食品の安全性に気をつける人は多いだろう。しかし、どうやったら安全な食品を手に入れることができるのか、という問いに対する的確な答えを持っている人は少ないのではないか。最近よく言われるのは、業者の顔を見てとか、顔のわかる生産者から手に入れるという話だが、これとて限界がありそうだ。とにかく安全な食べ物を食べたいという欲求を満たすのは難しい。
そういう中で頼りになりそうなものの一つに、公の機関による検査による安全基準がある。ある成分の毒性や催奇性などの検査を行い、それに基づいて基準を決めていくのだが、時代の流れとともに様々に変化しているようで興味深いことがある。今の40代か50代より上の世代には懐かしいチクロと呼ばれた甘味料は、砂糖に代わる甘味を提供する物質としていろんな所で使われ、特に子供向けの飲料用粉末の多くはこれを使っていた。しかし、ある時その発ガン性だったか何か病気の原因となることが見つかり、全面的な使用禁止の措置がとられた。それにより、粉末には砂糖を使わねばならなくなり、袋の大きさは10倍ほどになった。同じころ、サッカリンという人工甘味料にも疑いがかけられたがこちらは海の向こうとこっちで違う対応がとられたように記憶している。さらにそれから10年ほど経ってからだろうか、甘味料についてはあまり話題にならなくなった代わりに、保存料なるものが標的となり始めた。大騒ぎになったのは、豆腐に使われていたAF2と呼ばれる保存料で、これも発ガン性だったかが問題となり、使用禁止となった。本来、その日のうちに使うことが当たり前だった食品を、冷蔵庫の普及とともに何日も鮮度を保つことができるようにと重宝された保存料の多くは人工的なものであり、このころには人工のものは危険という考え方が通用するようになっていたと思う。そうなると、敢えて人工のものを使って後々問題になるよりも、天然物の特徴を生かしてその恩恵に浴すという昔ながらのやり方が復活し始め、人工より天然の方が安全という考え方が定着していたと思う。しかし、どんなものでも過ぎたるは何とかとなるようで、元々含まれている成分ならまだしも、天然物とはいえそれを純粋な形で大量にとりだし、含まれていないところにつぎ込むことを始めてしまうと、その使用量の増大とともに問題が生じる場合が多いようだ。先日話題になった色素は人工合成されたものではなく、ある植物の根からとりだされたものだったようだが、ある検査に引っ掛かってしまった。天然のものまでがそんなことになるなんてという気持ちからか、かなり深刻に受け止めた向きもあるようで、新聞にも取り上げられていた。しかし、天然だろうが人工だろうが、ある元素の組み合わせからできた化合物であることには変わりがない。天然に存在する毒物のことを考えれば、そんなことはいとも容易く理解できるはずなのだが、その辺りは違った論理回路が働くようだ。ある傾向から結論を導くことは説明のために重要である場合が多いが、一方でそこで無理矢理の論理を使ってしまうことも多い。簡単で理解しやすい説明であればあるほど、そこには皆が陥りやすい論理の落とし穴があるのかも知れない。同じものばかりを大量に摂取することの危険性はあらゆる物質に当てはまることで、生きるために必要不可欠なものも摂りすぎれば毒となることがあるということなのだろう。
事件は次から次へと起きる。そういう話題には事欠かない日々が続くと、その場で流れているものには異常なほどの関心を示すのに、ちょっと昔の話になるとすっかり忘れている。そんな様子を見ていると、情報を制御するのは大して難しいことではなく、大きな声で長い時間いろんな所で流せば、都合の悪い情報を覆い隠すことが簡単にできることがわかる。
何の話だったのかはっきり思い出せない。しかし、確か牛肉関係の話だったようだ。それに最近流れていた番組で取り上げられていた冷蔵倉庫の社長が告発した話も関係していたように思う。でも、何が原因でどういう経緯で起きたものだったのかはっきりしない。どうせそんなものだと思いつつ、ごく最近話題になったニュースに耳を傾けていた。何気なくといった程度だったのだが、ある数字が示されて驚いてしまった。輸入牛肉の問題が業者に多大な影響を与えることを懸念して、買い取りだったかそんな仕掛けで被害を小さくするという施策が報じられたのは一体何年前だったか。とにかく、国の施策によって決定されたことで、大きな被害が出てはいけないという意図から行われたものだったと思う。しかし、その後の展開は思わぬほうに向かうことになった。つまり、こういう制度を悪用する業者が次々と出てきたのだ。ある企業の場合は倉庫の社長の告発によって悪行が発覚し、ある企業の場合は調査によって証拠が押さえられた。その他諸々、一体全体幾つの企業が同じ考えで制度を悪用したのかを考えると、そこで働いている思考回路の類似性に驚かされてしまう。しかし、今回の騒ぎはそんなものでは済まないほどである。何しろ金額がすごすぎた。この制度のために支出された額の四分の一だったか、たった一つの組織でそれほどの割合を占めたことに驚かされた。根底にある考えはどの企業や組織も同じなのだろうが、では何故そんなに同じような考えが思い浮かんだのだろう。悪いことを思いつくの悪者ばかりなり、と言えなくなるほど、いろんな人々が同じことに行き着いた。別に彼らは何も悪くないと結論するつもりはないが、このことからどこか別のところに原因の一つがありそうに思えるのだ。きっかけは何だったのだろう。業者、業界の保護といった話があったような気がする。つまり、国がある決定をしたときに、それによって被害を受けるかも知れない人々に救済措置をとらねばならぬという考えに基づくものだったである。しかし、一方で保護を受けねばならない人は除いて、その他の人々までその流れに規則を破ってまで乗ってきたのは何故だろうか。そこには保護という考えに対する認識に大きな違いがあるような気がしてくる。保護をしてやらねばと考える国と保護してくれなければと思う民、どこかにすれ違いがあるような気がしてならない。また、巷では構造改革なる施策で苦しむ人々がたくさんいるのに対して、痛みを伴うものというこれまた訳のわからぬ説得が横行しているが、そういう中でこんな事件が起きるとその違いの大きさに呆れるしかなくなる。制度の不備によるものと片付けることもできるのだろうが、実際には保護という考え方自体にそろそろ歪みが生じてきているのではないだろうか。保護してもらわねば何ともならないという人々がいることを否定するつもりはないが、それ以外の人々の悪行ばかりが目立つようになると、こういう考え方から従来のやり方を踏襲することがいかに馬鹿げたものなのかを問うべきところまで来ていると思う。
都会の駅の周りに赤い手提げ袋を持った人がいて、にこやかにこちらに近づいてくることがある。もう見慣れた風景となったが、ある通信関係の客引きである。都会だけと思っているうちに、どんどん広がりはじめ、ついには地方都市の駅前でもチラチラと見かけるようになってきた。それだけ多くの人が勧誘に乗り、地域内の残りが少なくなったら、次の地域へということなのだろう。
どこまで拡大し続けるのかと、まったくの他人事としてみていたが、その後の展開は予想とは違った方向に向かってしまったようだ。元々いろんな企業が社内にある顧客情報を流出させたという報道が続いており、有名人でもないのにいろんなところに個人の情報が流れ出てしまうのは困ったものといった雰囲気ができていた。ということで、情報をたくさん持っているところほどこういう問題を深刻に受け止めなければならなかったのだろうが、結局件の企業もその頃にはすっかり流出させてしまっていたようだ。管理体制はどの企業でも同程度のものであり、他人の情報を扱うことに対する意識のずれがこういう形で表面に現れたといった感じで、情報の重要性を強調する人々とその管理をする人々に認識の違いがあることがわかる。それにしても、どこまでの情報が漏れていたのか気になった人も多いだろうに、関係者から聞こえてくるのはいつもの通りこれだけという弁明である。これだけと言われているものをどのように信じるかは個人の自由には違いないのだが、実際にはその後の展開は「これだけ」ではなく、どこまで広がるのかわからないといった情勢になりつつある。個人情報といっても、住所、氏名といった程度の情報であれば、名簿業者が暗躍している世の中では対して役には立たないだろう。しかし、それに加えてこの通信経路を用いた電話の記録までが漏れたという話が伝わってくると、さてどういうことだろうかということになる。「これだけ」を強調した人々に対する不信感はおそらく急激に増大するだろうが、それにも増して次に何が起こるのかを心配する向きも出てくるのではないだろうか。通信の秘密という言葉は非常に重要な意味を持つと受け取られ、そのために通信に関わる業務は公の機関が担当するとなっていたものが、自由化の波に押されてどこの誰にでも認可さえ下りれば可能となる時代になった。これは経費削減などといった観点からは大いに歓迎されるべきものとなったが、実際にはいろんなところに歪みを生じる結果も生み出している。いろんな事柄に対する道徳観のようなものが取り上げられる機会がこのところ急に増えているが、こういう業務に携わる人々にも同じ状況が当てはまるわけで、どこかの業界だけが特殊などと言えるわけではない。そんな中でこういった報道がなされると、やはり構造的な歪みが生じ始めているのだという考えを受け入れるしかなく、今後どのような展開が巻き起こるのか余計な心配をしなければならなくなる。自由と責任という対比がこういった場合に当てはまるとはいえないのかも知れないが、ずれた考えに基づくずれた結論の導き方が歪みを大きくしたと言えないだろうか。それにしても、こういうときの責任にも受益者負担を持ち込まれかねない最近の流れからすると、どうにもならない結末を迎える可能性もないわけではない。再び戻れば、このケースに関してだけは他人事に過ぎない話なのだが。
必要は発明の母である。この言葉を聞いて、そんなことはないと言う人はほとんどいないと思う。何かが足りないと思ったところにいろんな閃きが起こり、そこから何かしらのものに具現化していくことで発明となる。不要なものばかり生み出す発明家もいるが、やはり根っこのところにあるのは欲しいとか、足りないとかいった感覚で、それが高じると何かが生まれる。
必要とはそんなものと思っていたのだが、同じような意味を持つ言葉であるニーズのほうはどうだろうか。社会のニーズに応えてとか、客のニーズに応えてといった使い方がされるが、そこには発明の母である必要と同じ意味が含まれているのだろうか。それとも、そういうのとは少し違った必要の意味なのだろうか。友人と話しているときに持ち上がった話題なのだが、最近の社会情勢の狭隘さが如実に現れているものの一つではないかと思われる。こんなことを書くと、社会的弱者を救済するためや無駄を出さないために重要な考え方を狭隘などと表現するとはおかしいという反論が出るのかも知れないが、逆にそういう看板を前面に出すことで後に隠されている大きな矛盾を見失っているのではないだろうか。ニーズとはいかにもその結果の利益を受ける人々から湧き出たものであり、社会の必要性を満たすために最も重要な要素であると理解されているようだが、現実にはニーズの無いところにニーズを作り、そのニーズに乗っかって様々な活動が行われている場合が多い。そんな不埒な輩がいるのかと今更言う人もいないだろうが、不況に入り始めた頃からそんなやり方が横行していたわけで、その後もニーズという言葉は誰かさんの印籠のごとく何にも勝る決め台詞となっていたと思う。このことはそういう流れに乗って自らの利益を得ようとする人々に使われただけでなく、もう一方で今目の前にある必要のみを重視する流れを作りだすことに繋がった。前者は単にこの話だけでなく、あらゆるところにそういう膿が噴出しているから、今更取り上げても大したことは起きそうにもない。しかし、後者の方は今この時も進行している大きな矛盾や問題を生じさせている元凶となっている可能性があるから、ここで書いておくことが大切だと思う。いつの頃からか、不要なものは要らないという考え方が当たり前となった。文字の通りな訳でどこにも矛盾はないように見えるが、では必要、不要は誰がどういった観点で決定するのかという話になるとどうもすっきりしない。当事者が決めればいいのだと言われそうだが、本当にそうなのだろうか。また、今必要と言うのと十年後に必要と言うのでは、取り扱いにどんな違いがあるのだろうか。さらに追いつめていくと、本当にこの世の中には必要なものばかりがあるのだろうか、という疑問が出てくる。当然と答える人もいるかも知れないが、自分の周りを見渡してもなおそんな愚答を返す人がいたらちょっと驚いてしまいそうだ。身の回りはそんな具合なのに、何故だか机の上では必要性の順序を説くというのでは何ともおかしな雰囲気になる。こんな形で突き詰めていくと最後に出てくる答えは無い袖は振れないになるのではないか。つまり余裕がないから必要な分だけ手当てをするということなのだ。もしもそうなるのなら、それこそまさに狭隘さの現れなのだろう。ニーズという決め台詞によって切り捨てられたものが今見直される時代になり、それぞれについては復権が図られているようだが、一方でニーズは相変わらずの勢いを見せている。では、この大いなる矛盾を解きほぐすためには何をどうすればいいのだろう。
会議は何のためにするのだろう。すぐに返ってきそうな答えは何かを決めるためというものだろう。しかし、隣の国では会議は話し合うためだけのものであり、何も決めないかあるいは既に決まっているものらしい。この国でも、君たちには何も決められないと議長に宣告されて驚愕したという話もあるくらいだから、そんな形式の会議が世の中にはたくさんあるのだろう。
決めるとか話し合うとか、そんな目的を持っていれば、それはそれなりに意味を持つに違いないのだが、そうなっていないものに参加するとなるとただ時間の無駄という思いが残るだけとなる。そんな会議があるものかと思うかも知れないが、意外なほど多いものである。形式的には話し合いになっているはずなのに、実際にはそんな風に感じられないことも多い。その原因を考えてみると、参加者の気質によるものが多いことに気がつく。話し合いとは一種の交渉事であり、着地点を探す作業がありそうに思えるが、現実にはそうなっていないことがあまりにも多いのだ。隣国での会議の話し合いはまさにそういうものらしく、互いに自分の意見をぶつけ合うだけとなる。しかし、この国ではさらに悪い状況になる場合があり、互いの意見があればまだましで、片方は独自の考えはなく、ただもう一方の意見の否定に走ることになる。一見議論は活発であり、実り多い結果を生み出すように見えても、実際には出される提案がことごとく潰されるだけだから、そこには何も残らない。そんな結末を迎える会議の参加者は一部を除いて、無力感や虚無感が残るだけとなる。議論自体はきちんとしたものになっているように見えても、その結末がこうなってしまうのは、専ら一部の参加者の気質によるところが多くなるわけだ。そんな会合に出ているとただ無駄なだけという思いが残るが、時々ふと気づかされることがある。自らの意見を持たず、他人の意見をただ闇雲に否定している人々に、何かしらの共通点があるような気がしてくるのだ。一部の人々はこういう輩を破壊者と呼んでいるようだが、今の世の中はこれに該当する人々が溢れているように見える。先人の作り上げたものを次々に破壊して回る人々なのだが、本人たちはそういう思いは持っていない。単に、悪い点を是正していると思っているだけらしい。ただ、そんな行動を主体としているから、新たな改革を提案するのではなく、既存のものをいじくり回すことが主な仕事となる。大きな変化が起きた時に対処できるやり方ではないし、どちらかといえば全体として悪い方向に向かわせる原動力になっていると言えなくもない。共通点というのは世代にあり、今目の前で活躍している人々で言えば、そろそろ引退を迎えるか既に引退した辺りにありそうな気がする。戦後の急速な成長を担った人々の影になり、目立たぬ存在のまま、突然日の当たるところへ出てきた人々。いかにもいろんな変革に携わってきたように見えて、実は専ら破壊工作に専従してきた人々。こんな言い方をしたら、年寄りを馬鹿にすると言われそうだが、すべてがそうでなくともあまりにも多くの例を見てきたような気がする。次にこんな世代が現れるのはいつ頃なのかわからないが、それまでの間、傷ついたところを修復することに専念せねばならない世代もいそうである。これは公平という基準では括りようのない状況だが、時代の繰り返しと言われてしまえば、はいそれまでである。
梅雨の中休みなのだそうだ。単に長雨の中断ではなく、湿度が低くて爽やかな日が続く。気象的には、梅雨前線が南下して、大陸からの高気圧に覆われるわけで、真夏のように太平洋高気圧に覆われるわけではないから、湿度が低く気温もさほど上がらない場合が多い。こういう鬱陶しい時期には何ともありがたいことだが、その先を考えると、である。
人間の気分はいろんなものに左右される。たとえば、話し相手の何気ない言葉が心の奥底に残り影響を及ぼされることがあるし、多すぎる仕事に追われてばかりで落ち着かない毎日を送らされ落ち込むこともある。人間関係が一番大きな要因には違いないのだろうが、それ以外にも色々とあって、まったく生きるということは大変なことと思えてくる。でもまあ、そんなことを言っていられる程度ならば大したことはないかも知れない。何かに対して本当に圧力を感じ、その上に自分が抑圧された状況にあると客観的に考えられるうちは、それほど深みには落ちていないだろうから。実際には、そんなことに気づくまもなく、どうも調子が今一つと思っているうちに、周囲から見ていてかなりおかしな状態になることがある。本人はまったく気がついていないときに、周りから見るとかなり深刻に見えることもあって、何かと気になる時代だから色々と働きかけたりする。しかし、本人には自覚が無い状態だからこういう働きかけが悪い方向に向かわせる要因になることも少なくないし、場合によっては働きかけ自体がきっかけを与えることさえある。じゃあどうすればいいのか、ということになってしまいそうだが、実際には見守るという形の見えない働きかけの方が上手く作用することがある。ただ、こういう働きかけは効果のほどが明確にならないだろうから、中々認識されず、直接的な働きかけのうちで最も効果を上げたものに対処法の一番の地位を譲らざるを得ないだろう。何しろ、何でもかんでも病気になる時代である。医者が出てきて、こういう症状が出た場合、こういう病気であることが考えられるという話をするのを見ていると、まるで誰でも病気だと言われているように思える。医者の立場からすれば、治療の対象をはっきりさせねばならないのだろうから、こういうやり方はごく普通のものと思われるのだろうが、その度に病人にされるほうはたまったものではない。何しろ、そうでなくてもいろんな悩みが周囲に渦巻いているような状況である。その中で病人と断定されることには、二つの効果があるだろう。一つは、治療を受ける権利を授けられるということ、もう一つは、病人であることに悩み苦しむ機会を与えられることである。どちらになるのかは、人それぞれであり、診断する側にその辺りの配慮があるとも思えない。簡単には言えないことだし、同じ範疇に入ることかどうか明確でないが、風邪を引いたときに注射を要求する患者の心理が色んなところに波及してきたのではないかと思えることがある。そんなに単純ではないだろうが、やはりどこかにずれが生じてきて、病気であることで安心するという風潮が出てきたのではないだろうか。人の違いなどあるのが当たり前で、皆が同じである必要など無い、という話をしても、同じであることを望む人たちにとっては単なる迷惑なのだろう。それよりもその違いは病気からくるもので、本人にはどうしようもないと言われたほうが救いになるのかも知れない。どちらにしてもどうしようもないことなのだが、天性のものと言われるのには抵抗があるのだろう。総病人の世界を築いても何にもならないと思うのだが、別の心理が働く世界ではそうでもないのだろう。天候の不安定が気分の不安定を呼ぶ時期に、風邪を引くように精神的な病気になる。まあ、そう気楽に考えれば、どうということもないのだろう。
安全神話が揺らいでいる。人間が作った機械、人間が作ったシステム、様々なところでこれまでの安全神話が崩れている。どんなものにも完璧などないから、それに備えていろんな方策を講じておくというのが、元々の考え方だったのではないだろうか。それがいつの間にか、機械は安全に違いないとかこの国のシステムは絶対安全とか、そんな神話が語り伝えられるようになった。
そこから生まれたのはいろんな形の歪みで、たぶん一番極端なものはそれに関係した人が死ぬという結果だろう。これも以前ならば大袈裟に取り上げられるところだが、神話が君臨している中では原因の追究が進まず、肝心なところに布が被されてしまう。本来ならば、遅すぎたと言われつつも新たな方策が講じられ、安全性が高まるはずなのだが、この神話はそういう動きをすべて封じる神通力を発揮してしまったようだ。さすがに、一つ二つと数えられているうちは、例外としての扱いを受けていたが、どっと分厚いリストが提出されるとそんなことを言ってられないことになった。機械にしろ、システムにしろ、作る側に妄信的な考えが大勢を占めてくると、どうにもならないことになる。さらに、そういう素地の上に安全と収益を天秤にかける悪魔の手先のような考えが積み上がれば、あんな考えがいとも簡単に組織を動かし、ああいう結果を何の痛みもなく生み出すことができる。こんな状況になってきて、さすがに心配になるのは大動脈である新幹線の安全性だ。様々な仕掛けを講じて、人間だけに頼らないようなシステムを築き上げ、世界に誇る安全な乗り物を提供しているが、こういう状況が各所で起きるようになると、それでも心配になる。関係者も当然それを意識しているだろうから大丈夫と言いたいところだが、このところの社会の動きを見ているとそうとも言えない気がしてくる。これらはいかにも作る側にだけ課された問題のように思われているが、実際には安全な社会に暮らすことによって、どこからどこまでが環境に課せられたもので、どこからが自分自身に課せられたものなのか、危険を回避する気持ちが徐々に薄れているのではないかと思えることがある。危険なものに近づく子供とそれを見ていない親、車道一杯に広がって走る自転車、車道を歩き後から来る車に気づかぬ中学生、こんなに安全な世の中になり、そこに暮らす人々はその当たり前のうえに胡座をかいているのだろうか。それとも、単に刺激が足りなくて、鈍くなってしまったのだろうか。巷に溢れる工業製品も最近はいろんな責任に縛られているが、それぞれが呆れるほどのレベルであり、その基準になっているのが使用者の考えであることを思うと、今のような状況が単に製造者の独りよがりから生まれたものとも思えなくなる。製造者も時には使用者の立場にあるわけで、その際に安全に対する備えができないのだと、いざ何かを作る場合にもその程度の甘い考えにしか至らないのかも知れない。確かに、あれほどのことをしでかした人々の責任は重いだろうが、そこを罰するだけでは根本的な解決にならないのではなかろうか。意識することの大切さを説く人々はたくさんいるが、その声は中々届かないようだ。危険が一杯になれば何とかなるはず、などという考えにたどり着く前に、なんとかしたいものだ。