パンチの独り言

(2004年5月31日〜6月6日)
(独自性、信教、所変われば、変わらぬ、屑メール、晴れ間、無責任論)



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6月6日(日)−無責任論

 最近色んなところで責任論が喧しいほど展開されるようになってきた。ちょっと不思議な感じもするが、これは責任の重要性が認められてきたというのではなく、逆に責任が蔑ろにされているからというほうが当てはまっているようである。責任ある立場にある人たちが責任を果たさない世の中になってきたからこそ、責任の重要性を再認識しなければならないといったところだろうか。但し、すべての人が例外なく責任ある立場にあることは触れられていない。
 自己責任という言葉が紙面や画面を踊っていたのはほんの少し前のことなのだが、どうも議論が極端な方向に走ったせいもあって、その後はこの話題も注目されなくなってしまった。当たり前のことを議論すると、それ以上のことを要求することに繋がるらしく、それによって行き過ぎが糾弾され、本来の議論の目的までも打ち砕かれてしまう。これは何も自己責任に限ったことでなく、最近話題として取り上げられることほとんどすべてに当てはまりそうな状況だ。ある話題を取り上げると次に登場するのは、渦中の人々への攻撃と受け取られかねない意見である。確かに具体的に相手をあげて話をしたほうが、聴いている側にもわかりやすくなる。しかし、それが多数の中の一例ではなく、特定の例における議論となってしまうと、個人攻撃やつるし上げとも思える言葉の暴力の連続となってしまう。見せ物としての面白さばかりが評価される世界では、このやり方が当然のものとなっているのだろうが、世界全体から見たらそんなものは画面の向こうにある虚構のものに過ぎない。にもかかわらず、皆が一生懸命にその話題に取り組もうとし、その結果として個人の抹殺に繋がりかねない盛り上がりへと至る。集団心理の動向を観察するには格好の対象であるが、そんな第三者的な立場に居続けられる人は少なくなり、いつの間にか自分もその一翼をなすことになってしまう。何にでも責任があるもので、それに関わる人々には大なり小なりの責任が伴うものである。地位が上だから責任が重く、下だから軽いという論法は、ある意味では正しいのだが、これは重い軽いの問題であり、ある無しの問題ではない。責任のある無しに神経質になるのは、おそらくその後の糾弾の様子に理由があるのではないだろうか。責任ある人はそれを果たさねばならないから、何かが起きたらそれに見合う後始末を世間に向ってしなければならない。そんな流れが、人格を無視する行為に繋がったり、村八分のようなやり方の横行に繋がる。責任の大小の違いとともに、その果たし方の違いも人それぞれにあるはずだろう。社会的に地位の高い立場にある人の責任の果たし方についても、色んな形があって然りである。一方で、家庭的な問題についての責任の果たし方も、色々とあって然りであろう。にもかかわらず、社会はそういう違いを許さないほうに動いている。そんな流れが表に出るようになってから、明らかに責任を追及できる場合を除いて、責任が無いという主張が優勢を占めるようになっているのは、当然の帰結なのだろうか。無いとする人々の理由はいかにもと思わせるところがあるが、実際には無いという結論を先にしたものにすぎない。既に痛手を受けているのだからという論法も展開しにくくなった今、結局人それぞれの心の問題は複雑なものだからという論理から無責任の結論が導き出されるのは、どこか進む方向を見誤っているようにしか思えない。目の前に明確な形で現れるもの以外には、茫洋としたものだけが残るから、それを取り上げるわけには行かないという話は、逆にこういうものに取り組む気持ちを削ぐものになるのではないか。

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6月5日(土)−晴れ間

 繰り返すことは安心に繋がるのだろうか、それとも不安に繋がるのだろうか。同じことを繰り返す作業を行っていると、人によって反応が違うようだ。同じことを繰り返す安心感からかそういう作業を好む人と、同じことの繰り返しはすぐに飽きてしまうから嫌う人の二つにわかれるような気がする。気まぐれな性格とはちょっと違ったもののようだが。
 それでも同じことが繰り返し起きるのはやはり安心させる作用があるようで、当たり前のこととは言え、毎日朝日が東から上るのもその一つである。こんな話では呆れられてしまうのだろうが、実際には当然とも思えるものから、もう少し変化があるけれども全体的に見ると繰り返しになっているものまで、色んな繰り返しがあると思える。このところの晴天は梅雨の時期にしては珍しいほどで、梅雨の中休みとでも言いたいところだが、実際には一部を除いてまだその時期に入っていない。こんな天気になったのも、いつもの梅雨と違う天気の移り変わりがあるからなのだろう。暖かくなっていく過程では季節の移り変わりは南から北へと進む。桜の開花がその典型だろうが、梅雨入りもその一つである。天気予報を聴いていても、他の地方の話は何となくやり過ごしてしまうことが多いが、梅雨は、沖縄、南西諸島から始まり、九州、中四国と移動する順序が守られている。今年の場合も、その順序で進んでいて、それ自体はいつもと変わりないのだが、梅雨前線と呼ばれる停滞前線の動きがいつもと違うようだ。梅雨が南から北に移動するのは、この前線が南から北に上がってくるからで、その位置の移動に連れて梅雨に入る地域が北へと移ってくる。今年がいつもの年と違っているのは、梅雨前線のように列島を縦断する形の前線が、南の方に出現するのでなく、まるで梅雨明けの頃のように列島の北に出現したことである。そのため、変な時期に梅雨のような雨が続き、その前線が南下するに従ってまるで北から南に梅雨が移動したような状況になった。さすがに、そういう形での天候の変化をいつもと同じように扱うわけにも行かないからだろうか、梅雨入りの知らせは行われず、南下が止まった時点で南の方にだけ行われた。まるで、再出発の位置についたような形になったが、これからまたいつもと違う展開が起きるのか、はたまたここからは同じ流れになるのか、予想がつかないところである。このところ天候の変化がいつもの繰り返しにならず、ちょっとだけずれているというよりも大きくずれているような印象があるから、今年もまた冷夏になるのかはたまた別の異常気象が起きるのかと心配になる。天候に左右されやすい仕事に従事する人々にとっては心配の種が尽きないのかも知れないが、そうでもない人にとっては、今、この瞬間の晴天を楽しむことが大事である。

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6月4日(金)−屑メール

 いつの頃からか毎朝届く電子メールの数が増え始めた。そういう話題を取り上げる人々の場合、数百通のメールが届き迷惑しているようだが、さすがにその域には達していない。それでも毎朝、下らないメールの削除をしながら大切な連絡メールを消してしまわないように注意を払うのは面倒といえば面倒である。
 下らないメールの大部分は宛先が違っている。個人のアドレスに送られるのではなく、誰だかわからない人宛てに送られたものだったり、宛先さえないものまである。どんな仕掛けがあるのかわからないが、いろんな人々がいろんな手だてを考え出すようで、担当者が対策を講じてもすぐに抜け穴を見つける人が出てくるようだ。スパムメールと呼ばれる一連のメールには以前ならばネットの正常な機能を妨げる目的のものが多く含まれていたが、この頃は宣伝が多くなっている。たとえば、パソコンソフトの安売り、医薬品の販売、様々な製品の広告が多い。中には、大学や大学院の卒業、修了資格の取得に関する広告もあり、ちょっと覗いてみると講義を受けなくても、レポートを出さなくても、資格が得られるとある。つまり、証明書を金で買うわけだ。最近の大学の動向を伺っていると、まるで変わらないような気もしてくるが、さすがに公然とそれを謳っている大学はこの国にはないようだから、こういう商売も成り立つのかも知れない。学歴詐称で攻撃された議員の中には早速手続きに入った人がいるのだろうかと考えたりもする。いずれにしても、何でも商売になるだけでなく、以前であればダイレクトメールで切手代などの経費がかかっていたものが、電子メールによってまったく経費をかけずに宣伝できるようになったわけだから、こういう商売をする人々にとっては技術の発達は大きく貢献していると言えるのだろう。しかし、その影響は一般の人々にはまったく正反対の方向に働いている。毎日のように舞い込むゴミを自分の時間を使って処理するわけだからだ。メールソフトによってはいろんな制限をかけることによって、そういうゴミを事前に排除するものもあるが、それによって大切なものまで見落としてはと危惧する向きもある。また、個人単位での対応ではなく、組織単位での対応を目指しているところもあり、特定のメールアドレスからのメールを拒絶したり、逆に特定のものしか受け付けないというところもあるようだ。いずれにしても、便利なことになるとは不便なことを生み出すという流れは最近とみに激しくなっているようで、どんな対策を講じようとも完璧なものはできない。もし、こういうこと自体が嫌ならば、そういう技術を利用しなければいいという論法も出てくるくらいで、どんな答えが最適なのか模索する時期なのかも知れない。そんなわけで、毎日文句を垂れながら、ゴミメールを屑篭に捨てているわけだ。

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6月3日(木)−変わらぬ

 毎日よく続くものだと思っている人がいるだろう。といっても、ここを覗きに来る人は一日十人足らず、その中で毎日覗いている人はたぶん五人もいないだろうから、大した人数ではない。こういう書き物でもたくさん人が訪れるところがあれば、そうでないところもある。所詮は独り言だからと書いた本人が言っていたのでは元も子もないだろうが、そんなものなのだと思う。
 それでは何のために書いているのか。たぶん、自分自身のためといったところである。通常の日記とも違うから備忘録という意味はまったくないし、その上書いたことを自身で読み返すことはほとんどないから、何かのメモとも違う。とにかく、何でもいいから書いておこうといった類いなのだろう。議論のきっかけになればと思うときもあるがそれはたまのことで、ほとんどの場合はまるで机上の空論のようなものと思える。他人の話を聞いて感銘を受け、それによって人生が変わったなどという話を聞くこともあるが、実際には本人が持っていた気持ちを後押しするのに役立ったくらいのもので、目から鱗と言っても剥げかけていたものをどうにかしてくれた程度の話が多い。書くほうは、いろんな考え方があることを提示できればいいというくらいにしか考えていないから、大して肩もこらずにすむわけだ。しかし、そうは言っても物事の捉え方や根本となる考え方には一つの幹を持っているわけで、人によってはそれがうるさく感じられるのではないだろうか。まあ、役に立つことなどほとんどなくてもよくて、何かを考えるきっかけになったり、どこか引っ掛かるところがあればそれでいいと思う。世の中の方は景気が回復しつつあり、少し明るい兆しが見え始めたといっても、一方で中東の問題や国内の凶悪事件の問題、さらには自分たちの将来に関わる年金の問題など、明るくなれない話題が多い。その中でこんな言い方をすると怒られるのかも知れないが、毎度のことながら凶悪事件の分析に力を入れる人々が現れ、いかにもそれらしい分析をして対策を講じるかのごとくの話をするのを聞いていると、そのこと自体にどの程度の意味があるのかと思えてくる。時代が変わるとともに問題となる点も様変わりし、それに対する新たな対策が必要になるというのが、そういう話をする人やそれを取り上げる人々の主張なのだろうが、それ自体が疑問に思えるのだ。確かに、事件を起こすきっかけになった原因はそこにあるに違いないし、それが時代の変遷とともに変化することは当たり前なのだろう。直接の原因を分析することが重要だと思えばその通りなのだろうが、そのことが原因になった理由は時代の変化とともに変わってきたのだろうか。拳銃が出てくるまでは、棍棒や石などが殺人の道具として使われてきた。だから拳銃が出現した途端に、殺人の理由も変化するというのだろうか。人の噂の広がりはネット社会の整備とともにその速度を急速に増したが、噂を取り上げるのはネットではなく人である。上辺だけを大仰に取り上げて、そこにある原因を突き止め、それに対する策を講じれば、問題は解決すると思う人々にはどこか根本的な考え方の欠如があるような気がしてならない。時代の変遷、技術の発達、その他諸々の外的要因を取り上げることに躍起になればなるほど、昔と何も変わっていない内的要因の大切さを見失うことになる。傾向と対策はせいぜい受験戦争にだけ使うことにして欲しいものだ。

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6月2日(水)−所変われば

 名刺を渡されたとき、はて何と読むのだろうか、と思ったことはないだろうか。そういう経験のある人の中には、わざわざふりがなをつけている人がいるが、聞かれるばかりで辟易としていたのかも知れない。苗字の読めない人より困ったのは、名前の読めない人で、中でも一時流行した西洋かぶれとしか思えないものについては凍りつくしかない気がする。
 名前で人を判断してはいけないし、大体が親などがつけたものであって本人が選択したわけでもない。それにしても、何故そんなことを、と思ってしまうのは仕方のないところだ。最近はその流行も下火になったらしく、そういう話題はあまり取り上げられなくなった。一時の流行を追うのはせいぜい服ぐらいのことにして、一生ついて回る名前という持ち物にはそういう気持ちを出して欲しくないと思うが、これも人それぞれの自由ということになる。そんな話とはちょっと違っているが、ある有名大学の学長を務めた人の名前が戸籍上は漢字とふりがなが併記されたものであるという噂を耳にしたことがある。著名人だった父親が届け出の時にそういう形で行ったからという解説がついていたが、真偽のほどは定かではない。窓口の職員をも圧する迫力の持ち主だったのか、などと想像してしまうが、それはまあ想像の世界の話だ。名前の方は、本人が何らかの不利益を被ったときには変更することができるそうだが、苗字の方はそうも行かない。先祖から受け継いできたものであり、変更は認められないとのことだ。それでも数が少ないためか、読めないものも多くあり、有名人になっても漢字はわかるが読み方が、と言われる人も少なくないだろう。武士道が見直されるようになって、再び脚光を浴びることとなった人はお札に肖像画が採用されたときに色々と紹介されていた。まずは読み方から、という流れだったような気がする。他の場合でも慣れてしまえばどうということもないが、初めて見たときにはまず読むことのできないものも多く、本人はおそらくそれを見越した自己紹介をしているのだと思う。まったく読めないものに関しては、聞く方も気楽なものだし、大した問題にはならないかも知れない。しかし、ごく一般に知られている苗字だけれども、読み方が微妙に違うものについては、何度も間違えられているうちに訂正するのも面倒になったという人が少なくない。たとえば、狐塚という名前は珍しいと思うが、これも違う読み方があるようだ。また、地域によって違いが出ているものもあるようで、大谷などの谷を西では「たに」と読み、東では「や」と読むという話を聞いたことがある。どこに境界線があるのかわからないが、面白い話だと思う。一方、濁りのある無しも地域による違いがあるようで、須藤が濁ったり、濁らなかったりするのに接して、驚いたことがある。こちらは西、東の区別なのかどうかわからない。実はパンチの本名の苗字も、育った地域では濁るようで、どうしてなのかわからない。呼ぶときには濁っていても、ふりがなをつけるときには濁らないのだから、はてさてどんな勝手な理由があるのやら。

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6月1日(火)−信教

 冠婚葬祭の際にだけ宗教絡みになるくらいで、他の時にはほとんど宗教に関心を示さない人の多いこの国では、宗教絡みの話題は取り上げにくいものとなっている。一方には無関心があり、もう一方には触れてはならぬものといった感覚があるようだが、いずれにしても、自分のことを含めて宗教について何かしらの議論をする機会は少ないようだ。
 そんな国から見てどう見えるのかすぐには思いつかないが、フランスの学校で宗教に関連した服装に対する制限を加えるという話が流れてきたとき、対岸の火事ほどの興味も抱かなかった人が多かったのではないだろうか。教育の場に宗教を持ち込むことの是非は意外なほど議論されておらず、よく考えると高校時代の倫理社会の時間に仏教の成り立ちを習わされたのはその学校の成立の経緯によるものなのだろうが、ちょっと危なっかしいものと考えられなくもない。とにかく国内ではそんな学校もいくつかあり、校内に宗教絡みの施設を持つところも少なくない。宗教に対する関心が低いからこんなことが起きるのか、はたまた別の理由があるのかわからないが、とにかくそういう話題に触れないようにしているようだから、あちらで議論が沸騰したとしてもその意味さえ理解できないほどの状況にあるようだ。ただ、実際には制限を加えねばならぬほどの状況になりつつあるのは、フランスだけでなく他の欧米諸国も近い状態にあるのだろうし、この国もそうなっていると言えないわけでもなさそうである。こういう問題に関してきちんと議論し、問題を解決しようとする気風があるせいなのか、フランスは文化関連の話題に関しては、神経質とも思えるほどの取り上げ方をする。その一方で、同じような文化圏に思える欧米諸国についてはそこまで深刻に考えるところは少なく、それぞれの部署で独自に解決手法を模索する形で対応しているように見える。どこに本質的な問題があるのか、こちらから見ていてすぐには理解できないが、こういう話題が出てくるたびに気になることがある。宗教絡みと言っても、何をどう信じるか、神の存在を絶対視すべきか、はたまた生物進化はどうあるべきかなどという根本的な問題とは異なり、現実的な問題として男女の区別を取り上げるものがある。宗教上の理由で、女性が男性との接触を禁じられている場合、教育の場でも例外にはならないらしく、学生にそういう制限がある場合には教師に対しても制限を加えねばならなくなる。留学生が増えている状況では、そういう特殊事情を持つ人々にも教育の機会が与えられるから、元々そんな事情が存在しない国でもその対応を迫られるわけだ。結果として、ある学生専用の講義科目が用意することが学校側に強いられる。問題は事前にこのことが知らされているかどうかだと思うのだが、どうもそうでもないらしいという話を聞いた。ある宗教でそういう事情があることは関係者は認識していなければならず、また事前に知らされたとしてもそれを理由に受け入れを拒否してはならないとなると、果たしてどうすればいいのか。確かに万全の準備をして、対応するのが筋なのだろうが、機会均等という考えから見ていかがなものかという意見も出てくるだろう。こういった流れがあったのかどうかはわからないが、そんな事例を知ってみるとフランスでの議論の根底にあるものが少し見えてくるような気がする。

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5月31日(月)−独自性

 予想外の雨、予想外の晴れ、予想外の高温、予想外の低温、天候にまつわる予想外の話題に事欠かないこの頃である。何故こんなに予報が外れるのか、という質問がいろんな気象予報士に向けられるが、どこで相談したのかよく似た答えが返ってくる。外れるのも横並びだが、説明も横並びのようである。
 元々どんな意図をもって導入されたものなのか知らないが、天気予報を担当する人々に資格が必要となった。国家資格で、かなり専門的な知識を要求されるとのことで、導入時期の前後にはかなりの混乱をもたらしたように記憶している。それでも、テレビ局の天気予報関係者の大部分は初めの試験で合格していたし、何度も開催される試験では中学生の合格者が出るといった話題が取り上げられていた。これは何も試験が簡単だという意味ではなく、それなりの対策を施せば誰にでも可能性があるということを示しているのだと思う。昔のアマチュア無線で、中学生が最上級の試験に合格して話題になったのとよく似たものなのかも知れない。そんなこんなで当時はかなり騒がれたものだが、最近は資格そのものが当たり前のものとなったせいか、あまり話題になることもない。それよりも気になることは、どこの予報を見ても同じような方向性を持ったものばかりで、各予報士による違いが見えないことである。誰が予報を出しても外れようのない天候の時ならわかることだが、予想外が連続する時期に皆同じ予報で外してしまうのは不思議に思える。資格として専門性を追求できるところまで達した人々が、同じ考え方と同じ論理を展開することは可能なのかも知れないが、そうなってしまう原因がどこか別のところにあるような気がしている。以前であれば、気象庁が出した予報をそのまま伝えるだけの役割だから資格云々とは無関係という考え方だったのだが、資格を保有する人々が出す予報となれば人それぞれに微妙な考え方の違いが反映されるだろうから、微妙な状況であればあるほど違いがはっきりしてくるような気がする。こういうケースは、米国の状況を見てみるとよくわかる。気象チャンネルが存在するほど天気予報に力を入れていて、各局が競合状態にあるからそれぞれに独自の路線を展開しようと努力しているらしい。だから、それぞれにキャスター達が違った視点から、違った分析をし、違った予報を出すようになり、場合によっては気象データまで独自に入手するところもあるようだ。そんなわけだからか、まったく方向の違う予報が出されたり、局地的な予報を出すところもある。本来はこういった形のものを目指したのではないかと思うのだが、この国では未だに横並び状態で、独自性はほとんど出されていない。失敗を大きく取り上げ、成功を重視しないという風潮のあるところでは、独自性とは悪いほうにしか受け取られないのかも知れないが、それにしても皆で間違えれば怖くないとでも言い出しそうなこの状況は、以前と何も変わっていないという点で、評価できないものである。上からのものをありがたくいただいているだけなら、資格の有無は無関係だろうから。

(since 2002/4/3)