても不思議はない。そんな様子を見ていると、やはり消費者相手のと思えてしまうのは、余計なことを考えすぎているのだろうか。情報を開示しないことは一種の言論統制であるなどとは誰も言わなかったが、逆の意味でこの国の状態を危惧するところがある。公共の電波からは何も新しい情報が流れてこないとなれば、どこかアングラ的なものに答えを求めようとする人々がいる。その格好の対象となるものの一つがネット掲示板なのではないだろうか。これも噂に過ぎないのかも知れないが、一部の掲示板では今回の事件は自作自演とする意見が多く出ていたそうだ。真偽のほどを論じるつもりはないが、たとえ真実だったとしてもこの時期に出すことの意味は何だろうと思ってしまう。世の中いろんなことを考える人がいるものだというのは昔も今も変わっていないが、誰でも多数の人間を相手に匿名の持論を展開できるという点では状況は一変している。話題になるからという意図だけでこんな意見が出されるとしたらとんでもないことだが、一部の週刊誌などは既にその域に達している。いやはや困ったものと言っても誰も気にしない。消費者が判断するものだから、自分たちには責任がないという論理がまかり通るからだろうか。