全国的にみて自動車の普及率が上位にある都道府県が抱えている問題には何があるだろう。ここでの普及率とは成人一人当たりの登録自動車の数であり、一人に一台とはいかないまでもかなりの割合のところもあるようだ。当然道路整備にかかる経費はかなりの負担となっており、税収が増えない現状ではかなり厳しいようだ。では、車が必要となる理由の方はどうだろうか。
都会に住んでいると車での移動は便利なようで不便なことが多い。どの道も渋滞しており、走っている時間より止まっている時間の方が長いところが多く、密集地で駐車場を探すのも難しい。そんな状況下では結局公共交通機関を利用したほうが時間の節約もできるし、余計な心配をせずに済む。大きな荷物を抱えて満員電車に乗るのは難しいが、それもたまのことと思えば何とか我慢できるのだろう。一方、過疎地に住んでいたりでかけたりする人たちにとっては車は欠かせない交通手段の一つとなる。公共交通機関があったとしても運行頻度が低すぎて使いにくかったり、目的地まで到達できないことが多いからだ。普及率の高低はこの辺りの事情によるところが大きいらしく、高いところほど公共交通機関の整備が遅れている場合が多い。それでも幹線となる鉄道は何とか整備されており、本数が少なくても一応走っているわけだから、利用する側にとっては重要な足となるに違いない。ただ事情が複雑なのは、鉄道の整備だけでは細かな移動に対しての配慮が不十分になるところにある。地方では駅に着いたらバスもタクシーもなく、頼りになるのは自分の足だけという場面に出くわすことも多いだろう。中小都市ではこの手の問題を抱えたところが多く、バスを運行しても赤字が出るばかりで期待される効果だけを考えるわけにもいかず、かといって何も整備しなければ不便さだけが表に出てくることになる。鉄道の赤字路線と言われるものの多くは同じような問題を抱えていて、今のところこれといった解決策は見出されていないようだ。地元の人々はそういう不便さを回避するために自分の車の利用を優先するようになり、鉄道の収支状況はさらに悪化する。そんな悪循環の状況の一端を表したものが自動車の普及率なのかも知れない。実際にはまったく別の事情で車の保有台数が増えているところもあるのだろうが、多くの場合は便利さを追求した結果あるいは不便さを回避した結果なのではないだろうか。長距離の移動については自動車に頼らざるを得ない場合も多いのだろうが、たとえば鉄道と自転車の組み合わせのように長距離と短距離を組み合わせることで、この辺りの問題を解決しようとする動きもあるようだ。主体となっているのは既に鉄道網が整備されている都会の場合が多く、こちらはまた別の理由で自転車の問題を考えるようになっているから、一概に同じレベルで議論するわけにはいかないのかも知れないが、限定的に考えれば同じ状況にあると言えるように思う。レンタサイクルという名で一時流行った貸自転車も最近はあまり見かけなくなった。車が普及したことによるところもあるが、いろんな手続きの煩雑さから敬遠する向きもあるようだ。そこで考え出されたのが無料貸し出し自転車なるものなのではないだろうか。手続きの面倒さはあまり変わっていないが、無料となるとちょっと気持ちが変わるらしく、借りようとする人が出てくる。同じ地域内に貸し出し場所を複数作ることで、返すのはどこでも良いとすれば、利用者も助かるようだ。問題は借りっ放しがどれくらい出るかということだろう。すべてがモラルの問題なのかも知れないが、ずっと昔に実施されていた駅での無料傘貸し出しが復活しているのをみると、当時より悪化しているようには見えない。いろんな工夫をする余地は残っているのだろうが、徐々に多くの試みをすることでどこかに良い答えが見つかるのかも知れない。
このところ相場の具合が良くないようだ。海の向こうもいろんな要因から下げ続けているようで、今年に入ってからの好調さは影を潜めている感じである。それに連動しているわけでもないのだろうが、このサイトへのアクセスが激減している。話題がないからなのか、相場に嫌気がさしたついでなのか、理由はわからない。
こういう現象が現れたといってすぐに何らかの対策が講じられるかといえばそんなことはない。たとえ理由が明らかになったとしても、その問題をすぐに解決できるような方法が見つかるとは限らないからだ。こんなちっぽけなところでどちらかといえば素早い対応ができそうに思えるところでも、肝心の対応が見つからねばなんともならないわけだ。これが大きな組織となるとさらに難しさが増す。様々な対応を見つけ出す能力も必要だが、それをいかに早く実行に移すかが肝心となる。端から見れば簡単そうに思えることでも、組織が大きくなり階層が増えてくるとそれを乗り越えていくだけでも大変になることがある。世の中に問題を抱えていない組織はおそらく無いだろう。特に不景気が深刻になってからは金銭的な問題が第一に論じられ、赤字の解消は様々な組織での最重要課題となっている。こういう中で、このところやり玉に上げられているのは、いわゆる第三セクターと呼ばれる組織である。遊園地などのテーマパークのほとんどは当ての外れた状況に追い込まれ、ただただ赤字を出し続けるものとなっているものが多い。今順調に見えるものの多くは、第三セクターだけによる運営ではなく、別の組織が関わっているようだ。テーマパークは計画の立案から全て第三セクターが関わるわけだが、鉄道などの既に存在していたものの運営が任される場合もある。こちらは計画されたものではないから、現存の施設を使ってどう赤字を解消するのかが課題となる。赤字が前提となっているのは、元々その鉄道を運営していた会社が赤字路線を手放そうとするのに対して、その恩恵に浴している地元が廃止の代わりに運営を引き継いだためである。はじめから黒字になる見込みのないものを引き受けているから、赤字解消はほとんど不可能に見える。それでも、毎年地元の自治体が赤字の補填を行っていれば、何億もの税金を使うことになる。解消が無理だとしても縮小を掲げないことには、無駄を省くのが当たり前と言われる時代には住民の同意が得られなくなる。景気が悪くなり、投資がなされなくなっているときに、地方の都市が発展すると期待するには無理がある。その中で、住民だけの利用では赤字になるものを何とか良い方向に向かわせるためには、外からの人を呼んでくるしかないのだが、さて何をしたらいいのだろうか。そんな疑問を持ちながら、いろんなところで議論がなされているようだ。いろんな案を出している路線でもまだ赤字解消にまでは至っていないところが多い。とはいえ、余計な経費をかけずに赤字を減らそうとしたら、何ができるのだろうか。近くを走る路線では、毎年2億円の赤字が出ているそうだ。この額の一部を何かの投資に向けることによって少しでも赤字が減るのであれば、意味のあることになるだろう。では何をすれば良いのか、駅周辺の交通機関の整備はよそ者にとっては重要だろう。別の赤字を生み出すバスなどの整備よりは、別の足を考えたほうが良さそうだ。小さなことから始めて様子を見てから、その先を考えてみるくらいの気軽さが出てくれば、少しくらい大きな組織でも変わることができそうに思えてくる。
右肩上がりの時代は流れに乗っているだけで何も心配することはなかった。ところがある時期からその勢いに翳りが見え始め、ついには成長が約束されない時代に突入するといろんなことが心配になり始めた。将来の生活、職の心配、子供のこと、老後の生計、何でもありである。いつの時代も将来を見通せるわけではないのに、今の心配が将来にまで及んでしまう。
そんな世の中になると、今を良くせねばという気持ちが強くなるものらしい。それも、周囲が悪くても自分だけでも良くなるためにはといったことを思う人が増えるようだ。逆に言えば、世の中の景気が悪いからこそ心配が増すので、それを払拭するためにより多くの資産を手に入れようとかより高い地位に就こうとかより良い生活をしようとか、そんな気持ちが強くなるようだ。そんな中で出てくる論理はいたって簡単なものである。他人と同じことをしていてはいけない。ただそれだけなのだが、これがそう簡単なことでないのは誰もが知っていることだ。安定成長の時代は流れに乗っていれば良かったわけで、これはつまり他人と同じことをやっていれば良いことになる。こちらの方は周りを見渡しながら走り続けているマラソンの集団の中の選手のような感覚で、心理的にも肉体的にも楽なものである。しかし、集団がばらけてくるとそうはいかなくなる。無理をしてでも先頭についていくか、はたまた二番手三番手で次の機会を待つのか、そういう選択が必要となる。どちらが結果としてよくなるのか、その判断を下す時点では明らかではないから、究極の選択となる。それと同じことで、他人と違うことをするのは一見簡単なように見えて、実はその潜在的な可能性を考えるとやろうという決断自体が難しいことになる。その上、何をすれば他人との差別化ができるのかを考えると決断したとしてもその先に困難が待っている。難しいな、大変だな、と言うだけならそのまま終わってしまうから、結局他人と違うようにはなれない。それではいけないとわかっていても、何をすれば違いが出せるのかがわからないという人が世の中には沢山いるようだ。以前はそれだけで諦めをもって済ませていたのだろうが、この頃はそういう人々を誘うものが巷に溢れるようになっている。いわゆるマニュアル本と呼ばれる書籍が様々なこと、様々な人を対象に売られるようになり、本当の成功とはとか、他人を出し抜くためにはとか、そんな見出しを付けながら世の中に出てくるようになった。そうなると心配性の人は他人と違うことをやらねばならぬという気持ちになるのだろうか、そういう本を購入してあれこれと考えるらしい。ただ、こういう話は成功した人に当てはまることであり、成功するための手段とは必ずしもなりえないことに気づかない人がいるようだ。それでも失敗を恐れずいろんなことに挑戦する気持ちがあるうちは大丈夫なのだろうが、早晩苦しい日々が訪れるかも知れない。一方、もう一つの気になることは皆が皆人と違うことをするということの意味というか、結末のようなものである。さすがにそんなことを想像しても無駄なのだろうか、こんな話は出てこないが、ある程度の結束が必要という考えが否定されていることに違和感を覚える。元々人はそれぞれ違っているもの、それがある程度の妥協を持ってある目標に向かって邁進するという流れから、人の違いはあまりに小さく、努力して違いを表に出さないと目標に向かえないという流れに変わったのかも知れないが、こういうものに適用範囲があることに注意を払っておいたほうが良さそうに見える。抜け駆けだけが成功の秘訣などと書きなぐっているのを見るたびに、そういう一面しか見えない人々を育て、捨て去っている世の中を思い浮かべる。同じが悪く、違うが良いという捉え方が一概に間違っているとは言えないが、同じの意味、違うの意味をもう少し真剣に考えておいたほうが良さそうだ。
暖かくなり、軽い服装でも過ごしやすい時期になってきた。と書こうと思っていたが、どうもそうでもないらしい。ここ数日ちょっと早めの梅雨の空のようになって、太陽の光が届かないのと北から寒気が入っているせいか、薄ら寒く感じられる。それでもそろそろ外に出かけるのが楽しい季節になってきた。出かけ方は人それぞれで、目的地、天気、体調などにより様々だろう。
近くに出かける人の多くは歩いていくか自転車に乗るか、何しろ自分の力を使う場合が多い。天気が悪いとどうしても車を使ったり、交通機関を使ったりせねばならないが、天気の良い日にはやはりゆっくりと出かけたいものだ。歩いてゆくのも普段気づかないものを見つけることができて面白いのだが、どうしても行動範囲が狭まってしまうのが難点である。それでも休日となれば普段出ていない店が出ていたり、思いがけない催しがあったりして楽しむことができる。徒歩では行動範囲が狭くなるから、ところどころバスなどを使えばちょっとした遠出をしながら、初めての町並みを楽しむこともできそうだ。ただ、もっといろんなところを目的なしに楽しもうと思った場合、自転車が便利なのだそうだ。最近はほとんど乗ることがなくなってしまったからあまり実感が出てこないが、以前はかなり遠くまででかけていた。人通りも車の通行量も少ない道であれば、自分なりの速度で余裕をもって走ることができるから、結構遠くまで走ることができる。坂道が多いと難儀だが、平坦なところであればそれほど苦労もしないで済む。とは言っても、ちょっと無理をすると数日間筋肉痛に悩まされることもあるから、油断は禁物である。同じ車両に分類されるとはいえ、軽車両になる自転車は自動車に比べると自由度がかなり大きい。狭い道でも入っていけるし、階段にぶつかっても担いで上り下りすればいい。そういう意味で便利な道具として使っている人も多いのではないだろうか。先日のラジオでそういう自転車のことを紹介していた。特に都心での便利さを強調していたが、同時にそれが抱えている問題点にも触れていた。場所にもよるのだろうが、普段の行動手段として徒歩、自転車、自動車のすべてを使っている人たちもいると思う。こういう人々にとって、それぞれを利用しているときに、他の手段を使っている人たちの行動に疑問を抱いたことが多いのではないだろうか。歩いていると、歩道をわが物顔に飛ばしていく自転車に驚かされたり、場合によっては突き飛ばされた人もいるかも知れない。また、横断歩道を渡ろうとしてもうスピードで近づく車にヒヤリとした人もいるだろう。一方、自転車に乗っていると、幅寄せしてくる車や目の前で急に左折する車に驚かされたり、歩道一杯に広がって歩く人々に閉口したこともあるのではないか。車に乗っていると、逆行してきたり駐車している車をよけようと急に飛び出す自転車にびっくりさせられるし、どこでも無理矢理横断しようとする歩行者に怒りを覚えたことがあるのではないだろうか。ただ、これほど極端ではないが人それぞれ、それぞれの手段を使っているときに、他の人々に不快な思いをさせることがある。自分が相手の立場だったらおやっと思うことでも、気がつかないことが多いのは、結局自分の立場でしかものを考えられないからなのだろう。今の交通事情ではこれらの三者が三者三様の考え方をして、お互いに相手の無礼を指摘することに終始しているようだ。その中で、一番弱い立場にあるらしい自転車は常にやり玉に上げられるばかりだからつい愚痴を言いたくなるようだ。ただ、そこで権利を持つために必要な手だてとつながるのは最近の悪い傾向に思える。お互いの立場を理解しあって、その釣り合いをとる工夫をすることはとても難しいことなのだが、立場を主張するだけで解決するのはほとんど不可能である。同じ人間が三つの手段すべてを利用していることを考えると、ちょっと違った視点からの解決策がありそうにもみえるのだが。
連休は観光地が混雑しているからか、こっちの方は閑散としている。かえって、仕事が入っている日の方が賑やかなのは喜ぶべきことだろうか。それにしても混雑しているときに出かけなくてもと考えるのは暇な人間の習性だろうか。混んでいようがいまいが出かけない人は出かけないし、出かける人は何としてでも出かけるというのが正しいのかも知れないが。
久しぶりの休みにゆっくり休もうとしても、結局気休めにもならず、あっという間に仕事に戻らねばならない人も多いだろう。それでも日頃気になっていたことから少しでも離れられた人は幸せなほうで、そうもできない人もいたのではないか。ストレス解消法は人それぞれにあるのだと思うが、どこかに出かけることという人にとっては連休はあまり良い時期ではない。それよりもどこかに食事に出かけるほうがいくらかましな状況に出合えるのではないだろうか。行楽地や観光地は連休となれば一段と混雑するのだが、レストランや料亭となるとそうでもないのではないか。確かに、観光地にあるものだと普段とは違う人々がどっと押し寄せる可能性があるから混んでしまうかも知れないが、近場の店となればそれほどでもないだろう。普段出かけないところでも、こういう機会にちょっと近場で済ませてという気持ちで行けば美味しい思いができるかもしれない。国内では相変わらずイタリア料理の人気が高いようだが、世界的に見ると和食の人気はかなりのもののようだ。ダイエットが国民の趣味のようになっている国では専ら低カロリーが謳い文句になっているようだが、味とか見た目の美しさが評価されているところも多いようだ。いくら美味しいと言ってもそれまでに食べたことのない食材を試すことに抵抗を覚える人々も多いようで、寿司はあらゆるアレンジの対象になっているらしい。こちらから見るととんでもないと思える食材や料理法でもあちらから見ればその方が当たり前ということですし飯の上にのせられる。気味が悪いと思っていたら、そのうち国内で見かけるようになるからこちらの方が挑戦する気持ちが強いのかもしれない。和食を眺めていて感じることはいくつかあるが、特にフランス料理との違いとして強く感じるのは、食材の活かし方とその飾り方である。すべてがそうであるとは言わないが、フランス料理で一番に感じられるのはソースに対する拘りで、食材の味を生かすための味付けという解釈があるように思える。しかし、食材そのものの味を楽しむというより、別の味付けを押し付けられているように思えてしまう。それに対して、和食は全般に大げさな味付けを施さない。あちらの人々に受け入れられているのはそんなところにもあるのかもしれない。食材の色に関しても同じことが言えて、素材そのものの色を生かしたまま調理するから、盛りつけにもそれをそのまま持ち込める。派手な色使いを施すより、素材のもつどちらかといえば地味なものを利用する。最近はそうでもなくなったが、色にしろ、香りにしろ、少し控え目なほうが喜ばれていた。そういう姿勢が他の国の料理にも採り入れられていると聞くが、こちらの方は逆にちょっと派手に向っているようにも思える。控え目という言葉の受け取り方もずいぶん変わってきて、悪いとは言わないが昔ほど評価されなくなっている。主義主張はしっかりせねばならないという考えがあるからと言う向きもあるが、実際には控え目という主義主張を理解できない受け取り側の問題が大きいのではないか。一つ一つのことについて白黒はっきり言わないと理解できないとか、言われないと我慢できないとか、そんな話と似ているように思えるのだがどうだろう。
もう20年ほど前になるだろうか。米国で聞いた日本語にちょっと驚いたことがある。FutonとHibachiなのだが、日本人が持っているイメージとは少しずれた感じのものを指していて、初めて聞いたときにはちょっと期待してしまったからその後の落胆はかなりのものである。言葉はあるイメージを表すものには違いないが、国際化などと言い始めるとそのずれが大きな問題になる。
Futonとは、こっちで言うところのマットレスであり、綿などはどこにも入っていない。寝具としてベッドを使う国では、床に直接寝具を敷く習慣はないようで、そういうものを区別して表現するために使われた言葉のようだ。折り畳むことのできるマットレスで、ベッドに使うものに比べたら薄いし柔らかい。それはバネを入れるような形にできないからで、簡易ベッドといった類いのもののようだ。さすがに異国の地で布団の上に寝られるなどというのは夢のまた夢のようだ。一方、Hibachiの方は更に複雑な事情があるらしく、こちらの想像を遥かに越えるものであった。こっちはさすがに火鉢そのものを使うような習慣などありえないと思っているから騙されることはなかったが、では何を指しているのかというとまったく想像できなかった。実物をホームセンターで見つけて驚いたものである。この国でも最近は公園や河原でバーベキューを楽しむ人たちがいる。高価で格好の良いセットが売られていて、車に積んで出かける人も多いのではないだろうか。あちらの国では、あんなにしっかりしたグリルではなく、もっと簡易型のものにHibachiなる名前を付けて売っていたのだ。鋳物の炭置きといった感じのものに網を固定する鉤状のものが取り付けられただけで、いたって単純な構造である。そこに昔懐かしい豆炭そっくりのものを入れて火を起こし肉を焼くわけだ。ホームパーティというほどでなく、時々の家族だけの遊び程度のものに向いている小さなものだった。それでも使ってみると意外にちゃんとしていて楽しめるから不思議なものだ。その上炭で焼いたものはどれも美味しくなっているからこれまた不思議で、そういうのを楽しみにしていた。結局肉汁が炭に落ちて焦げた香りが肉に戻るというだけなのだろうが、味だけでなく香りでも楽しむというのがよくわかる。何しろ、米国では食事とは熱量を取り込むためのもの、といった程度のものにしか認識されていないのではないかと思えるほど貧しいものが多く、楽しむレベルにまで達していない気がすることが多い。効率主義がああいうところまで浸透してしまうと、栄養素で足らないものは錠剤で摂取すればいいとか、食事の時間は無駄だからなるべく短くしようとか、そんなことばかりが主張される。その悪影響を受けてしまった国も最近は楽しむことの大切さや合成品でない栄養の大切さを再認識するようになり、生活は徐々に変化しつつあるようだが、それも元に戻るわけではない。スローフードとしてもてはやされているものを見ると、どうもそこにずれを感じてしまうのは、この国が本来持っていたものとは異質の別の形の輸入品を見ているからだろうか。まあ、いずれにしても食べることは生活を楽しむ要素の重要なものであり、それを蔑ろにして他の楽しみだけを追求するのは釣り合いのとれていないものになってしまう。ただ飽食の時代は依然として続いていて、長蛇の列が続く有名店での食事や高級レストランでの食事がその欲求を満足させてくれるものと信じている人がいるらしい。毎日の食事もちょっとした工夫をするだけで、十分に楽しめるものになることに気づいているのだろうか。
連休に限らず、休みの日に運転をすると気になることがある。特に、高速道路で目に付くのだが、傍から見ていても不慣れな運転と思える人がいることだ。想像でしかないが、おそらく休日だけ運転していて、運転自体に滑らかさがない上に走ったことのない道に不安を覚えているといった雰囲気が伝わってくる。
休日の都心近くの高速道路下り線で起きる渋滞の多くは自然渋滞と呼ばれるものであり、その辺りを注意して見てもどこにも異常がないように見える。前を走る車との間隔を一定に保てず、近づきすぎて急に減速することを繰り返す車が出てくると、全体の流れが滞り渋滞が始まってしまう場合が多いらしい。普段でもよく起きる現象だが、それが休日には激しさを増すとのことだ。通行量にあまり違いがなくても休日の方がひどくなるのは、そういうところに原因があるらしい。高速道路でなくてもこういう日には色んなところで渋滞が起きる。一般道でも道に不案内な運転手が増え、流れに乗れない車が出てくると何もないところに大渋滞が起きたりする。渋滞に巻き込まれ苛々しながら運転をしていると、どこにも何もないままに渋滞を抜け出してしまう。おかしいなと思えるのだが、その現場にいないかぎり原因はわからない。前の車との間隔を異常にあけようとする車や、物見遊山なのか速度の上がらない車がいて、そういうものに興味のない他の車はただ被害を受けているだけである。当事者が気づくようならまだましで、どうも我関せずといった風である。初心者や高齢者を印すマークを貼り付けた車も目立ち、苛々がつのるとどうにも八つ当たりがしたくなるが、そういうわけにも行かない。まあ、じっと我慢を続けるしかないようだ。最近はカーナビと呼ばれる機械を付けた車が増えているから以前と比べて減ってはいるが、昔は路肩に停車して地図を広げているのをよく見かけた。目的地を探すためとは言え、片側一車線の道でそういうことをすれば何が起きるのか歴然としている。にもかかわらず、本人は必死の形相で道を探している。こちらは同情する気にもなれず、怒りの声をあげそうになりながら横をすり抜けるが、他の人たちはどんな気持ちなのだろう。車で出かける人が増えたせいか、電車の中の喧騒も以前にも増してひどくなりつつある。自家用車の中ならどんな騒いでもどうということはないが、公共の場ではそうは行かない。しかし、中にはそういう違いを察することのできない子供たちがいるようだ。親が注意しても何のことか理解できないと傍若無人ぶりに変化なしである。普段の躾けが、と言うのは簡単なのだが、どうしたらいいのかわからない人もいるらしい。ちょっとした気遣いの違いなのだと思うことがしばしばである。車の運転にもそんなところが現れているような気がするのだがどうだろう。それにしても目の前を走る車に、登坂車線を走ってくれと頼むのは、無理な話なのだろうか。