パンチの独り言

(2004年8月9日〜8月15日)
(闇の中、ー、ー、強行軍、診断、盆休み、山登り)



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8月15日(日)−山登り

 高速道路のサービスエリアで休んでいたら、隣に座っていた初老の夫婦が目的地への道を相談していた。遅い時間ということもあり、エリア内の案内所は既に閉じていたから、そこに置かれた地図と売店の人に相談するしかなかったようだ。結局、目的地により近いところで再度尋ねてみるとなったようだが、週末に山に出かけるのは一苦労のようである。
 以前どこかの山に登ってみて、その楽しさに取り憑かれたと奥さんは言っていたが、そういう気持ちになる人とそうでない人がいるようだ。といっても、彼らの場合、中腹まで車で行けるところでの日帰り登山に近い形のものだから、山登りというにはまだまだと言ったところかも知れない。そう言われてみると五合目くらいまで何らかの交通機関を使って上がれるところは全国に幾つもあり、そういうところであれば大した装備がなくても何とかなるものらしい。この国で一番高い山もその一つで、他の山との違いは中腹からの入山のルートが複数あるということだろうか。それだけ登ってみたいと思う人が多いからだろうが、あれでは山登りとは言えないという意見をよく聞く。確かに、頂上までブルドーザーが上ってきて様々な機材や食料をあげているわけだから、そんじょそこらの山とは大違いである。それでも昔は強力と呼ばれる人々が活躍していて、食料や機材だけでなく、頂上に据えられている石材も彼らが上げたものであるというから驚きである。人力では賄えないくらいの人が山に押し寄せるようになり、更に五合目近くまでの道路が整備されるとどっと登山客が増えたようだ。山開きは7月の初めでそれから二ヶ月ほどが適した時期と言われるが、中でも7月の終わりから8月の初めにかけてが最も良い時期と言われる。と言っても、お天気の方は気まぐれで台風が来てしまえばどうにもならないし、雷雲がやって来てしまえばお手上げである。独立峰であるためか、海や湖からの湿り気を帯びた風が上がってきて雲を作ってしまうから、特に夏の時期はその全貌を見ることは少ない。見えても頂の一部がちらりと見える程度だし、列車からだと冬の姿と比べて見劣りする感じがする。だから雲の中に隠れていてくれたほうがいい、と言うのはあまりにも乱暴な話だが、登っている人々にとっては雲の中では困ってしまう。他の山との違いは幾つもあるが、夜昼無く登っている人がいるというのも大きな違いの一つではないだろうか。頂上でのご来光を目的にする場合、夜半前から登り始めねばならず、当然真っ暗やみの中の登山となる。懐中電灯を手に持ったり、ヘッドライトを装備したりして登っていくのだが、登山道が整備されているからこそのものに思える。途中に山小屋がたくさんあり、休憩することもできるし、宿泊も可能だから、ゆっくり登りたい人にとってもありがたい山だろう。それにしても、何故こんなに多くの人々が登るのだろうか、と不思議に思うのはやはりそういうものに興味がないからだろうか。登ってみればそれなりに面白味も感じられるが、病みつきになるほどかと言われたらそうでもない。登りより下りが大変と言われるがまさにその通りで、体にとっては長く続く苦痛を与える。また、登山道に比べると下山道は整備が進んでおらず危険なところも多いようだ。落石注意と書かれたところで実際に落ちてくる石を見るとギョッとするそうだが、誰でも登れる山だからこそと言われる。ある下山道の荒れ方には皆閉口するようだが、疲れ果てて未整備の道を歩かされるのは素人には厳しいようだ。世界遺産は無理という声がここからも聞こえてきそうな気もしてくる。

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8月14日(土)−盆休み

 相場の変動の仕方に変化が出ているのだろうか。昔は何かといえば仕手の介入という話があったが、最近は仕手筋の動きが目立たなくなっているようにもみえる。情報の流れが数段速くなったこともあり、その速さを競うことによる動きも目立たないように見える。何しろずっと昔は電報による連絡があったらしいので、想像の範囲を越えている。
 しかし、この十年ほどの動きの変化はそれらを遥かに越えるもののような気がする。特に、取引の形態の変化は大きな影響を及ぼしているようで、個人による素早い対応が可能となったので、動きの激しさは以前よりも遥かに大きなものとなっている。それによって色んなことに影響が及んでいるが、実際には儲かる人には儲かり、損をする人は損をするという構図に変化はない。特に群集心理による行動に追従する人々にとっては、動きが速くなったからと言って何かが変わるわけでもない。結局後ろをついていく人々にとっては、対応の遅れが出るのは仕方のないことで、それによって損害を被る場合はほとんどの場合避けようの無いものとなってしまう。更に、ネットによる取引では介在するものもないから自己責任そのもののみがあり、誰にも文句が言えない。こんなことは元から当たり前のことなのだろうが、しかし実際に責任の所在がこれほどはっきりすると、さすがに嫌になる人もいるのではないだろうか。そんな状況なのだが、このところの景気の好転もあって個人投資家の数は増えているようだ。こういう形の売買が増えてきて変化があるように思えるのは、連休の狭間や盆などの長期休暇中の取引高にある。以前ならば、夏休み相場という感覚で取引が減り始め、そのために変動が大きくなることが言われていた。しかし、最近の動向を見ているとそうとも思えない雰囲気が出てきている。休みだからと言って、ネットから離れてどこかでゆっくりしようとする人はほとんどおらず、逆に暇を持て余してネットと一日中お付き合いという人の方が多くなっているのではないだろうか。そうなると、その期間の取引も当然多くなる。減っている分と増えている分のバランスだろうから、一概には言えないだろうが、以前と比べたらこの時期の落ち込み具合はかなり少ないものとなっているのではないだろうか。この時期の動きの激しさを楽しみにしていた人々にとってははた迷惑なことなのだろうが、まあ仕方がない。全体としてうまい方向に流れてくれればそれで良いのだろう。それにしても、このところの銀行再編の動きや経済指標の発表に対する動きなど、ゆっくりと里帰りしていられないほどではないだろうか。忙しい人々が更に忙しくなっているということなのだろう。

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8月13日(金)−診断

 風邪をひくと医者に行って注射を打ってもらうという人がいるという話はずいぶん前から聞こえている。最近は、注射じゃなく点滴に行ってきたという話に変わりつつあるようで、患者の方も要求が高くなってきたと言うべきだろうか。医者に対する信頼から来るものなのか、それとも逆の反応から来るのかよくわからないが、とにかく自分のして欲しいことを主張するようだ。
 昔は医者とか先生を相手にすると、偉い人なんだから言うことを聞かねばならないという前提があったような気がする。しかしいつの頃からか、情報が流れるようになり、何が良いことなのか、何をしてもらうのが良いのか、という予備知識が一般の人々にも行き渡るようになった。それでも専門家の意見を尊重するという気持ちがあれば大した違いはないのだが、肝心の専門性が疑われる状況になるのが同時に進行していたので、いつの間にかこちらの要求を先に突きつけるような形になってしまったのではないだろうか。それでも自負心のある医者であれば正しいと思われる要求には応え、そうでないものについてはきちんと説明したうえで行わなかった。確かにうるさい患者が増えてくればいちいち説明するのも面倒だから毒にも薬にもならない点滴を施すという方法もあるようで、安心薬として処方していた面もあるのだろう。そんな流れがあったせいか今度は診断名を要求する患者が登場するようになった。昔もあったのだろうが、ある病気に罹ったのではないかと心配し、それについてのお墨付きを専門家にもらおうとする。診断という薬で心理的な安定を求めているだけという声もあるが、たとえそうだからと言って無茶な病名を付けるわけにもいかないだろう。そんな風潮が出てくると、医者の方も診断を下すことで何かを解決しようとする気持ちが出てくるようだ。ガンという病気は不治の病と永く言われただけに、宣告の難しさが取りざたされることが多かった。しかし、死ぬことも人間にとって重要なものであるという考えが出てきて、死期が近いのならばそれを知る権利があるのではないかという意見も加わり、家族だけでなく本人に宣告するという形をとる医者も増えてきた。但し、そういう医者の中には自分の中にしまっておけないからという信じがたい理由を持つ人もいるから中々難しい。死を迎えるためにという理由がある場合に頭から否定するわけにもいかないが、そうでない形の病気についても診断を下すことが正しいように受け取られている場合があり、ちょっと心配になる。治療方針が決まっており、治癒が見込まれる病気の場合、こういう進め方を理解するのは難しくないが、一方で病名ははっきりしているが、治療方法もわからず、見込みもはっきりしないものについては、ちょっと考えさせられる。特に、心の病と呼ばれるものに関しては、色んな種類の病気があるようで、それぞれに名前が付けられ分類されている。薬も数多く出されているようだが、風邪薬と同じように症状を抑えるだけで、治すわけではない。治すのではなく、治るのだという人がいるが、風邪のように考えればその通りかもしれない。風邪という診断は大したことが無いという証明のようなものだが、精神疾患の場合はそうもいかない。しかし、治療を施すためには診断しなければならないのだろう。確かに診断がきっかけになって快方に向う人もいるから、無駄なことばかりでもないのだろうが、大部分の場合はそうでもなさそうだ。話は違うが教育現場で問題視されている子供たちについての診断でも、同じような状況にあるものがある。対処の仕方も決まっていないのに病名だけを決めつけてしまうのには違和感を覚える。治せる見込みのないものに枠をはめることにはどんな意味があるというのだろう。どこかに逃げの姿勢が見えてしまうのは、こちらの見方が歪んでいるからなのだろうか。

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8月12日(木)−強行軍

 二日ほど休んでしまった。ネット環境に無かったことが理由だが、書きだめしておくのも変なので休むことにした。今時ネット環境に無いというとどんなところなのか、その話はまたあとのことにするとして、世の中はどうもお休み気分一色のようだ。いつの頃からか長期休暇をとる人が増えたのと、どこに行っても混雑という状況を避ける人が増えたので、ちょっとはましな感じだが。
 いつものように休みとなると、交通渋滞が起こる。これだけ休日の分散化が進んでも、渋滞の方は起きてしまうようだ。といっても、以前に比べたらそのひどさはかなり低くなっているし、道路事情よりも鉄道事情の方がずっとましな状態になっているように見える。飛行機の方は定員が決まっているせいか、ひどいと言っても限度があり、一杯ですの一言ですべてが済んでしまい、諦めるしかないとなる。それに比べたら鉄道の方はまだ詰め込む余地があるから、定員の三倍などという数字が今でも出てくることがある。さすがに新幹線の中で満員電車並の詰め込まれ方となるとどうにもならない。デッキの中で手で自分を支えなければならない状況に追い込まれると、特急料金を返して欲しいという気持ちになってしまう。それを覚悟で乗ったのだろうと言われてしまうと元も子もないが、それでもあの状態に追い込まれると嫌になってしまうのだ。そんな状況でも鉄道には箱の大きさという制限がある。だから、これ以上は詰められないとなると、次の箱がやって来るのを待つしかない。博多、新大阪、東京の場合は始発駅であるから待てば何とかなるが、途中ではそう行かない。いつも大変だなあと思えるのは京都で、あれだけ観光客が多いのに、いつも新大阪で一杯になった東京行きが入線してくる。運が良ければ名古屋で座れるがそうでなければ3時間ほどの直立不動となる。色んな形での逃げ道はありそうだが、少なくとも指定席に逃げることは難しい。こういう時期の旅行はどうしてもという場合を除いて避けたくなるのはそんな理由があるからだ。わざわざ高い金を出して、無理して体力を使い果たして移動せねばならないことなぞ、そんじょそこらにありそうには思えない。しかし、起きるときはそんなことばかりが起きてしまう。車での移動も同じようなもので、但し次の列車を待つという方法は使えない。乗ってしまったらどんな渋滞に巻き込まれようが逃れる術はない。駐車場のようになった高速道路上で、苛々しながら渋滞が解消されるのを待つしかないのだ。ふと横を見ると相変わらずのこととは言え、路側帯を走っていく車の列が過ぎる。苛々するより、法律違反の方がましとでもいうのだろうか。よく事故が起きないものだといつも思う。こういう時期には渋滞だけが怖いものでもなく、普段運転しない人たちの運転が怖い。道路事情を飲み込めていない人たちの運転は事故の元となるし、そうならないまでもひやりとさせられることが多い。追い越し車線から出口に向っての強行突破は当たり前のように起きるし、車線変更も強引なものが多い。通行量が少なければ大した影響もないのかも知れないが、多いからこその無理矢理だから影響も目茶苦茶である。冷や冷やしながらの運転はストレスが多いから、更によくないことが起きそうな気もしてくる。まあ、そんなことを言っていても結局移動せねばならないわけで、毎年の繰り返しが続くだけなのだが。

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8月9日(月)−闇の中

 長い休みを迎えると、普段長い距離を移動したことの無い人まで、移動を繰り返すようになる。経済的な余裕が出てきたからか、また色んな所へ出かける人の数が増えてきたようだ。経済という通貨の流れに依存する世界にとってこういう傾向は大歓迎だろうし、ものを生産しない社会を築いている人々にとっては必要不可欠なものだろう。
 こういう時期には、毎日仕事に向かうときには利用しない交通手段を利用することが多くなる。列車や飛行機という機関を使う場合も多いが、家族総出という移動になると車を利用する場合が多いのではないだろうか。一人ひとりに運賃が加算される公共交通機関ではあっと驚く出費になる長旅でも、ひとまとめにして通行料金や燃料費がかかる車ではある程度出費が抑えられることになる。これはレンタカーを借りた場合でも同じことで、日頃から慣れていない車に乗っての長旅となると運転者にとっては更なる困難が襲ってくることになる。それでも何とか楽しい旅をという人ばかりだろうし、ほとんど大部分の人々にとっては何の障害もない安全で楽しい旅が実現するに違いない。ただ、ほんの一部の人々にとっては、どうにもならない苦痛だけが残るものとなってしまうようだ。このところ、高速道路などのトンネル事故の報道が続いている。これらの事故はトンネル内でのこととして同じように取り扱われることもあるようだが、実際にはかなり違う状況で起きていることを認識すべきであり、そのことからどう対処すべきかに違いが出てくると思う。最も大きな違いはトンネルの構造というか交通状況にある。以前も何度か取り上げたが、予算の関係なのか工事期間の関係なのか、この国では見切り発車的な道路開通が当たり前のものとなっている。そこら中の高速道路で一時的な対面通行が実施されており、完全開通までの期間それによって利用者の便宜を図ろうとしているのだろう。しかし、その区間内のトンネルでの危険性は非常に高い。外と違ってトンネルでは路側帯のような避けるための余地がまったく無いし、相対速度が自分の車速の倍になることを考えれば、事故が起きたときの被害は甚大となる。だから特別な配慮がなされているかといえば、より厳しい速度制限があるくらいで他には何もない。この間の事故は過積載によるものとの報道があったが、当り前のことが守られない状況で起こった事故として、そういう道を走ることの恐ろしさがひしひしと感じられる。これとは別の状況のトンネル事故として、つい先日起きたものはごく普通の高速道路のトンネル内で起きた。停車していた車に後続車が突っ込むというそれだけ聞いたら渋滞時によく起きるものと思えてしまう事故だが、実際にはまったく違う事情があったようだ。トンネル内でのパンク修理と報道が伝えていたが、もしこれが本当のことだとするとちょっとびっくりしてしまう。被害車両はトンネル内でパンクして、そこで修理をしていたらしいのだが、何故と思えてしまうのだ。対向車があるなしに関わらず、トンネル内は路側帯が存在しない分だけ危険性が増している。ところどころにはみだした形での停車帯はあるが、そこに停めていたとは思いにくい状況だから、走行車線の脇に寄せてということだったのかも知れない。にしても、何故となる。確かに、修理優先だったのかも知れないが、非常識としか思えない。ぶつかった車が衝突後100メートルも進んでしまったことは別の意味も含んでいるとはいえ、はじめの何故が消えるわけではない。以前、国道のトンネル手前でパンク修理したときの恐怖を思いだすと、内部でどうなるのかについて想像したくないものだ。あと少しいけば路側帯が、という考えは落ち着けば思いつくのだろうが、そうならない要素でもあったのだろうか。

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