パンチの独り言

(2004年8月16日〜8月22日)
(予想外、緊張、宿題、責任、虫、標準化、お墨付き)



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8月22日(日)−お墨付き

 お墨付きというといかにもこの国独特の感覚と思えるが実際にはそうでもないらしい。標準化の話もその一つだが、何かしらの基準に基づいて第三者機関が認定するというやり方はまさにお墨付きそのものである。そう思って眺めてみると国内だけでなく世界にもそんなものが溢れている。多くのものはお墨付きだけに何らかの思惑が見え隠れするのだが。
 世界遺産という名称もその一種じゃないかと思う。UNESCO、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationという組織は、その昔エジプトのアスワンダムの建設で沈んでしまう遺跡を移築したのだそうだが、文化的な活動だけでなく、文字通り教育、科学に関係したものまで幅広く活動している機関である。ここが世界遺産という称号を与えることで自然環境や文化的遺跡、建物などの保全を図ろうとしたのは、リストを見るかぎり1978年からのことのようだ(世界遺産条約自体は1972年にユネスコで採択されたようだが)。そんなに昔からなのかと思えるが、それはこの国で初めて指定を受けた姫路城などが1993年のことだから仕方がないのかも知れない。リストによればその後12件が指定を受けており、現在もそのための活動をしているところがあるようだ。世界中で一体全体どのくらいの場所が世界遺産になっているのか数える気にもならないが、自然遺産、文化遺産などがあるから必ずしも現在の経済状態とは一致しないところがある。ただ、その中で指定してもらおうとするのにはいろんな思惑がありそうで、ユネスコが持っていた本来の目的とは少し違うところに向かっているところもあるのではないだろうか。遺産をそのままの形で残していこうとするのがその目的の主たるところではないかと思うが、指定されることで知名度が上がればそれに引き寄せられて訪ねる人の数が増すことも多い。そうなればそれまでと同様のやり方では対処できなくなる場合もあり、何かしらの変更を余儀なくされることもあるだろう。但し、指定区域内ではある程度の制限がかけられているから、宿泊施設の建設などが難しくなり、周辺地域への影響がありそうだし、遺産たるところを説明するための人も必要とされるから、その辺りの配慮も要求される。それでも、観光客が訪れれば経済効果が見込めるから、そういう視点から運動の高まりが起こることもあり、本来の単純な環境保全とは違った目的が出ているのも事実である。経済効果という言葉が出てくるたびにまたかと思えてしまうが、何しろそんなことが中心にあり、あらゆることに金銭的な支持が必要な時代には仕方のないところかも知れない。実際には、訪れる人々の意識の問題が一番大きいのではないかと思うが、それこそ指定を見送られていると言われる最高峰については、今現在の状況がそのまま当てはまる話である。意識の変革が先か指定が先かと問われれば、意識と言われてしまうのは無理のないところだろう。それにしてもこういうことに躍起になってしまうのはこの国の人々の特徴なのだろうか。実際に条約ができてから、初めての登録まで時間がかかったとはいえ、それ以上に国内の登録には時間がかかっている。これはそれまで関心がなかったからなのか、それとも別の理由があるのだろうか。ただ、一度その流れができてしまうと、次々に我も我もと押し寄せるのはいつものことに思えてしまう。お墨付きだから仕方のないことか。

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8月21日(土)−標準化

 一時の人気に翳りが見え始めてから、回復の兆しが見えてこないが、ラグビーはサッカーに勝る人気を誇っていた。ラグビーという名の学校でサッカーの授業中にボールを小脇に抱えて走り出した生徒がいた、ところから始まったと言われる競技はその起源は俄に信じられないが、独特のルールを持ち競技人口もかなりのものである。
 運動競技に限らず、競争には一定の規則が必要で、たとえばチェスと将棋が同じ盤上で戦うことができないようなものである。そのためには基準となるものを作り、一部を対象としたものからその範囲を広げ、ついには同じ競技を行う人々が同じ基準に基づいて参加するようになる必要がある。その過程ではいろんな変更も起きるのだろうが、とにかく納得のできる基準を作ることが大切なようだ。そういう過程を経て国際的な広がりが起き、様々な国の人々が同じ競技で競うことができるようになる。競技以外にも様々な基準が設けられており、情報交換などの場で混乱を来さないように配慮されていることが多い。中でも、ISOと呼ばれる基準はいろんな分野に存在するから耳に入ることが多いのではないだろうか。ISOとはInternational Organization for Standardization、国際標準化機構の略で、いろんな基準を設定する機関である。最近は環境問題との絡みからよく聞くようになったが、初めて目にしたのはまったく別の分野のことである。いつ頃出てきたのかわからないが、ある日突然目にするようになった。最近はデジカメの普及で使われなくなってきたが写真フィルムにはISOという表示がある。これはフィルムの感度の指標となるもので、20年ほど前から使われるようになったのだそうだ。それ以前は、ASA、American Standard Association、米国規格協会の定めた基準を使っていたが、国ごとの違いやらで統一化が図られISOとなったらしい。そんな形で目にしていたものが、いつの間にか企業の環境対策の基準として導入されるようになり、この国の企業もかなりの数のところが認定を受けている。そこで疑問が生じてくるのが、何故そんな基準の認定を受けなければならないのかということである。企業が自社のために努力をして環境対策を講じるのは理解できるが、そこに基準が存在し、更に認定を受ける必要があるのは何故だろう。よく聞く話は、認定を受けていないと国際社会での取引ができなくなるとか、消費者に対して保証書がついたようなものだとかそんな話だが、実際に未認定の会社が困っているという話は聞いたことがない。企業ばかりか自治体までもが認定を受ける時代だから既に当り前のことになっていると解釈する向きもあるが、そこに利害が存在するからこそのことであり、利害とは無関係な環境保全を目的とした基準であるとは言い難い。また、認定を行う機関の存在など基準を置くことによって業務が創出されているわけだから、そういう絡みも無視できないようである。企業に社会的責任があるのは当り前のことだが、その責任の範囲をきちんとした形で定めて明確化するという動きは、いかにも道理が通りそうに見えて実は怪しげなことがその裏にたくさんありそうに思える。実際に必要不可欠な基準であれば、国際取引の問題を引き合いに出す必要などどこにもないだろうし、それに追い立てられるような形での認定作業には疑問を感じる。他の国での状況は知らないが、この国では国際化という言葉がすべてを牛耳るような雰囲気があり、この問題でもそれを切り札にいろんな動きが出ているように思える。はたして、どこまでが地球規模での問題解決を目指したものなのか、工業大国と呼ばれる国々での情勢が気になるところだ。

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8月20日(金)−虫

 子供の頃の夏休みでは、そろそろ宿題を始めないと、と焦り始めるころだ。何事も計画的に、という話はどこにでもあるわけで子供の世界も例外ではない。しかし、目の前にぶら下がっている面白いことを放り出して、計画達成に走るなんてとてもできる話ではなかった。だからどちらが正しいのか、なんて下らないことを論じるつもりは毛頭ない。
 夏休みの主要行事といえば、まあ朝のラジオ体操と昆虫採集だろう。朝は苦手だったから皆勤賞はとったことがなく、かと言って悔しい思いが残るほどの思い入れもなかったようだ。一方の昆虫採集は、きちんとしたものではなく、ただの虫採りである。ただ闇雲に虫を捕って、それを楽しむといったもので、標本を作るなど考えたこともなかった。さて目的はと考えてみても、さっぱり思いつかない。生きるための狩猟とは違い、狐狩りのような楽しみ方に近かったのかも知れない。夏といえば蝉が主体だが、それ以外にも蟷螂や蝶を対象とすることもあった。どういうわけか甲虫類は目に付かず、近くの神社の森でもたまに玉虫を見かける程度だった。蝉は樹の高いところに止まっていることが多く、子供用の捕虫網では届かなかったが、兄の友人からもらった接ぎ竿の捕虫網を使うと面白いように採ることができた。そうなると余計に楽しくなるもので、朝から夕方まで段ボールで作った自作の篭が一杯になるまで採り続けたこともある。鳥もちを使っていないから最後に逃がすこともできて、採ったのを数えながら逃がすのも行事の一環だった。ほとんどの蝉はアブラゼミで、ニイニイゼミは真夏になるといなくなっていた。クマゼミは今ほどいなくて、その大きさと美しい翅から羨望の的だったが、これが早朝以外はとても高いところに止まっているので捕まえるのはほとんど無理だった。今蝉の姿をじっくりと眺めてみると意外なほどグロテスクなのに驚く。同じように蟷螂も手を伸ばす気が起きない姿をしている。小さい頃は平気だったのに何故だろうかと思うが、気分の違いといえばそれまでなのかも知れない。昆虫は収集家にとって重要な対象になることもあり、いつの頃からか鍬形がもてはやされるようになった。兜虫は以前から百貨店で売られており、家の近くでは見ることがなかったからその姿を見て欲しくなることもあった。しかし、鍬形は人工繁殖がされていなかったせいか、ほとんど見かけることもなく、たまにやって来るコクワガタを採って喜ぶのがせいぜいだった。それがいつの間にか市場に出回るようになり、経済状況の推移と相俟ってその値がつり上がっていった。虫を捕まえたいという思いで昆虫と接していた人間にとってはこの状況は奇異に映り、どこか別の世界の出来事のように見ていたが、ご多分に漏れることはなくその後は泡が弾けてしまったようだ。何事も金と結びつく時代には子供の玩具のようなものにまで強欲な人々の手が及び、異常なほどの盛り上がりを見せるとともに過剰な反応に溢れかえる。興味のない者にとっては何の意味もないことに執着する人々が現れ、興味だけで虫採りをしていた人々を押しのけて異常な行動が巻き起こる。金が絡むと心まで変わると言われるがまさにその通りの展開になっていたようだ。今は昔、といった雰囲気となり、芭蕉の句が浮かんできそうなところだが、依然として投機の対象としての昆虫の取引は終わっていない。外来種まで巻き込んで、生態系を乱してでも儲けに走る人々には、目の前の虫ではなく、その後にある札束だけが見えているのかも知れない。

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8月19日(木)−責任

 次から次へと企業の責任問題が噴出している。そうなると必ずと言っていいほど、監視機関の必要性を説く人が出てくる。これは役所に関しても同じことで、不祥事が起きるたびに監視システムの不備を取り上げる。確かに互いに見張っておけば変なことは起きないかも知れないが、実際には崩壊した社会主義国のようになってしまうだけなのではないだろうか。
 歯止めの存在が重要であることは誰の目にも明らかなのだが、それがどこにあるべきなのかを論じる動きがないのは不思議なことだ。監視するということは、第三者機関が関与するかあるいは組織内の他の人々が関わることになるわけだが、こういう考え方は監視する側のことばかりに気を取られていて、される側のことをほとんど考えていないように思える。また、仕事の内容などについてもきちんと考慮されておらず、その場の勢いで監視の必要性を説いているようにしか思えない。つまり、誰かの仕事の中身をきちんと点検するためにはその仕事とほぼ同じことをしなければならないことを忘れているのである。にもかかわらず、世論の流れみたいなものに押しきられる形で色々な新体系が導入される。それに対する評価は監視体制が整ったことばかりに目が奪われ、それがどの程度機能するものなのか、それが目的に見合ったものなのか、そんなことさえ検討されない。実際にはある仕事に関与する人の数を増やしただけで、逆の見方をすれば責任の所在がより不鮮明になり、一人ひとりの意識が希薄になってしまうことに繋がる。このところの対処法を眺めているとこんな形のものばかりで、実際に効果的なものになっているとは思えない。それよりも、繰り返すことを避けようとする心理が働いて、同じ不祥事が起きていないだけなのではないだろうか。ここまで来れば肝心なことはある程度見えていると言って構わないだろう。責任の所在をはっきりさせ、担当者にその意識をきちんと持たせることの方が、互いに相手を見張っていることよりも重要なのである。それにしても、どうしてこんな流れが当然のことになり、絶対視されるようになってしまったのだろうか。そう考えてくると、このところ心に引っ掛かっているものとして任せることの意味の否定のようなものが思い浮かぶ。どんな組織でもある程度の大きさを超えると役割分担が必要となる。そうなればそれぞれの役割を分担した人はそれに関して責任を負うことになる。しかし、この際にどこか民主主義的な考えが何にでも意見が出せるという形に変わり、他の役割にまで口を出す人々が出てきてしまう。結果の検討での口出しではなく、進行途中での口出しだから雑音となり、責任者の責任がはっきりしなくなる。本来任せたはずのものに、口を出すということは任せていないわけで、そこに責任を持ち込むことには無理がある。こんな流れができ上がってしまってから、さて責任の所在はなどと言っても手遅れとなるわけだ。こんなことが背景にあり、責任を負わなくてもいい、あるいは責任を負えない責任者が各所に配置されるようになってきた。実際に任されてしまえばそれに責任が伴うことは誰にでもはっきりわかるはずだったのが、その基本姿勢さえも薄ぼんやりとしたものになっている。そんな中で突然責任、責任とまくし立てても何も起きやしない。だからこそ監視体制がとなるのだろうが、この論法は明らかに間違った方向に進んでいると思う。付け焼き刃的で、緊急措置的なものというのであればまだしも、どちらかといえばこれが恒久的に最良のものとして扱われているから恐ろしいのだ。本末転倒とでも言うべきことがそこら中で起きているのだから。

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8月18日(水)−宿題

 頂上を極めたらもう一頑張りしてお鉢巡りを、という山はそんじょそこらにあるわけではない。それだからという訳でもないのだろうが、それにしても毎日多くの人々が登っているようだ。それぞれの登山道を通って登り詰めたところが頂上だと言っても、実際には最高地点ではない。もし一番高いところを望むのなら、レーダーで有名な測候所まで行かねばならない。
 老若男女、誰でも気軽に登れる山では小学校に上がる前の子供から、90を超えた年寄りまで次々とやって来る。高いところだから高山病になる人もいるらしく、頭痛に悩まされている人もいる。当然空気も薄くなっているから息が切れる。最近の流行は酸素缶で、山小屋の売店で売っているから、他の登山客が吸っているとつい欲しくなるようだ。しかし、効果のほどははっきりしないと思う。急激な運動のあと高濃度の酸素を吸引すると回復が速いと言われるが、通常の空気がある状態での話で高い山で同じ効果が上がるとは思えない。一時的な回復があったとしても、すぐに薄い酸素で疲れる。そしてまた吸い込んで、という繰り返しのような気がする。それでも心理的な作用があるのだろう。まあ、害はなさそうだからどうでもいいことなのかも知れない。集団で登っている人々も多く、互いに励ましあいながらという姿も見る。無言で登るより、話をしながら登ったほうが高山病になりにくいという話もあるが、真偽のほどは確かではない。いずれにしても、山伏のように難行苦行をするわけではないのだから、楽しみながら登ったほうが良いに決まっている。登りたいから登るというのはいいとして、誰かに強制されて登るのはあまり楽しそうには思えない。学校の体験学習のようなものでの登山となると、端から楽しそうには思えてこない。しかし、集団の中に小学生の一団を見つけるとどうもそういう行事がありそうに思える。集団行動を強制することが良いのか悪いのか、そう簡単には決められないが、苦痛を感じる子供たちにとってはこんなにひどいことはないと思えるのではないだろうか。列の後方からやっとのことでついてくる子供にとっては、人生最悪の日といった感じかも知れないと思っていたら、それに追い討ちをかけるような言葉が先頭の方から飛びだしていた。下山したら感想文を書きましょう、という声は疲れた身体に打たれる鞭の音のような響きをもっていた。絵日記や感想文は夏の宿題の定番のようなものだが、忌み嫌われる存在のようだ。文章が書けないからその練習を、という思いから始められたのだろうが、感想を強制されるのは中々難しい。一方で、文章が書けない子供たちは増え続けているようで、こういう課題が与えられる機会も増えている。それが更に低年齢層に限らず、高等教育の現場にまで及んでいるところをみると深刻化の度合はかなりのもののようだ。元をただせば、低学年の頃の目的意識の強い作文が原因のように思える。まだ目的を持つ習慣のない子供たちにとっては自由気ままに文章を書くことはそれほど難しくはないだろうが、こうしなさいとされると話は別である。こういう強制がその後の歩みを決定しているように思えて仕方がない。実は文章を書くことに限らず、話をすることにもこんな傾向があるように見える。何でも話したがる子供たちのとりとめもない話を聴こうとしない親達には、そんなことがその後の展開に影響するとは思えないだろう。子供たち同士で勝手な話をする機会が減っている昨今、親の関与は更に大きくなっている。聴いてやり、直してやることが大切な時期もあるはずなのに、目的がはっきりしないためか等閑にされているような気がしてしまう。

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8月17日(火)−緊張

 新人類ということが世の中に登場したのはいつ頃だったのだろう。ヒトの歴史に出てくる旧人と新人という意味ではなく、最近の理解不能な若者を指し示すものとして作られた言葉である。色んな意味で上の世代とは異なり、どこかに大きな隔たりがあるように思えた。そんな気持ちを表すためのものだったのだが、実際にはそんな大騒ぎをするほど出もなかったようだ。
 世代間の隔たりなどというのはいつの時代にも存在しており、取り立てて問題にするほどのこともない。先輩から役立たずと呼ばれる後輩はいつでも存在していたし、先生からものを知らないと言われる学生がいなくなることもない。時間が流れていけば後輩は先輩となり、学生の中には先生となる者が出てくる。そして、同じ言葉が繰り返し使われていくわけだ。自分たちとの違いを明らかにすることで更なる努力を促すという効果を期待したものだと思うが、受け手の方がそういう気持ちを理解できなくなるとこの様式は成立しなくなる。その辺りが新人類という言葉を生み出した基盤になっているような気がするが、これとて数年あるいは十数年続いてくればそれが当り前のこととなってしまい、どこにも不可思議なところはなくなる。これは時間の流れとともに変化する一人ひとりの心理を表したものだが、一方で意外に変わっていないものがあることに気がつく。このところ運動選手に注目が集まり、それぞれに期待と不安をもって見守る人々がいる。新人類は大舞台でも緊張せず、日頃の力を発揮するという見方が出てきていたが、実際に様子をうかがってみるとそうでもないことがわかる。期待が大きければ大きいほど普段と違う行動をする選手がいるし、大きな大会になると体が動かないことを何度も訴える選手もいる。精神力とか何とかそんな言葉で括られてきたこういう心理的なものは、時代が変わろうとも大して変化していないようだ。大きく違うのはそういう心境にある時の発言で、自信があっても隠そうとしたり、敗れて謝り続けるといったものは少なくなり、思ったことをそのまま表現できるという点が変わったように思える。そう思って見てみると、最後のところでの表現方法が違っていても、実際に競技をしている最中の心の動揺には大きな違いはなさそうだ。緊張が強いられる競技ほどその傾向は大きく、動揺から筋肉が硬直して普段の動きができなくなる。たとえば射撃競技はその最たるもので、余裕を持てば大したことのないものが緊張からまったく違った結果が生まれる。この辺りはいつの時代に生まれたかということとは無関係に、ただ単に選手本人のもつ資質のようなものによるところが大きい。実力差があるから余裕が持てるという場合もあるのだろうが、あってもなお巧くできない人がいるわけだから、そんなに単純なものでもないのだろう。しかし、勝ったときの言葉の反応には世代間の違いが大きく現れることがあり、それを見せつけられるとつい新人類と考えたくなるのではないだろうか。実際に心の奥底で蠢いているものにはほとんど変化なくても、その表現が違ってしまうとこれほどまでに違うものかと思わされる。ただ、その昔連勝を続けた体操選手の精神力と、今久しぶりに勝った選手の精神力にそんなに違いがあるようには思えない。練習を積めば自然にできるようになると言えるのは、いつの時代も変わらぬ心の問題なのだ。

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8月16日(月)−予想外

 寒冷前線が下りてきて寒気が入ってきたせいで、真夏日の連続記録が途切れたところも多かったのではないだろうか。それにしても10℃以上の差があると、涼しくて過ごしやすいのを通り越して寒く感じてしまうのは、体の温度感覚が相対的なものを測っていて絶対的なものを測っていないことを示しているのだろう。
 温度計はその時の気温をきちんと測定する。だから絶対的なものを測っているわけだが、体の方はそうでもない。たとえば、今回のように急激に気温が下がったり、真冬に少し気温の高い日が来ると、実際の温度差よりも大きな違いに感じられることが多い。真冬の10℃は暖かく感じられるのに、真夏の20℃は寒く感じられる。体内で何かが作用して寒さ、暑さを和らげるような機能があるからなのだろうが、予期せぬ動きがあったときには極端な反応が出てしまうようだ。特に急激な変化にはついていけないことが多く、季節の変わり目に体調を崩すのもそんなところに原因があるのだろう。これらは一種の慣れのようなものだろうが、体そのものの作用であって心理的なものは入っていないようだ。でも何となく心理的な作用とよく似たところがあって面白いと思う。こうなるはずと思い込んでいたことが外れたとき、人間の反応はかなり極端になる。こんなはずではなかったという言い訳がよく聞かれるのもこういったときだ。しかし、予想外というのは本人の問題であって、実際にまったく予想できなかったものかと言えばそうでないことが多い。確率で論じることが正しいかどうかは別にして、結構高い率で起きそうなことまではずはないとしてかたづけていることもある。一方、相対値で物事を考えようとするのも心理的な要素が大きいのではないだろうか。プラスの変化とマイナスの変化、身長はプラスしかないようだが子供の成長では喜びに結びつく。しかし、体重の方は悲喜こもごもといった感じだ。その時その時の都合によって反応はバラバラ、しかし変化に対してのみ反応する。更に複雑なものに変化の変化というものがある。経済の成長率はそのものが変化であるのに、更にその変化を論じたりするから話がややこしくなる。成長が鈍化してきたとか、回復してきたとかという話は、単に成長率そのものを相手にしているのではなく、それが更に伸びているかを論じている。少し考えれば身長と同じように経済成長には限りがあり、そこに近づいていけば成長率も鈍るのが当然であることはわかりそうである。しかし、どこかに違った心理が働いているようでそこには限界は無いと思い込んでしまうことがしばしばあるようだ。一方で痛い目を経験したあとでは、少し違った方向に心理が働くことがある。様々なことにプラス思考が働かず、何事にも悲観的な見方が優先されるのだ。これらはすべて心理的なものからやって来るわけで、数字としては変わらないものである場合を指している。同じ数字を見ても、その時の見方、心理状態によってまったく逆方向の解釈ができる。数字の操作そのものによってもこういうことが可能だが、操作なしの場合でも容易にできることが面白い。同じ数値、同じ変化率、同じ状況でも違う解釈が可能だというのは、結局一見同じようなことが起きても違う結果が生まれることを示しているのだろう。心理というかたづけ方もできるのだが、そうでない要因があることもこんな反応を生む原因になっているのだろう。予想外の成長だったと言うときの予想はどこから来たのか、そんなことだけでも既に状況の違いを産んでいるのだろうから。

(since 2002/4/3)