パンチの独り言

(2004年6月7日〜6月13日)
(先行投資、番号通知、情報操作、荒れる心、専門家、発条、世代差)



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6月13日(日)−世代差

 良くなったり、悪くなったり、繰り返すのは仕方がないと諦めるしかないのだろうか。良い時代に生まれたものは運が良く、悪い時代に生まれたものは運が悪い。そんな言葉が聞こえてきそうだが、波に乗っている人々にとってはまさにぴったりの表現ということになる。しかし、今までの経過からするとこの周期もそれほど長くは続かず、一生のうちに両方を経験する人のほうが多そうだ。
 しかし、良い時と悪い時、一生のどの時期にそれがさしかかったかによって、ずいぶんと印象が違うのではないだろうか。自分が社会の一員として生産に携わっているときに良ければ、自分もその良さに一役かっている気持ちになるが、逆だと責任を感じてしまいそうだ。ただ、この辺りは人それぞれに感じるところが違うらしく、同じように加担しているように見えても、良い時は自分の力が加わっていると感じ、悪い時は社会が自分は頑張っているのにそうなるのは社会が悪いのだと責任転嫁をする人もいる。転嫁しようがしまいが世の中は変わるはずもなく、ただ自身の精神安定のための方策にしか過ぎないのだろうが、自己防衛のための大切な手段と言えるのかも知れない。一方、同じ状況に追い込まれたそれよりも若い世代にとっては、自分たちの運の悪さだけを感じてしまい、どうにも逃げ出しようのない場所に追い込まれた気がしてくるようだ。あの頃は良かったというのは別に年寄りだけのざれ言ではなく、若者にも当てはまりそうな話である。ただ、そんなことを言っていても、繰り返しの動きが止まるはずもなく、そのうちまた良くなってくる。とにかく、景気の波とともに気分の波も動き、社会全体の雰囲気にまで影響を与えるのだろう。それでも、人それぞれにそういう波の感じ方が違うし、気分の波が少しくらい動いてもやるべきことの変わらない人もいるだろう。景気の良し悪しで金遣いが変化する人もいれば、そんなこととは無関係という人もいるわけだ。どちらの人間が偉いなどと言えないことは確かだが、違った世界の人々が互いに相手をするとどうもうまくいかないようだ。似たものを探す傾向があるせいなのか、違うものを排除する傾向があるせいなのか、理由ははっきりしないが、どちらかが悪い時期に入っているときにうまくいかなくなることがある。それは、世代を超えて起きる話でもあり、親子やそのくらいの年齢差の関係にある人たちの間で、生きた時代が違うせいもあって、そういうものに対する取り組み方が大きく違ってくる。同じ時代に生きている人の間でも大きな違いが生じるくらいだから、違った道を歩んでいる人々の間で違わないはずがない。上に立つ者は下にいる者に対していろんな形で助言をしようとするが、それが必ずしも下にいる人たちにとって有用であるとは限らない。何しろいろんな経験に基づくわけだから、悪いほうにしか働かない経験に基づけば、良い時にそのやり方は必ずしも正しいとは言えなくなる。その辺りの見極めができる人物ならば問題ないのだろうが、すべてがそうも行かないだろうから、結局傍迷惑な助言の処分に惑う人が出てきてしまうのだろう。取捨選択など面倒だとなれば、世代の乖離ですべてを済ませる。まあ、それが一番簡単な方法なのだろう。

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6月12日(土)−発条

 景気が悪くなったり、良くなったりというのを眺めたり、昔の話を聞くかぎり、経済状況というのは繰り返すものだと思っていた。しかし、そうでないと考える人もいるようで、特に強調されるのは、今回の不況は今までのものと違うという点だ。ただ、結果としての繰り返しを否定できるものではなく、その理由として同じ内容で繰り返すわけではないということらしい。
 こんな状況を説明するのにどんな方法があるのだろう。波のように上がったり下がったりだからと言ってしまえば簡単なように思えるが、どうも腑に落ちないところもある。同じところをぐるぐる回っているような感じがしないからだろうか。しかし、環の上をぐるぐる回る姿を思い浮かべると、何の変化もなく同じことを繰り返すことになって、どうも落ち着かない。こんなことはどうでもいい、と思えば確かにその通りなのだが、ちょっと気になると何とかしたくなるものである。環と同じようなもので、ちょっと違った形のものはないかと考えていたら、ふとバネのことが浮かんだ。バネをある方向から見ると環に見える。しかし、それを別の方向から見ると環が重なったものに見える。これが環だけで考えていたのと少し違うところだ。手近なところに小さなバネがあって、それを少しくらい壊しても構わないのなら、実際に確かめて欲しいことがある。縦方向から見ると環に見えて、横方向から見ると縦線だけが見える代物だが、それを延ばしてみると違った様相になる。縦方向から見た環の直径は少し小さくなるだけだと思うが、横方向からの見え方が大きく変わる。波のような形が見えてくるのである。これは実際には波ではなく、らせん形を横から見た姿なのだが、それでも見た目は波である。バネのようならせん形のものを横から見た姿が、ひょっとしたら経済の動向を表現するものになっているのではないか。同じことの繰り返しがあるけれど、その周期が違うのは、バネを延ばすときの延ばし方の違いによるものと言えそうだ。この動きを引きだしている要因は、波ごとに違っていて、それぞれに違ったことが引き金になり、結果としてだけ同じような上下が起きる。上がっていく時と下っていく時は違う経路を通るのも、何となく納得できそうな気がする。などと説明しても、なんだ大したことないじゃないかと思う人も多いだろう。何しろ動きを見ただけで、動きの説明をしたわけでも、その要因をつかんだわけでもないからだ。でも、そういった説明がどれほど意味を持つのかと思えてくることもある。何しろ、何が原因で起きるにしろ、下げたものはそのうち上げ始めるわけだし、どこまでも上げることなどあり得ないことははっきりしているのだ。小さな動きを捉えて、その説明に躍起になる人々と、彼らの意見に振り回される人々にとっては、バネがどうしたなどというわけのわからないものはどうでもいいことである。でも、一方で、そういう説明でなく、どっちに動くのかを知りたい人たちにとっては、その兆しを見つけることのほうが、起きたことの説明を受けるより重要である。本来は説明も大きな動きを見越してのものであるべきなのだろうが、そうなっていないことがこの辺りの問題なのではないか。どうせ繰り返すものなのだから何もしなくても良いと考えるのか、悪い時を短くするために何かしなければならないと考えるのか、どんな立場にいるのかで違ってきそうだが、いずれにしても、全体の流れはほとんど変わらないような気がする。頑張ったかそうでないかには大きな違いがあるのだけれども。

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6月11日(金)−専門家

 最近気になる言葉がある。いろんなところで見聞きするのだが、専門家とは一体どんな人たちのことを言うのだろう。改めて辞書を引いてみると、専門は「限られた一つのことをもっぱら研究・担当などすること。また、その学問や事柄。」とあり、専門家は「その学問分野や事柄を専門とし、それに通じている人。エキスパート。」とある。
 これを読んで、なるほどと思う人はいないと思う。ごく当たり前のことが書いてあり、その通りだと思うのが普通ではないか。しかし、世の中に出回っている専門家は、と振り返ってみると、どうも上に書いたことが到底当てはまりそうにもない人が一杯いるような気がしてくる。問題は通じている程度なのだろうが、どうにもいい加減な知識をひけらかしてぶっている人もいて、あの肩書きはずしてしまえばどうジャロかとパクりの洒落が出てきてしまう。元々専らなのだから、他のことはさっぱりという人も多く、そういう意味で社会的には半分認められ、半分は呆れられていたのだが、最近は専らのほうがさっぱりになり、他のことの方に長けている専門家が多くなり、大きな顔をして堂々と間違った専門知識を紹介することが多くなった。その結果として、登場機会が増えているところを見ると、呆れられる部分はかえって少なくなり、認められているような気がしてくる。これは昔からあったことだが、餅は餅屋にという考えから、ある専門知識を必要とするものは専門家に任せることがほとんどであった。今もその傾向はまったく変わっておらず、わからないことをさらに未知の世界に押し込んでしまう結果となり、何か不都合なことが起きた時には取り返しがつかないほどの状況にまで陥る。どんなことでも専門知識が必要不可欠な部分があるだけでなく、それとは別に一般的な知識程度でも判断可能な部分も存在する。にもかかわらず、すべてを専門家に任せてしまうから、一部の優秀な人を除いて他の立場からの見方は一切登場せずに、ある偏った考えに基づく判断が下されてしまう。最近の社会的歪みの原因の一つにこういうことが挙げられてもおかしくないだろう。特に気になるのは教育の現場で、専門家であるべき人々にそれだけの資質が備わっていない場合や、密室での判断による誤った方向づけなどの例が次々と紹介されている。しかし、その一方で専門分野という縄張を守る垣根はどんどん高くなり、外から覗くのも容易でなくなっている。一部の真剣に努力している人々があまり声を大きくしないのに対して、自信過剰なために何もできなくなった人々の声はどんどん大きくなっているようにも見える。素人は口出しするな、というきめ台詞を吐くばかりで、何も解決方法を見出せないばかりか、そのきっかけさえも探せなくなっているのでは、任せたくなくなるのも無理はない。しかし、一方で、こういう輩ばかりが目立つために、外から圧力をかけねばならないという世論が高まれば、真剣に努力する人々もその渦に巻き込まれることになる。何が悪いのかははっきりしていると思うが、さてどうしたらいいのかは難しそうだ。このような例は別に教育現場に限ったことではなく、あらゆる専門集団に当てはまりそうな気がしてくる。それぞれの集団を牛耳るために必要な資質は、専門家であるために必要なものではなく、別の種類の人々が持ち合わせているものだからなのだろう。同じようなことが原因だろうから、この歪みを取り除くためには同じような措置で十分なのだろうが、さてどんなやり方がいいのだろうか。

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6月10日(木)−荒れる心

 何がどう狂ってしまったのかわからないが、いろんなことが狂っているように見えてしまう。欠陥をひた隠しにし、リコールの届け出をしなかった会社、独居老人を相手に恐喝まがいの行為を繰り返す人々、自分の子供を死なせてしまうほど躾に厳しい親、数えたらきりがないほどだが、これらは世の中の荒廃ぶりを表しているのだろうか。
 そういう論理の展開を作り上げることはそんなに難しいことではない。何でもかんでも、世の中が悪いとしておけば、大体のことが説明できるからだ。また、その大元の原因を追及するのも、黒箱の中身は見えないと仮定することで済ませることができる。しかし、わからないところはそのままにしておくというのであれば、世の中が悪いとしなくても別段問題ないように思えないだろうか。何故会社ぐるみであんなことをし続けたのだろうか、何故社会的弱者をいじめようとするのか、何故躾のブレーキがかからなかったのだろうか、などと考えても、その場にいた人々でさえ、その時の心理状態を後から説明することが難しいことがある。これはまさに訳がわからないけれども、そうなってしまったということなのではないだろうか。そこまで言い切ってしまうと乱暴な気もするが、この辺りの選択肢はどちらを選んでみても論理の飛躍は免れないし、どちらにしてもどこかに黒箱を置かざるを得ない。これらのことに加担していた人々が後から考えても思いつかないくらいだから、それとは無縁の人々にとってはその流れを理解することなどさらに困難なことである。確かに、有識者とか学者とか呼ばれる人々がそれなりの説明を加えていることもよくあるが、それが理解できたとしても結局行動そのものを理解できたことには繋がらない。普通の人々から見て異常に思える行動は、その時の心の動きを言葉で理解できたとしても、同じことをやらないあるいはやったことがない人々にとっては理解しがたいものになってしまうような気がする。まるで投げ出していることになってしまうのだが、議論をしたとしても結果としては大差ないと思えるので、こんな話にしているのだ。確かに、そうならないようにとか、そうしないためにはとか、そんな対策を練ることは大切なことのように思えるが、対策さえ必要ない人が大多数の場合に意味があるのかと思えてしまうのだ。細かな修正が役に立つことも多いが、そればかりが羅列されることになったとしても、根本的な解決は望めない。結局、いろんな対策本にあるようなこれだけで十分とか、これさえしておけばといったフレーズは、多くのものには通用しないのだろう。ただ、一つや少数には絞れなくても、この辺りにそれらしいものがあると言えそうなわけで、その辺に問題解決の糸口があるように思える。失敗をたくさん集めることで成功を目指すやり方もあるのだろうが、一方で当たり前と見える多くの成功に触れることで成功に導くやり方もあるだろう。どちらが正しいと断言することなどできないから、それぞれの人が自分に合いそうなものを見つけるしかないのだろう。

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6月9日(水)−情報操作

 話題に出した途端に新聞に取り上げられることがたまにある。偶然の一致に過ぎないのだが、ちょっと先んじた気になって悪い気はしない。逆に言うと、そんなに特殊な話題などそんじょそこらにころがっているわけでもないから、身の回りの出来事を取り上げているかぎり、新聞沙汰になっても不思議はないということだ。それにしても人間の悪さばかりが目立つ記事が多い。
 ネット社会が世の中に出回る前は、こんな情報の流れはマスコミに限られていた。新聞やテレビが主体となり、悪く言えば世の中の情報を操作していた。それが誰が書いたものかわからない文章が誰の目にも触れるようになってしまうと、情報の操作も簡単なものではなくなった。ただ、ネットの魔力がすべての人に及んでいるわけではないから、未だにマスコミの力は大きく、それに振り回されている人が多いのも事実だ。一種の噂に惑わされるという人々の行動は今に始まったことでなく、ずっと以前からあったことである。おそらく、文字が発明される以前からこういう行動はあっただろうし、そういった心理は文明の発達とともに変化するのではなく、ほとんど変わらないまま噂の流れの急速な変化に曝されているのだろう。そんなところからか、相手の顔が知れていようがいまいが、活字になって出てくるものを疑いもせずに信じる人の数は減りそうにもない。子供の頃から教育することによって、そういう間違いを減らせると信じる人もいるようだが、まるで対症療法のような形式で臨んでいるかぎり、根本的な解決は図られそうにもない。疑いを知らない無垢な心は子供の専売特許のように思われているが、実際にはまったく逆で子供のほうがいろんなことを鵜呑みにせず、自分の拙い知識を駆使して取り組もうとしているのではないだろうか。大人のほうがかえって、そういう疑いを持つことを恐れ、信じ込むことを自分に強いているようにもみえる。種々雑多な情報の中から、信頼できそうなものを選び出すのは簡単なことではない。しかし、一方で信頼できるかできないかの判断をまったくせずに、信じてしまうことを思いとどまるのはそれほど難しいことではなさそうだ。その場で、すぐに対応しなければならないことであれば難しいが、そんなことはそれほど多くなさそうだから。いずれにしても、そういう影響力を持つマスコミの力を軽く見ることができないばかりか、最近ではネット社会の力も馬鹿にできなくなってきた。まあ、そこから遠く離れている人にとっては別世界の話なのだが、こういうものを読んでいる人々にとっては身近な問題と言えるだろう。どちらの力も大きいのだが、その内容のレベルについては首をひねらざるをえない。確かに、情報を伝えることが役割であり、正しく伝えればそれでいいはずなのだが、正しいという言葉が正確という意味とは必ずしも言えない場合が多い。ネットのほうはそんなことなど取り上げようもないほど水準が低いので全体として扱うことはできない。時に、優れたものを提供するところがあるから、そういったところに巡り合うことを願うのみである。しかし、マスコミのほうはそういう片付け方をしてはいけないのではないか。読者の要求という切り札を掲げながら、次から次へと不確定で進行中の情報を垂れ流すやり方は、そろそろ見直されるべきだと思う。事件には被害者と加害者があるが、すべてにおいてその立場が維持されるのではなく、その過程においては逆の立場になる場合もある。その辺りを細切れに披露することは、思慮深い行為とは言えないこともあるのではないか。

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6月8日(火)−番号通知

 ある電話会社の広告で、喧嘩をした恋人から電話がかかってきたのを見つけて喜ぶというものがある。かかってきた電話の発信元の番号が表示されるという仕掛けの宣伝だが、元々恋人達を喜ばせるために考案されたものではないようだ。ある時期から始まり今でも続いている迷惑千万なものの一つに電話勧誘なるものがある。ゴルフ会員権、不動産、株等々、色々である。
 すべてが迷惑だけのものと言うと語弊があるが、ほとんどのものが家の中に土足でドカドカと踏み込んでくる雰囲気がある。電話という媒体は緊急という意味合いが強く、かかってきたら出ないわけにも行かない。そんな事情に乗じているのだろう。自宅だろうが、職場だろうが、所構わず、時間構わず、飛び込んでくる。こちらの状況を見ながら、猫なで声が低い脅しの声に変わり、最後には恐喝まがいの捨てぜりふを吐かれてしまったという経験を持つ人もいるのではないだろうか。自分の正体を知らせず、ありもしない社名を名乗り、他人の領域に踏み込むというやり方はモラルのかけらもない行為である。そんなことでいろんな人々からの苦情が持ち上がり、それに対して重い腰を上げた電話会社が設置したのが、番号通知という仕掛けである。いろんな形で周知が図られたが、今一つ普及せず、一部の電話を除いて表示する仕組みを持たないものが多かったから、徐々に忘れ去られるかたちとなったのではないだろうか。そんな中で時々聞こえてきたのは携帯電話の着信拒否の話で、番号非通知の電話に関しては話し中になる仕掛けらしい。さすがに要望に応えて新たな技術を導入した電話会社として、それがあまり使われないのは腹立たしいのだろうか、最近上に書いた広告を始めたようだ。さて、ついさきごろ、思わぬところから番号表示の話が飛び込んできた。ある知りあいに電話をしたら、何度も話し中になる。不思議に思っていたが、そのうちやっと繋がった。どうも番号表示の機械を設置したが上手く設定されておらず、電話に出ると切れてしまっていたらしい。とにかく、そんな具合でかけてきた相手の番号を表示するようにしたとのことだった。先日、そのわけを聞いてみたら勧誘の問題からだという。ある日の電話で、「ある名簿に載せた」と言われたので、それは困ると答えると、「では何十万円支払え」とくる。馬鹿げた話と早々に電話を切ると、偶然にもすぐさま電話がかかり、別の声で「○○新聞社ですが、こういうお話が・・」と、いかにも醜聞をつかんだかの如くの脅しの電話がかかってくる。電話の向こうでは役割分担をした人々が整列して電話をかけている姿が目に浮かんだそうだ。オレオレ詐欺としてある詐欺行為が有名になったが、それと同様に老人を相手にした恐喝、詐欺と分類される犯罪行為が世の中に氾濫するようになってきた。人の心の荒廃は留まるところを知らず、世間には犯罪者が溢れかえっていると被害者達には見えるのではないだろうか。実際に金銭的な被害に遭わなかった人々も、脅されて心に傷を負うことがある。脅しているほうにとっては、金を巻き上げられなかった相手に何が起ころうが知ったことではない。加害者意識は微塵もないだろうし、それが原因で相手を死なせてもどうということもないだろう。ここまで来てしまった世の中をまともな形にするには、さて何から始めたらいいのだろうか。

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6月7日(月)−先行投資

 絶対確実に儲かる話とか、絶対損をしない投資の話とかを持ちかけられたことはないだろうか。高度成長期やバブル期にはこの絶対がほぼ絶対だったのだが、それが昔話として語られるようになると、絶対がつく話ほどかえって危ないと言われるようになった。大儲けをした人々の話題は今も変わらず伝えられるが、皆が皆とは行かない情勢である。
 財産を殖やすためとか、資産を運用するためという意味で、投資という言葉が使われているが、それとは少し違った意味にも使われるようだ。将来を見越して事前に何かをしておくことを投資あるいは先行投資と言ったりする。これは実際に金をつぎ込むことになる場合もあるし、直接的に金をつぎ込むのではなく別の形のものを投入する場合にも使われる。将来の変化を見据えて、それに対応できるように準備をしておくためのものだが、個人個人で言えば資格を取っておくとか、今早速には関係のないことを勉強しておくという形の投資が考えられる。それは人によっては転職のためだろうし、人によっては地位を高めるためでもあるだろう。それほど直接的でなくても、何かを身に付けておいたほうがいいという考えに基づいてそういう行動をとる人もいるのではないだろうか。いずれにしても、目の前の目標というより少し先の話を考慮したうえでの行動と受け取られる。企業では、いろんな形の先行投資が考えられ、工場予定地の購入や新たな市場開拓などもそれに含まれる。ただ、こういった場合は漠然とした目標を定めているのではなく、どちらかといえばかなりはっきりとした青写真を携えてという場合が多い。具体的な目標を定めておかないと全体的な動きがとれないからだが、それとは違った形の投資が常に行われていることに気づいているだろうか。当たり前すぎて、投資とは見なさないという声が返ってきそうだが、人的投資のことである。パッと見た感じでは、企業における人材は必要なときに必要なだけ雇えばいいと思えるのだが、様々な要因からそうも行かないことが多い。どんな会社でも経営形態は同じと考える人は少ないと思うが、こと人材に限っては大した違いはないと思っている人がいる。その考えが根底にあるからとは言えないだろうが、経営が傾きかけているときにリストラという形式で中堅の人々の解雇を断行するだけでなく、新たな人材の確保を控えるところは多い。前者は現状を眺めたうえでの調整だから無難な線を選べるのだが、後者は将来的な状況に対する判断だけに確固たる考えのないままという場合が多い。傍目には無い袖は振れないとでも言われそうなものだが、実際にはこれが将来的に大きな影響を及ぼすことが多い。ある電機関連の企業が一時的に窮地に陥ったときに新規採用を数年見送ったことがあった。それから15年ほどしたときその年代の社員のほとんどは中途採用であり、中堅として支えるには数でも質でも足らないと思われるようになったとき、以前の判断の誤りに気づいたという話があった。今は別の形の回復期にあたるのだろうが、これから数年経過したときにどんな問題が生じるのか、企業ごとに違いがはっきりしてきそうである。ここからすぐに結論を導くのは拙速なのだろうが、こういう状況を見ていると悪い時の投資こそ大切であり、的確な判断が要求されるということなのではないだろうか。悪い時はすべてを控えるのが一番という考えもあるのだろうが、その場しのぎとはなるもののその後に回復が来ても対応できないことになりかねない。そういう意味で勝ち組負け組の勝負はずっと前についているのかも知れない。

(since 2002/4/3)