パンチの独り言

(2004年7月26日〜8月1日)
(無知、解釈、ポイント、嬉戯、新説、落とし物、遠慮)



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8月1日(日)−遠慮

 仕事帰りに飲みに行こうと上司から声をかけられても断る人が増えているという。自分の時間を愉しみたいからという人が増えたせいもあるが、上司と飲むと説教されるからと敬遠する人が多いようだ。酒が入ると話が長くなる人も多く、普段から聞きたくないような話をしつこくやられてはかなわないと言うことなのだろう。
 こういう話は本来個別のものであり、上司というものはなどと括るのはかなり無理があるように思える。これはまた部下という見方をしたときも同じことであり、それぞれに様々に異なるはずのものである。にもかかわらず、こういう風潮があると言われると、何となく納得してしまうし、やっぱりそうかと安心してしまうから不思議なものだ。上司の方は普段から伝えたいことを少し気楽な場で話しているだけなのかもしれないが、部下の方から見れば言われて痛みを感じるようなことをそんな場で言われたくないと思うのではないだろうか。じゃあ同じことを社内で皆のいるところで言われたらどうかなどと問いかけるのは馬鹿げたことで、それはそれで立場を利用した圧力と解されることもある。それが気になるからというほど深く考えたわけでもないだろうが、少し気になっているから大げさではなくちょっと声をかけてというくらいのものなのだろうが、そういう意図はあまり伝わらない。受け取り手にとってはとても気楽な場面とは言えないものとなり、せっかくの酒も不味くなる。そんなことが繰り返されれば結果は自ずと明らかになり、声をかけられても何か理由をつけて断るとなる。言われて痛みを感じることはいつの時代にもあったことだから、件の上司が部下だった頃にも同じ状況があったはずだ。にもかかわらず、彼らの言葉を借りれば、声をかけられたら断ることなどありえず、ついていくのが当たり前だったとなる。この辺りの違いはどこから来ているのだろうか。どうせ説教される、どうせ愚痴をこぼされるとわかっているのは、今も昔も変わらない。でも、そういう了解の下に起こす行動は正反対なものとなっている。どこかに事情の変化があったのだろうが、これというものは思い浮かばない。おそらく色んなことが複雑に入り組んだ結果なのではないかと思うが、立場の違いの有無とその間の距離に変化が出てきたのかもしれない。また、仕事の時間とそうでない時間の区別が明確になってきたこともあるだろう。区別は歴然とそこにあるはずなのだが、捉え方によって明確さが変わってくる。距離にも感覚的なものがあり、これらはきちんと数字で表されるものでもなさそうだ。そういう感覚は世代間で違っていても当然のことで、何を今更ということになる。そして、互いに違った感覚を持ちながら、言葉の解釈も違ってくる。それが当たり前と思っていた時代の方がかえってすんなりと事が進んでいたのかもしれない。互いに理解しあえるはずとか、理解すべきとかそんな話が出てきた結果、互いを遠ざけるようになってしまったのかもしれない。理解なんかできるはずもない、同世代でもそんなことは不可能だ、という見方があることからしても、こういうことは無駄な考えに見えなくもない。結局、理解しようとする気持ちがまったく逆方向に働いているということなのだろう。

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7月31日(土)−落とし物

 交番というのはこの国独自のものらしく、欧米各国へ行ってもそんなものを見かけることはほとんど無い。道案内は観光案内所へ行けばいいし、相談事があれば警察署へ行けばいい。安全を誇っていた時代、交番の存在はその代表のようなものだった。前に警官が立っているだけで、犯罪を未然に防ぐ効果があると言われたものだ。
 しかし、そんな時代も遠い昔、今では犯罪発生率は欧米なみとなり、検挙率の低さを競うようになってきた。別段それに合わせたわけでもないのだろうが、交番の権威も以前に比べると落ちているようだ。居留守でもないのだろうが、いつ行っても誰もいない状態が続き、色々と苦情が出たのだろう。その後は電話で警察署につながるようにして、警官が留守の時でも対応できるようになった。しかし、道案内程度のものならこれでも機能するのだろうが、助けを呼びに来たときなど間に合わないことが多く、依然として苦情は絶えないようだ。最近ではそれをはるかに凌ぐ状況が生まれているようで、つい先日も交番の警官達が助けを求めた市民を無視したという事件が伝えられた。事の真相についてはまだ不明な点もあるのだろうが、口裏合わせをしたなどと報じられているところをみると、どうもその場の対応の拙さだけでなく、その後の隠蔽工作までも問題とされているようだ。まったく世の中が物騒になっているだけでなく、市民を守ってくれるはずの立場の人たちを信用できないほど、荒んだ社会になっているのがわかってくる。誰も信用できず、自分の体は自分で守るしかない、などと言われてもできるわけもなく、結局何とかそういう目に遭わないように注意するくらいのことしかできない。運が良ければ何もないが、悪ければさてどうにもならないのかも知れない。そんな荒んだ世の中でも、お互いに気持ち良く生活することはできるようで、そういう人々と接するように心掛けることが、少しでも住みよい社会を築くことに繋がるのではないだろうか。そんなことを書いても、こんなに信用できない人々が増えてはどうにもならないと言われそうだ。でも、先日経験したことからすると、それ自体は取るに足らないことだがまだまだ悪いことばかりでもないと思える。友人と車を走らせていたときのこと、一休みするためにサービスエリアに立ち寄った。車から降りる際に落としたのか、ふと気がつくとポケットの中の小銭入れが無くなっていた。周囲を少しだけ探してみたが夜のことで何も見つからず、車の中に落ちているかも知れないとその場は走り続けることにした。目的地に着いてから探してみてもやはり見つからず、後日サービスエリアの案内所に連絡をとってみたら、その場では見つからなかったが、すぐあとに連絡が入りそれらしい拾得物があったとのこと。早速、受取人払いの宅配便で送ってもらった。その場でもっと時間をかけて探せばよかったのかも知れないが、少なくとも拾った人が届けてくれたのには正直驚いた。小銭入れだから中身は千円にも満たない金額である。だから、でもなかろうが、ちゃんと届けてくれた人がいた。宅配料金は中身と同程度の額だったから諦めても同じという考え方もあるが、小銭入れ自体の価値やそれを手に入れた経緯などを考えると諦めるわけにはいかない。とにかく出てきたことを素直に喜び、お礼の葉書を案内書に出しておいた。ちっぽけなことだが、こんなことでも世の中まだまだ捨てたものではないという気持ちになれる。

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7月30日(金)−新説

 立秋もまだなのに、ツクツクホウシが鳴き始めた。猛暑が続き、峠を過ぎたと言えなくもないが、それにしてもと思う。台風が南海上をうろつき、その影響かも知れないが、少し中休みが欲しいところだから、気温が下がるのであれば大歓迎だ。縁起でもない話だが、こういう猛暑の夏には訃報が続く。極端な気候は病人にとっては致命的ということか。
 あるノーベル賞学者の訃報が流された。科学研究における前世紀の前半の一大事は相対性理論の確立であり、後半の一大事はこの学者が絡んだものであると言われている。それまですっきりとした説明ができなかったものが、この発見によってすべてがすんなりと理解できるようになったからと言われているが、単なる説明だけでなくその後の研究の方向を定める上でもその功績は大きいようだ。それに絡んだ人々が次から次へと消えていき、そろそろ一時代の終焉と言われそうだ。でも同じノーベル賞をもらった学者の方はまだまだ元気で最近も持論を展開する書籍を出版していた。こちらの方は当時から研究の方向はそのままで、どちらかといえば政治家のような存在となっていた。研究には頭も必要だが金も必要で、その獲得のために動く人々の存在は重要である。少し前に終結宣言が出された人の全遺伝子の解析に関する研究についても、この学者の役割は大きなものだったようだ。そんな形で研究生活をある限られた分野に集中させる人もいれば、一方で今回亡くなった人のように分野を微妙に変化させる人もいる。生き物を研究対象にする人々にとって、その営みを探ることは非常に重要な事柄だが、それが年をとるにつれて微妙に変化していく。その一つに、何故その生き物はある能力を獲得したのかとか、もっと言えばその生き物はどうやって出てきたのかというようなことがある。調べたらわかることというより、考えて理解しようということに変化するとでもいうのだろうか。一時期はそういう転向をする学者がたくさん出ていて、年寄りは進化が気になるとまで言われていた。進化論を展開した人はずいぶん若い時代にその論を築いたが、その後はある程度の業績を上げた人々の興味の的となることが多かったようだ。それまでに培った知識の上に、何かしら新しいものを築こうとするからなのだろうか。最近はもっと人間そのものを考えようとする人々が多くなり、脳に関連した研究に転向する場合が多くなっているようだ。これもまた実際に実験をするよりも、考えることが中心となっているから、自ずと対象が絞られてくる。人気の高いところは意識と無意識といったある意味抽象的な表現で表される脳の機能のようで、それぞれの人たちが色んな論を展開する。今のところ答えが見つかるはずもなく、何を言っても構わないという風潮ばかりが前に出てくるから、怪しい話も数多く出てくる。件の学者もそういう書籍を出版して話題になったこともあり、研究者としての資質とは別の才能をどう評価するのか話題になったようだ。凡人との違いが明らかなせいか真面目に取り上げるところもあるようだが、ここだけ見ると道端で怪しげな理論を著した本を売っている名もない人々とどこがどう違うのかよくわからない。その辺りも凡人には理解しがたいというだけなのかも知れないが。

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7月29日(木)−嬉戯

 経済というのは数字がものを言う世界と思っている人が多いのではないか。投資やら運用やらする人々にとっては残してきた数字だけに意味があり、その過程での心理的な葛藤や戦略は二の次とされる。その上、同じことが繰り返されても違う結果を生むこともあり、結局数字として残せるものだけが重視されることになるようだ。
 そんなことはわかっているというつもりでも、同じ状況で正反対の意見が出てくるのでは、そこにある数字の価値を疑いたくもなる。実はここにある種のまやかしが潜んでいる場合が多い。同じ数字が提示されているのにまったく違った解釈ができるのは、数字の扱い方に仕掛けがあるようだ。提示された数字のうち都合のいいものだけを選び出して利用するやり方や、数字を統計処理する形で都合よく改竄するやり方もある。改竄は言い過ぎだろうが、処理の過程で様々な改変が行われるわけだから、時と場合によってはそこまで行くこともありそうだ。経済でなくても、様々な分野で統計処理は行われており、意図的と思えるものも多数ある。処理そのものを利用するやり方と、データの選別を利用するやり方があるのだろうが、後者の場合都合の悪い数字を消去するという極端なものまであると聞く。言いたいことを言うために自在に操れるという意味で、当事者にとってはありがたい存在なのかも知れないが、統計処理の元々の意味を考えると使い方によってどうとでもなること自体困ったものと言わざるを得ない。経済でも毎週のように何らかの指標が発表されているが、それぞれ元となるデータがあり、それらを処理したうえでの発表となる場合が多い。多くの議論はこういった指標に基づいて行われるが、時として見せ物小屋の覗き眼鏡の様な雰囲気になるようだ。つまり、視野狭窄のような一部のものしか見ない分析が出され、全体像を無視した話が横行するわけである。知り合いでこのことが気になった人がいて、経済指標なるものがどんな数字なのか徹底的に調べようとした。学者や評論家が論じている指標を見ていると、ほんの一握りの指標を後生大事に抱えて、それを基に自らの学説なり解説なりを展開しているように見えるのだそうだ。専門家達が何故それほどまでにいい加減な仕事をするのだろうかと疑問に思うと同時に、ひょっとしたらそういう数値の基となるデータが手に入らないのかと思ったらしいが、実際には日本銀行のサイトには生のものや処理後のものが掲載されている。一般人にとってありがたいのは、昔ならばどこかの図書館なりに行って出版物を調べなければならなかったのが、今では部屋からいくらでも調べられることだそうだ。その他諸々のサイトを検索するだけで、ほぼすべての指標の基となる数値や指標には使われていない数値を手に入れることができたようで、それを見ていると専門家のいい加減さがよくわかると言っていた。実際のところはどうかわからないが、数字を扱う人々の数字そのものに対する感覚と、その扱いに対する感覚の違いには驚かされることが多い。絶対的な存在であるだけに扱いに注意を要すると思うのは素人の考えのようで、プロは扱いこそが存在を際立たせるために重要な手段と考えるようだ。これ自体はどちらも正しいことなのだが、恣意的なものが出てくるたびに、首を傾げたくなる。多すぎる情報は手に余るが、だからといって作為的な処理で情報を削除されるのも困る。いずれにしても、情報化社会では自ら調べることも可能なだけに、ただ躍らされるのではなく、自分でも数字と踊る必要もあるようだ。

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7月28日(水)−ポイント

 学期末に通知表をもらっていたころ、試験の点数とは違う形で数字が並んでいることを不思議に思った。当時は小学校のころから5段階評価であり、更に相対評価という子供には理解しにくいものだった。でもとにかく大きな数字が並んでいれば嬉しいし、そうでなければ残念という程度の反応はしていたと思う。試験の答案を返してもらうときとはちょっと違う感覚だったのかも知れないが。
 数字という表記は同じなのに、何故違った感覚が生まれるのか。それはおそらく何らかの処理をした数字と生のままの数字との違いから来るもので、子供でも薄々感じるところがあったのではないだろうか。何しろもらった答案や通知表を親に見せれば、こちらの思いとは別の反応が返ってくることもあったから。数字はその値ですべてを語るからそこに人間的な感情が入るわけでもなく、数字そのままを受け取ることができる。だから数字は嘘をつかないという話も時々聞く。しかし、この話には明らかな手落ちがある。数字は受け取り側にとって数字だけのものだから、まったく違う受け取り方をするのは難しい。しかし、その数字が何らかの処理で出されたものであれば、処理の適不適によって嘘を被せることは十分に可能なことである。適不適というと正しいか間違っているかのように思えるかも知れないが、ここでは担当者による作為が処理の方法に反映されることを指している。数字の信奉者にも処理過程の適不適を吟味したうえで判断する人もいれば、ただ数字になっていればすべてを信じる人もいる。この違いはとても大きい筈なのだが、それぞれ個人のやることだから受け取り側においては大した違いは出てこないのかも知れない。しかし、これがこと送り手の話になると話は大きく変わってくる。自らの都合のいい数字を選び出し、それを都合よく処理して、あたかもそれらに基づいて出したかのごとくの結論を導く。このやり方は色んなところで横行しているが、実際には結論が先にあり、それを導くための数字を選別、処理する場合が多い。生のデータを見られない状況ではこのからくりを破るのはとても難しい。そんな話もあるが、一方で数字そのものの扱いにおいて不思議に思えることもある。たとえば、百分率を表すパーセントという表記があるが、これが絡んだ話で不思議に思ったことはないだろうか。選挙の投票率や内閣の支持率などの率の話をするときにパーセントが出てくる。このとき、前回の選挙や前回の調査と比べてというのが話の流れのようで、そこではポイントという表記が使われる。たとえば、50%から60%に変化したときには10ポイントの増加という言い回しである。昔電車の中でこの手の話をしていた中年男性がいて、ポイントなどという訳のわからない話をするのは馬鹿げていると盛り上がっていた。そばで聞きながらここにも物事を知らずに恥をさらす人々がいるものだと思った。上の話をたとえば10%の増加としたら受け取り方はどうなるのだろう。昔の話の更に昔はこういった表現が使われていたようだが、混乱を来すということで変更になったようだ。つまり、10%の増加とは元の10%が増加したと受け取られるので、50%の10%だから実質5%分の増加を表すことになる。これでは話が違うから、10という数字のみを取り出すことでわかりやすくしようとなり、その単位としてポイントというものを使いだしたようだ。単位の付け方によって何かが変化することもあるという話の例の一つである。騙すためのものではないのだろうが、騙されまいとする気持ちがどこかに働いたことでの批判だったのかも知れない。

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7月27日(火)−解釈

 プロスポーツは子供たちに夢を売るものという話はよく聞くが、最近の動向を見ているととてもそんな風には見えない。一時期、プロの選手が不祥事を起こすたびに、夢を売る商売なんだからそんなことはという声がよく聞かれたが、この頃はそうでもないらしい。子供たちにとっての夢の意味が少しずつ違ってきたような感じがするほどだ。
 以前は皆の注目を浴び、憧れの存在としてのプロという印象が持たれていて、それを夢と表現していたような気がするが、最近は努力をしてその地位に就けば相当の収入がある職業の一つとして見られることが多いようだ。つまり遠い憧れという存在ではなく、手の届きそうな美味しい商売という感覚に近いのではないだろうか。強い目的意識が奨励されるようになってから、こういう傾向がより強くなっているようで、その対象としてのスポーツも野球だけでなくサッカーなどに広がりを見せている。しかし、一方でプロへの登竜門として捉えられていた実業団というセミプロ集団は不況のあおりをまともに受けて衰退の一途を辿っている。そういう環境でプロだけはちゃんと生き残れるかといえばそうでもないようだ。サッカーは一部のチームについて存亡の危機が伝えられているし、野球の方はこのところ大きく報道されるほどである。サッカーの方はまだ新しい組織で、色んな点で試行錯誤が続けられているから、即座に判断ができる状態にはないと思うが、もう一方の野球については最近取り上げられている話題など今更何をという感じがしてしまう。球団の経営が難しくなったと言われているが、観客動員数は以前より増えていると聞くし、その他の収益もそれなりに上げられている。しかし、このままでは手放すしかないという声が大きくなり、これまでと大きく違う方向に解決策が練られることとなった。以前であれば、親会社の都合で球団を手放すとなれば、他の会社が名乗りを上げるのが常であったのだが、今回はまったく違った基本的なところからの改革が提案された。詳しい事情はよくわからないが、ファンの声が反映されていないとか、選手の処遇はどうなるのかとか、そんな取り上げられ方が主体で今後どう展開するのかさっぱりわからないところである。球団合併が先に取り上げられ、更に別の球団についての可能性が取り沙汰され、ついには1リーグ制の導入という大きな変革までも表沙汰になると、そこまでの経過が筋書き通りだろうかと疑う向きもでている。実際にはどんな形に落ち着くのか明確になっていないが、この辺りの情報の流し方にテレビや新聞による違いがはっきり現れていて面白いと思った。ある中心的な存在である球団に関係する報道各社の場合、その球団の方針に合うような形での報道を行っているのに対して、別の局などはまったく違った形の報道をしている。同じ人物が同じように話しているはずなのに、それぞれの球団の方針がまったく違うように伝えられるのだ。何がそうさせているのか明らかだから、こういう例を引いて報道の姿勢や受け取り方を考えるのが良いのではないかと思う。今回の報道は、同じ言葉も受け取り方によって正反対の結論が導き出せるわけで、その上に推測を加えれば何とでもなることを示している。報道する側にも色んな都合があるだろうから、けしからんと言うわけにもいかないだろう。まあ、いつものように受け取る側が自分なりの判断を下して、どこがどうねじ曲げられたのか、何が嘘であり、何が真実なのかを推測するしかないだろう。こういう他愛もない話だからこれですむが、もっと重要な話題に同じような都合が押しつけられたらと思うと、受け取る側が何らかの手だてを講じる必要がありそうに思える。

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7月26日(月)−無知

 知らないことがあるというのは悪いことだろうか。知識や知恵を身に付けると言うのだから、始めからすべてを知っている人がいないのは明らかである。しかし、ある道筋を進んできたときに最低限身に付けていないといけないものについて知らないと、いけないことになるようだ。他の皆が知っているはずのことを知らないのはいかんというのだろう。
 最低限とか、他の皆とか、そんな括りで話が進められるが、この辺りはいかにも曖昧で区切りがはっきりとしないことが多い。だから、無知を責められるときに釈然としないこともあるし、責める方も勢いでやっていることが多い。昔そんな場面に出くわしたとき、ある人の名前を知らなくて思いきり呆れられたことがある。相手にとっては知っているのが当たり前のことであり、それだけ重要な人であったのだろうが、こちらにとってはどこの誰ともわからぬ人である。その時の相手の括り方はいわゆる常識という言葉によるものだったのだろう。誰もが知っていることを一般には常識というが、常識にも縄張のようなものがあってややこしいものだ。ある人々の常識がいつの間にか皆の常識となり、知らない人たちは非常識と呼ばれる。その時の対応は知らないことが悪いと言いたげで、言われるほうはどうにも不愉快な思いを抱く。こういった対応はまったく人によるのであり、知識豊かな人がすべてそうするわけでもない。あえて言うなら性格によるものなのだろう。何度もそういう目に合わされるとどうでもよくなり、適当にあしらうことになる。そのことを知ってか知らずか、そういう人はいつまでもそうするものらしい。知らないことばかりの世の中では知らないことを一概に悪いとは言えないのだが、一方で無知を恥じる態度が見られなくなったのも気になるところだ。恥じると言うと大袈裟になるが、つまり知らないことを知るようにしようとする姿勢といったものだ。言葉や単純な事柄は、少し調べてみればすぐにわかるものが多い。にもかかわらず、何でもかんでも聞いて回る人々がいる。ある程度を越えると鬱陶しさが増し、聞く相手が避けるようになったりするから気がつきそうなものだが、どうもそういう回路が無いようだ。面と向かって尋ねることはそれなりに勇気がいると思っているのは、そういうことをしたことの無い人の話であり、何でも気軽に尋ねる人にはそんな思いはなさそうである。インターネットでの質問はそれを更に極端な方向に向けたもので、面と向かうこともなく質問をするから、どうにもならないことになる。知りたい意欲があるだけ良いのだという褒め言葉を聞くこともあるが、賛成しにくいところがある。知りたい意欲を向ける方向に何かしらの誤解があるのではないかと思えるからだ。一方、もっと複雑に入り組んだ事柄を知ること、別の言い方をすれば、理解することにはかなりの努力を必要とすることが多い。努力しても理解できずに苦しみ、自らの無能に落胆する人も多いようだが、これは努力が足りないからだろうか。色んな場合があり、そういうのもあるだろうが、その時点では準備が整っていないという場合もあるだろう。そんな時に準備の方に目が向けばいいのだが、ただ単に目の前の問題に取り組むことを繰り返すと上手くいかないことが多い。時には諦めることも大切で、無理強いしないことが重要な場合もある。ただ、努力する人に限ってそういう態度は受け入れがたいものであることが多いようで、更なる苦労を背負い込むことになるようだが。

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