パンチの独り言

(2004年7月19日〜7月25日)
(温泉、遅刻、意図的、無理、例夏、対話、制限)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



7月25日(日)−制限

 ひと月ほど前だろうか、人名漢字の追加という報道があった。それを見た人の大部分はびっくり仰天したのではないだろうか。人の名前にはあるまじき漢字がずらずらと並んでいたからである。別段すべてがそうだったわけでもないのだが、そんなものばかりが目立つような形で並べられていたから、反響も大きかったようだ。先週再検討の話題が載せられていた。
 役人のやることは不可解という話がぴったりと当てはまりそうな事柄だが、実際には色んな事情があるようだ。一般には人名漢字とは普段はあまり使わない漢字だが、人の名前として昔からよく使われてきたものなので、使えるように登録するためのものという理解があると思う。しかし、ここでいう使えるとはどんな意味なのだろうか。今もそうだがパソコンを使って日本語入力をしていると必ずかなから漢字への変換をしなければならない。変換されて出てくる漢字は当然ながら登録されてなければならず、そのためにはどこかの機関で認められる必要が出てくる。実際には関係機関が違っているのでこれが直接的な理由とはなっていないが、まあそれと似た事情から登録して使えるようにする必要が出てきたようだ。公的な文書や新聞などでも使える漢字には制限があって、漢字でも馴染みのある単語が時々ひらかなで表記されていて不思議に思うこともあるが、これもそういった事情からくるものである。漢字に分類があるのもへんてこな気がするが、たとえば学校で習うものを教育漢字と呼んだり、当用漢字、常用漢字などといった言葉もある。それぞれに制限のかけ方が違うのだろうが、一度決めてしまうと変更がきかない難点があるようで、不具合が出てきたときの対応がその辺りの事情によって無理矢理と思えることも出てくる。友人の話によれば今回の人名漢字の追加はまさにそういった事情から来たもので、本来は人の名前に使われることなどないはずの漢字が含まれているのもそのためだと言う。つまり、普段使う漢字として登録したいのだが、そのための手続きはかなり煩雑であり、そういう分類の漢字の種類の制限などから困難が予想される。そこで登録漢字数の制限の無い人名漢字という分類にそういう漢字を登録してしまおうとしたというのだ。その結果はどうだったか。苦肉の策という理解はほとんどされず、その代わりに直球勝負といった形の人名として適当かどうかという判断が様々な方面から寄せられることとなった。そうなるとこういう策を弄した人でもそれに対してきちんと答える必要が出てくるから難しい。おそらく、このまま人名つながりで論ずるかぎり結論は明らかである。人の名前に使えそうもないものを人名漢字で登録するのは愚の骨頂とされるだけで、まさか企画者が自分の子供に使いたいからなどと訳のわからない返事をするわけにもいかないだろう。この話がそのまま当てはまるかどうかはわからないが、便利さとか手軽さから考えだされたものでも、厳格なる規格という大きな壁に妨げられている状況にあるように見える。規格自体が上から下に向けてのものであるだけに、こういう融通の無さばかりが目立ち始めるとどうにもならない気がする。どちらにも色んな事情があるとはいえ、さて、どんな解決法が探られるのであろうか。

* * * * * * * *

7月24日(土)−対話

 子供たちの世界ではもう夏休み、一日中家にいる子供を見ながら親は四苦八苦というところも珍しくないだろう。学校に行ってくれれば、それだけ自由な時間がとれるのにと思っても、この時期には叶わぬ夢と化してしまう。友達と外へ遊びに出かけてくれればいいのだが、大人同様冷房の効いた室内に居座る子供にとってはテレビが格好の遊具となるようだ。
 次から次へと様々な番組が流され続けるテレビはこちらから何も働き掛けなくても楽しめる手軽な娯楽の一つとなる。大人が楽しめるくらいだから、子供たちだって十分に楽しんでいるのだろう。何も言わずにただ画面を見つめ続けるのを見ていると少し心配になることもあるくらいだ。そちらの方に注意を向けさせておけば、家事などの雑用がすんなり片付いていくから親としても大変助かることが多いが、一方で悪影響の話も多い。教育の荒廃が叫ばれ続けている現代では、その原因にテレビやゲームなどのそれに関係したものが挙げられることが多い。刺激に溢れており、色んな形で楽しめるだけでなく、自分の方からの働き掛けがあまりないという点が、悪影響を及ぼす原因と言われ、心理学者などの有識者が槍玉に上げることが多くなった。確かにそういう一面はあると思うが、その割りにはテレビのある家庭すべてがそういう状態になっているわけでもないし、原因の一つにはなってもそれだけが諸悪の根源と言うのはちょっと無理があるように思える。子供たちをそんな遊具に向かわせることによって、自分の仕事が進むと考えることの方がどちらかといえば危ないような気もするし、それによって互いの働き掛けという会話が希薄になることの方が重大に思える。確かに、親や子供に責任を負わせるよりも、テレビなどの機械に問題を向けたほうが、責任の所在が明確にならず、お互い気楽になれるからいいのかも知れない。しかし、そんな調子で責任転嫁ばかり続けていると、結局、問題を正しく捉えることもできず、まるで先送りを繰り返すばかりになってしまう。最近の風潮がそちらの方にばかり向いているので、何かことが起きてもすぐにメディアやそれに関連したものの方に厳しい声が飛び、関係した人間はすべてその被害者であるかのごとく扱われてしまう。その辺りの状況もやはり糾弾すべき悪者を個人と特定したときに、その後の集中砲火のような批判の怒号が飛ぶことを恐れていることによるのかも知れない。親子は断絶するのが当たり前で、対話など存在しえないという声も聞こえるが、あらゆる年代に対して当てはまる話でもなく、やはり、積極的な働き掛けを怠ることの方が問題なのではないだろうか。それをテレビのせいにすることはいかにも安直な考え方で自分の方から何か大切なことを放棄しているのを忘れてしまっているようだ。それでいて、目的意識だけは強く押しつけられ、様々なことをそういう指標で測るのが当然となっているから、対話の成立より無理強いばかりが前面に出てきてしまう。確かに親から見れば心もとない子供の行動をより良い方向に向けることは重要に思えるが、それを始めから終わりまですべて決めてしまうことはどうにも無理があるように思える。目的も子供自身のものでなく親の思うものになりがちだし、その進め方もすべて用意されたものとなる。こんな状況で自主性を論じるのは無茶な話なのではないだろうか。子供の勝手にとは言わないが、対話の中で何かを見つけさせるくらいの方がお互い気楽ですむのではないだろうか。

* * * * * * * *

7月23日(金)−例夏

 猛暑も少し落ち着いてきたのだろうか。それとも、適応力旺盛な人間達が例年にない高温をも克服し始めたのだろうか。とにかく、朝晩は少し涼しく感じられるようになってきた。と言っても、相変わらず体温近くまで上昇する気温の中では元気に走り回ることはできない。とにかく、厳しい時間には大人しくしておくことが一番のようだ。
 そんな中で例年になく元気に思えるものがある。蝉の声だ。このところ鳴りをひそめていたニイニイゼミがちゃんとその時期に鳴き出し、木の幹や枝を見てもその姿が確認できるほど数が多い。梅雨の半ば過ぎからいよいよ夏本番の頃が彼らの生殖時期に当たるようで、土の中から一気に抜け出してくる。子供の頃はそんな感じだったのに、ここ10年くらいだろうか声が小さくなり、姿も見かけぬようになった。今年はいつになく多く、元気な声が聞かれる。幼虫の時期が大体7年くらいと言われているから、そのくらい経過したころにまた多く見られるのかも知れない。その他にもアブラゼミは相変わらず元気そうだし、場所によってはミンミンゼミの声も聞こえる。一方、ヒグラシは猛暑で一休みといった感じで、クマゼミも少し遅れているような感じがする。前者は北の方に多い蝉で、後者は南方産のものだから、場所によってずいぶんと違うのではないかと思うが、当地の今年の傾向は今のところそんな感じである。いずれにしても、蝉の声だけが元気よく響き、蒸し暑い夏を一層暑苦しいものとしているようだ。二重窓で冷房の良く効いた部屋にいればそんなことも気にならないのだろうが、そんな環境で働ける人はどのくらいいるのだろうか。ついつい、蝉の声にまで不満を漏らす声が聞こえてくる。確かに体温を超えるような気温が連日続くのだからある意味異常な天候と言えるのだろう。しかし、どうも冷夏の時と違ってこちらの方がまだましなような気がしてくる。そうは言っても、本来南方系である稲の生育にとっては適した気候なのだろうが、他の野菜などについては気温の高さと日射の強さがどうも過ぎるようである。そろそろ野菜の高騰が気になり始めているようだ。また、集中豪雨の話題が続いていたから水不足の心配はないように思えるが、一部の地方では既にその心配が始まっているようである。結局集中豪雨は局地的なもので、他の地域には影響しないから、平均で見たら大した雨の量でないということになってしまう。更に、今回の豪雨は米どころを襲ったものだから今度はそちらの方が心配だと言われている。まったく、ちょうどよい気候などというものはほとんど無く、結局どこかが欠けているのだろう。せっかく夏らしい天候になり、稲の生育の心配が無くなったのに、泥を被って台なしというのでは何ともならない。農作物全般にとっては夏らしい気候が一番なのだろうが、さてどんなことになるのか。最近の野菜の状況はそう簡単なものではないということを示しているようだ。

* * * * * * * *

7月22日(木)−無理

 夏休みに入ったからだろう、町のいたるところで子供たちの姿が目立つようになった。虫取りの網を持つ子供もいるし、水泳の用意らしいものを持っている子もいる。休みに入った途端に遊びほうけて、そのまま終わりを迎える子もいるのだろう。その辺りは昔も今もほとんど変わっていない。かえって宿題の量が減っているようなので、楽なのかもしれないが。
 昼間のこととはいえ、子供たちだけで外を歩くことができるのはまだまだ安全だからなのかも知れない。巷の噂では何が起きても不思議でないし、報道される事件を見るといつ誘拐されてもおかしくなさそうに感じられる。しかし、日焼けした子供たちにはそんな様子もなく、平和そのものといった感じである。凶悪事件の話題が次から次へと伝えられるとどこもかしこも危険だという気がしてくるが、さすがにそんなことはないらしい。それよりも、暑い中を遊び歩いている子供たちにとっては熱中症の方が大敵なのではないかと思えてくる。こちらの方は、水などを持ち歩くだけで防げるはずなのだが、その様子もないところを見るとすぐに帰るのだろう。酷暑と言われているだけあって、毎日のように熱中症の報告が流れているが、実際のところどんなものだろうか。この辺りの事情は昔と今とではかなり異なっているようで、昔は日射病と呼ばれていたが、そちらの方の患者はこれほどでもなかったと思うし、また死に至ることも少なかったように思う。何がどう変わったのかと考えてみても、温暖化で気温が上昇したと言っても大したことないように思えるし、体力が変化したと言ってもそんな指標で測れるようにも思えない。いずれにしても、真夏の日中に照りつける太陽の下で何かをしようというのは無謀とも思える。この辺りの事情がひょっとしたら変化したのだろうか。つまり、無謀とも思えることをそう感じないで、仕事なり遊びなりをしていて、そのうち判断力の方にまで影響が及んで倒れてしまうという図式である。もしも、その通りだったとしたら、原因とか結果とかについて論じているよりも先に、未然に防ぐ方法としてできそうなことがある。そんなところへ出ていかないようにすればいいわけだ。農家のことはよくわからないが、昔の農作業は日の出とともに始めていたと聞く。今もそうしている人がたくさんいるだろうが、兼業農家だとそういうわけにもいかず、休日に集中して農作業を行うのかも知れない。遊びの場合も、短い休みの時間を有効にという考えから、ついつい無理をしてしまうことが多いのではないだろうか。結局、無理をしないようにという忠告よりも、こういう時にはやらないようにすべきという考えを広めたほうが良さそうな気がしてくる。それが当たり前と思っていた時代に比べると最近は色んな要因が複雑に入り組んできて簡単には解決できないようになっている。無理するなと言われてもその通りにするわけにいかないことも多いだろう。しかし、体が壊れてしまっては何にもならないわけだ。無理をしてでも、という気持ちばかりが前面に出て、何度かうまくいくうちにそれが当たり前のこととなり、どこかに貯まった疲労が一気に噴き出すこともあるだろう。そんな結末を迎えないためには、無理をしてでも余裕を持つことが必要なのかも知れない。さてはて、どっちの無理を選ぶのか。

* * * * * * * *

7月21日(水)−意図的

 スーパーのレジに並んでいるとき、どこからともなく号泣の声が聞こえてくる。店内のどこかで子供が泣き叫んでいるようだ。泣きやむ気配もなく、そのうち親とおぼしき大人が泣き叫ぶ子供を小脇に抱えて店の外に出ていく。最近の物騒さから考えれば誘拐と受け取れなくもないが、誰も気に留めない。たぶんそれまでの泣き叫ぶ時間から皆それぞれに想像したのだろう。
 こんなことばかりでなく、色んなところで泣き叫ぶ子供たちをよく見る。親のなだめ方が悪いのか、それとも子供の癇癪持ちの性格がそうさせているのか、大衆の面前でも遠慮もなく大騒ぎを見せる。大人はそんな姿を見ると必ずといっていいほど親の方を見る。親がもっとしっかりしてくれねばとか、躾はどうしているのだとか、そんな気持ちに溢れた視線を親にぶつけているようだ。そういうときの親の対応を見ているとそれぞれに違いが出ていて面白い。そのまま放置する者もいるし、叱りつける親もいる。ただ、新幹線の車中でこんなことがあるとどうにも落ち着かない。何しろ、子供もうるさい、親もうるさいという状況である。せめてデッキにでも出て、なだめてくれないかと願ったりするが、そういう声にならない願いは叶わぬことが多い。親の責任というのがほとんどの場合の結論だろうが、一方で無邪気に思える子供たちに何らかの思惑があるのかないのか、そっちの方の話題は触れられることが少ない。自分の気に入らないことがあるとか、何かの要求が受け入れられなかったとか、そんなことが原因なのだろうからある要求を親に向かって突きつけていることは確実なようだ。しかし、他人から見れば子供は無邪気であり、深く考えることもなく、一時の欲求でそういうことをしているのだから罪はないと結ばれる。寛容な大人から見ればそういう流れになるのが当たり前なのだろうが、肝心の当事者である子供たちは何を考えているのだろう。こういうとき面白いのは大人たちは自分の考えに基づいて子供たちの行動を判断しており、子供たちがどう考えるのかということにあまり興味を示さないことだ。無邪気なものは何の罪もなく、邪な考えなど持つはずはないと思いたくなるのも無理のないところだが、実際にその頃の自分を思いだしたとき、本当にそれだけだと言える人はどのくらいいるだろうか。確かに、成人した後の様々な読みに基づいて行動するやり方は子供の頃とは大きく違うだろうし、そこでの思惑は複雑に入り組んだものだろうから単純な時代とは同じであるはずはないだろう。しかし、思惑のある無しに関してはそれほどの違いはないのではないだろうか。さらに直感的な思惑に基づく行動はかえってあからさまな要求を突きつけることになるのではなりそうだ。そんな考え方をしていくと、子供たちの無邪気と思える行動が実際にはかなり残酷な結末を導くものになる場合があると思えてくる。自らの要求だけでなく、周囲への対応など様々な働きかけにおいて、無邪気さが故の残酷さが見え隠れすることもあるように思える。意図的なものだけが残酷であり、無邪気で無意識なものにはそんな意図が無いのだから残酷であるはずがないとする人々がいるが、実際にはそうともいえない部分があるのではないだろうか。これは実際には子供だけに当てはまることではなく、社会での行動全般にも当てはまることで、加害者の意識の有無が罪の有無と結びつくと考えがちだが、被害者にとっては何の関係もないことだ。被害の訴え方が多様化している時代には、この辺りの問題が重要になってくる。

* * * * * * * *

7月20日(火)−遅刻

 暑さでまいってダウンしたわけではない。ちょっとした時間の流れの綾に巻き込まれたとでもいうのだろうか。それぞれに時間的な余裕がなく、結局一日の終わりにも間に合わないことになってしまった。本来なら、飛ばしてしまったほうがいいのかも知れないが、それも面倒な気がするので、一時間ほどの遅れでの独り言を書くことにする。
 一人で調整できるものなら、時間を守りたいのは山々だが、他の要素が絡んでくるとそうもいかなくなる。それでも、夕飯の時間くらいまでは何とかなるのではと思っていた。そのうちちょっと無理かも知れないと思い始め、ついには無理だと覚悟することになる。待ち合わせの時間に間に合わないといった感覚でもないのだが、その日のうちに書き終わらないとなると少しイライラしてしまう。まあ、何かが起こるわけでもないし、罰せられるわけでもない。でも、何となく気になるものだ。仕事の上であればもっと厳しい条件になるから、締め切りを守らないわけにはいかない。そういうきつい縛りとは違って、もっとずっと緩いものであるはずなのに、気になることは気になる。少し不思議な感覚かも知れないとも思う。だからといって、移動中に構想を練ることもしない。どうせいい加減なものになってしまうし、もう一つの集中を途切らせるのは危険が伴う。そんなわけで、心配しつつもどうにもならぬ時間が過ぎていった。それでもとにかくキーを打ち始められたのだからまだましである。もっと遅くなっていればと考えると、この程度だから何とかする気になったのだろうと思う。責任などないわけだから、放っておいても構わない。しかし、どうもその気にならないから、つい手を付けてしまう。では、肝心の中身はどうかと見渡せば、結局のところこんなことをつらつら書いているばかりである。どうということもない話だが、一日の心の流れくらいは伝わるのかもしれぬ。大したものでないのはいつもの如くだが、一日中バタバタしているとこんなことくらいしか思いつかないものだ。さて、どうまとめるのかそろそろ考えねばならないが、こちらもとんと思いつかない。義務とも違った感覚の課題を片付けるときの気分はこんなものだろうか。それとも課題とも少し違った感覚だろうか。いずれにしても、重い負担にならない程度と思ってやっていることだから、この辺りで適当に済ませてしまうのが良さそうだ。とにかく、その日のうちにまとめておきたかったが、結局のところ、50分ほどの遅刻での提出となってしまった。とにかく、遅れてしまったことだけは謝っておこう。ごめんなさい。

* * * * * * * *

7月19日(月)−温泉

 たまの休日、どこかへ出かけたいという人もいるだろう。しかし、行楽地はどこも一杯、景気が良くなりかけると更に拍車をかけるような混雑ぶりである。でもよく見ると、景気を反映しているのは海外旅行であり、近場の国内旅行は逆の傾向があるようだ。景気の良かった頃の想い出がある人たちにとっては良くなれば海外という繋がりなのだろうか。
 国内でも泊まりがけの旅行となるとそれなりの出費を覚悟せねばならない。それならいっそのこと海外へという考え方も頷けることもある。でも、飛行機に乗っている時間のことを考えると、少し面倒な気もしてくるものだ。せっかくの休み、もう少しゆっくりしたいと思う向きには海外旅行は鬼門と言えるのかもしれない。国内でも様々な障害を抱えた旅行が控えているから、日頃疲れている人々には安心できるわけではない。うっかり、遊園地などへ出かけようものならこの酷暑も重なり、体力消耗旅行になるのは確実である。ではゆっくりしたいとなるとと思いつくのはやはり温泉旅行だろうか。昔は年寄りの専売みたいな雰囲気のあった温泉だが、10年くらい前からだろうか若い人々、特に女性に人気の場所となったようだ。こんなに暑い時期に何も温泉などにでかけなくてもと思う人もいるだろうが、場所によっては山奥にあって避暑を兼ねることができるし、さっぱりと汗を流すという意味もあるから別段おかしいとも言えないだろう。秘湯巡りを趣味にしている人も多くなっているようで、そういう類いの書籍も棚に溢れている。当然評論家の数もうなぎ登りで、本格的な人からにわかの人まで様々だ。いずれにしても、温泉の評判や効能に始まり、宿の設備や食事に至るまで評論が続く。これほどの流行りになると温泉の側も色んな工夫が必要なようで、特長を出し、売り込みに必死になるところもあるようだ。歴史があり、有名なところでは改めて宣伝する必要もなく、評論もそれなりの高得点を与えるだろうから、心配の必要もないと思うのだが、心配というのはそういう時ほど起きるものらしい。客の要望はどうだとか、評価を得ているのはどの点だとか、色んなことが気になる。温泉そのものについても評価があるわけだから、場合によっては応えようとする。設備の老朽化や露天風呂の有無などの問題ならばまだしも、泉質の問題などとなるとちょっと怪しげな雰囲気が漂うこともある。温泉は、湧き水の中で温度が25℃以上のものを指すらしく、そのままでは入浴に適さないものも多い。当然湯温を高くする必要があるし、湧出量が少なければ別の工夫も必要となる。そんな理由から循環設備を設置し、ボイラーで温めてというところも多いと聞く。そういう事情から循環しないことを強調するところも出ているようだ。ただ、業界で話題になっているのはそんなことよりも、温泉の認定を受けたときと現状との違いのようで、一度認定を受けてしまえばあとは問題無しという制度上の問題もある。確かにそういうことを重視する客もいるのだろうが、ゆったりと湯に浸かり、のんびりとした食事を楽しみに来ている人も多い。制度による縛りは看板上の問題だが、それがあまりにも大きな要素となるのはいかがなものだろうか。確かに、騙すことは良くないのだろうが、看板だけを楽しむ人々の考えもよくわからない。それこそ楽しみを金で買うということかも知れないが、どうも理解に苦しむところだ。

(since 2002/4/3)