西海岸のある地域を走っていると車窓に畑が広がっているのが見える。春先にはそこで働く人々の姿が目に入り、機械化が進んだ農業と習った者には不思議な光景に映る。穀物に関しては広大な農地に大型の機械が導入され、まるで工場のように見えるのだが、農業はそんなやり方の通用しないものも多い。苺の収穫では手作業だけが頼りのようだ。
国が豊かになるにつれて労働形態も変化を見せると言われる。工業化が進むと多くの人が工場で働くようになり、農業のような過酷な肉体労働に興味を示す人は少なくなる。収入は労働の過酷さとは比例せず、豊かな生活を送るためにはより良い収入を求めて工場などの二次産業に向かうのが得策と言われる。しかし、農産物が無くなれば日々の食料に困るわけだから、誰も働き手がいないという状況にしてはいけない。そういう事情から不法滞在者を含めた外国人労働者を頼りにした農業が行われている現状が苺畑の光景なのだろう。自国民の中で畑で働こうとする人々はほとんどいないから、雇用の機会が奪われるということはない。かえって国を底辺で支えてくれるものとして歓迎されている面もあるのだと思う。だから失業問題が深刻化しても、農場で働く人々のことを問題視する動きはあまり強くはならなかったのだろう。また、収益率の悪い産業では低賃金での労働の確保が重要な課題だから、外国からの移民を頼りにするやり方は大いに奨励されていたに違いない。ここでもある意味での資本主義が成立しており、安い農産物を手に入れるためには労賃を低く抑える必要があり、その供給さえあれば全体の流れが滑らかになる。労働に対するこういった考えはごく自然の均衡で成り立つと思われていたが、最近そのこと自体を考え直す動きが出ているようだ。過酷な肉体労働だけに限られていた外国人の雇用が、特別な能力を必要とする専門職にまで及ぶようになり、そういう目的で入ってくる人々が急増しているという話である。看護婦、IT関連の技術者などがその代表として取り上げられていたが、これらは需要と供給のバランスから人不足の状況下で起きたものである。ところが、先日話題に上っていたものは失業者を産む結果に繋がったものとして注目に値する。国内のある業界の労働者が解雇され、その後も職の機会を得ることができないと報じた番組では、あらゆる仕事に関して外注が可能であれば、国内でなく外国に発注することも不可能ではないという現状を解説していた。この流れにより、高賃金の自国民や同じ国に住む外国人を使うより、生活水準が低いために低賃金の外国に住む同程度の能力を持つ人々を使うほうが得策であるとする考えが定着したようだ。その流れに押し流された人々は雇用の機会を失い、同じ業界に復帰することは叶わぬ夢となってしまった。特殊な能力、特殊な技術を身に付けていれば、高賃金を獲得でき、将来も保障されると言われたのはついこの間のことのようだが、現実には肉体労働だけでなく、頭脳労働に分類される職業にまで、賃金の抑制が進んできたと言えるのだろう。それがさらに情報の高速化、低価格化により、国境をもたない状況が生まれることにより、そこに存在しなければならないという制約は簡単にはずされてしまったようだ。失職した人々の行き先は定まっていないが、番組中で取り上げられていたのはいわゆる職人のようなものであった。その場にいなければやれない仕事である程度の技術が必要なものを身に付けていれば、雇用の機会があるはずという考えに基づくものなのだろう。海の向こうでは三次産業ばかりに注力した結果がこうなっているが、さてこちらではどんな状況が出てくるのだろうか。景気の回復が雇用の回復に繋がらないのは、その辺りの事情によるものかも知れない。
アサリなどの貝の美味しい季節になった。というより、このくらい暑くなると、潮干狩りが恋しい季節というべきなのかも知れない。砂浜をもつところではどこでも潮干狩りができると子供の頃は思い込んでいたのだが、最近はそんなところは少なくなりつつあるらしい。その上、色んな障害が起きて、名所として知られていたところでもさっぱりだめになる例もある。
潮干狩りの季節が始まろうとしていたころ、テレビで話題になっていたところがいくつかある。かなり有名な砂浜という話だったが、まったくアサリがいなくなってしまったという話だ。原因は環境汚染とかそういった昔からある馴染みのものではなく、天敵によるものということで、アサリの貝殻に穴を開けて食べてしまう巻き貝がいるとのことだった。そんな話は聞いたことがないと思っていたら、案の定外国産の貝だそうで、中国や韓国の周辺の海に生息するものなのだそうだ。では、何故どうやってそんなものが入ってきたのか、という疑問が次に湧いてくる。今度アサリのみそ汁か酒蒸しを食べるときに、貝殻をよく見て欲しい。そこには貝それぞれに独特の模様がでている。しかし、よく見ると、その中に断層のようなものが見える場合がある。小さな貝殻があり、そこから別の模様が発達して、大きくなったことがわかるものがあるのだ。潮干狩りの報道でも触れていたが、ほとんどの貝の生息地ではそこで生まれ育ったものはいない。どこか他のところで生まれて、稚貝のうちに運ばれ育ったものばかりなのだそうだ。だから、模様が二つに分かれているわけだ。小さなうちに育ったところと、それから大きくなったところで環境が大きく変化するから、模様も変化するわけである。先日も、そんな想像をしながら酒蒸しを食べるのも、面白いのかも知れないと、しばらく眺めていた。そんな事情から、多くのアサリの稚貝は有明海などの産地から運ばれてくるのだそうだ。もし、それだけならば、上に書いたような被害は出るはずがない。天敵である巻き貝は国内の海では生息していないからだ。そんな訳で、被害に遭った漁民達の意見では、国内産の稚貝と称して、外国産のものが混ぜられていたという疑いがある。生産者のことを信用していたのに、とその時訴えている人たちもいた。どんな事情なのかその後の報道は見ていないからはっきりしたことはわからない。被害に遭った砂浜では、天敵の巻き貝を採り尽くそうとする動きがあり、アサリの潮干狩りならぬ巻き貝の潮干狩りを実施しているらしい。今後のためにも完全に駆除しておきたいのだろう。これらの貝が国内の海で繁殖可能かどうかははっきりしていないようだが、今後この調子で増えていくとそんなものが出てくるのかも知れない。そうなれば、貝の方は生産が激減して、大打撃を受けかねないだろう。混入が事実ならば、それをした業者は単に儲けを求めたわけであり、その後の展開など気にもしなかったのだろう。こんなところにも最近の商売に対する考え方の変化がでているのかと思うと、空恐ろしい気がしてくる。単に、一時的な被害だけでなく、恒久的な被害を生み出す可能性を、それに携わる人々が意識しなくなってきているのは、気になることだ。
みんなが一緒という考え方はいつ頃から当たり前と思われるようになったのだろう。同じ人間であることを強調する意見や同じ能力を持つはずという前提が大きな顔をして闊歩し始めたのはいつのことだろうか。民主主義というある見方からすると大変魅力的な考えが紹介されてから、それに見合う意見として取り上げられるようになったのだろうか。
そんな考えから出ている言葉に平等があるのだと思うが、すべてを同じとするという見方をする人が多いと思う。確かに、同じように扱われ、同じことを要求され、同じ仕事をするのは、いかにも平等の精神に則っていることのように映るに違いない。でも、そういうものが本当の平等なのだろうか。特異な才能を持つことで他の人々とは違うことができたとしても、他人と違う扱いはできないという主義が第一だとすれば、彼らに与えられる特別な機会はなくなる。他の人々とは違うことを意識していて、同じような精神的負担を受けたいから仕事の量を減らして欲しいと思っても、平等の名の下に特別扱いを受けることができないとしたら、それは果たして真の平等と言えるのだろうか。平等以外にも、この国で使われるそういう考えに基づく言葉にはたとえば普通とかがあるし、少し堅苦しいが機会均等なる言葉も発明されている。何でも同じようにということを示していると信じている人には通じないかも知れないが、民主主義とは本来そんな意味を持つのだろうか。外からやって来た概念は元々編み出された国での考え方が尊重されるべきなのだろうが、民主主義ほどきちんとした定義に見えて曖昧に扱われているものはないような気がする。そこにはみんなが一緒という意味が含まれる必要はなく、それぞれの能力に応じて社会などに働きかけられる機会が与えられるといった雰囲気のものがあるだけではないだろうか。いつの頃からか、みんなが同じになるようにというわけのわからない主張が色んな場所で出されるようになり、元から無理なことを実現しようと躍起になってきた。個性をいかすという主張とみんなが同じという主張は本来両立するはずのないものだが、場面ごとに使い分けることで二兎を追い求めることに精を出そうとした人々もいた。同じような達成度を要求するために一方では無駄な努力を強いられ、一方では無駄な時間を浪費させらる状況に追い込まれた子供たちがいて、さらにそこにゆとりなる言葉を導入することで矛盾が強められることになった。教育現場での歪みは最近別の形で指摘されることが多くなったが、実際にはその問題よりも付け焼き刃的な応急処置の繰り返しが袋小路を彷徨う結果を生み出していることに気づかぬ人も多い。機会均等が職場に導入されて久しいが、現状はどんなものだろうか。依然として不満を抱く人々がいる一方で、逆に精神の不安定に悩む人もいると聞く。昇進を望まぬ人々に同じ機会を与えねばと動けば、喜ばれるどころか苦しみを生み出す。いかなるものが均等であるべきかを考えずに、言葉だけが先走りするから、こんな結果を生むのだろう。人がそれぞれ本来持ち合わせている能力に見合う機会を与えることが重要であるはずなのに、ただ一つの側面からしかそれを捉えようとしないのでは矛盾が生じるのもやむを得ない。同じであるはずのないものを同じに扱うことが間違いであることにそろそろ気づくべきだろう。これは何も区別や差別を推奨する考えに基づくものではなく、人それぞれの違いを認める必要を訴えるものである。民主主義とは何を指すと考えるべきか、平等とはどんなものか、少し考えてみればいい。
ずいぶん前のことになるが、知り合いが車検から戻ってきた車を運転していて、前方から煙が出始めて驚いたという話を聞いた。整備工場で雑巾の置き忘れがあったからだそうで、不注意にもほどがあると言っていた。最近の医療事故にも通じるところがあり、その辺りの関わりを考えると、何でも共通項があるものだと感心してしまう。
それにしても、最近車の話題が多くなっているが、巷の話題も多くなっているのだから仕方ない。いつでも孤高の人というわけにはいかないから、時にはそういう流れに乗せてしまう。そんな訳でこのところ話題の中心になっている自動車製造会社の話になるが、小さなものから大きなものまで欠陥と呼ばれるものが次から次へと披露されて、驚きを通り越して呆れるばかりとなっている。ただ、そういう横並びの表で済ませていいものかどうか、疑ってみたほうがよさそうなものもあって、気になり始めている。いくつか不思議な点があるのだが、元々話題になったハブと呼ばれる部品の設計上の問題についてはひどい話とは言え、ある程度理解できる部分がある。部品を設計し、その性能を解析し、その上で実際に使うという段取りが機能していなかったことによるものだろうからだ。たった一つの見落としでもあれば、こんなことは簡単に起きてしまう。部品そのものが持たねばならない耐久性が達成されていなかったのだから、それを使ったものはすべてだめになるからだ。それに対して、ちょっと違うのではないかと思えるのは、部品の組み立てにおける不具合から生じた欠陥である。溶接の条件はある基準に基づいているから、その基準が外れていればどうにもならないが、その他の例も含めて組立工場での様々な失敗による欠陥の方は、部品設計の話とは次元が違うように思える。しかし、勢いのついた情報流出には制動がかからないようで、この辺りのことを十把一絡げで扱っている。一度悪者の札をぶら下げられるとそれをはずすことは困難であるとよく言われるが、まさにぴったり当てはまりそうな話で、怒濤の勢いで悪行が暴かれていく。そんな流れに乗っかってしまったのかと思える話が別にあって、こちらはリコール制度にのる欠陥とは無関係と今のところ言われているが、時期と状況からどこでも大きく取り上げている。例の会社が製造した車の出火に関する報道で、こちらの方もまさに注目の的というくらい多くの事例が報告されている。驚くべきは、その事例が現在進行形のものであり、過去の事例をどこかから引っ張り出したものではないということである。こういう話は多少の違いがあるにしろ、今までも起きていたことなのだが、その大部分は過去の事例の検証により指摘されていた問題点の重大性がより大きくなったというものであった。しかし、今回の話は話題に上り始めた途端に火のないところに煙が立つといった雰囲気になっている。こんなときいくつかの可能性が考えられる。一つは以前はどこかでもみ消されていたという可能性、もう一つは整備不良で片付けられていた可能性、他にも以前からこういう事故があったという仮定の下での可能性が挙げられるかも知れないが、一方で急に事故が起こり始めたとしたらという可能性も考えられる。偶然にしてはと思う人もたくさんいると思うが、偶然という確率で括るべき話かあるいは別の要因があるのか、時間が経過しないことにはわからないだろうし、もしかしたら永遠に謎のままかも知れない。いずれにしても、この話は一度標的となってしまうと、撃ち落とされるまではどうにもならないのではと思える事件の一つであろう。
機械を相手に色んな手続きをすることが増えてきた。便利になったと思う人もいれば、不便になったと思う人もいる。操作の難易度は人それぞれであり、ある人たちから見れば至極簡単なことでも、別の人たちにすればさっぱりわからないことであったりする。こちらが操作しているのに手数料を取られるのは何故という場所ではまた別の思いがよぎる。
機械を相手にすることが便利かどうかとは別に、人と人の関わりが無くなりつつあることを気にする人もいるだろう。高速道路の料金所でのやり取りで言葉を交わすことが習慣となっていた者にとっては、最近のカード決済の便利さは大切なものとの交換と映る。機械化や自動化は効率化と結びつけて論じられるが、その際お喋りは非効率の代表格のように扱われているのではないだろうか。無駄なお喋りの養護をするつもりはないが、どれを無駄と扱い、どれを有用と扱うのか区別の付け方が難しいだけに、つい十把一絡げですべてを不要のものとしてしまうようだ。その結果、機械の前で機械から発せられる合成音声に応じて、手を動かす人にならされ、口の方はただ独り言を呟くだけになる。確かに効率は上がっているのだろうが、何か大切なものを捨てているような気がしてならない。こんなことが原因となっているわけでもないのだろうが、人ごみの中に入ると皆が無表情で歩いていることに気がつくことがある。誰かと一緒に歩いていれば話をしたり、笑ったりすることもあるのだろうが、皆がどこかに目標をもって一心不乱に歩いているように見える。不特定多数の集まるところで何かを配っている人を見ていても、声をかけた相手からものを受け取る手以外のものを期待している雰囲気が無い。言葉をかけても何も返ってこないのが当たり前、といった気持ちなのだろうか。たまに声をかけられて驚いている人やそれを無視する人を見ていると、どうも言葉のやり取りの希薄さがどんどん進んでいるように感じられる。住んでいる場所では小学生が朝の挨拶をしてきて、それに応じているけれども、同じ町内に住んでいる人でも互いに挨拶をしない人が増えていると聞く。子供たちもある程度は頑張ってみるのだろうが、反応が無ければそのうち諦めるのだろう。そして何の挨拶も聞こえない町ができ上がっていく。それを寂しいと思うのはほんの一部の人だけかも知れないが、その辺から色んなことが始まっていると考えると、空恐ろしい気もしてくる。外国でも色んな様子があり、人懐っこい国では互いに無駄と思えるほどの挨拶を交わすし、そうでない国ではいたって静かな状態となる。子供たちはそういう変化に敏感であるが、やはり相手をしてくれるほうが好ましいと思うようだ。誰彼なく声をかけてくれるところで味をしめると、つい他のところでも同じように振る舞う。しかし、結果は悲惨なものである。それでもあっという間に学習して、相手の目を見て行動を決めるようになる。ただ、肝心なことと思うのは、彼らがどちらを好ましいと考えているのかということである。声をかけられて嬉しいという思いがあの年代の子供たちにあるのは、人間本来の姿がそちらであることを示すのではないだろうか。まあ、人ごみで誰彼なく声をかけたりにこやかにしていたら、気味悪いという視線が飛んでくるところではどうにもならないことなのだが。
物を売る仕事は大変そうに見える。買う方はあくまでも客であり、売る方は常に下手にでなければならないと思える。実際のところはどうだかわからないが、そんな先入観があるからか営業職に就くのは嫌だと思う人がいて、特に理系の学部に属する大学生の中には営業職以外という括りをもって就職活動に臨んでいる人もいるそうだ。
立場の上下が気になるという人もいるが、一方で営業職にはある才能が必要不可欠だと思っている人もいる。人当たりの良さというか、お喋りの上手いことが条件だというのだ。確かに対面営業の場合、相手との会話が重要であり、それをきっかけとしていろんなことを進めるのが基本と思える。無言でカタログを見せられても、誰も魅力に感じないだろうし、製品の良さを売り込むためには説明が必要だ。理系に所属する学生の多くはそういうことが苦手ということらしく、それが避ける理由の一つとなっている。もう一つの理由はせっかく専門的な知識を身に付けたのだからそれを生かしたいという気持ちだと思うが、こちらの方は大したものでないことが多く、採用する側から見ればほとんど意味のないものと映る。営業職に対する認識は多くの場合誤解に基づいたもののようだが、下手に出ているように見える行為も実際にはそんなに気にするほどのものではないのかも知れない。また、お喋り上手の話にしても、下らないしゃべりが上手くても、肝心な製品説明が不十分であれば意味のないことだし、かえって妨げになることの方が多いのではないだろうか。先日聞いた話でもそんな話題がでていたのだが、曰く営業成績に結びつくのは口の巧さではないとのことだ。学生時代に色んなイベントを企画したとかコンパの幹事ばかりやっていたとか、そんな売り込みをしてきたてきぱきと動きそうな人と、大人しく口下手な感じでゆったりとした人で、営業成績の予想は前者の方が圧倒的有利だったのに、蓋を開けてみたらまったく逆ということが多いらしく、わからないものという話だった。てきぱきと動くと言っても、実際には目の前の動きだけであってすべてが見えるものではないし、客にとっては頼みごとをきちんとこなす人の方が返事だけが良い人よりも良く見える。何でも始めるけれども、終わりは人任せという人はリーダーのように見えるし、自分もそう思っているけれども、仕事の上では終わらせることの方が重要な場合が多い。こう考えてくると一般に言われている営業職の適性は少しずれたところにあるような気がする。こういうことが如実に現れたのがバブル崩壊後の営業成績なのかも知れない。何でも飛ぶように売れた時代から、何も売れなくなった時代への転換が起こり、それに巻き込まれた人々はかなり厳しい時期を過ごした。その中で好成績を維持できたのは、固定客を持ち、そこから地道に広がりを作っていった人のようだ。一見さん相手の商売を繰り返していた人々にとっては、ただ苦しい時代だったのかも知れない。適性というといかにもそれに当てはまる人でないとという印象を受けるが、実際にはそれ自体が誤りであることも多いし、時代背景によって変化する場合もある。ステレオタイプと呼ばれるものと考えると、偏見に基づいて決められたものという見方の方が当てはまるのかも知れない。
安売りがあればどこまででも出かける。金券ショップでギフト券を購入し、それで安い買い物をしておつりをもらい、現金を稼ぐ。そんな話があるらしい。いろんな工夫をすることで節約をするという考えはずっと以前からあったのだが、どうもバブル崩壊以降、特に話題になっているようだ。こんな工夫で家を建てたという話に繋がることに少し違和感があるが。
同じものを買うならば少しでも安いところがいい、という考え方は正しいのだろうか。電化製品の安売りをする販売店を覗いてみると、一見同じに見える製品の値段が他店とまったく違っていることがある。不思議に思って他の店で聞いてみると、返答はいつも同じ。それぞれの販売会社が製造会社と組んで作っている製品で見た目はそっくりだけれども、通常の流通に乗らないことやはじめからある程度の数の購入を約束していることなどで価格を抑えることができるのだそうだ。見た目は同じが中身も同じかどうか調べようがなく、その辺に躊躇する人々も入るらしい。これに比べると野菜や肉などの生鮮食料品は値段の違いがどこから来ているのかさっぱりわからない。ひょっとしたら手間のかけ方が違っているのかも知れず、それが味やその他の価値に影響しているとしたら、値段だけで決めるのが良いことなのかわからなくなる。安売り店だからといって鮮度が落ちるわけでもなく、最近は安いだけでは勝負できないからなどと話す店主がいるところを見ると、消費者の方も色々と考えているようにも見える。ただ、そんな話がある一方で、毎朝チラシに目を通すことでという話があるから、価値観は一定していないようだ。どうせ腹の中に入るだけだから、安ければ安いほうがいいという考え方も根強く残っている。ただ、残留農薬の問題から外国産の野菜を敬遠する人もいるから、この辺りの心理は複雑であると言わざるを得ない。電化製品などの工業製品では単に価格の問題だけではなく、その後の対応を販売店に期待する向きもある。伝統的にはそんな形式をとるのだが、最近の電化製品の動向を見ていると、たとえ故障したとしても修理するより新品を購入したほうが得という見方が強くなり、購入後の対応を重視しない動きもある。しかし、工業製品がすべてそんな状況にあるのかと言うと、そうではないようだ。たとえば自動車は購入後にも定期の整備があるし、いろんな形で販売店との結びつきを継続する人々がいる。但し、この辺りにも効率主義とでも呼ぶべき人々が増えてきて、車検や定期点検の経費をなるべく抑えるためとか、維持費を抑えようとオイル交換なども安いところを探してやってもらう人がいる。技術が同じで、経費が少ないのなら、その方が良いに決まっていると思えるが、どうだろうか。技術を見極める目をこちらが持っているのなら、この考え方は通用しそうだが、そんな自信はないし、最近の世の中の流れを見ているとこういうことに乗っかる悪徳業者がたくさんいそうで心配になる。また、こういう考え方だけでは測れないものもあるような気もする。この間オイル交換をしたときに起きたことだが、狭い道でついた傷の修繕、というほど大げさなものではないが、を依頼無しでやってくれた。付き合いが長いせいもあるのだろうが、こんなところにも金だけでは測れないものがあると思う。節約とは金の節約であって心の節約ではない。うっかりすると前者を追い求めるあまり、後者に陥ることがあるのではないだろうか。