パンチの独り言

(2004年5月10日〜5月16日)
(保護、聞香、恐怖感、犯人捜し、蚊取り、支店統合、察知)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



5月16日(日)−察知

 ある集団に対して何かの説明がなされているときに、おしゃべりに夢中になっていて、あとからどんな注意だったのかわからないと文句を言っている人を見かけたことはないだろうか。どうせ説明なんて大して重要じゃないと思っているのか、はたまたおしゃべりの楽しさに心奪われているのか、いずれにしても説明を聞かなかった本人が悪いだけのことである。
 昔からそんな人はいたと言う人もいれば、昔はいなかったと言う人もいる。ただ、それぞれの昔にかなりの違いがあったりするから、どちらが正しいというよりどちらも正しいことなのだろう。おしゃべりに夢中になって情報収集できなかった人々は、実際には周りの人にまで迷惑をかけていることも多い。小声での話ならばまだしも、大きな笑い声まで交えたものは迷惑な騒音となる。当然周囲からの働きかけがあるものと見ていると、意外にそうならずただ野放しにされる場合も多い。注意すると逆恨みをされることがあるという学習効果からか、放置したうえで説明の声に集中するほうが得策と考えられているようだ。あまりに常軌を逸したものの場合、説明者が話を途切れさせることで注意を促すこともあるが、そういう空気を読む力を備えていない人が増えているように思う。直接注意すれば逆恨み、自己判断を促せばどこ吹く風、いやはや困り果ててしまうのではなかろうか。こんなことが悩みの対象になるのは、あらゆることをなるべく直接的に相手に伝えることを主体とした言語と違って、すべてのことを間接的に表現し、雰囲気を察したり、空気を読んだりすることを期待する言語が構築された環境にあるからであり、そういう中で察する能力を欠如した人間の増加が急になったことが原因として考えられる。一つ一つのことを細かく、結論まで正確に伝えられないと我慢できない人が増えているように思えるし、勝手な解釈が蔓延するようになってからは中途半端な伝達は無意味というより危険であるように見える。その一方で、自らの発言には多様な形式のぼかし表現がちりばめられ、あらゆることに対して断定を避ける傾向が出ているのはとても面白い現象だと思う。人から与えられるものには明確な表現を求め、自分の中からはぼかす努力をする。確かに、自らの存在の不確実さを気にすれば、こんな行動様式を採り入れるようになるのかも知れないが、身勝手といえばその通りではないか。言葉について行間を読む習慣が身に付いていないだけでなく、日頃の行動に関しても周囲の状況を汲み取る習慣が身に付いていないようで、結局集団の中でも自分の世界に入り込んでしまう。こういう状況になってくると、今まで当たり前と思われていたやり方はとても難しいものになり、極端な場合、できないのは脳のどこかに欠陥があるからということになる。欠陥と聞いただけで不安になっていた時代と違い、今は原因を明確にしてくれるものとして安心を生みだすことがあると聞く。この流れに大きな危険性を感じている人がいてもおかしくないのだが、この頃の当事者たちの動向を見ていると、どうもそれが単なる思い過ごしとして扱われているように感じられる。いろんな人がいるからという考えから寛容さが出ていた時代から、こんな欠陥を持っているからという考えから寛容さを示す時代に移りつつあるのだろうか。真の原因が不明でもこういうものがあると言われるだけで原因を示してもらったような気になれる人々にとっては、人はそれぞれ違うものという解釈の方が不安定なものに見えるのだろう。変われば変わるものと言うべきだろうか。

* * * * * * * *

5月15日(土)−支店統合

 忙しい時代である。何事にも効率が求められ、なるべく小さい力で大きな仕事ができるように工夫をしなければならないらしい。こうなってきたのは単に忙しくなったからだけではなく、踏襲というやり方に対する反省の意味も込められているようだ。前例に従うだけでは同じ穴に落ちてしまうという思いが変化を呼び、そこに効率化の導入を促したらしい。
 しかし、こういう効率化の一方で一種の切り捨てが断行されていることに危機感を覚えている人も多い。特に、自分自身が切り捨ての対象になりそうな人々にとっては、効率化の名の下に体よく首を切られてはかなわない。必要最小限の力で、最大限の仕事をこなすようにするのは、組織を動かす上で重要な要素の一つには違いないが、限界まで絞り込むことにより融通のきかない組織を作る危険性も伴う。今の動きを見ているとそんな方向に向かいそうなものがたくさんあり、不安を覚える人がいるのも無理のない様な気がしてくる。すべてがすべてそういうわけではないが、組織の合併もそんなものの一つなのではないだろうか。巨大化することによる利点を追求し、さらにそこに効率化を導入すれば、以前とはまったく違った利潤を求めることができるようになるかも知れない。そんな思惑からか一部金融機関にそんな動きが出たのはもうずいぶん前のことになる。その後、ゆっくりとだが不良債権の解消の動きも起き始め、経済の回復の波に乗って、少しずつだが良い方向に向かっている。企業の業績としては評価できる部分も多く出てきているから、監督官庁もそれなりの思いを持っているのではないだろうか。しかし、税金を投入してまで行われた改革に対して、税金を納めた人々の中には不満が噴出しているところもあるように見える。企業が業績を回復するために合併を行った場合、次に起きることは人員削減だけではないリストラである。人を減らそうとしても窓口の数が減らなければあるところに限界が出てくるから、そちらの方も減らそうとするわけだ。当然、客の数が少ない地域の支店や出張所が統合されたり、閉鎖されたりして、総数の減少が実行される。少ない客と呼ばれた人々にとっては、組織の論理に振り回されて、自分たちに不便が押しつけられることになり、程度に差があるとはいえ、不満が募ることになる。たとえば、近くにあった支店が閉鎖されれば、歩いていけたところが交通機関を使わなければいけないところになり、その経費も含めて効率が落ちることになる。しかし、少数派の意見は多数派に対して力を示せず、その流れはさらに進むことになる。この間まで窓口付きの支店だった宝くじ関連の銀行は合併後に機械だけが取り残されたものになり、駐車場も閉鎖されたから路上駐車が増えて様々な障害を生み出した。これは、一つの効率重視が様々な非効率化を招く例と見ることもできる。先日、その機械さえも撤去され、ビルは別の目的のものに改装されるようだった。これは徐々に撤退を進めるという企業の戦略の一環なのだろうが、いずれにしても顧客の方は我慢し、自分たちなりの対策を講じるしかない。この銀行はその性質から他の銀行にはないほどの全国規模の支店網を持っていたが、合併によりその特長も失われることになった。これが効率化の実像であるなどと言っても、利益を出さねばならない企業には当たり前のことという返事が返ってくるだろう。やっぱり、あっちに金を預けようかという気持ちになっても、こちらも当たり前なのだろう。

* * * * * * * *

5月14日(金)−蚊取り

 この間、急に暑くなった日のこと、どこかからか細い蝉の声が聞こえてきたような気がした。まるで、しまった、早すぎたと悔いているような雰囲気に聞こえたが、さて空耳だったのかよくわからない。それにしても季節の変化は順調に流れるわけではなく、人間だけが流されているというわけでもないらしい。土は空気に比べたら変動は少ないはずなのだが。
 そんな日の夜には、他の昆虫の活動も活発になるようだ。飛んでいる虫を捕らえて冷蔵庫に入れてやると動かなくなるのは、彼らの筋肉が冷えきってしまって動かなくなるからだが、気温によって動きが左右される程度は人間よりもはるかに大きい。だから、春先にはヨタヨタと飛んでいるように見える昆虫も、気温がさらに上がってくると動きが滑らかになってくる。そんなわけで、換気のために窓を開けたうえに室内灯をつけていたりすると、虫が部屋の中に入ってきてしまう。大して害を及ぼさないものもいるが、蚊のように歓迎できないものもいる。蝿は大体昼間に活動するから夜になってから部屋に入ってくることはないが、蚊の方は専ら夜に活動するからこういう機会が与えられると乗じてくるようだ。パッと見た目には雄も雌も区別がつかないから、血を吸われる恐れがあるかどうかを考えることもできない。そんなわけで捕まえてしまいたいのだが、たくさんいると面倒になる。それが理由というわけでもないが、蚊を殺すためと言われている装置を購入してあるから、試しに動かしてみた。変な話だが、この装置の効用をはっきりとは認識していない。蚊を殺す薬を散布するものなのか、はたまた蚊が嫌がる臭いをまき散らすものなのか、どちらにしても蚊がやって来なければいいわけだから、どうでもいいことになる。その夜は結局5匹ほどの蚊が入っていたらしく、最後に消した室内灯の下にポトポトと落ちてきた。ふらふら飛んでいるのだが、どうもそれまでの勢いがなく、そのうち墜落してくるのだ。このとき初めて装置の効果を実感することができた。確かに、蚊を弱らせるか殺すかの効果をもっているわけだ。元々蚊に対する対策としては、蚊帳を吊って入ってこないようにする方法があり、それとは別に野外で作業をするなどの時のために蚊取り線香なるものがあった。昔は棒状のもので長い時間使うことができないものだったが、ある会社が渦巻き状のものを作り、その後は専らそれが普及した。あれを使っているときもただ煙たいばかりで、本当に蚊を殺す効果などあるのかしらと思っていたが、成り立ちから見ると何かの効果があるには違いないようだ。除虫菊という植物を乾燥させて燃やすことによって蚊が寄ってこなくなるという話から、その植物の成分を取りだして利用したわけだから。それにしても、煙が出るし臭いはひどいから、部屋の中の臭いや煙の被害が気になる人にとっては、利よりも害を大きく感じるのだろう。火事の危険性もあって、新しい機械が次々に開発され、世に出されていった。板状のものに薬品を浸透させたものを熱することによって散布するものから、徐々に長時間の使用にも耐えられるものが出されてきた。こういうものの開発過程を追いかけるだけでもそれなりの面白味があると思うが、最近の動向を見るとそろそろ限界に達しているように見える。そんなことを思うのは素人の浅はかさで、たぶんまだまだ開発の余地はあるのだろう。次は何が出てくるのか、楽しみではある。

* * * * * * * *

5月13日(木)−犯人捜し

 犯人捜しは何も警察の専売ではないようだ。誰がやったのかとか、誰が否定したのかとか、誰が未納だったのかとか、よくもまあ次から次へと標的を見つけ出すものである。事実を追求することが重要であるというのが彼らの論理なのだろうが、どの事実が重要かの思慮には欠けているらしい。そういう視点に欠けた情報伝達には別の意図が感じられて薄ら寒い思いがする。
 確かに事件の全貌を明らかにするためにはすべての事実を調べ、それぞれについて解析することが必要なのだろう。しかし、情報を流している人々にとって、全貌を明らかにすることが重要かどうか自体に疑問を持つ人も多いのではないか。獲物と読んでもよさそうな標的を見つけ出し、徹底的に糾弾し、隅っこに追い込んで社会から抹殺する、という図式が垣間見えるほど悪質なやり方を行使している場合が多いから、余計にそんな気がしてくるのかも知れない。さらに、個人攻撃などに専心することが多く、結局何が肝心だったのか見失うことが多いのも、こんな感想が出てくる理由となっているのだろう。例として適当かどうかわからないが、年金未納に関する話題など元々あった問題が何だったのか、すっかり忘れ去られているのではないかと思える。広告に登場した女優の場合、年金未納が発覚してその問題が厳しく追究されたが、年金未納云々の問題にばかり話が集中して、確定申告における不正にはあまり注目されなかったのは何故なのかと思えてしまう。税理士の問題とすぐさま片付けていたのだろうが、その前後の経緯の方に興味が湧いてしまった。年金とは関係が薄いという一言で標的としての面白味も薄いと判断されたのだろうか。一方、年金未納期間のあった国会議員の問題は留まるところを知らず、次から次へと間違いを犯した人間が表に出されるようになった。誰かを犯罪者呼ばわりしていた人が間違えたと弁明したり、こんなことの繰り返しが行われても何も変わらないなと思えるのだが、犯人捜しを専門とする人々にとっては仕事にあぶれる恐れはなく、忙しい毎日が送れるというものだ。このことに関する議論の中で、年金制度の複雑さが問題視され、それによって制度の統一が唯一の解決手段であると論じる人が出てくると、年金制度が複雑であることが年金未納の主原因であったのかと思えてくる。納め方が難しいから、将来のことは心配だが納められなかった、ということであれば、この論はまさに的を射ていることになるのだが、議員の年金未納の話が出てくるまではそっちの問題は大して議論されておらず、どちらかといえば複雑なものでも国民の義務を果たすためには理解するのが当然という論の方が優勢だったのではなかろうか。しかし、足下が揺らぎ始めると何が肝心な問題だったのかを見失うのはよくあることで、自分たちが間違えたのだから制度が悪いという論理が展開され始めると、将来の不安は何によって引き起こされているのかという話は脇に動かされてしまったようである。確かに、どちらの問題も重要なのかも知らないが、制度の統一そのものが将来不安を払拭するとは思えないのに、今最重要な事柄は自分たちに関わる話ということになってしまう。追究する人にも一歩引いて遠くから眺める気持ちはないようだ。

* * * * * * * *

5月12日(水)−恐怖感

 人によって恐怖を抱くものは違うようだ。と言っても、他人のことは中々わからないから、そういうことを実感する機会はあまりない。ある時、まったく違う話をしていてふと違いを見つけたような気がして、印象に残った。ただここで話題にしている恐怖は戦争などの極度の緊張を強いられる場で経験するものでなく、ごく平和な場面での恐怖だから大したことはないのかも知れない。
 遊園地に行くと、恐怖を味わわせてくれる乗り物が溢れている。何十年も前だとジェットコースターとかマッドマウスとかがせいぜいで、それも今のものとは比べ物にならないくらい単純な仕掛けでしかなかった。それでも高所恐怖症の人にとっては耐えがたい恐怖を与えられるものだったし、高いところは何ともなくても落ちていく感覚が何とも言えないという人には十分効果の上がる乗り物だった。すべての人がその程度で満足していたら、今の状態はなかったはずなのだが、もっとスリルのあるものをという要望に応えるように次から次へと怪物のような乗り物が登場する。高さを競うものもあれば、速度を競うものもあり、さらには装置の開発により上下逆さまになっても大丈夫なものまで登場した。まさにきりがないとはこのことで、こういう乗り物を楽しめる人々にとっては新しいものが出るたびに心躍る瞬間が訪れることになった。でもそうでない人にとっては、ただ迷惑なだけの存在だろうし、十分は十分なわけだからそれ以上は無用のものである。そんな時の恐怖の話をしていたときに、別種の恐怖との違いに話が及ぶことがあった。コースターを楽しむ人は瞬間の恐怖には抵抗性があるのに対して、どうも継続性、反復性のある恐怖には耐えられないように見える場合があるようだ。後者は、海賊船などと呼ばれる乗り物で、何度も前後に揺れ動くものである。じわじわと迫られるのが嫌、という意見が出る一方で、コースター嫌いの人は次に起こることが予想できるので何ともない、という話をしていた。下らない話かも知れないが、怖いという感覚は結果としては同じところに行き着くのだろうが、その過程がかなり違っていることをこの話は示していないだろうか。何でも怖がる人もいれば、その様式によって怖さの程度をまったく違ったふうに感じる人もいる。これはたぶん遊園地の乗り物にだけ当てはまる話ではなく、他のものに対してもよく似たことが起きそうな気がするのだ。一瞬の怒りをぶつけられたり恐怖を与えることにより精神的な圧力を感じる人と、じわじわと継続的な恐怖を与え続けられることにより精神的に参ってしまう人がいるように思える。どこかの国の諜報機関ではないから、こんなことを必要とするわけでもないが、こんなに些細なことでも人によって感じ方が違うのだということを見つけて、何となく納得してしまった。恐怖という感覚と他の感覚が同じ様式に統一されているのかどうかは定かではないが、上手く利用できるものであるならば儲け話につながるかも知れない。まあ、そんなことを書かなくても、世の中ではその手のやり方で人を騙して大金を巻き上げる事件が頻繁に起きているわけだから、もうとっくの昔に知られた話なのだろうが。

* * * * * * * *

5月11日(火)−聞香

 外食産業は一時の勢いを無くしたとはいえ、まだまだ衰えていないようだ。どこかの店が撤退したとしても、次々と跡を継ぐものが現れる。勝ち組と負け組がはっきりしてしまうのも特徴のようで、それは扱う食材やどこの料理にはよらない部分がある。新種の喫茶店が大流行りになったと思ったら下火になり、次は焼き肉チェーンが様々なタイプの店を各所に展開させている。
 人間にとって、と言うか動物すべてがそうだが、食べることは生きるために必要不可欠なことの一つである。だから食べることに関わる業界は衰えることも滅びることもないと言いたいところだが、こと外食産業に限ってはそうでもないらしい。食材を供給する業種の場合、こじんまりと続けていくだけで良ければ無理なく続けられるのかも知れない。同じことが外食業界にも言えると思うが、組織を大きくすることによる利点を最大限に生かそうと巨大化を図るところがあるのは仕方がないのだろうか。いずれにしても、流れを見ているかぎり、一時的な成長はあっても永遠のものはなさそうに思える。盛者必衰の理り、と言いたくなるところだ。それほど頻繁に出かけない者でも、たまには外での食事を愉しみたくなるから、あの手の業界は全体としては衰えることはなさそうだと思えるのだが、せっかくの愉しみが削がれることがある。洋食系の店ではテーブルクロスを敷いているところがあり、汚れの問題だけでなく、他の調度品などとともに雰囲気を醸し出す役目も負っている。一方で、もう少し手軽な店ではランチョンマットのようなものを敷くところもある。本来は布でできたものなのだが、個人の店ではなくチェーン店では、手間を省くために紙製のものを使っているところが多い。布のものではちゃんときれいになっているのか気になる人もいるだろうが、使い捨てが基本の紙のものではそんなことを気にすることもない。まったく合理的な考えで、特に大量に使われるものとなれば経費節約の一環として役立つと考えられる。それに、紙は印刷ができるから、その店の新しい企画を刷り込んだり、新しいメニューを予告するのにも使える。まったく、良いことばかりのようだが、それだったらこんなところに話題として引っ張り出すようなことはない。毎日多数の客がやってくる店でも、何年も同じ状態が続いているから、苦情はほとんど上がっていないのだろうが、自分を含む一部の人間にとっては、あの紙は食事の愉しみを台なしにするものとしか言い様がない。紙を使うことが森林破壊につながるとか、そんなことを引き合いに出すつもりは毛頭なく、ただ自分たちの食べる愉しみが破壊されるからである。食事は、単にものを食べるということだけでなく、食器との組み合わせなどによって彩りを愉しむことや、食材と香辛料の組み合わせなどから引きだされる香りを愉しむことが重要な要素になっていると言われる。もし、それらが何か他のものによって損なわれたら、どんな気持ちになるだろうか。例の紙には様々なものが印刷されている。印刷するためにはインクを使わねばならないが、どうもそれが原因らしく、とても嫌な臭いを発しているものがあるのだ。パン食べ放題で売っている店もそんなところの一つで、店内アンケートにわざわざ文句を書いたこともあるが、何も変わらない。嗅覚は人それぞれで、同じ匂い物質に対して違った反応を示すことはよくある。自分だけ特殊と考えるべきなのかも知れないが、どうにも納得がいかない。他の印刷物でそういう臭いには出合ったことは少ないから、ある種のインクに含まれる油に限られたものなのだと思うが、その手の苦情はどこからも出ていないのだろう。ついこの間も、煎餅屋の包み紙で同じ臭いがした。特殊な人間にとっては、近寄らないようにする以外手だてはなさそうだ。

* * * * * * * *

5月10日(月)−保護

 ゴミの山に群がる烏を見て、気味悪がらない人はいないと思う。いつの間に増えたのか、都心近郊にはかなりの数が飛来するようだ。住み処の方は高層ビル群の中に営巣するわけにもいかず、どこか周囲の森の中にあるようだが、それにしてもすごい数である。行政が本腰を入れて対策を講じ始めたとはいえ、すぐに効果が現れるようには思えない。
 烏の場合、絶滅が危惧されたわけでもなく、ただ勝手に増えたようだが、それは人間の生活と密接な関係があるようだ。雑食性の鳥だから、自然にある木の実などの植物由来のものから動物由来のものまで何でも食べる。そこにゴミという豊富な餌がふんだんに与えられたわけだから、増えるのが当たり前といえばその通りだ。だから、元々の住み処であるはずの森や林が伐採されてもそれほどの影響も受けず、ただ増え続けることができたのではないか。また、ゴミをそれほど多く出さない農家の周りでうろつくよりも、飽食の時代になり残飯が溢れるようになった都会の繁華街で餌をあさるほうが、明らかに効率良い生活を送ることができるから、移動距離が多少大きくても営巣場所と食事場所の間を往復する生活を始めたのだろう。こういう自己解決型の野生動物に対する対策は簡単には見つかりそうにもないので難しい問題を突きつけているようだが、一方で絶滅が危惧された野生動物が保護の対象になった後、異常な繁殖をみせ、問題視されるようになったのは皮肉なものと言わざるを得ない。ここ数年、各地で見られている異常繁殖が話題として取り上げられることがあるが、鯔の群れの遡上は中々迫力のあるものだった。こちらは保護の対象になっているわけではないのでこの話には関係ないわけだが、それを伝える映像の中にかつて保護対象となっていた鳥が登場していた。映像ではギャング呼ばわりされていたが、カワウはその表現がぴったり来そうなほど、鯔の群れを追い込み次々に丸呑みしていた。この鳥は餌となる魚が捕れそうな地域の森の木の上に営巣する。全国的に道路整備が急速に進められていた時代に、観光地への交通整備や過疎対策も含めた整備により、そういう森の中を通る道路の建設が計画され、営巣地での騒音から繁殖に対する影響が心配された。東海地方のある半島にあるカワウの営巣地では、その地域の自然保護を訴える人々の声が反映され、道路に当時としては画期的な防音壁が設けられた。この話はカワウの保護に関する対策のほんの一例で、他にもいろんな対策がなされたようで、絶滅の危機にあると言われた鳥はその危機を脱することができたようだ。しかし、こういう話はちょうどいいところで終わることはないらしく、それから20年以上経過した今となっては大繁殖とそれによる漁業被害の話題の中心になってしまったようだ。ここまでの話なら、人間に対する話だけで、対象となるものが違うとは言え、保護が功を奏するよりもさらに大きな影響を及ぼしたことから、自業自得と言われるだけかも知れない。しかし、この影響はそれだけには留まらなかったようで、営巣地の木々が立ち枯れし、別の形の保護が叫ばれる状況にまでなっている。自然保護はいかにも聞こえの良い言葉であり、野生動植物を対象とした善意に基づいた行為のように思える。ただ、その場ではその通りの行為なのだろうが、時間の流れとともに起こる変化は予想をはるかに上回るものとなり、場合によっては逆効果となったり全体として悪影響を及ぼすものとなる。ある一つのものを対象とした保護を実施した結果とも言えて、保護という行為の問題点を示しているものとして、最近は考え方が少し変わりつつあるようだ。共生というのもその一つで、このところ話題になっている里山もその一例だろう。親が子供を保護するのと同じ感覚で自然を扱おうとするのは何とも不思議な思いつきであり、自ら壊したものを回復させようとするなど、全体としてみればある意味身勝手な行為ともいえる。試行錯誤が必要なのだろうが、自然の中での自らの存在についての考え方自体に何か思い違いがあるような気もする。

(since 2002/4/3)