パンチの独り言

(2004年5月24日〜5月30日)
(どっちが先、英語検定、社会復帰、自由競争、天然記念物、自尊心、肥満体型)



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5月30日(日)−肥満体型

 飽食の時代と言われたのはいつ頃だったのだろうか。それ以降もその傾向はあまり大きく変わっていないような気がするが、たぶん訳のわからぬものに大枚はたくというやり方は少なくなったようだ。値段が高ければ何でも良いという勘違いは少なくなったが、一方で食べ過ぎに関してはその後の変化は少ないようだ。癖がついてしまったものを戻すのは難しいのだろうか。
 食べ過ぎ、栄養過多といった話から成人病の話につなげてしまうと、どうも気になってくるからそちらの方には進みたくない。それ以上に気になることがあるというやり方で、自分に火の粉が降りかかるのだけは避けたいところだ。食べ物をたくさん食べ過ぎたときに一番に表面化する問題はおそらく肥満だろう。肥満と言っても世の中には色々とあり、太り過ぎという話でも人それぞれに解釈が異なる。体型に現れるものもあるし、そうでないものもあるわけだ。しかし、以前に比べてちょっと事情が変わったような気がすることがある。肥満が社会問題となり、体重の調整の有無が人間の能力の有無と結びつけられるまでになった国では、社会的地位の高い人ほど体重の増減に気を遣っているようだ。その一方で、街を歩く人々を眺めていると腰の辺りの肉付きに特徴のある人を見かける。何と表現したらいいのか、たぶんひし形体型とでも言うのだろうか。腰の辺りが極端に広がっている体つきの人々が行き来するのを見かけることがある。そんな人がスーパーでダイエット飲料を買っていたりすると、はてさてと考えてしまうのは当然だろう。そういう体型はこの国ではとんと見かけなかったものだが、最近そういう話がしにくくなってきたように思う。特に20代くらいに多いような気がするのだが、いわゆるひし形体型の人々を身近に感じるようになってきたのだ。体重の増加とともに体型が変化すると言っても、その程度には限界があり、それは人種による差なのだろうと思っていたのだが、この頃その考えを改めねばならないのでは、と思うようになった。それほど腰周辺の肉付きの良い人々が増えてきたように感じられるのだ。世の中では、太り過ぎを気にする人々が増えていると聞くのに、目の前にとんでもなく過ぎた人がいるのを見ると何事かと思ってしまう。この辺りの事情は理解できないままなのだが、事実が目の前にあるわけで反論のしようがない。さてどうしたものかと考えたりするのだが、肥満を気にしない人々の中にそういう体型に発展してしまう人がいるという単純な考えくらいしか思いつかないものだ。以前に比べると脂肪の摂りすぎやカロリー過多の食事の問題が深刻になっているわけで、そんな中で太り過ぎを気にする人は苦心しているのだろうが、そうでない人たちは留まるところを知らないという状況に陥っているのではないだろうか。人間の体の順応性の高さはこんなところにも現れていて、摂取したカロリー、脂肪量に合わせた体型の変化が起きたとしか考えられない。本人たちが気にしているのかどうか質問したことがないので何とも言えないが、もしかしたら大して気にも留めていないのかと思うことがある。今後もこの傾向が続くとしたら、あちらの国の抱える問題に一歩遅れて取り組むことになるのかも知れないと心配になる。こういうところの欧米化はあんまり歓迎したくないものだが。

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5月29日(土)−自尊心

 車の中で聴いていたラジオで、respect yourselfという曲が紹介されていた。流暢な日本語を話すパーソナリティーによれば、これを自尊心と訳すのはちょっとずれているのでは、とのことだった。日本語での自尊心はあまりいい印象を与えるものではないのに対して、respect yourselfはいい意味で使われるからなのだそうだ。他人を尊敬するには、まず自分自身を、という意味で。
 その中で紹介されていた話の一つに、歌詞の中に大統領を批判するだけでなく、自分自身の行動を振り返ることも大切であるという意味の部分があるそうで、今流行りの自己責任と繋がる話なのではと結んでいた。この手の話はどこへ行ってもあるらしく、他人を批判することが得意なのは、何もこの国の人々に限ったことではないのがわかる。成長の過程で、子供が大人の社会を批判することはよくあることだが、いつまで経ってもその状況が変わらないという雰囲気が感じられる。学校に通っているときに、理不尽な校則に逆らって、いろんな違反行為を続けた子供たちが、大人になっても法律を守らないとか、社会的ルールを破るといったことを続ける場合、子供と大人の図式が解消していないのではないかと思えるのだ。そういう意味で、自尊心とは身勝手なものであり、他人との関わりを無視したものと映ってしまうのは、やむを得ないのかも知れない。だから、respect yourselfは自尊心と置き換えるのではなく、自分自身を正当に評価するとするほうがいいのではないかとラジオの中では結論していた。正当な評価とは、自分にとって有利なものばかりでなく、不利なものも含めたうえで、正しい評価を下すという意味だから、身勝手なものになるはずもなく、そういう自己評価ができれば他人の評価もちゃんとできるだろうという具合に繋がる。それで、respect someone elseとなれば、そちらも正当な評価をすることになるのだろう。こういう状況を子供化と以前書いたような気がするが、こんな書き方をすると自分なりのしっかりした考えを持つ子供たちに反論されそうである。確かに、そこには子供とか大人とかいった区別ではない、何か別の分類があり、それによって人々の心の動きを捉えようとする試みがあるようだ。いつまでも社会全体を相手にした批判ばかりが横行し、自己批判を避けることを続ければ、自分自身を正当に評価することなど起きるはずもない。これはまるでぐるぐる回る輪の中を回り続けるようなもので、こういう方向に動き出してしまうと、止めることもできないし方針転換も難しくなる。そうなってしまってから何とかしようとしても無理であると言ってしまうと元も子もなくなるが、どこかにそういう流れを断ち切る段階があり、それが言い方はよくないかも知れないが、大人への変貌の時ということなのかも知れない。いろんなものが成長しても、こういう肝心なことに成長が無ければ、社会として成熟する機会は失われる。誰しもその社会の構成員であるからだ。では、破られる運命にあるルールを定めることがこの問題の解決に繋がるのだろうか。どうも、そう思えない気がする。

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5月28日(金)−天然記念物

 このところ一週間おきに同じような話題が続いている。書くほうは何も意識せずに、気に留まった話を切り出しているだけなのだが、ここを書くときに前の週の同じ曜日のファイルをコピーして貼り付けたあと、本文のみを削除してから始めるから、どんな内容だったのか確認できる。気になることが一週間ごとに頭に浮かぶとは考えられないから、単なる偶然なのだろう。
 偶然とはいえ、そういうことが続くとまた次も、と思いたくなるものだが、前の話題は台風だからさすがに繰り返しはできそうにもない。このところの異常気象といえば、北日本での高温、特に北海道の話題となるのだろうが、たまたまの気温の上昇で片付けてしまえばそれまでの話題のように思える。では、何を取り上げるのかとなると、これが難しい。忙しさもあって、落ち着いて考えることができないから、話題を複数考えておくということもない。朝起きてから、ここにやって来るまでが勝負のはずだが、新聞にもテレビにも面白そうな話題がないことは多い。そうなってくると、引き出しの奥から何か引っ張り出さねばならなくなり、無理矢理の感は否めないがそんな話題を埃をはたきながら取り上げてみることにする。ニホンカモシカ、オオサンショウウオと聞くと何を連想するだろうか。珍しい動物、確かにそうである。だからこそ、保護せねばならぬと考えた人がいたらしく、古い建物や芸術品と同じように文化財として括り、指定をすることによってそれを現実のものとした。天然記念物はそんな経緯から半世紀以上前に始められたものである。但し、動植物に限るわけではなく、奇岩のような景観も含まれるようだ。自然のなせる業を保存しようという気持ちの現れなのだろう。最近は環境の問題からレッドデータブックなるものが話題となり、絶滅危惧種の保護が強く訴えられるようになっているが、ずっと昔からそういう動きがあったことを知らない人がいるのかも知れない。ただ、この指定が中々難しいらしく、そういう意味では別の形で絶滅危惧種の現状を訴えることの意義はありそうである。また、天然記念物の指定にはいろんな形式があるらしく、動植物そのものを指定する場合と、地域も含めて指定する場合がある。つまり、全国どこへ行っても天然記念物であり、保護の対象であるとするものと、ある地域に限って天然記念物であり、それを外れればただの生き物となるものがあるわけだ。これは誤解に基づくものという指摘もあるが、実際にはどちらのことかはっきりしない場合が多い。ちょっと調べてみると天然記念物と呼ばずに、特別天然記念物と呼ばれる場合もあり、その違いがどこにあるのかすぐには理解できない。そんな疑問を抱く人はどこにでもいるらしく、いろんなサイトでそのことが解説されている。つまり、天然記念物は重要文化財に相当するものであり、さらに特別に指定された特別天然記念物は国宝に相当するものであるというわけだ。何だか、わかったような、わからないような話だが、そんな解説をしているところが多いところを見ると、その程度の分類のようである。指定されることの功罪は色々とあると言われるが、増えすぎて別の被害が出たという話もあるし、一方で生き物だけを保護しようとしても環境が保護されなければ同じことという指摘もある。大切なものを守ろうとする気持ちから始まったことなのだろうが、どうすれば実現するのかという問題はそれだけでは解決しなかったようだ。

週刊天然記念物


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5月27日(木)−自由競争

 健康保険の本人の負担が3割になってから起きた変化についての調査があったようだ。糖尿病などの慢性疾患の患者の処方薬の購入割合が話題になっており、それが負担増によって下がったという結果だった。慢性疾患では毎日の服薬が最低条件なので、それほど厳しい状況にあるという主旨だったのだろうが、いかんせん元々の購入割合が低くて、患者自身の意識の調査のようにもみえた。
 毎日のように飲まなければならない薬を処方されるようになった人々にとっては、薬の値段は生計を圧迫する要因の一つとなる。少しでも安い薬を手に入れようとする人々が出てくるのも無理はないが、この国の場合処方薬の価格には薬局による違いはあまりないようだ。だから、保険での本人負担として問題になるのは、どれだけの割合負担せねばならないかであって、元々の薬の値段というわけでもない。ただ、健康保険などというこの国独自の問題ではなく、慢性疾患のための薬の価格に関する問題はどこの国にもあるようで、最近それにまつわる国際問題が話題になっている。以前から、バスツアーを組んで隣国に出かける人々がいるという話が北米大陸にあった。このツアーは一種の買い物ツアーなのだが、それはブランド品を目的としたものではなく、薬を買いに行くためのものである。カナダは国の政策から薬価が低く抑えられており、隣国と比べると二、三割から場合によっては七割も安くなっている。その差額に気がついた人がカナダでも米国の処方箋が有効であることを確認し、個人で買薬旅行を行っていたらしい。それが一種の商売となり、バスを仕立てて隣国までのツアーをするまでになったという話は、数年前に話題になったから聞いたことのある人がいるかも知れない。ここまでの状況ではカナダの方も国としてこういう行為を黙認していたようだが、こういった商売は顧客が望むだけ拡大する傾向にあるから、留まるところを知らず黙っていられない状況にまでなってきたようだ。特に、インターネットを介しての個人輸入が一般化してくると、それを利用した医薬品の販売が可能となり、この拡大に一段と拍車をかけてしまったらしい。同じ買い物でもどこにも行かずに自宅から気軽に行えるのと、わざわざバスに乗って何日もかけて出かけるのとでは雲泥の差があるのだろう。黙認できる範囲をはるかに上回る取引が毎日行われるようになってしまうと、さすがのカナダ政府も黙っていられなくなったようだ。ただ、最近の報道では制限を加えることは困難だから、合法化する方向に動いているらしく、これが自国内の薬価の調整にどのような影響を与えるのか、また大量の輸出によって国内の需要をまかなえなくなるのではないかという問題がでているようだ。自由競争を謳った国は国内での競争だけでは満足せず、他国を巻き込んだ競争を展開しているように最近は感じられるようになっている。ただ、対等を条件とした競争を展開しているようには思えない例がたくさん出てきて、かなり大きな問題を生み出しているように見える。薬の例はどこがどうずれているのか、今のところはっきりとした答えは出せないようだが、農畜産物の場合は政府の補助金を利用した価格下落が原因の国際問題が話題になっている。国内の産業を保護するための施策に関しては、この国が何度もやり玉に上がっているが、直接的ではないにしろ輸出品の価格を下げるための補助金という具合に見えてしまう施策について、相手をやり玉に上げるのが得意な国は一切気にする様子はないらしい。自由と勝手の履き違えがここら辺にもあるようだ。

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5月26日(水)−社会復帰

 一週間前に話題に出したウイルスメールがまだやって来ている。おそらく、感染したパソコンの持ち主である当人は気がついていないのだろう。しかし、そこにある送り主のアドレスを見ると、機械や金属系の企業であり、そんなところからメールを受け取ったことのある人に違いない。受信の拒否や配達不能などの知らせがこちらにやってくるところを見ると、こっちのアドレスもいろんなところに流布されているようだ。
 それにしても、たった一人にしてもそういう人が組織内にいて、自分自身でこういう事態に気づくことが無いとどうにもならないとはどういうことだろう。本来は、組織の管理者が気づくのだと思うが、そうなっていないとしか考えられない。しかし、もう一つの可能性があり、仕事上のメールを自宅に転送する仕掛けを組んでいる人がいた場合、組織とは無関係な形でこういう事態が起きる。これはこれで困ったものだと思うが、あらゆることに自己責任が叫ばれている状況では、当人が気づくのを待つしかないものだ。一度気づけば、ウイルスの除去やらOSのインストールなどのいろんな機能回復法は様々なところで紹介されているからパソコンに精通していない人でも何とかなりそうである。ウイルスメールを受け取らされる方としては、何とか早く気がついてくれないかと願うのみで、その後の適切な対応に期待するしかない。リハビリ後には以前と変わらない状態に落ち着くはずで、何事もなかったかのごとくとなるのだろう。ファイル破壊を専門にするウイルスが蔓延したらと心配する向きがあるのも、こんな感染状況から何となくわかる気がする。パソコンのリハビリ環境はこんな経緯からかなり整ってきたと言えるのだろうが、根本のところでの解決にはまだほど遠いようだ。一方人間の方の機能回復のためのリハビリは、脳梗塞などで半身不随になった人が散歩する姿をよく見かけるようになったことや社会復帰に対する考え方の変化などから、以前に比べると格段の進歩があったように思う。友人の一人の父親が転倒によって骨折してしまったときに、老齢ということもあり、機能回復は当初かなり難しいと考えられていた。しかし、ある警備会社が関係するリハビリ専門の病院に通うこととなり、指示通りに励んでいたら、ほとんど元通りに回復したというから驚いた。老齢者の骨折に対する考え方が大きく変化したことによるものだが、それにしても施設の整備という面での進歩もすごいものがあるのだろう。初めのうちは手探り状態だったリハビリのための方法も、いろんな症例に対する処置を重ねることによって最善のものが見つかるようになってきたのではないだろうか。人間の機能回復力のすごさはこういうところを見ていて実感するが、その手順を間違えるとうまくいかないことが多いらしい。その意味で、こういう施設の存在は大きなものとなっているのだろう。先日倒れた野球関係者も、広告出演から想像するに、この施設でリハビリに励む毎日を送っているのかも知れない。

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5月25日(火)−英語検定

 時々、英語の文書と取っ組み合いをしなければならないことがある。どんなものでもそうだが、文書の形になっている場合、完全に理解した上で対応せねばならないから、何かと慎重になる。会話であれば、その場限りといった面もあり問題にならないわけだが、証拠が残る文書の場合、読み取ることも書くこともいい加減にはできないわけだ。
 業務の上で英語を必要とする人々は増え続けているだろう。以前であれば、英語を理解するとか英会話ができるというだけで珍重されていたものが、誰でもある程度はこなせるものというごく当たり前の雰囲気になってきた。そういう中で、英語能力を測る指標が重視されるようになり、国内のものであれば英語検定となるのだが、こちらの方はあまり取り上げられていないようだ。国際化が好きな国民としては、世界共通で使われているものの方がありがたいというか権威があるように見えるらしく、企業関係ではTOEIC、学校関係ではTOEFLという試験を採用している。TOEICは、the Test of English for International Communicationの略であり、TOEFLは、the Test of English as a Foreign Languageの略である。どちらにしても、英語による意志交換に必要な能力を測る指標となるが、後者の場合英語を母国語としない人々のためのものだから、特に英語圏への留学の際に要求されることが多い。点数の付け方も独特のものがあり、テストの難易によらない点数化を図っている。とにかく、様々なところでこの手の点数が要求されることになっているようで、企業によっては昇進に影響があるところもあると聞く。英語圏との取引が当たり前となっているし、その上その他の地域でも共通言語として英語を使わざるをえない状況では、こういう流れは当然のことなのだろう。高得点を目指すためにはそれなりの努力が必要で、日常生活に困らない程度の会話ができるだけでは十分とは言えないらしい。一方で、傾向と対策に力を入れることが日常的になっている国では、高得点獲得のための秘術を記した本が山のように出版されている。どこにもそんな秘術はないはずなのだが、藁をも攫む人々にとっては重要なもののようで次から次へと新種が登場する。確かに集中的に勉強して、その能力を高める努力をすることは重要だが、対策を講じるばかりになってくるとそのあたりに歪みが生じることもあるようだ。巷の噂話に過ぎないが、こういうテストで高得点をとった人が英語による会話に四苦八苦していたという話が時々流れてくる。そういう状況を目撃したことが無いので、これは単なる噂に過ぎず、そんなことはどこにもないのかも知れないが、傾向と対策による弊害がいろんなところで叫ばれていることからすると、何となく納得してしまいそうな話題だ。これだけとか、こうすればとか、そんな誘いの言葉で始まる対策本では、そんなことになってしまうのも無理はないと思えてしまう。現実はおそらく違ったものなのだろうが、ついそんなことが気になってしまう。

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5月24日(月)−どっちが先

 教育の義務とは何のことだろうか。まさか誤解している人はいないと思うが、教育を受ける義務ではなく、教育を受けさせる義務のことである。子供自身が教育を授かる場に近づけなかった頃、それではいけないということから決められたもののようだ。さて、そんな話は遠い昔になってしまった今、義務教育とはどんな形に受け取られているのだろうか。
 一部には誰でも同等の教育を受けられる権利があるという形で義務教育を解釈する人がいるようだ。それがどの程度正しいのか、あるいはどこが間違っているのか、論じるつもりはない。それぞれに細かなところで違いがあって、おいそれと結論づけられないからということもあるし、そのこと自体に意味のあるものかどうかという気持ちもある。とにかく、当たり前のこととなってしまった義務教育は重んじられるところがずれてしまった感じで、教育を受ける権利が与えられていることをありがたく思う人もほとんどいない。一方で、そこまでが当たり前になると、次に来る段階も当たり前になりつつあり、高校、大学への進学率は欧米と比べてもかなり高いほうになったようだ。誰でも行けるようになるということは、誰しも行かねばならぬという方向に向かわせる力が働き始めるようで、直接的な目的もなく進学する人々は年々増えている。そうなると、そこにいること自体に意味があるわけで、そこで何をするのかは問題とならなくなる場合も多くなる。勉学意欲もなく何かを学ぶ場所に行くことは、教育の義務化が図られた時代には考えられなかったことだろうが、今ではごく普通のことのように受け取られている。目的意識の欠如とか、意欲の欠如とか、そんな形で取り上げられている問題だが、実際にはどうもそんな次元の問題でもなさそうだ。しかし、一方で、この問題を深刻に取り上げる人々もたくさんいて、その中には問題を抱えた子供の親が多くいるようだ。毎日漫然と家と学校の間を往復するのみの子供や学校には姿を見せずどこかをうろつく子供を持つ親としては、原因がどこにあるかということよりも今目の前の問題を片付ける即効薬が待望されている。さすがにそんな特効薬は存在しないらしく、諦め半分で自発的な動きを待つだけになるのだが、将来そうなるかも知れない子供を持つ親達は、何かしらの準備をしようとするようだ。こんな時代だからだろうか、それとも別の要因があるからだろうか、ある新聞の調査によれば大学の学費を子供に負担させようとする親が増えているそうだ。それによって、大学での勉学に対する意識を高めようという気持ちがあるらしいが、こういう話を聞くたびに首を傾げてしまう。確かに、金がすべての世界かも知れないが、意欲とか気持ちとかまで金と絡めてしまう考え方にはうんざりさせられる。最近のこの手の考え方には順序の誤解があるような気がしてならないのだ。金を払えば意欲が出てくるなどと考える輩には子供に教育を受けさせる気持ちなど無いのではないか。意欲さえあれば金のことなどどうにかできるという考え方には到底行き着けない気がするのだ。物事の捉え方は人それぞれであり、いろんな形があってもいいと思うが、何が重要なのか見分ける力を失っているような感じがする。そんな話を大袈裟に取り上げる新聞もどこかボタンのかけ違えをしたままなのが更なる心配の種なのだが。

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