パンチの独り言

(2004年8月2日〜8月8日)
(団扇、言葉の変遷、頂戴、噂、読書、燃料、人生の目的)



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8月8日(日)−人生の目的

 本当かどうかわからないが、子供は純真無垢な質問をして大人を困らせるのだそうだ。何故、どうして、そんな質問攻めにいそしんだ人がいるかも知れないが、どんな答えが戻ってきたのか覚えている人は少ないのではないだろうか。子供なんてどうせその時気になったことを聞いてくるだけだからと思うのだが、そうでもない場合もあるようだ。
 子供の頃に言われたことが気になって、それを大人になり実現させたという話を時々聞くが、それほど執拗でなくとも心の隅に置き忘れた感じで記憶として残す人もいるのではないか。疑問に思って聞いているときには、聞いている本人も聞かれている大人もそれが記憶に残るかどうかなどわかるはずもない。でも、そういうことが気になる大人の中にはきちんとした説明をしようとする人もいる。聞いた方は何を言われているのかさっぱりわからず、結果として何も残らないというのは皮肉なものだが、子供にとっての疑問の核心と大人にとっての説明の核心がずれてしまっているのだからどうにもならない。ずれるときには色んなずれ方があるのだろうが、人生経験の差によるものが大きいように思える。子供の時はこう思ったけれども大人になってみるとわかることがあってそれを事前に知らせようとするという類いのものだが、そういうことを大きなお世話に思うのはこれまたずれたことなのだろうか。確かに先人の経験に基づいて行動すれば、色んな失敗を未然に防げるし、最短距離を走ることができそうに思える。目標、目的に向かって邁進するためには、達成することが第一であるから最短が重要であり、そのための方策を探しだし、実行することがよしとされる。進めている本人がそういう気持になるのはやむを得ないことだが、最近はそれを人生の先輩達が手助けしてやろうとすることがあり、ちょっと心配になってしまう。安定な時代になると変化は少なくなり、突発的な出来事がめったに起こらなくなる。そうなれば、経験がものを言うようになり、以前やった通りにすれば安心して歩めることになる。そんな中で、目的を持った生き方が推奨され、そこへの近道の伝承や教唆が行われるのは当然のことかも知れない。安定の中での失敗は落ちこぼれと解釈されるし、一度の失敗が回復不能に繋がりかねない。そういう状況では、子供たちを心配する人々にとっては、いかに上手い生き方を教えるかが大切な事柄となるのだろう。そして、それを教え込むためには受け手にある必須条件を課す必要がある。あらゆることに目的を持つことである。すべての行動には目的があり、目的の無い行動は避けるべきとまず教え込むことが重要となる。そうすれば、目的を示し、その達成への手段を教えれば、まっすぐに進んでいくようになる。このところの教育全般に渡る問題はこの辺りから出てきたものなのかも知れないと思う。勉強の目的は、進学の目的は、就職の目的は、と次から次へと目的が示され、人生を歩んでいくと、その後に出てくるのはなんだろうか。結婚、出産という経路をたどる人たちにとって、目的は必須条件なんだろうか。はたまた、それを遠ざける人たちにとっての目的とは何だろうか。ある時点でこういう考え方に矛盾を感じる人もいるし、目的意識という価値観だけで過ごす人々もいる。人それぞれ勝手なものに違いないのだが、その間の選択に自由が無くなるととんでもない結果を生み出しそうだ。社会保障などはその類いのものの一つで、今このときその歪みが噴出しているように思える。少子化の問題を目的意識で片付ける人々とその対策のみに腐心する人々には、歪みを見ようとする気持ちはなさそうに思える。この話、最後のところでちょっと際どく考えさせられるのだが、さて死ぬことの目的とは何だろうか。

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8月7日(土)−燃料

 デフレ、デフレと連呼が続いていたが、このところ物価の下落は止りつつあるようだ。こんなことを書くとまたどこからか反論が聞こえてきそうだが、そんな気がする程度に受け取って欲しい。そうこうしているうちに、政情不安なのか、はたまた別の要因なのか、原油の価格の上昇が伝えられている。不安の連鎖を危ぶむ声も聞こえ始めた。
 確かにここ数ヶ月ガソリンスタンドに行くたびに値段が上がっているように思える。90円台だったものが100円台になり、100円台だったものが110円台になっている。一割ほどの上昇だが、毎日必要としている人々にとってはかなり大きな影響があるのではないだろうか。特に運輸関係は影響大で、当然何らかの形で商品の値段にも反映されそうである。でも、今のところそういう徴候は現れていないように見える。様子を見てからという体制なのか、すぐに反応するよりも長い目で見た動向に上手く対応しようとしているように見える。一時的には、どこかに工夫をするなり、目をつぶるなりして、燃料の高騰を吸収しているのだろう。しかし、これが長く続くようだと一度に流通商品の価格に上乗せされるようになる。まあ、そうなればちょっとした物価の上昇に繋がることになる。石油製品にも当然影響が出てくるだろうから、そっちも値上がりして物価上昇となる。そうなれば家計直撃と行った報道が出されるようになり、色んな影響で苦しい台所事情の解説がなされ、という図式が見えてしまう。今ごろはそういった台本を書いている最中なのかもしれないが、いずれにしても気になるところだ。一方で、原油の問題をエネルギー問題として考えようとする動きもあるようだ。実際に価格上昇が伝えられているし、実感できているのだから、そちらへの影響がないとは言えないのだが、心配する向きは供給不足の方がもっと気になるらしい。そんな中でエネルギー効率の問題を取り上げているところがあり、以前と比較して効率が改善されているから、今回の原油価格の高騰や供給不足もあまり大きな心配の対象とはならないという話があった。なるほど、そういう考え方も必要だなと思う一方、しかし価格の方に限ってみれば急に効率に変化が出るわけではないから、値上がりは避けられないと思われる。ただ、供給不足についてはあくまでも仮定の問題だろうが、大丈夫なのかもしれないと思える。今回、海の向こうで大騒ぎになり、相場にも大きな影響が出ているのは、それだけ消費量が多く、効率化が後回しにされてきた国の事情によるものかもしれない。大消費国の状況悪化が他の国にどんな影響を与えるのか少し様子を見守らねばならないだろうが、慌てて反応する必要はなさそうである。本来、環境への影響や二酸化炭素の排出量の問題で、色んな方策が実行されていなければならないのだろうが、そうなっていないところに問題の大本があるのかもしれない。

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8月6日(金)−読書

 出版物の売れ行きが発表されていた。雑誌の方はよくないようだが、それを書籍の売れ行きがカバーしているとのこと、全体としては悪くなかったようだ。活字離れが騒がれているけれども、まだまだ読書意欲は衰えていない、という意見が出てきそうな具合だが、実際にはそうとも言えない状況のようだ。
 意欲を測るうえで重要な要素は、何のために、という目的を考えることなのかも知れない。勉強は何のためにやるのか、運動は何のためにやるのか、といった調子で、読書は何のためにやるのか、を考えてみると、このところの動向は以前とは違った雰囲気を持っているように見える。何のためと言っても、はじめに挙げた二つでも皆がやるからということを理由にする人が多いと思う。自分のためとはっきり言える人より、皆がやっているので外れないようにという人の方が多そうである。それと同じように、読書もそんな傾向が出ているように思える。書籍の売り上げに対する貢献度は当然のことながらたくさん売れた本のほうが大きい。この傾向は近年増加しているような感じで、売れる本と売れない本の差が大きくなるばかりか、出版点数が増加の一途を辿っているから、ほんの一握りのベストセラーとその他数知れずの本という図式ができ上がっているようだ。良い本が売れるのは当たり前、と思う人がいるかも知れないが、どんな本が良い本で、どんな本が悪い本なのだろうか。昨年の売り上げ一位の本は元々そんなに人気がなかったものが、ある本屋の店員の推薦から火がつき、全国に飛び火していったという経緯をたどった。種々雑多な本が毎日出版される時代には、本屋に並べられるだけでも運が良いところへ、それが何冊も売れる状況になったらすごいものだと言われる。つまり、消費者にとってある本との出合いは、色んなところで制限されている状況なのだ。その中で、末端の評論家のような店員の推薦が大きな影響力を持つのは当然のことかも知れない。何しろ、消費者の動向をつかむには一番良いところにいるはずなのだから。しかし、全国に飛び火すると言っても、口コミだけでそんなことが起こるのは難しい。これまたそのための仕掛け人が必要となるわけだ。そういう仕掛けとして以前から使われてきたものに、文学賞と名のつくものの受賞作品という紹介の仕方がある。有名な賞であればあるほど効果は絶大で、その上何かしらの付加価値がつけば万全となる。最年少受賞というだけで注目を浴びることができ、それだけで売れ行きがぐんと伸びるわけだ。そんなこんなで一部の書籍とは言えかなりの売り上げを見せ、出版界全体としては一時の翳りはなくなったと言われそうなところまでやって来たが、実際には台所事情は改善されたとは言い難いところのようだ。これは出版点数が未だに増加している状況で、全体として健全な流通状態とは思えないことがあるのと、多くなればなるほど質の低下が懸念されることがある。人気があるから、皆が読むから、という形で、まるでどこかのタレントを追い掛け回す人々のように、追従型の行動が主体になると、ちょっとしたきっかけで冷え込むことは十分に考えられる。先のことなど心配しても仕方ないといえばそれまでだが、本当に良いものと接する機会を奪われるきっかけとならないことを願うのみだ。

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8月5日(木)−噂

 噂話と聞いたら、どんな印象を持つだろう。怪しい話、危うい話、不確かな話、など悪い印象を並べたらキリがなさそうだが、一方で利害とは無関係なところから流れてくる真実に近い話という場合もあるようだ。中には意味のある話があるといっても、やはりその大部分は元々根も葉もないでたらめな話であるうえに、その後尾鰭がついてという場合が多い。
 信用できない話と言ってもやはりどこかで気持が動くのだろう。噂話はあっという間に広がるし、それに振り回される人も少なくない。不確定な話と解っているのに、何となく気になって、つい振り回されてしまった経験を持つ人も多いのではないか。情報源となった人には大した意図もなかったのに、流れ流れて尾鰭ばかりが大きくなり、そのうち無かったはずの意図までが付け加えられるようになると、かなりの影響力が出てくる。無邪気な冗談があっという間に広がって会社が潰れるなんて話になることもある。それだけ気にしている人が多いのと、経営状況の悪さなどそれなりの背景があるのだろうが、それにしてもこの手の話の伝搬の早いことには驚かされる。組織の連絡網で緊急に伝えられなければならないことは全然伝わらないのに、同じ組織内で噂のほうはあっという間に伝わる。ちょっとした気の持ちようなのかも知れないが、興味のあるなしによる伝達速度の違いはかなり大きいのではないだろうか。噂の中には無邪気なきっかけを持つものばかりでなく、しっかりとした意図がはじめからあって流されるものも多い。これらは一種の情報操作であり、噂の源となる人物やその組織にとって有利に働くものである。元々不確定な話に基づくものばかりだから、情報源が示される必要もく、こんな話をしていた人がいたと言うだけで十分である。回りくどいものになると、こんな話をしていた人がいたと話している人がいたとなり、これらが数珠繋ぎになっていけばどこまでも終わらないものとなる。噂に限っていえばこんな状況も許されることとなり、その輪はどんどん広がりを見せることになって、噂がまるで本当のことのように語られるのにさほど時間がかからない。そのうち、不確かな話が確かな話になり、いい加減な話が権威を持った話になる。さすがにそう簡単にそんな展開にはならないのかも知れないが、いつの間にかということはありそうである。こういうのは狭い組織に限ったことではなく、社会的な現象として現れることも多い。特に、人と人との関わりによって噂が伝搬していた時代に比べると、別の不特定多数を対象とした媒体が利用できるようになってからは、伝搬速度が増しただけでなく、対象となる集団も格段に大きくなった。その上、こういう媒体が伝えるものは人と人の間で伝わるものに比べると、一つ上の信用度を持ったもののように受け取られるから、効果絶大となる。こんなに便利なものを利用しない手はなく、一部の情報操作に関わる人々にとっては、どういう活用の仕方があるのか重大な問題となっているのではないだろうか。一方、振り回されるほうはどうなのかといえば、相変わらず同じような形で振り回されていて、何かの対処法が出されているようにも見えない。所詮は噂に過ぎない、という考え方があれば何とかなるのだろうが、媒体に権威を感じる人々にはそれも無理だろう。そういう人にとっては耳に入れないことが一番の防衛策となるのかも知れない。

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8月4日(水)−頂戴

 話題に枯渇してくると、つい前日の続きを書きたくなる。あえて言い訳を書くなら、今回はそれが理由ではなく、独り言を書いたあとの顛末によるものだ。書く前に調べておけばいいものをつい面倒になり、思いつきで書いたわけだがそれが仇となった。まあ、思いつきはいつものことだから仕方がない。ただちょっと確認のために続きを、というわけだ。
 「させていただく」という表現を度々聞くようになってからずっと気になっていた。しかし、言葉については知らないことも多く、何となく自分の方がおかしいのかと思うときもあった。今回、ネット検索をしてみると同じような気持ちでいる人々の多いことに気づかされる。それだけ耳障りな印象なのだろう。慇懃無礼な雰囲気が漂う感じさえする。ただ、使っている人々を見ると総じて若い世代に多いから、尊大な態度というよりも失敗をしないための方策といった感覚が大きいのではないだろうか。言葉遣いで最近話題になるものはこの手のものが多く、きちんとした学習よりも場当たり的な対応によることからきているようだ。世代間でちゃんと継承されていくべきものが、あるところで滞ってしまったためにこんな現象が起きてしまったのだろう。世代間の葛藤はいつの時代もあり、前の世代を追い越してこそ次の世代が輝くというものだが、どうもその辺りの感覚さえ薄らいできたのかも知れない。さて、「させていただく」の話に戻ると、こういうものを調べる場合にはネット検索よりも古くさい辞書に頼るほうが良いようだ。身近にあるもので、「いただく」を調べると既にそこに問題提起がなされていた。そこには、「『書類を御覧いただきましたか』のような用法が1970年ごろから多くなったが、相手中心に言うべき所を自己中心に言った誤用。主語が第二人称・第三人称なら『くださる』を使うのが正しい」とある。そのあとに、「させていただく」については、「せる」を参照のこととあったので、そちらを読みにいった。ここにあったのは興味深い記述で、「『勝手ながら今月末で閉店させていただきます』など、『・・・いたす』で済むところに『・・・させていただく』を使うことが多くなり、一種の敬語かに思われているが、本来は浄土真宗を信仰する者が仏にお恵みにすがるお許しをいただくという気持で使った言い回しが広まったもの。その気持もなく乱用するのは(相手の了解を取ったことを前提とする表現になるから)押しつけがましい」とあった。なるほど宗教絡みかと感心するとともに、いかにも無宗教が蔓延る国らしい転用だと思った。別段信心の有無を論じるつもりはないが、元々こういうことを基礎に築き上げられてきた言葉が多いことに、だんだん疎くなっていくことには憂いを感じてしまう。さて、これらは岩波の国語辞典に掲載されていたものだが、他の辞典でどんな解説がなされているのかはわからない。言葉は生き物であるから、新種の生物が出現して、それが繁殖してしまえば、その存在を認めざるをえない。閉店云々の言い回しなど、今や当たり前の表現となり、どこにも違和感を感じない人の方が多いのではないか。それでも、人前で自分の考えてやったことを「このようにさせていただきました」などという若者を見ると、おかしなことをいうやつだと思うわけだ。何しろこちらは何も了解していないわけで、そこで「それはいけない」と指摘されたらどう対処するのだろうかと思ってしまう。こんなことを書いても、ほんの十年もすれば正しい用法として紹介されるようになるのだろう。ただ、その際にもぜひ語源や本来の用法の紹介は忘れないで欲しいものだ。

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8月3日(火)−言葉の変遷

 言葉は生き物であると言われる。時代の変化とともに新しい言葉が生まれるだけでなく、古い言葉もその意味を変えてしまうことがある。「檄を飛ばす」などの言い回しが本来の意味とは違う使われ方をするようになったと伝えられたが、違う方の用法が出てきてからの時間を考えると、今更取り上げてもという感じがしないでもない。
 若者言葉として取り上げられているものにはとんでもないと思えるものも多く、その通り数ヶ月もしないうちに聞かれなくなる。これはマスコミの取り上げ方の問題のようで、まるで方言のように狭い地域でしか使われず、その上ある年代の集団にしか使われていないようなものでは、方言でもなく符牒のようなものと言わざるを得ない。仲間意識を強化するための道具の一つとして、言葉の用法は大切なようで、芸能界はその最たるものなのだろう。以前はこういう世界は馬鹿にされるのが当たり前となっていたような気がするが、最近は尊敬というか憧れの存在という感覚が強くなったようで、同じような用法を好んで使う人々が増えている。極端なものはさすがに無理があるように思えるが、たとえば朝の挨拶に限定されるはずのものを四六時中使おうとするのもその影響なのではないか。これはあの世界からの発信だからというよりも、テレビという箱の中から聞こえてくるものは正しいものという認識を持つ世代の特徴なのかも知れないが、中の世界の用法が乱れるにつれて歯止めのきかない状況が生まれている。敬語の使えない世代という呼び名が出てきてからもう数十年にもなると思うが、使えない世代が人口の大部分を占めるようになると使えることの方がおかしいということになりかねない。最近の傾向は、使えないと言われることに対する抵抗からか、馬鹿丁寧な敬語の連続が使われるようになり、それこそ使えない人間の大量生産が行われているとしか思えない。それでもそういう言葉さえも変化を伴ってくるから、自分たちの世代にはなかったものが採り入れられるようになり、違和感を感じる人も多いのではないか。世代の隔絶とでも言うのだろうか、そういうときにもこんなことを感じるようだ。中でも以前から気になっている言葉に「させていただく」というものがある。何でもかんでも、させていただくわけで、誰がどうしてそのようにさせたのかさっぱりわからない状況で使われる。たとえば、野球の監督が参加を断念というときに、行かないことに決めさせていただきますという息子の弁が流れていた。はて、決めましたでいけないのだろうか。これを丁寧と感じる人たちがいるようだが、自分の意思で決めたものをさせていただくとは不可思議である。逆に、会議などで発言を促されたときには、ご指名ですので説明させていただきますとか言うことがある。こちらの方はまだ容認できそうだが、それでも説明しますだけで十分に思える。変化は動くから変化できるのであるから、そこに動きがなければならない。しかし、動きというのは余計なものもあって、たとえば振り子のように真ん中に留まることなく両方向に振れるような動きをすることが多い。敬語や丁寧語の欠落を指摘された人々は、その反動から過剰な使い方をしててんこ盛りの言葉の羅列を作り出した。これでもかこれでもかと連続させることによって、使っていることを主張したかったのかも知れない。しかし、この場合も過ぎたるは及ばざるが如しがぴったりと当てはまり、間違いを重ねていることになってしまった。今回も文句ばかり並べてしまったが、そろそろ終わりにさせていただきます、などと言っても変に思えないのなら、あなたの言語年齢はお若いですよ。

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8月2日(月)−団扇

 そろそろ言い飽きている感じだが、猛暑は依然として続いている。体力の衰えている人々にとってはかなりの重荷であり、なるべく負担を軽くしようと心掛けているものと思う。暑ければ気温を下げればいいということで、エアコンの売れ行きも好調となるのだが、はたしてそういう人にとって良いことかといえばそうでもないらしい。気温の変化が負荷となるからだ。
 では、一日中同じ温度に保たれている部屋に居続ければいいのではないかと思う人もいるだろうが、実際にやってみようとすると難しいことに気がつく。家の中にいても、部屋ごとの温度は微妙に違うものだし、場合によってはそういう変化でも厳しいものとなる。だから我慢して過ごすべきなどと言うつもりはないが、あれだけ冷暖房が完備した病院でもこの時期は体調を崩す人がいるらしいから、難しいものということなのだろう。活動している昼間でさえ気温の上下にやられてしまうのに、ゆっくり寝たい夜の方はもっと調節が難しくなる。冷房を入れっぱなしにして寝ている元気な人もいるのだろうが、逆にそれで体調を崩す人もいる。起きているときほど素早く反応することができないから、涼しすぎて寝冷えをする場合があるからだ。便利な世の中になったから今ではごく当たり前のように冷房を備えている家が多いが、昔はそんなものは無かった。田舎では部屋の中に蚊帳を吊って、戸を開け放して寝ていたし、都会でも網戸を付けて、窓を開けて寝ていた。それでも寝冷えはしたものだが、当時は扇風機をかけっぱなしにして、体温が奪われて死んでしまうという話もあり、そんなものも使わずに我慢しながら寝ていた。しかし、子供たちに我慢は似合わない。ぐずぐず言って寝つけない子供たちを前に、母親は団扇を手に寝つくまであおいでくれていた。当時は別段感じるところもなかったが、今頃になって考えることが出てくる。一つは彼らはどうやって自分たちをあおいでいたのだろうという不思議で、こちらの方は悩むまでもなく、単に我慢するだけだったのだろうと想像がつく。もう一つはそういう行為はどんな気持ちから出てきたものなのかということである。便利な時代になると、親が子供を寝かしつけるなどという話はあまり聞かなくなり、体に悪いかも知れないと思っても冷房の効いた部屋に寝かすとなった。昔だって子供たちに感謝されたいとか、子供たちに愛情を注ぎたいとか、そんな気持ちがでていたわけでもなく、ただごく普通のこととしてやっていただけなのかも知れない。そういえば誰だったか忘れたが、文豪が執筆している間中奥方が団扇であおいでいたという話がどこかに載っていた。これも当たり前の一つとして行われていたのかも知れないが、今では聞かない話であるばかりか、馬鹿げた行為のように扱う人まで出てきそうだ。現代では不可思議としか映らないものなのかも知れないが、当時は当たり前のことだったようだ。実は団扇であおぐ行為は温度を下げる効果はほとんどなく、微風を起こしているだけのようだ。ところがそれが意外な効果を生むという話がある。そんな微風は体感温度を下げるだけで、就寝時には余計な刺激にもならずに、眠りを保つ効果があるのだそうだ。なるほどと思いつつ、でも便利さは知恵を消し去る効果もあるのだろうかと思えてしまった。

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