パンチの独り言

(2004年6月21日〜6月27日)
(選挙権、流れに乗る、信用する、宣告、化粧室、刺激、事故防止)



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6月27日(日)−事故防止

 車での移動で一番怖いことは何か。そう、事故である。全国で一体何台の車が走っているのかわからないが、いつもどこかで事故が起きている。運転者の不注意によるものもあるが、最近話題になったような車自体の問題によるものもある。そんな話を聞くと、自らの注意で防げないものにより大きな恐怖を感じる。
 確かに車に欠陥があり、それが事前に知りえないものであれば、防ぎようはない。しかし、多くの整備不良と呼ばれる代物は、教習所で習った始業点検のようなもので見つけられる。と言っても、実際には免許を取って以来、そんなことをしたことはほとんど無い。それでも、高速道路の休憩でタイヤのネジの緩みを見つけたことがあるから、ちょっとした注意で事故を未然に防いでいたのかもしれない。それとは違うが、運転中に水温計に目が行くことが多い。それは、二度もラジエターの故障に出合ったからだ。一度はホースの破損、もう一度はファンによる損傷である。いずれの場合も水温計は振り切れていたが、大事には至らなかった。水を補給しながら走り続けることができたからだ。それに比べたら、駆動系や制動系の故障は直接事故に繋がることが多いから恐ろしい。そういう車自体の問題を除くと、多くの事故は未然に防ぐことができると言われる。ちゃんと前を見て、脇目もふらず、安全速度で運転すれば、事故は起こるはずが無いと言われているが、実際にはそれでも防げないものが幾つかある。たとえば、対向車線からのはみ出しがそのいい例だろう。どんなに注意をしていても、相手が自分の前に飛び出してきては防ぎようが無い。いかに事故を軽く済ませるかという工夫をするのが精一杯である。また、交差点での信号無視や一時停止不履行も多くの場合防ぎようが無いと言われる。これらによって起きる事故はほとんどが信頼によって成立したものを壊すことに起因している。走るべきところを逸脱したり、止まるべきところを通りすぎたりすることによる事故は、被害者の方から見れば起きるはずの無いものとなるからだ。この手の事故が少ないところはどこかといえば高速道路となる。対向車線とは中央分離帯で隔たれているし、交差する道路もない。皆同じ方向に向って走っており、速度差はあまりないから相対速度も大きくならない。だから追突などが起きても、それ自体は大きな損傷を生じない。但し、そのあとの怖さは経験したものでないとわからないだろう。突然違った方向にかかる力を受けて、車は思わぬ方向に向う。そういう時大きな問題となるのは走行速度であり、それまでは順調に走っていたものが思わぬ動きをする。当事者も怖い思いをするのだろうが、その後ろを走る人々の受ける恐怖感もかなりのものだろう。事故の起きる確率は低いのだろうが、起きてしまったときの被害は大きい。運任せとは言いたくないが、何となくそんな気分になるときもある。特に雨の中での走行は苦手な人も多いらしく、危険を感じることも多い。滑ってしまえば速度が速度だから制御不能となることが多い。予想もしなかったと後で言うのは簡単だが、苦手に思うだけでなく、自分にとっての安全速度を意識することが大切なのだと思う。

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6月26日(土)−刺激

 久しぶりの道を走っていると道路脇に淡いピンクのものが現れてくる。はっきりとした形ではなく、何となくぼやけたように見えるのでこっちの目がおかしくなったのかと心配になるが、脇見運転覚悟でゆっくり眺めてみるとピンクの細い繊維が集まったような形をした花が咲いている。葉の方は、小さな葉が集まったようになっていて、オジギソウが木になった感じだ。
 こんな記述を読んで何という木なのかわかった人はえらいと思う。まあ、こんなことで人間の格の上下を測るものではないが、凄いなあと思う、そんな気持ちの現れである。この時期に咲くピンクの花、その上花弁があるのではなく、それはまるで糸のような形をして広がっていると聞いただけで、知っている人にはすぐにわかるのだろう。合歓木である。植物といえばいつも重宝しているサイトがあり、そこに行けば色んな草花の写真とそれにまつわる話を読むことができる。これこそインターネットの発達の恩恵の一つだということに反論を唱える人はいないと思うが、最近色んなことで悪者にされるネットの良い面の一つだと思う。写真を掲載しているサイトはそこに現実のものがあるだけに間違いは少なくなると思うが、単なるお話や意見を載せたところに怪しいところが増えてくる。そんなことで分類してはいけないのだろうが、何となくそう感じてしまうから仕方がない。ネットの効用の一つに調査の手軽さがある。以前ならば近くの図書館に出かけて、時間をかけて行った調べ事が、ネットでは検索という簡単な方法であっという間に調べられる。と言っても、事はさほど簡単ではなく、山ほど出されるリストの中から自分の知りたいことを説明してくれるサイトを探しだす作業が次に待っている。また、本を使った調査に慣れている人にとっては目の前にある資料はほとんど信用できるもので、それぞれが綿密な調査や研究に基づいたものと思われるが、ネットの場合はそうでないものも数多く含まれている。雑多なだけでなく、思い込みや誤解に基づいてまとめられたものの中から信用できるものを選び出す作業も、以前にはなかった新たな段階として重視されている。さほど難しいことではなく、単に複数の意見を眺めることによって、それぞれの正しさを判断すればよいのだが、これだけ普及してくると同じ情報源に基づいた意見が違うサイトに紹介されていて、間違った源から発したものはすべて間違いになることを考えると、複数がすべてを解決する手段となりえないことがわかる。そういう悪い面はあるものの、手軽に資料を入手できる利点は計り知れないものがある。一方、こういう面も含めて種々雑多なものに簡単に接することの悪影響を説く人々がいるが、その主たる論点は洗練されていない膨大な量の刺激に曝されることによる影響のようだ。それが人間形成や人格形成に与えるものは大きく、今の社会問題の多くはそこに端を発しているという話はいかにも説得力がありそうに思える。しかし、それ以前の問題を論じることなく、そこだけに原因を求めるやり方には賛成できない面がある。刺激を感じるとか刺激を求めるとか、あるいは欲求などという言葉がこういう議論でしばしば用いられるが、そういうことを始める時期はいつなのだろう。その辺りの時間のずれを感じるものだから、ネット原因説には賛同できない。人との関わりが希薄になりという件にも、そこでの問題を覆い隠そうとする意図が見え隠れする。そういえば、昔テレビの功罪を声高に論じた人々がいたことを思いだす。

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6月25日(金)−化粧室

 鬱陶しい天気が戻ってきた。らしい天気は本来歓迎せねばならぬところだが、何度経験しても高温多湿は鬱陶しい。長期予報によれば今年の夏は夏らしい天気になるとのことで、一部には胸をなで下ろしている人もいるだろう。気候の影響を受けやすい農業に携わる人々にとっては、らしい天気が最良のものに違いない。
 鬱陶しいと感じているときに目に飛び込んでくるとその気持ちがさらに悪い方向に進んでしまうものはたくさんある。今朝もそんな光景が飛び込んできた。脇道から脇見をしたまま飛び出してきた女性ドライバーは、その後こちらの後につき、しばらく追いかけられる形となった。同乗者ともシートベルトを装着していない様子からまともでない雰囲気がしたが、すぐに何かを取りだし顔塗りを始めた。ブラシを使ったり、マスカラだろうか、色々と動かしていたが、それにしても忙しいものだ。運転中もその手を緩めずというのを鏡越しに見ていると、いつぶつけられるのかと不安になる。後部座席には野放しの子供たちがいる様子で、何かが起きれば怪我人が出るのは必至という雰囲気だ。いつ頃かは蔓延るようになったのか、化粧を家の外でする人が増えた。直しに化粧室に向かう人の姿を見かけることは昔からあったが、最近はところ構わずの状態である。通勤の車の中で、微に入り細に入り塗りたくっている女性を見かけるだけでなく、ひげ剃りに励む男性の姿もよく見かける。世の中が忙しくなったという見方をする人もいるのだろうが、あれほど他人の目を気にする人々が他人の目の前でそういう行為に励むのを見ると、その辺りの心理を理解することはかなり難しいものだと思われる。車の中なら誰にも見られない、などと考えている人がいたら大きな間違いだし、見知らぬ人に見られるのは構わない、などと考えている人がいるんだとしたら社会に対する考え方にずれを感じる。化粧の話については、いろんなところでいろんな人が話題にしていて、特に電車内での行為を批判する人が多い。何しろ、そういう姿を見かけると周囲の人々の視線が変わるのがすぐにわかるし、見せ物じゃないと言いたくなる。どちらが見せ物にしているのか、見せるほうなのか、見る方なのか、そんなことを論じたくはないが、とにかく見苦しいとみる人が未だに多いように思う。しかし、やっている本人はどこ吹く風である。何しろ暇が無い、とでも言いたげに、座るやいなや励み始めるからすごい。最近はどの駅にもトイレがあるから、そこでやればいいのにと考えるのは、彼らからみれば大きな誤解なのだろう。人に見せるための化粧をその過程を通じて人に見せる必要があるとは思わないが、見せているのではない、見るやつが悪いと言われればその通りかも知れない。そんなこんなのやり取りが続いた末に、結局誰も不自然に感じる人がいなくなり、電車の中は化粧室と化すのだろうか。一方、車の中でもいろんな行為が行われるのだろうか。後部座席に乗っていた子供たちにとっては毎日繰り返される日常のことで、彼らの心には常識として映るものになりそうだ。そういうことが世代を超えて伝えられることで、様々な常識が生まれることになる。その頃には、こんな話をする人が非常識と言われるようになるのだろうか。

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6月24日(木)−宣告

 不祥事が起きるたびに、企業の責任者や組織の責任者がその経緯などを説明している。起きたことの説明がどれほどの意味を持つのか疑わしいところだが、説明せよと要求されれば立場上応じなければならないのだろう。要求する側の準備の程度を考えれば、このこと自体の意味はほとんどなく、みそぎの一種のように見る人もいるのではないか。
 そんな説明責任ばかりが横行するようになると、説明そのものに何の意味も込めずに行う人々が多くなる。そうなれば、単なる儀式と化して誰も注目しなくなり、ついには既成事実のためのものとなることは明白だ。今、そういう人々に向かって躍起になっている連中にそれほどの深読みは期待できない。ただ単にその場その場の欲求を表に出しているに過ぎないから、今後の展開など眼中にあろうはずがない。ただ、ちょっと離れたところから眺めていると、そういうやり取りの無意味さに呆れたり、事前の情報収集の不足に呆れることが度々あり、それ自体に意味を持たせたいのならもっと別のやり方をすればいいのにと思ったりする。他の例についても責任の果たし方に首を傾げたくなることが時々ある。たとえば、医者と患者の関係にもそういう面が現れている。医者が患者に対して病気の説明を行い、今後の治療方針を伝えることが最近では当たり前と受け取られるようになっている。しかし、実際には何が何やらわからない人間に対して、訳のわからない言葉の羅列を投げかけるという場合も少なくなく、人によっては狐につままれたまま身を任せるしかない場合もある。命に関わる病気の場合も、そうでない場合も、患者にとっては痛みを伴うものだったり、苦痛を伴うものだったりするだろうから、その上に意味不明なことが覆いかぶさると困ったりするのではないだろうか。以前は病名宣告も病気によっては患者自身には伝えず、家族に伝えることが大部分であったが、最近は患者の知る権利を尊重するということで直接伝える場合が多くなった。しかし、それでも数ヶ月の命といった言葉を直接伝えるのは困難を伴う。この辺りは医者によって様々なのだろうが、悩んだ末に本人に伝えることもあるだろうし、結局家族のみに伝えるほうを選択する場合もあるだろう。いずれにしても、こういう悩みはこの手の職業にはつきものであろう。以前知り合いから聞いた話はちょっと外れた例なのだろうが、医者が苦しみたくないので患者に話してしまうというものだった。家族としては何と呆れたという思いだったようだが、時間の巻き戻しができるわけでもなく、出てしまった話は引っ込めようがないわけだ。こんな話を聞いていると今どきの医者はという思いがしてくるが、そういう片付け方をしてはいけないのだろう。一方、昔の医者の話では、都内一橋の某所に集まる人々の中でそういった宣告に関する当たり外れの自慢話をする人がいたという噂があった。どんな病気でも治せると思い込む医者よりはましな話かも知れないが、患者との接触がそういうことで結論づけられるのは傍目にはかなわない気がしてくる。人それぞれに事情があるだろうから、一概に言うことではないのかも知れないが、説明責任一つとってもいろんな難しさが伴うことのようだ。

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6月23日(水)−信用する

 世の中、様々なものが信頼の上に成り立っている。自分で自分を信用するか否かは、人それぞれの勝手だし、それが他の人に与える影響は大したことはなさそうだが、他方、他の人々を信用するか否かはその人の行動に大きな影響を与えそうだ。誰も信じないと言い切る人でも、街中を歩いたり車を運転するのなら、周囲の人々を信用しないわけにも行かない。
 実際には人を信じる信じないと言うときの信頼と歩いたり運転するときの周囲の人の行動を信じるときの信頼とは違っているので、同じように扱うのはおかしいのだが、ちょっとした引き合いに出してみた。信頼の上に成り立つ社会では、ほんの少しの綻びが大きな穴を開けることに繋がるから油断できない。最近の事故の形態を見ているとこういう信頼を失うことに繋がるものがあまりにも多くなり、今後の展開を心配する声が大きくなるのも止むを得なく思えてくる。特に、人間が作った機械が絡んだものの場合、ある先入観から機械には間違いはないという思い込みを持っている人が多いから、それを崩されることが大きな影響を与えているように見える。機械自体は設計されたとおりの動作をするわけだから、そこに間違いが生じることはまずないのだが、設計自体に間違いがあれば話は別である。また、設計にミスがなくとも、機械を作る上での人為的な誤りや機構上不可能な性能の想定などから、いろいろな問題が生じる場合もある。それぞれについては、作る側にすべての責任があるわけだから、そのことをきちんと守ってほしいと思うのが使う側の希望だが、最近の流れを見ているとそうなっていないところが増えているようだ。ほんのたまにしか見かけないものであれば、そういう機械の話を聞いていても大して気にはならないが、車の場合はよほどのところに住まない限り見ないことはない。また、回転扉にしても一時の熱気は収まり、使えないところが増えているが、動いているところもある。それまでなら、何の不安もなく見過ごしていたものが、話題になり気持ちのどこかに引っかかるようになると、途端に心配が増えてくる。こういう行動様式を眺めていると我ながら勝手なものだと思えてきてしまう。そこにある機械の性能や欠陥は以前と変わらぬものというより、話題になることによってある程度改善されているはずなのに、実際にはその前の出来事のほうが印象として残り、そちらのほうに心理が揺さぶられる結果となっているのだ。しかし、道路で隣の車線や前、後ろを走っているその手の車を見たら、やはり警戒すべきだろうし、なるべく避けておいたほうが無難なようである。理性としてはちゃんと対処しているはずなのだから心配ないと思いたいところだが、そんなことをして事故に巻き込まれてはいけないと思う心が働く。このあたりの心理をどう分析するのかはよくわからないが、とにかくそういう警戒心を働かせることによって、これまでも様々な危険を回避してきたのだろうから、そのことを間違いというわけにもいかないだろう。しかし、こういう動きが大きくなれば、結果として出てくるのは問題を抱えた車の排除となるだろうから、単に個人の心理の問題として片付けていいものでもなさそうだ。回転扉のほうは冷めてきたようだが、車のほうはまだまだ熱いままである。今後どんな展開になるのか、企業形態まで問われるような状況で、注目されるところだろう。

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6月22日(火)−流れに乗る

 確率というのは便利なようで不便な代物である。数字に強いというか、弱いというか、数字にされると信じやすい人々にとって、確率はある見方をすると魅力的なものであり、ある意味騙されるもととなるものである。何故、同じ数字なのにそれが期待したように物事に反映されないのか、不思議に思った人もいるのではないか。実はそこに大きな誤解がある。
 世の中の出来事はその度ごとにたった一度きりのもので、もう一度やり直すというのはタイムマシンでもできない限り不可能な話である。人々が経験することはすべてが一度きりのものだから、たとえ失敗したとしても、上手く成功したとしても、その先を進めるしかない。立ち止まる気分になったとしても、そこにいつまでも留まることはできないのだ。では、そういう出来事に対して確率が引っ張り出されるのは何故だろうか。事前にどんな結果が生まれそうなのか知りたいから、というのが確率を知りたがるほとんどの人が持つ理由だと思うが、実際には100%の確率というものはほとんど存在しない。だからどんなものを論じるにしても、必ず例外的なものが出てきてしまうのだ。たとえば、人間は死ぬという確率を話題にする人はいないと思うが、これは今のところ100%ということになっている。未来永劫にわたってそうなるかどうかはわからないが、どんな人間もこの運命を変えることはできない。そんな極端な例は別にして、大抵のことは当たりとはずれに分かれ、その大小関係から関係者は心の準備をして現実の出来事を迎える。しかし、どんなに大きな確率をもってしても、それが100%でなければ、万に一つ、億に一つの可能性は残っているわけだ。その一つが今現実に起きていることに落ちてくれば、非常に稀なこととはいえ、起きたということになる。確率はゼロに近かったのに、起きてしまえばそれは一となる。その辺りが確率と現実の違いというべきものなのだろう。確率は何度も何度も同じことを繰り返したときにある出来事が起きる割合を出したわけだから、たった一度のことにどちらが起きるのかをはっきりと予想することはできない。その違いに気づかぬ人にとっては、確率による予想が外れたときの落胆は大きなものとなる。しかし、そんなことはよく、いや稀に、あることなのだ。ただ、確率がある程度高くなると例外の方はわずかになるわけだから、ほとんど起きないと見做しながら過ごすことができる。世の中が安定して、あまり変化の無い状況が長く続くとこんな状態に陥るようだ。こうなってくると確率を引き合いに出すよりも、傾向と対策を前面に出したほうが賢明であるような気がしてくる。つまり現在の状況からどの前例に当てはまるのかを測り、そこから対策を引きだしてくる。前例のない状況はほとんど起きないわけだし、当然例にならって次の出来事も予想通り起きるわけだ。安定期というか、停滞期というか、そんな時代にはこんな生き方が効率の良いものとしてよく紹介されている。変化を求めず、危険を冒さず、今のままでといった雰囲気が見えてくると、そういうものに不安を覚えるのは時代の流れに乗り遅れた人々の常なのかも知れない。こんな行き先不明の電車には乗らないほうが良いのではないかと思うのも、乗っている人々から見れば遅れた連中の戯言であり、馬鹿げた行為と見做されそうだ。しかし、この考えはどこかずれているように見える。右肩上がりの時代の人々の乗っていた電車と今の安定期の人々の乗っている電車、装いは違うが実際には同じもののように思える。一方で、どんな電車にも乗りそびれる人々はいつの時代にもいるようだ。

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6月21日(月)−選挙権

 この頃選挙が近づくたびに、投票率の低さが問題として取り上げられる。たとえば、40%程度の投票率で過半数の票を獲得して当選した人がいたとしても、それは選挙権を持つ人々の20%強が支持したことにしかならない。残りの60%がどんな気持ちを持っているのかを推測することは不可能だからだ。こんなことでいいのかと声高に訴えても、どうにも反応はない。
 低い者を上げるためにはということで投票の仕組みを変える方法が検討されているが、何を導入しても大した変化はない。ついには外国で採り入れられている方法を探し始める人も出てきて、やれ税金だの、やれ懸賞だのと何だか投票行為そのものとは無関係なものが紹介されている。その話を聴いていてふと気がつくのは、この手の問題は何もこの国に限ったことではないということだ。どこでもとは言えないだろうが、いろんな国で投票行為の意義を認められない人々がたくさんいて、投票そのものに興味を示さないところもある。だから、いろんな制約をくっつけて、何とか仕組みの健全性を保とうと努力しているのだろう。この国でもそんな仕掛けが必要だろうか。いろんな形で議論が進むと思うけれど、どうもこういう観点に立っている以上、他の画期的な案は出てきそうにもない。一方で、投票の意義が認められないのは何故かという問いには、おそらく実行しても何も変わらないからという聞き飽きた答が返ってくるのだろう。他の国のことはよくわからないが、この国に限って言えば、経済状況が悪くなってから、政治にその責任を負わせ、それを担う人々の入れ替えの試みがいろんな形で行われてきた。実際に数の論理で言うところの多数派を構成する人々の交代が起きた時には、いろんな意味での期待が膨らんだのだが、結果としてはほとんど変化なしということになってしまった。その後の展開は、全般的に見れば経済同様の停滞が続いていると言えるだろう。では、それに対して選挙権を持っている人々はどんな思いを抱いているのだろうか。そこには、いろんな意見があると思う。たとえば変化を求めようとしてもそれを担う人々がいないとか、どうせ悪いならこれ以上悪化しないようにして欲しいとか、誰に任せても変わりがないとか、悪いほうの意見を並べたらきりがなさそうだ。それに加えて、経済の悪化という大きな変化を経験した世代にとっては、変化は悪いほうに向かうという気持ちが強くなってしまったようで、様々なことに保守的な考えが蔓延るようになっているように見える。そんな中で、自分たちにとって良い生活が迎えられるように、という訴えとともに選挙への参加を促されても、足は向いていきそうにもない。どうせ変わらないという言葉を真剣に受け止める人々が永田町にいるかどうかはわからないが、その気持ちを変えるためにはどうすればいいのかが見えてこないかぎり、何も変わらないという状況は変わりそうにもない。内閣の支持率の低下があったとしても、支持する人々の多くが他の内閣よりましだからという理由を出してくるようでは、元のところから考え方がずれているように思える。すべてにおいて消極的な考えが大半を占めるようになっている時代には、この辺りの問題に対する意識さえ従来の考え方では理解しがたいものになっているような気がする。

(since 2002/4/3)