ペットボトル全盛の時代のようだ。スポーツドリンクや炭酸飲料などに限らず、お茶や水まであらゆる飲み物がボトル入りで売られている。全部で何種類あるのか数えた人はいないと思うが、ちょっと覗いただけで凄い数になりそうなことがわかる。軽くて持ち運びに便利というのが大流行りの理由なのだろうが、それにしても悪いことは何もないのかと心配になる。
ペットボトルの飲み物は、それを売っている企業が作っていると思われているのだろうか。どの程度知られているのかわからないが、どんな業界にもあるようにこの業界にも下請けのような仕組みがあるようだ。自動車業界や電気業界の様な形式の下請けではなく、業務委託の形での下請け、つまりOEM(Original Equipment Manufacturer:相手先ブランド製造)の様なものである。実際にはちょっと形が違って、中味などはすべて依頼主が指定したうえで、製造のみを請け負う形が大部分で、実際に下請けの方から提案がある例は少ないらしい。ただ、飲み物の調合から瓶詰め、更に梱包して相手先への発送まですべてを請け負うわけだから、代わりに作っていると言ったほうがいいくらいのものだ。何故自社製品を他社に依頼して作らせているのか、という疑問が浮かぶのだが、どうも理由はいくつかあるらしい。その一つに、清涼飲料の人気の盛衰がある。以前店頭で見かけた製品を最近見かけなくなった例は沢山ある。この業界は特にその輪廻が急速で、年間に約四割の製品が消え、新たな製品が発売されるのだそうだ。そういえば、あれもこれも見なくなったと思い出したりするが、こっちの好き嫌いと関係なく動いているようだから、万人の動向を観察しながら操作しているようにも思えない。とにかく、そういう具合に次から次へと新しい製品を世に出すためには、その度に新たな調合法を開発し、それに伴って製造ラインの変更もしなければならない。そうなると、たとえ設備投資に余裕があったとしてもすぐに対応することは難しいし、その上新製品の寿命が明確になっていない時点での投資は控えたくなるものである。そういった状況下で、社外にそんな役割を負ってくれる企業があれば利用しない手はない。相手方も、名が知られていない会社が開発した製品では売り上げが期待できないのに対して、有名企業の名を冠した製品を作るのであれば、ある程度の売り上げが期待できる。そんな均衡の中、お互いの利益を追求する形で、こういうやり方が一般化してきたようだ。新製品が売り上げを伸ばしてから社内での製造に切り換えれば、無駄な投資をしなくて済むだろうし、開発の自由度も上がるのではないだろうか。そんな事情で、新製品の開発は継続し続け、訳のわからないものが巷に出回ることも多くなる。一方で、ペットボトルの飲み物を嫌う人も増えているようで、危険性を説く人もいれば、健康に害を及ぼしかねない健康飲料の存在を危惧する人もいる。お茶くらい自分でいれるという人も多くて、そういう人にとっては高いと映る飲み物が、別の種類の人々にとっては手軽と映るのだから面白い。ここ当分の間は、この業界の勢いはおさまりそうもなく、今後も新製品が次々に世に出されるだろう。その中で下請け的な役割を負っている企業も業績を伸ばしていくに違いない。その姿はまるで食品業界の強みを垣間見ている感じである。
ちょっと前と比べたら、色んなことが便利になっている。銀行の預金残高、電車の時刻などの様々なデータが瞬時に取り出せるのは、ネットのお陰だ。ほとんどのものは無料になっているが、それでも特殊なものは未だに有料。その辺りの違いがどこから来ているのか、今一つ理解できない。気分で決めているのでは、と思うのは下衆の勘ぐりだろうか。
便利さというのは、速度とか手間の違いから来ていることが多いが、一部の人々にとっては、一言も喋らずに手続きができることが便利の意味に繋がっているのではないだろうか。ずっと昔のことだが、スーパーマーケットが世の中に出てきて、何でも揃ったうえに安いということで、一気に普及していった。それまでの市場のような存在は疎まれ、小さな組織であるだけに、消えて行くのもあっという間だったようだ。優勢を誇ったスーパーも一時の勢いは失せ、コンビニエンスストアなるものが登場することによって、別の形の便利さが供給されるようになった。一日中開いているお店には、色んな品物が揃っていて、思わぬ必要が出てきたときこそ活躍してくれる。こうなると価格の問題よりも、予想外の要求に応えることが重要になっていることが実感される。ここまでの流れは、ある一つの事柄も重視されていることによるところが大きいのではないだろうか。市場では、店員とのやり取りが重要であり、そこでの会話から旬のもの、美味しいもの、安い物などの品物の情報を手に入れるだけでなく、料理法を含めた周辺情報まで手にすることができた。しかし、会話が億劫という人々にとっては、そういう店に足を運ぶことさえ面倒になることもあったのではないだろうか。別の便利さを追求することによって、そこに並んでいたはずの人間が奥に引っ込み、自分のやり方で買い物を自由にすることに喜びを見出した人がいるに違いない。その流れが、スーパーからコンビニまで、そのまま継承されてきたが、最近どうも様子が変わってきていると聞く。コンビニで店員が客に向って話しかけているという話題がニュースで取り上げられたのは、半年くらい前のことだろうか。今までは人の話し声のしない店内で、唯一「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございました」という店員の声が響いていたが、別の会話の成立がありそうだというのだ。その系列でのこの戦略の理由は、客への情報提供の再認識にあるようだが、はたしてどんな反応が出ているのか、そろそろ見えてきそうな頃である。確かに、人と話をすることが苦手な人々にとっては、会話自体が忌み嫌われる対象であるかもしれないし、気遣いだけの対象かもしれない。そういう人に話しかけることは単純に迷惑なだけで、意味のない行為と考えられても仕方のないところだ。しかし、世の中はそんな人ばかりで成り立っているのではない。多くの話し好きの人々がいて、会話が成立しない状況でも一言話しかけることが重要と思っている人も多く、実行している人も少なくない。挨拶の大切さを説く人々が出ているが、見知らぬ子供に挨拶されて、怪訝な顔で立ち去る大人は子供たちの目にどう映っているのだろうか。便利になることは歓迎するが、それによって失うものも大きい場合がある。最近ふと思ったのだが、頻繁に利用する高速道路で声をかける機会を失ってしまった。料金所で支払いの時に徴収員に一声かけるのが習慣だったが、ETCなる便利なものはその機会を奪ってしまった。無言で運転し長距離を走っていると、ふとそんなちっぽけなことでも気になるものである。
まさに台風一過と言えるような青空が広がり始めている。それまで停滞していたはずの前線はおそらく台風の動きに促されてどこかに移動してしまったらしい。そうでもないと、こんな急に天気が変わるはずが無いからだ。高気圧、低気圧、台風、前線、その他諸々は突き詰めてしまえば大気の動きである。何かに何かが引きずられても不思議はないのだろう。
それにしても、こんな時期に台風が近づくなんて珍しいこと、と思っている人もいるのではないだろうか。確かに統計的には珍しいことだそうで、めったに起きないことであることには違いない。しかし、よく考えてみると何か思いださないだろうか。ふと思いついたので検索してみたら、やっぱりほとんど消えかけていた記憶は間違っていなかった。一年前の同じ月に本土上陸を果たした台風があったのである。今回のものはそれに比べたらほとんど影響を及ぼさなかったからさらに素早く記憶の片隅に追いやられそうである。それにしても、珍しいことは意外なほど記憶に残っていると言われている割に、こういうことはさっさと忘れるらしい。統計的に珍しいと言えるのは、昨年の上陸は何と38年ぶりの珍事であり、かなり多くの人々にとって記憶の片隅にさえ存在しないものだからだ。気象担当者にしてみれば、そういう統計は大切にしなければならないものだから、今回前の例と違って、誰も騒がなかったことは頷ける。しかし、画面のこちら側にいる人々はそんな記録に疎い人々ばかりだから、いつもの調子で珍しさに目がいってしまったようだ。今回はそれほど接近しなかったから風による被害はなかったようだが、ここ数日も含めて雨による被害は大きくなる可能性がありそうだ。たまたまなのか、何かの関連があるのか、このところ雨を降らせていた前線との連携によって、場所によってはかなりの雨量があったらしいし、今後もありそうだからだ。騒ぎが大きくならなかった原因として、もう一つ考えられるのは別の事件が起きていたからというのもありそうだ。立てこもりも注目されたし、外国訪問の話もそうだ。さらに、人格云々の犯人捜しは未だに続いているようである。話題に事欠かないと言ってしまえばそれまでだが、話題に対する興味の持ち方や、その中での注目される事柄については、どうも首を傾げたくなるものが多すぎる。ある見方をすれば、この国が平和である証拠ということになるし、別の見方をすれば、景気が悪い証拠であるということになる。これまた、原因を追及したとて、何も得られるものはなさそうだから、結局画面の向こう側にいる人々が飽きて、別の話題に目を移すのを冷ややかに見守るぐらいしかなさそうである。その変化は、関係者にとってはまさに台風一過であり、それまで吹き荒れた批判の嵐が、急になくなるわけだ。こっちの台風も歓迎できないものである。
障害と聞くとどんな意味と捉えるのだろう。ここでは、障害物競走の障害ではなく、機能障害と言うべきもののことなのだが。手元にある辞書によれば、「正常な進行や活動の妨げとなるもの。」とあるのだが、どうもこれだけでは不十分な気がしてくる。障害者を表現するのには少し舌足らずな印象があるからだ。
どこが気になっているのかといえば、たとえば骨を折ったり、怪我をして、手が動かせない状態にある場合、上にあるような意味からすれば障害と言えるものにあたるが、実際にはそういう人を障害者と呼ぶことはない。一時的な機能障害で回復の見込みのあるものに関しては、それを持つ人々を障害者と呼ぶことはないのだと思う。そういう考え方からすれば、障害者の持つ障害とは回復できないものとなるように思える。ここで言う回復とは、たとえば目や耳に障害を持つ人がある機械や道具を使うことによって、その障害を補うことができることを指すのではなく、そういう助け無しでも正常な機能を果たすことができるようになることを指している。そう考えると何か大きな損傷を負うことによって失明したり、手足を失うことだけでなく、先天性の遺伝病などによって生まれながらにして障害を持つ人々も障害者と呼ぶことになる。ただ、実際には個体差程度の違いを示す遺伝的要因とどう見ても障害と呼ぶべき日常生活に支障を来すほどのものがあり、どちらかといえば原因の問題ではなく、結果によって区別が行われると言えるのだろう。この手の話題はここでも何度か取り上げたような気がするが、以前と違って町中でそういう人々を見かけることが多くなったような気がする。たとえば、脳卒中などで手足にマヒが残ったり、言葉に不自由する人々がいるが、以前に比べるとリハビリを兼ねての散歩に出ている人の姿をよく見かけるようになった。また、ダウン症と呼ばれる先天性の病気を持つ子供達の姿も、いろんなところで見ることができる。既にテレビドラマで紹介されたり、いろんなところで見聞きするようになったから、知らない人は少ないと思うが、ダウン症には一目でそれとわかるある特徴がある。障害の程度の多少があっても、顔つきが兄弟のように似ているのである。これはどの人種に対しても同じ特徴であり、初めにこの病気に気がついた医師はその顔つきから蒙古症と呼んだくらいなのだ。さすがに人種差別に繋がることからこの呼称は最近使われないようになったが、30年ほど前まではごく当たり前に使われていたようである。この原因にはいくつかあるのだが、その中で最も頻繁なものは二本一組の染色体が三本になってしまうことである。それが起きるきっかけは色々とあるのだろうが、染色体の様子を見るだけで見つけることができるから、最近はそういった検査が行われるようになっている。但し、検査自体に危険性がまったくないわけではないので、誰にでも行われるものではない。また、検査の時期も難しい問題を孕んでいるから、原因がわかったからと言って、すぐに解決につながるわけではないことがよくわかる。では、先天性の障害がすべてそうかと言うとそうでもなく、対症療法的にうまい回避方法が見つけられたものもある。いずれにしても、障害を回避したり、取り除く方法の開発も大切なことだが、社会として障害者にどう向き合うのかも重要な課題だろう。但し、これは保護とか保障とかいうものだけでない、それぞれの人ができそうなことがあるかも知れないという話である。そう簡単なことでないのだろうが。
このところまた、ウイルスを詰め込んだメールが飛び回っているようだ。ネット社会と呼ばれるようになり、誰彼なく使うことができるようになったのは、とても便利なものであるけれども、その一方で悪しき心を持つ人々にとっても便利なものになったらしい。病気のウイルスの広がりが以前より速く大きくなったのは、交通機関の発達によるものだが、ネットも同じことなのだろう。
以前は仕事関係からウイルスメールが頻繁に届いていた。初期のものは感染したコンピュータが発信元になっていたから、すぐに特定できて知らせることもあったが、悪事を働く者は当然悪知恵が働くものである。感染したコンピュータのメールソフトにあるアドレスリストの中のどれかを適当に選んで、発信者とするように仕組むものが主流となった。それでも、メールはネット上のどこをどう通ってきたのかを調べることができるから、ある程度の特定ができる。ある特定のコンピュータとまではいかなくても、場所が特定できれば注意を促すことも可能だからだ。本来はそんなことは仕事とは無関係で邪魔なだけだから、こういう違法行為は様々な形で罰するべきだと思う。ただ、病気のウイルスと同様に、大元となったものを捕らえても、感染者が巷をうろうろしては不十分である。確かに、ワクチンや除去法を供給することによってある程度の解決が図られるが、それとて後手に回るわけだから初期の迷惑は避けられない。要は、怪しいメールを開かぬことと言えるわけだが、勝手に開くように設定してあるソフトもあるようだから、こちらも便利さが必ずしもいい結果を生むとは限らぬことを示している。仕事関係は組織全体にウイルス感知の仕掛けがなされており、出入りどちらにもチェックが入る。そのため、最近ではそういったメールが舞い込むことはなくなった。しかし、一方でウイルスメール自体が無くなっていないことが実感できるのは、フリーメールのアカウントの方だ。このサイトの管理のために設置してあるアドレスや以前使っていたアドレスには、このところ一日に数件のウイルスメールが舞い込む。以前であれば、これらの多くはフリーメールやプロバイダのアドレスから送られたことになっていたが、このところ企業のアドレスから送られていることになっている。これは何を意味するのだろうか。すぐに思いつくのは、こちらから職場のアドレスにメールを送ったか、あるいはこちらに職場から送った人の関係するところに感染が起きている可能性だ。すべての人がこれを読んでいるわけではないから、注意を喚起するのには不十分だが、その可能性は十分にあると思われる。知りあいの一人にメールをほとんど使わない人がいるが、そこにもウイルスが送られてきたそうである。問題はどのようにしてその人のアドレスが知られたかということで、それまでにメール交換をしたのは二人か三人だそうだから、あっという間に特定ができそうなものだ。感染に気づかぬ人も悪いという意見も最近はでているが、風邪にかかったときにそんな形で厳しく言われることは少ないのではないか。結局のところ、誰でも使うことができるシステムを構築した以上、こういったリスクはつきものであり、それに対抗する措置を整備する必要を考えねばならないのだろう。
象牙の塔と呼ばれる存在は、俗世間から隔絶された俗人には理解しがたいことを学び、追い求める人々の住むところという意味が込められていたようだ。塔と呼んだのは、近寄りがたいものという意味を込めると同時に、先の尖ったもの、尖塔を指すことによって一つの事柄に集中し、研ぎ澄まされたものを表現しようとしたのだろう。
俗世間から離れた人々は世俗的なことに疎く、隔離された世界でのみその存在価値を表現することができるというのが通例だったのだろうが、この頃はそんな雰囲気など微塵も見えない人々が塔の中を行き交っているようだ。研究で培った知識を特許という形に結実させ、商業主義に乗るべく動き回る人もいれば、ある成果を手に自ら企業を興し、経済戦争の真っ只中に出ていく人もいる。世俗的なことに疎くてはこういう活動は困難であり、また研究の方向もそれに適したほうに向くはずもない。そういう意味で、以前とはまったく別種の人間が住みつくようになった塔には、さらに多種多様な人間どもが蠢くようになってきたようだ。ある部分で世俗的でない人間は、外の世界から隔絶された空間で自らの考えに従い、身勝手な解釈を展開することも多い。そうすることで他人から見れば取るに足らないことに神経を集中させることができ、自らが満足できる結果を得ることができるわけだから、こういう考え方はそんな世界に暮らす人々にとっては重要なものとなる。ただ、これが学問の上だけの出来事であれば害も少なく、さほど気にする必要もないのだが、狭い世界とは言え社会生活のようなものにまで同じ考え方を適用すると、違法行為に繋がることになり、世間から厳しい罰が下されることがある。ハラスメントはその一つであり、ずっと以前から問題視されていたにも関わらず、狭い世界を牛耳っている人間に対する対応の難しさからほとんど放置されていたものである。最近は、獲物を求めている一部の人々に格好の餌を与えるものとなっているから、各地で訴訟などが起き、当事者たちは厳しい状況に追い込まれている。これはどちらかというとあまり世俗的でないものが外に出される形になった結果であり、外部環境の変化に塔の内部が適応できないままで来たのが原因だろうから、変化できなかった例というべきなのかも知れない。一方、俗化してきたと思われるものの一つに、情報化社会特有の問題と関わるものがある。ネット上でファイルを無断で獲得するためのソフトを配布したという話やあるサイトにある情報に違法にアクセスしたという話が最近取り上げられているが、どちらも象牙の塔の住人の仕業とされている。この手の事件は以前ならばそういう知識を持った人々が行うものであり、若年層であったり、関連企業に属していたり、という話が多かったと思う。ところが、このところ研究をする立場にある人々の違法行為が表沙汰になるようになり、この辺りの事情に変化が現れているように思える。見方の問題かも知れないが、世間が必要とする技術を提供しようとする人々が、象牙の塔に住むようになったと言えるのではないだろうか。この動きを見ていると、世俗からかけ離れた世界が世俗そのものを反映する世界に変わりつつあることが想像できる。そんな中で何が行われるようになるのか、期待したほうが良いのだろうか。
良いときでも悪いときでもずっとそのまま変わらないということはない。気がつかないくらい小さな変化がどこかで起きているもので、それが表に出てきてからなるほどと思わされることも多い。また変化が起きているときにはそれがどちらに向かっているのかわからないことが多いから、どっちにも解釈できて、人それぞれの見方や先の読み方によって違ってくる。
経済の動きを気にする人は多く、いろんな指標を持ちだして自分の解釈を強化しようとする。ただ、同じ指標でも人によっては正反対の受け取り方をすることも多く、数字が事実を語るという話はすぐには信じられないものだ。とは言え、数字以外には客観的に扱えるものは少なく、それらを引き合いに出して話をしないと端から信じてもらえないことになるようだ。景気の指標としてよく目にするのは、企業の設備投資、消費動向、住宅の新築などだろうか。どれも、今後を占ううえで重要な指標として評価されている。しかし、同じ数字の推移を見ても違う解釈が出てくるから、数字の動きだけで結論が導き出されるものでないことは明らかなようだ。結局は、その後の経緯を注視して、結果と以前に示された指標の推移との相関を引きだす作業を待たねばならず、はじめの小さな動きですべてを語る手法はおいそれと見つかりそうにもない。景気が上向きになりつつあるという意見が全体的なものになったからか、それとももっと以前からその動きがあったからか、住宅建設が盛んに行われている地域もあるようだ。近所の分譲地でも一つ二つと工事が始まっている。個性の時代だからか、たまたま建築業者が違うからか、それぞれにまったく違った形の建物が造られ、それを眺めているだけでも面白いものである。鉄骨を使ったタイプのものから、従来の木造建築まで様々なものがあり、まるで住宅展示場のような雰囲気だが、展示場との違いは歴然としている。展示場ではでき上がった住宅を見学するだけなのに対して、こういう現場では実際に作られていく過程が眺められるからかなり違った雰囲気が味わえる。施工業者は時間に追われながら急な速度で建築を行っており、いかにも急がされている感じが伝わってくる。一方注文主の姿はほとんど見られず、全面的に信用しているのか、はたまた見てもどうせわからないというつもりなのかわからないけれども、ちょっと不安を覚えるところもある。先日も基礎工事を行っているところをたまたま眺めることができたが、基礎の枠組みの中にコンクリートを流し込むところで、ちょっと気になったことがある。どろどろと流し込まれるコンクリートはミキサー車から直接注ぎ込まれていたのだが、とても素直に枠の中に広がっていた。それはまるで泥水を流し込むような感じさえしていた。ふと思いだしたのは新幹線の高架工事やトンネル工事の現場の話である。コンクリートの強度を保つためには水の割合が重要であり、缶に入れたものを逆さまにして缶から出したときにどうなるかがその指標という話だった。目の前で広げられているものはまるでその時の悪い見本のような代物だったのである。さて、どんなことになるのか他人のことだから関係ないといえばその通り、ただその後も固まった上にすぐ骨組みが組まれてあっという間に大枠ができ上がってくるのを見ると、ちょっと怪しい気がしてくる。手抜きかどうか、素人にはわからぬものだが、注文主の目があるのとないのとでは少し違ってくるものなのかも知れない。