パンチの独り言

(2004年4月26日〜5月2日)
(愉悦、老病、経験論、渡り鳥、子供化、ブーム、厳戒体制)



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5月2日(日)−厳戒体制

 物騒な世の中らしい。連休中にどこかでテロがあるかも知れないという話が出ているからだ。効果を狙えば、多くの人が集る場所となるはずだが、この国にはそんなところがたくさんある。平日ならば都心のどこかというのがありそうだが、さて休日となるとそんな限定はできない。だからどこでも安心と考える楽観派とどこでも危ないという悲観派がいて、ややこしいものだ。
 警告を出しているところも多く、人の集るようなところには出かけないようにと言われるが、そんなことで怯む人はほとんどいないらしい。どの観光地も人でごった返し、交通機関もマヒ状態寸前まで行く。いつもの連休となんら変わらない状況なのではないだろうか。そんな中で警戒する向きはちゃんと働いているようで、どこにも厳戒体制なる文字が踊っている。警官の数だけでなく、警備員の数も増えているのではないだろうか。慌てて増やした人々の効果のほどは定かではないが、まずは数の問題からといったところなのではなかろうか。公共交通機関についても標的となる可能性が大きいという考えがあり、当然自分たちが先に立って警戒体制に入っているようだ。毒ガス事件の教訓もあるから、単に持ち込むにもつの検査を行うくらいでは不十分だろうし、それによる影響を考えるとそうするよりも現場で不審な動きを追うほうが効果的なのかもしれない。とにかく人員を増やして、見張っているような感じがする。それぞれの施設についても同じことが言えるが、こちらの方はどちらかというと荷物検査を中心にするようだ。入り口での手間はさほどのものでないと思えるし、どうせ混雑しているところは既に長蛇の列ができているから変わりないように思えるからだろう。いずれにしても、これまでと比べて何か特別な配慮がなされているようには思えない。テロを起こす側がそういう準備をしていたとしたら、苦もなく実行できそうな雰囲気さえある。まあ、実際にそういうことをやったことの無い人間が仮定でこんなことを書いているわけだから、大した意味もないのだと思うが、それにしても一般の人々の感覚の中には厳戒体制などという言葉は存在しないようだ。誰かがきちんと仕事をしてくれるだろうからという思いこみがあるとしてもちょっと恐ろしいくらいだ。どちらかというと、そんな思いさえどこにも存在していないといったほうがぴったりと当てはまるのかもしれない。警戒せねばならないといくら言われても、ぼけてしまった感覚はどうにもならない。安全を信じている人間にとって、危険はそれが起きるまで存在すらしていないのだから。警戒に当たる人々からの警告でさえ無視できる人々にとって、言葉での警告は意味をなさないのかもしれない。結局、本当に危ないことが確かならば、戒厳令のような法的措置が必要だということになってしまうが、これまたそんなことになったら別の恐怖が蔓延しそうだ。なんだかんだと言いながら、結局のところ何も起きなければそれで良いとなる。その繰り返しは警戒に当たる人々にとっては好ましいもののはずだが、今の流れを見ているとそれだけでもなさそうな気配もある。まあとにかく平和が続くのを願うのみなのだが。

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  5月1日(土)−ブーム

 スポーツジムに通ったり、スイミングに行ったりと健康指向の世の中のようだ。と言っても、そんなことにはまったく興味を示さない人もいて、誰もがそっちの方に向かってというわけでもない。その代わりに、サプリメントにこだわる人がいて、そっちはそっちで大変な勢いのようである。
 こんな具合に健康のために色々と努力する人がいる一方で、タバコや酒などの趣向にこだわり、適度に愉しみさえすれば健康に害はないという主張も聞こえてくる。寿命程度まで生き延びた人々には健康に気を配ったという人が多いような印象があるが、百歳以上の年齢に達している人の生活を聞いてみると意外に健康そのものでもなさそうな生活を送ってきたようだ。以前世界一の長寿と言われた泉翁でも、生活のリズムは一定に保つように注意していたようだが、焼酎をたしなむなど煙草もやらず、酒もやらず、というような生活ではなかったようだ。そんな話が聞こえてくると必ず言われるのは酒は百薬の長という言葉だが、ほんの数例でそんな結論を導くのはおかしい気がするし、第一深酒をする人がこういう話で安心するのはちょっとずれているような気がする。まあ、いずれにしても、酒は愉しめるくらいにしておくのが良いようだ。泉翁の話はもうずいぶんと昔のことで、その後にもいろんな変遷があったから、最近の焼酎ブームは長生きするためのものではなさそうだ。いろんな人々が焼酎を試してみるようになっただけでなく、口当たりの良い品がいろんな場所に置かれるようになったのが一番の原因なのかもしれない。特に女性の愛好者が急激に増えているらしく、それとともに日本酒離れが進んでいるようで、あっちの業界の方はかなり深刻な状況に陥っているらしい。ただ、焼酎の業界も急激な伸びを喜んでばかりいられないという話が最近聞かれるようになってきた。売れ行きが伸びれば問題はないと思うのはどうも考えが甘いらしく、出荷できる量は限られているとのことだ。つまり人気が出れば出るほど、品薄になっていろんなところにしわ寄せがやって来るというわけである。足らなくなるなら作ればいいという考えが一蹴されるのは、原料の問題があるからだ。全ての焼酎が同じ原料から作られるわけではなく、芋、麦、米、蕎麦などという原料から作られている。この中でも芋から作られる芋焼酎は人気がうなぎ登りだそうで、原材料である芋の供給が追いつかない状態になっているらしい。単に足らない状態が問題になるだけでなく、もう一つの問題が起きているそうで、足らない原料の奪いあいによる高騰がそれなのだそうだ。これはさらに別の問題も生み出しており、同じ芋から作られる澱粉の品薄が続いているそうである。これは焼酎の原料としての芋と、澱粉の原料としての芋の価格についての決まりが異なっていることから起きているらしく、かなり深刻だとのことだった。これは売れることが必ずしも良いことばかりではない、ということのよい例なのかもしれない。成長著しい国の生産があまりにも急激に伸びたために起きている世界的なしわ寄せも、ひょっとしたら芋焼酎の話と似た話なのだろうか。

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4月30日(金)−子供化

 その昔、若くてかっこいいタレントにうつつを抜かした人もいるだろう。追っかけなどと呼ばれる集団も一時期話題になったが、とんと噂を聞かなくなった。世代交代を経て次々と出現しているはずで消滅したとは思えないから、たぶん話題性が低くなったのだろう。何しろ他にも一杯話題はころがっているのだろうから。
 まさかその昔そういう行動をとっていた人ばかりではないと思うのだが、最近そっちの方で話題になっているいい歳の女性たちがいる。追っかけと呼ぶのはちょっと控えたいところだが、行動様式は当時とそっくりと思えるところがある。隣の国で話題になったドラマに出演した男優が来日したとき、こちらで放映することになった局が宣伝のために色々と流すのはよくわかるが、その勢いに押されてかあるいは後押しされてか、空港で出迎えに現れた女性陣の姿には圧倒されるものがあった。久々にときめいたとか、こんなにときめいたのは生まれて初めてとか、そんな話をしているのは十代後半から二十代の子供をもつ母親だそうで、そのあたりに話題性があるらしく、いろんな番組で取り上げられていた。ときめくものを持てるのはとても良いこととか、幾つになっても熱を上げられるものを持てる良いことだとか、そんなコメントが沢山聞こえてきたがはたしてどうなのだろうか。こういうときの比較として、若い世代の中にそういう対象をもてない人が増えていることを挙げて、それよりはずっと良いことであると論ずる人もいたようだが、こういう意見には首を傾げてしまう。確かに、感動することは大切だろうし、心を動かされるものを持つことも大切だろう。しかし、若い頃のこれから何をどう始めるかとか、人生の目標をどう定めるかといった問題を抱えているときの、様々なものに興味を示す行動と、ある程度年齢を重ねていろんな責任を抱えながら、何をどう処理していくかという問題を抱えているときの行動を同じところで比較するのはどうかと思うのだ。母親のそういう行動を見て、子供たちが良いことだと思うなどと言っているところを見ても、立場の逆転とまでは行かないが、どうもねじれた関係のように思えてくる。親と子が同世代の仲間のように行動するという話も最近はよく聞くが、程度の差があるとはいえ、ちょっとおかしな雰囲気に見えることも多い。子供が親と同じ考え方を持つというのは少し考えにくいから、こういう場合には親が子供と同じ考え方を持っているのではないだろうか。ほのぼのとして良い親子関係だなどと言う人もいるけれども、そういうものとは思えない部分もある。結局のところ、親の方が子供化した結果なのではないかと思ったりするのだが、今回の追っかけの話を聞いてその思いをさらに強くしてしまった。何事にも純粋な考え方ができるから、子供に戻ることはとても良いことなどという意見が出てくるようになったらおしまいに思える。純粋な考え方とああいった行動とは別に同じものとは限らないからだ。追っかけは結局そういう社会の動きの一面を見せたに過ぎない。もっと多くのよく似たものがそこら中に溢れていることを考えると、ちょっと空恐ろしい気がしてくる。

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4月29日(木)−渡り鳥

 春も半ばという時期になると、ふと気がつくことがある。ツバメの姿を見かけ始めるのだ。ニュースなどでは初観察の日に報告が入るときもあるが、自分自身で確認するとなると、いつ頃見たのが初めてなのか曖昧になる。そういう気持ちをもって注意しているのならいざ知らず、多くの年はハッと気がつくだけだから何ともならない。
 春から夏に日本にやって来る渡り鳥のことを夏鳥と呼ぶらしいが、ツバメはその一つで、たぶんこの国で一番有名な渡り鳥だろう。しかし、どこからやって来るのかという話になると、南の方からと答えるのがせいぜいである。南と言っても、いささか広くて、どこら辺を指すのだろうかと考えてしまう。一つの可能性はフィリピンだろうが、もう一つはもっと西の方のタイやミャンマーといった辺りなのか。どこかで調べてみればすぐにわかるのだろうが、ちょっとそんな気になれないので、今回は答えのない状態のままである。今は、おそらく渡ってきてすぐで巣を作り始める期間であり、つがいが協力して作っているのだろう。独特の鳴き声とともに複数の個体を見ることができる。少し暖かくなってきたこともあり、餌となる昆虫も増えているだろうから、そんなに困りそうにもないように思える。問題は、巣作りをする場所が残っているかどうかだろう。昔は家の軒先に巣が鈴なりに並んでいる光景が当然のように見えていたが、最近はそういう家をあまり見かけなくなった。巣作りは構わないけれども、糞の始末がかなわないという話もよく聞く。特に、幼鳥が活動する頃になるとまだ飛べないから巣の周りで始末するしかない状態で、食べる量はどんどん増えていくから、その辺りの状況は推察できる。家の前が汚れるという心配をする人もいれば、扉の上に巣を作られると出入りする人の頭めがけてということを心配する人もいる。どちらにしても歓迎できない代物であることは確かだ。そんなことに関する人々の気持ちは昔も今もあまり変わっていないはずなのに、この頃は汚されることばかりが強調される。昔も気になっただろうに、何となく作るに任せていた感じがあった。この辺の違いはどこから来るのだろうか。昔は気忙しくてそんなことを気にする暇もなかったのか、あるいは逆に今は忙しくないからか。それとも自然の生き物に対する考え方に違いがあったのだろうか。この答えもそんなに簡単には導き出せそうにもない。いずれにしても、渡ってくるツバメにとってもこの国は棲みにくいところとなってしまったようだ。それなのに、毎年きちんと渡ってくる。確かに彼らにとって別の場所を考えることは難しいのかも知れない。前の年に安全だったところはいくら変化があったと言ってもやはり知らない土地よりも安全に思えるのだろうから。今年も無事に子育てを済ませて、帰っていくことを祈りつつ、優雅に飛ぶ姿を眺めていた。

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4月28日(水)−経験論

 そろそろ連休が始まる。ウキウキしている人がいる一方で、どうやって過ごそうか悩んでいる人もいるようだ。どこかに出かけようとしても、渋滞に巻き込まれるだけだし、遊園地に行ったとしても混みすぎて何にも乗れないかも知れない。そんなに苦労して、ただ疲れに行くのでは意味がないと思う人もいるだろう。
 連休明けに話題になりそうなことは、こういう遊び疲れの人々のことと、もう一つはいわゆる五月病にかかる人のことではないだろうか。新しい年度を迎えて、新しい生活を始めた人々にとっては、徐々にたまり始めたストレスが限界を超え始める時らしい。これは何も、新入社員、新入生に限ったことではなく、新しい部署に異動になった人や新しい人員を迎えた人にも当てはまる。様々な変化が何らかの形でストレスとなり、それを上手くやり過ごすことができなかった人に歪みが生じてくるわけで、その変化は自分の中から出てくるものでも周りから押し寄せてくるものでも別段違いは無い。新しい環境に一人で飛び込む場合のストレスはかなり大きいものらしく、敏感になっている人々にとってはただ苦しいだけという結果につながらないとも限らない。こういう場合には周囲の対応が大切になってくるのだろうが、人それぞれに表現の仕方が違っているだろうから、そう簡単にこうすればいいというものにはならないのだろう。最近は特に当たり前のことになってきたから、対応策はそれぞれに講じられているようだが、絶対的な手法があるわけではないようだ。ただ、会社にしろ、学校にしろ、そういった仕組みを構築することで、以前に比べれば個人にかかる圧力は軽減しているようだし、周囲の人間に対する責任もある程度軽くなってきているようだ。これとは別に上司という立場の人たちに五月病のような症状が出始めているような話がある。新しい人間が部下としてやってきて、その間での関係にいろんな不具合が出てきたときに、部下の方が悩み苦しむという図式が多く見られたのに、逆の図式が見られるようになったというものだ。上に立つ者は様々なことに経験があるはずだから、下にいる人間に比べたら丈夫なはずという考えは、どうも通じないところもあるようだ。上下関係はこうあるべきものという考えがある人ほど、下との関係がこじれてしまったときに上手く対応できない。この頃は、命令の下し方にまでノウハウを論じるところもあり、その辺りの事情が大きく変化していることがよくわかる。厳しく叱ればいいと言われた時代は既に過去のものとなり、部下の能力を十二分に生かすためにはちゃんとした対応が必要であると言われている。自分たちが育った時代との違いに適応できずに苦しんでいる人たちにとっては、そうだからといって簡単に対応できるわけでもなく、その段階で困難を感じてしまえばどうにもならなくなる場合もある。上にいても、下にいても、どっちにしても大変なのかも知れないが、そんなにストレスに溢れた世界ができ上がってしまったのは何故なのだろう。こうあるべきという考えが否定される環境に関係があるのかも知れない。

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4月27日(火)−老病

 煙草を吸わなければどれだけの人が死なずに済んだ、という調査報告があったらしい。中身をきちんと読んでいないので、どんな調査で、どんな根拠で、どんな論理でそういう結論が導かれたのかわからないが、とにかくタバコ産業にとっては聞き捨てならないことだろう。だからといってどんな対応ができるのか、これまた難しいのだろうが。
 タラレバについては、いろんなところでそんな議論は意味がないとか、無理があるとか言われるが、実際にはそんな過程に基づいて出された結論でも出されてしまえば影響は大きくなる。確かにどんなに無理な過程に基づいて出された結論でも、一度世に出てしまえば数字だけが独り歩きするようになる。数字だけになれば、そこにあった過程は消去されてしまうわけだから、どの程度の信頼度があるのか確かめようがないし、確かめようとする人間も出てこないのだろう。そんなこんなで、注目を浴びる見出しだけが強調され、その中に数字だけがその根拠となる。とは言え、こんな報道はそのうち忘れ去られてしまうだろうし、どうでも良いことになってしまうのだろう。これとは別の話なのだろうが、もう一つ気になったことにペットの病気のことがある。特に、犬猫に関するものが多いのだろうが、人との類似性が論じられるようになっている。癌やら肥満やらどこかで聞いた病気がかなり増加しているらしく、当然それに対する治療が重要になってきているらしい。犬や猫だから特別な治療法があるわけではなく、やはり人間同様の治療を施す場合が多いのだろうが、何故このような病気にかかるペットが増えているのかにはいろんな要因があるらしい。以前は、食生活の変化と飼われている環境の変化が大きな要因のように言われていたが、最近ではそれほど複雑な仕組みを考えるより、単に寿命が延びたことによるという話があるようだ。以前ならそういう病気に罹る前に死んでいたはずの動物が、長生きすることによって罹る場合が増えたということなのだろう。これは何もペットにだけ当てはまる話ではなく、おそらく人間にも言えることで、加齢現象によって引き起こされる様々な障害が結果的に病気に結びつくこともある。誰だって長生きしたいだろうし、いろんな形で生活を愉しみたいわけだから、そんな障害が出てきても何とか騙し騙し生き延びることができればいいのかもしれない。でも、一方である病気によって苦しまされるくらいなら、いっそのことという思いを抱く人もいるだろう。人それぞれのこととはいえ、単に病気のことを考えただけでも、両極端な思いが出てくるわけだ。確かに病気を防ぐ方法や病気を治す方法が考え出されれば、一挙に解決してしまう問題かも知れないが、この辺りはイタチごっこ的な面もあるから、ある病気が根絶されても次が出てくる場合が多い。結局、日々の生活が愉しめればいいのでは、というくらいの考えでいたほうが、何しろ気が楽なのかも知れない。

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4月26日(月)−愉悦

 この頃の電化製品はどこかに不具合が出てきても修繕できないものが多いようだ。やればできるのだが、その後に必ずの決まり文句が出てくる。修理するより新品を買ったほうが安いし、新しい機能もついているというのだ。そう言われて古い機械に愛着を感じる人もほとんどおらず、電器店に向かうことになるわけだ。
 使い捨てが当たり前の機械と違って、人間という一種の機械はどこかに不具合が出てきても捨てるわけには行かない。何とか、治療という名の修繕を繰り返して、長持ちさせねばならないわけだ。ところが、こういう状況になると別の問題が出てくる。機械ならば修繕を繰り返しても半永久的に使うことができる。たとえば、自動車の場合、エンジンが壊れたらそれだけ積み替えればいいし、車体が傷めば修理すればいい。極端な話、買ったときの部品が一つも残らない状態でもその車は存在していることになる。人間はというとそうは行かない。体の部品を徐々に置き換えることはある程度可能だとしても、すべてを別のものに置き換えたら別人になってしまう。技術的に不可能だというだけでなく、いろんな面で人間が作った機械のようなことはできないわけだ。また、技術的な問題だろうが、寿命というものが厳然と存在する。どんなに治療を進めてもこれ以上の延命効果は望めないという時が必ずやって来るわけだ。これを寿命という言葉で表すわけだが、その時に臨む人たちにとってはとても重要な時期になる。以前の考え方では医療は単に病気を治すことだけに専念し、それ以外の要素は排除するのが常だったらしいが、最近はそういう考えはどこかに放り出されてしまったようだ。QOL、Quality of Lifeなる言葉が市民権を得て、人の一生にとって重要なものは何かを論じる機会が増えている。体の不具合を治そうとすることで、どこかに別の不具合が出てきたり、不快な思いをしたりすることはできるだけ避けるべきという考えがあり、生きる喜びを失わせないような配慮が医療関係者に必要であるということになった。これはただ医療関係者に当てはまることではなく、患者の周囲の人々にも言えることであり、最近では介護の現場でこういった配慮の重要性が強調されている。日々の生活にとって重要なことは何か、という問題を考えながら、目の前の病人にとって何が重要かを常に問いかける必要性を前面に押し出す。そんな考えを持てば、環境を整えることの大切さもわかるし、それ以外のそれまでは目に付かなかったことも見つかるようになる。食事はその中でも重要な要素の一つで、その愉しみだけで生きている人も中にはいるかも知れない。しかし一方で、病気によってはかなり厳しい食事制限がかけられ、ちょっとした愉しみさえも奪われてしまうこともある。一日摂取量を制限するわけだから、味覚の楽しみが奪われてしまうのも仕方ない、というのが本来の治療の基本だったのだろうが、ここに盲点があることもある。摂取熱量なるものが基本となり、献立が決められているようで、男性ならこのくらい、女性ならこのくらいという平均値を基準にする。患者がどのくらいの食欲を有しているのかを無視するわけだ。その中で味付けをし、塩分摂取量の制限から当然の薄味を強要することになる。しかし、もし食べる量がそれほどでもなく、塩分の制限もさほど厳しくない患者であれば、そんなことをする必要もないのではないだろうか。評判の悪い病院食のほとんどはこういった配慮がなされていないものばかりで、まるで健康な付添のための給食のようになっている。徐々に変わってきているとはいえ、まだまだのような気もする。

(since 2002/4/3)