パンチの独り言

(2004年4月19日〜4月25日)
(他者責任、環境保護、万物流転、軌範、売人、最終列車、依怙地)



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4月25日(日)−依怙地

 牛がだめで、鶏もだめになり、ついには豚となってはどうにもならない、などと危惧した向きもあったようだが、結局のところ何がどうしたのやらわからないまま、普段の生活に大きな変化は現れていないようだ。あれほどの大騒ぎは一体何のためだったのか、いつものことながら答えは見つかりそうにもない。
 一部の業界はかなり大きな被害を受けたとして、いろんな形で社会に向けて声を上げているようだが、これまたいつものことながらそういう声に振り返りもしない人々ばかりが目立つ。安い牛肉が入ってこなくなるから日々の生活にも困るはずとか、安い昼食が手に入らないと困る人々がいるとか、そんな話はあったけれども、さて今周囲を見渡してそれほど困っている人々がどのくらいいるのだろうか。こんな騒ぎがあっても物事は必ず落ち着くところに落ち着くとよく言われるが、現状はまさにそのものとなっているようだ。当たり前のことだが、そういう物品を商売の対象としている人々には大きな影響が及んでいる。しかし、国民感情という面から見たら、一部の業者の困窮など大した問題ではないといった雰囲気さえ漂っている。日々の生活は悲鳴が上がっていた時期に考えられたほど硬直なものではなく、無いなら無いなりにという柔軟性を発揮して何とか無難に切り抜けているようだ。長期で見ればこれからさらにしわ寄せがくるのかも知れないが、それとてさらりとかわしてしまいそうな気もしてくる。人々にとってはそんな程度の問題でも、国と国の間の問題としてはかなり大きなものになりつつあることがわかり始めた。いわゆる全頭検査問題である。どこかに意図があるからか、この国では大きな問題として取り上げられているが、あちらではそれほど関心を持たれていないようだ。それでも受け入れ側に流れてくる話としては一部業者の動きなどがあり、国として一枚岩の体制に無いことが伝わってくる。さらに、この辺りの状況は何事にも自由を謳っていた国らしからぬ動きで、行政が個々の企業の動きを厳しく規制する方向に働いているように見える。農産物の輸出入では、同じような話はこれまでにも沢山あり、その度に国際機関の判断を仰いでいたように思う。たとえば、リンゴの話などは国内に無い病気が入ってこないようにという配慮から考え出された規制が意味の無いものとして却下されたが、輸入品にのみ課せられる検査であったから、輸入を制限する手段と受け取られても反論できなかったのだろう。それに対して今回の措置は、まったく違った立場にあると言えるのではないだろうか。ある検査が国内で実施されており、輸入品に対しても同じ検査を課すという決定だからだ。この場合、輸入を制限しようという意図であると結論づけるには無理があるし、安全確保のために必要なことという論理にも国内事情を考えれば無理が無いように見えるからだ。しかし、そういう措置の提案に対して輸出国の機関は違った角度から受け入れの拒否を表明している。それはつまり科学的根拠の問題であり、確率的に「異常に低い」事例に対して、「非常に高い」経費のかかる検査は見合わないというものである。こういう場合に科学は最も信頼のおけるものという認識がなされているが、ことこの病気に関しての科学にはそういう信頼を裏切るかもしれない歴史を持っていることも考慮すべきだろう。確率とは100%ともなく、0%もないものであり、それを根拠に論じることに抵抗を覚える人も多い。本当に食べたいものだからという声はもう聞こえなくなり、ここからは国の意地の問題に発展しそうな雰囲気だ。

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4月24日(土)−最終列車

 車を運転していると酒が飲めない。酔っ払い運転は法律で禁止されているから、というのが理由になっている。程度の問題とは言え、この辺りの規制は国ごとで大きく違っている。特にアルコールの分解が苦手な人の多い国では、より厳しい規制がなされるのは当たり前のことかも知れない。まあ、とにかく宴会などあれば車を使わずにが無難である。
 こういうとき便利なものとして代行運転という仕組みがあると聞く。実際に利用したことはないからどんなやり方をするものなのかわからないが、どちらかというと地方都市で普及しているらしい。公共交通機関が整備されておらず、普段の通勤の足として自家用車を利用するしかないという事情があり、翌日のことまで考えるとタクシーを利用するよりも良いという話だ。はじめのうちは認可制度などもなく怪しい業者も多かったようだが、最近はそうでもないらしい。数社が競合する形で存在していて、いろんな意味でのサービスが整っていないと呼び出しがかからなくなるから、業者としても必死なようだ。特に、酒を飲む場を提供している店と提携することによって、客を確保するなどの営業活動も重要な要素になっているらしい。幸いなことに公共交通機関を利用すればいい状況にあるから、宴会などがある場合にはそうすることにしているが、地方の交通機関は終わりが早くてゆっくりと飲んでいることもできない。逆に言えば深酒もできず、健康に良いと言えるのかも知れないが、たまにはと思うこともたびたびである。そんな事情からよく乗る最終列車には何故だか高校生がたくさん乗車している。彼らは毎日その列車を利用するらしく、お互いに顔なじみなのか、あるいは同じ中学の出身なのかも知れない。違う制服を来ているもの同士が列車の中で挨拶をしている。時々聞こえてくる内容から察するに、それらの男子高校生はすべて野球部に所属しているようで、そんな話題が繰り返されている。それぞれの学校の選手の話題や別の高校の選手の話題、そんなことで盛り上がっているようだ。さすがに上級生下級生の区別はしっかりしているようで、他の高校に通う生徒達でも言葉遣いに注意している様子がうかがえる。運動部ではそんなものなのかと思いながら、短い区間の乗車を終えて降りるのだが、彼らはまだまだ先まで乗っていくようだ。それにしても、あんな時間まで部活動をして、次の日もちゃんと学校に通う生活を毎日続けていくのは大変そうだ。どこかの会社勤めのおっちゃん達も同じような生活をしているのだろうが、同じようなことを思っているのだろうか。楽しみか苦しみかわからないし、生活のためとそうでないことの違いもあるかも知れない。いずれにしても、大変そうに映った。それだけ野球をやることに情熱をかたむけていると思えば、そんなに大したこともないのかも知れないが、だからといって深夜まで活動するのはどうかとも思える。経験者から見れば当たり前のことかも知れないことだが、こちらから見るとそんなものかと不思議に見える光景だ。

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4月23日(金)−売人

 去年のことだったろうか、薬の販売に関して、様々な試みをして、その度に監督官庁から指摘を受けていた会社の話が流れていた。薬事法なる法律によってかなり厳しい制限がなされているので、ちょっとしたアイデアを実践するというわけには行かない状況のようだった。便利さを優先することで危険性が増すとしたら、どうすべきかという問題が提出されている感じだった。
 その後、時々状況の変化が報じられていたが、最近はとんと聞こえてこなくなった。実際に店に行ってみてくればどんな状況なのかわかるのだが、結局面倒だからそんなことはしていない。海の向こうの事例を引き合いに出し、危険のないことを強調したとしても、この国のことだから何かが起きれば集中砲火が待っている。何しろ、議論の途中では賛成するような意見を出していた有識者までが一度に反対が当たり前の立場に乗り移るわけだから始末に終えない。実際にはそういう事件が起きたときの被害者は買った側になるわけで、公に認められたことに間違いはないという気持ちでいるはずだ。そんなことで大騒ぎが起きているころから、別の形の不穏な動きが表面化している。毎日送られてくるゴミメールの中に、薬の販売を謳ったものが増えてきているのだ。性的不能を治療する薬として一時期話題になったものなどは、国内では処方箋がないかぎり購入できない。しかし、一部闇の市場で売られていることが話題になるくらいで、外国から直接輸入する場合にはその限りではないという解釈もできるらしい。そういう立場に立ったものなのだろうか、非常に多くのメールが処方箋無しでの購入を訴えかけてきている。個人輸入とか、並行輸入とかいう方式をとった場合、販売を目的とした輸入ではないから、一般の旅行者の外国からの薬の持ち込み同様、制限がない場合が多い。薬の販売という意味での抜け道であるこの手法は、一時期使用禁止農薬の輸入販売の時に話題になっていた。販売が禁止されているのか、使用が禁止されているのか、よくわからない状況で、さらに法的措置としての不備が指摘されていたが、その後どんな対応がなされたのかしり切れになってしまいよくわからない。それとはまた違った形の問題がそろそろ生じ始めようとしているわけで、個人輸入という形での薬物の購入がどんな制限に引っ掛かるのかよくわからない状況では、まったくもって訳のわからないことになってしまいそうだ。販売をする拠点がどこにあるのかが法律での規制に関わってくるのだろうが、これだけ国際化が進んだ状態では以前ならば難しかった個人輸入も何の造作もなくできるようになってきたから、規制無しではどうにもならない状況になりかねない。おそらく多くの国で購入に処方箋が必要になっているはずなのだが、これに関しても注文を受ければ診察無しでの処方箋の発行を行う医師の存在が指摘されたこともあり、ほとんど無法地帯とも言える状況にあるようだ。自分の健康は自分で考えるものであり、他人が介入するものではない、という考えがあれば、こんなやり方も当然に思えるのかも知れないが、はたしてそうなのだろうか。こんなところにも自己責任の種が落ちていそうな気がする。

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4月22日(木)−軌範

 やけに道が混んでいた。いつもなら信号待ち一つで済むはずが、3度でも通り抜けられない。どうしたものかと思いながら待っていたが、何となくその理由がわかったような気がする。歩行者の問題なのだ。以前紹介した歩者分離式という呼び名の信号、気づかぬふりで堂々と渡る人がいた。適応能力はこういうところにも現れるようだ。
 この話をもっと大袈裟にしようと思ったら簡単だ。実はこの交差点、新年度を迎えてから腕章を付けた人々が監視をしている。普通に考えれば誰かその近隣の人々が交差点の仕組みが変わったことから、皆に周知させるために立っているのかと思える。しかし、ちょっと考えるとそんな暇な人はいないのではないか、とも思えてくる。実際に、朝の横断歩道に立っている人々のほとんどは、近くの小学校の生徒の親達である。昔は緑のおばさんと呼ばれた人々が子供たちの安全のために奉仕してくれていたが、そういう人たちはいつの間にか姿を消し、子供の安全を守るのは親の務めということが当たり前ということになった。では、先ほどの人々はどこの誰なのか、以前なら考えられなかったことなのだが、彼らは近くの私立高校の先生のようだ。ちょっと時間をずらしたときに、一仕事終えて戻っていく姿を見かけたことがある。いつの頃からか、学校の先生にとって校外指導が重要な役目の一つになったが、中学だけでなく高校もその範囲のようだ。また、少子化のためか生徒を確保する一つの方法として、学習以外の指導の整備状況が重要なものとして扱われ、親の要望を学校が受け取る形でこんな指導もなされている。確かに、だらだらと歩く生徒達は車を運転するものにとっては迷惑に感じられることもあり、彼らの無防備な行動を見ていると呆れてくる。そんなことで腹を立てても仕方のないことと思う人もいるだろうが、ほんのちょっとしたことが意外な結果を引き起こすことを考えると、ばかにできないように思う。まあ、とにかく、そういう生徒達を指導するために先生は立っているのだろう。生徒に対する効果は確かに上がっているらしいが、いつまで続くのだろうかと思える。もう一つ気になったのは、今朝の出来事の場合だ。生徒を指導するのが役目ということなのだろうが、わざわざ大人をつかまえて口出しする人はいなかったようだ。役割分担なのかも知れないが、ちょっと首を傾げたくなる。生徒を指導するのなら、直接叱ることだけが指導ではなく、別の形の指導もありそうだからだ。ああいう先生の姿が生徒にはどんな風に映るのだろうか。やっぱり先生なんてそんなもの、ということになりそうな気がする。子供に対する理不尽が引き合いに出されることもあるが、こんなことも彼らの目から見たらまさに理不尽そのものに映るのだろう。世の中なんてそんなものだとわからせることが重要だとしたら、だらだら歩くことで事故に遭う生徒も、自転車で道一杯に広がって走って事故に遭う生徒も、皆自分の責任でそうなったのだから、それでいいのではないか。子供たちを育てると言いつつ、どこかに身勝手な判断を入れ、理不尽さだけが相手に伝わるのだとしたら、かえって逆効果に見えるのだが、どうだろうか。

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4月21日(水)−万物流転

 急に暑くなったり、寒くなったり、適応能力が落ちてきている人間にとってはかなり厳しいように思える。四季は毎年同じように繰り返すがその中で様々な変異があって、時には季節外れの天候となることがある。そういう経験をすると、ごく普通に移り変わる季節のことより例外的なものの方が印象に残り、異常気象という話題に絡ませて話をすることになる。
 人間は普通のことを覚えるよりも異常なこと、極端なことを覚えるほうが得意なようだ。極端なことの中でも、特に、悪いほうの極端は記憶に深く刻み込まれるらしくいろんな事柄が忘れられないものとして残る。確かに、危機管理という意味では重要な性質の一つであり、良いことなど覚えていてもほとんど役に立たないが、悪いことの方は覚えておくことで危険を未然に防ぐことも可能になる場合がある。季節の移り変わりのように毎年繰り返されるものでも、どこかにちょっと変わったところがあるとそれが気になる。昨年の寒い夏は何年か経過するといつのことだったか思い出せなくても、そういうことがあったことだけは覚えているものだ。繰り返すことといえば、歴史も繰り返すとよく言われる。戦いの歴史は繰り返して欲しくないものだが、どこかに利害関係がある以上、何らかの形での闘争は避けられないのかも知れない。和解と決裂の繰り返しは、もう仕方のないところまで来ているのかも知れないが、遠い地域のこととは言え気になる出来事だ。もう一つ繰り返されることに経済の動向がある。つい先日も、このところの株価の動きは10年ほど前のパターンに酷似しているとどこかに書いてあったが、上がり下がりの繰り返しだからどこかが前の何かと似ていることなど当たり前のことかも知れない。しかし、こういうことが論じられる場合に、必ずその行く末に議論が向かう。つまり、ここまでは前例とそっくりだから、この後の変動も似た動きをするはずだと仮定するわけである。そういう議論の中で面白いと思うのは、たとえば上昇傾向にある時期にはどこまで上昇するのかを議論するのは当然だが、その後の下降に関する議論の取り扱い方である。大抵の事柄に対して楽観的な見方をするようにみえる米国内でも、こと経済に関しては悲観的な見方がよく引き合いに出される。安心感を与えるための楽観論は除き、先々の対策を講じるためにも悲観的な見方を捨てるわけには行かないからだろう。あんな国民性でもそこまで論じるわけだから、元々悲観好きな国民性にとっては山を越えた向こうに関する議論は得意中の得意なのではないだろうか。今回の類似性についても、上昇がどこまで達したかを論じることは当然だが、その後の変動の方に重点が置かれているように思える。まあ、そういう読み方をするのもこちらが悲観的な見方を常としているからなのかも知れないが、ただ突っ走れば良いという状態にないことだけは確かなようだ。こういうのも危機管理の一環なのかも知れないが、下降の不安を論じるだけでは、管理を行っているとは言えないのではないか。下降を避ける方法を論じればいいと思う人もいるだろうが、変動が基調となっているものに関して、上昇はよしとするが下降はだめというのでは変動自体を否定することになる。変化があってこそのものなのだろうから、それ自体を無くす方向への施策はとんでもない結果を生みかねない。警戒をすることや避けることも大切なことなのだろうが、対策を練ることも必要である。ただ対策と言っても、単に手を引いてやり過ごすというのもあるわけで、積極的な手法が必ずしも良い結果を生むとは限らないのだが。

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4月20日(火)−環境保護

 ひと雨ごとに春が深まるといった雰囲気で、今朝の山の木々はその緑を一段と濃くしているように見える。その気にならないと見つからないが、虫たちもぞろぞろと顔を出してきたようだ。最近は都会の暖かなところで冬を越す虫も珍しくなくなっているから、そんなことから春の訪れを感じる人も減っているのかも知れないが。
 蟻がうろうろするのも気温が高くなった証だが、それよりチョウのような動きの速い昆虫を見かけると本格的な春を実感する。特に、タテハの系統は成虫で越冬するものもあり、早春の頃に見かけるものはそういった個体だから羽がぼろぼろになっている。しかし、気温が上がりはじめ蛹で越冬した個体が現れるようになると、羽もきれいな個体が増えてくる。どこから現れるのかと不思議に思ったこともあったが、何やら成虫のまま冬を越すことができると聞いてから、その理由を理解できた気がした。それ以外にも蛹で冬を越すものもあり、種類による違いなのかそれとも安全を考えた戦略なのかよくわからないが、とにかく春となれば多くのチョウが飛び始める。昔はキャベツ畑でモンシロチョウをよく見かけたものだが、最近はあまり見なくなってきた。白いチョウを見ることはあってもそれらはスジグロチョウだとのことで、モンシロチョウの生息域はかなり変化しているようだ。確かに、都会の片隅にあった畑は姿を消し、キャベツは専ら大きな畑で作られるようになった。食草が無くなればその地域で生き延びることはできないわけだから、どこかへ移動するか絶滅するかのどちらかということになるだろう。実際にどちらが起きたのかはわからないが、少なくとも都会に棲んでいたモンシロチョウは大部分その姿を消してしまったようだ。地球温暖化とか暖冬とか冷夏とか、異常気象が取り沙汰されているが、そちらからの影響も少なくないだろう。これらはすべて地球規模の変化だが、地球そのものがもつ変動の現れなのか、それとも人間の営みに端を発した異常なのか、はたまたそれらの複合の結果なのか、決定的なことは言えないだろう。それにしても、昆虫たちにも畑がなくなるといった直接的な影響だけでなく、平均気温が少し上がるといったわずかな変化でも大きな影響が及ぼされることがあるようだ。夏に聞く蝉の鳴き声はその典型だと思うのだが、他にも身の回りにいる虫たちを眺めてみるといろんな変化が現れているような気がする。これらがすべて人間の環境破壊の結果であると結論づけるのは簡単なことだが、それだけとも思えないところがある。確かに、明らかな破壊はない方がいいに決まっているが、だからといって整備という名を付けた環境制御がいい結果を生むとは限らない。最近はそういった形で環境を人為的に保護するという欧米的な考えに基づく動きが出ているが、どこまで手をかけるのかといった点でもっと考えたほうが良いように見えるものも多い。里山をそういった典型のように論ずる人たちもいるが、欧米型のものとは明らかに違ったところがあるのではないだろうか。この国はこの国なりのやり方を再認識して、その上で何らかの施策を講じたほうが良いのかも知れない。

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4月19日(月)−他者責任

 子供への期待が大きくなっているのは少子化のせいなのだろうか。幼児教育が重視され、かなどころか漢字を覚えさせる幼稚園があったり、英語教育を売りにしているところがあったりする。どれほどの意味を持つのかわからないが、早期教育の重要性を説く人々がいるからそんなところから来ているのだろう。
 そんな中でもちょっと驚かされるのはお受験と呼ばれるイベントに精を出す人々の話で、親の夢を実現するためにという理由があるなどと聞くと、そういうものかと思えてしまう。子供の人生が誰のためにあるかということは考えるまでもないことだと思うのだが。その一方で、子供の意志に任せるという言葉も最近の流行りのように思える。幼児用の英語塾で兄姉がやっているのを見て、一緒にやりたがっている子供について、親はその子の意志に任せると言ったという話を聞いた。三歳の子供にどんな意志があるのかわからないが、これに限らずあらゆることにこういう考えを貫いているとしたら、ちょっと怖い気がしないでもない。こんな話から始めたのは、最近話題になっている自己責任のことが気になったからだ。自分で行うことは自分で責任を持つ、という意味で使われているのだろうが、はたしてそうなのかと思えるところがある。事件が起こるたびにいろんな議論が巻き起こるのはとてもいいことなのだろうが、その事件に当てはめて話題が絞られてしまうので、どこかねじ曲がったものになってしまうことも多い。今回もそのいい例だと思えるのだが、起こした事件の大きさから自己責任の問題を論じているようで、いささか的外れな意見も多いように思う。自己責任を強調しながら、法的禁止措置を論じるのは自己矛盾を露にしているように見えるし、事件の原因を派遣そのものまで遡る意見には当世流行の責任転嫁気質が前面に出ているようだ。米国での評価を引き合いに出す人々もいるが、自己責任の適用範囲と違法性の問題を論じた上での評価とそれが一切論じられていない土壌での評価が同じように行われることには違和感を覚える。とにかく、何でも自己責任で片付ける風潮には逆の意味での危険性を気にする動きがあっても良いのではないだろうか。経費がどうだという議論も盛んなようだが、そんなことの前に論じるべきことは色々とありそうにも思える。また、自己責任を主張する人が増えることによって、自己責任を意識しさえすれば何をやっても構わないという意見が出てくるのではないだろうか。果たせる責任に対する意識なしでの自己責任論は大きな危険を孕んでいるように思える。極論すれば違法なことでも自己責任を持てばやっても構わない、ということにならないだろうか。他の人々には責任がないということを強調するための自己責任論だったら、何とも的外れなものになるだけだし、責任転嫁のためのものでもおかしい気がする。また、責任を負えるかどうか不確定な人々に責任を負わせようとする無責任な人々も、この際その辺りの状況を考えておく必要があるように思う。まあ、今回の議論にしても金絡み、意地絡みのことが多いから、ちょっと時間が経つとあっという間に冷えてしまうのかも知れないが。

(since 2002/4/3)