インターネットが普及してきたときに次のような感想を漏らす人がいた。いろんな情報源に接続できるから、まるで世界中の図書館に行くことができるようなものだ、と。当時、専門家と呼ばれる人々が自身のホームページを開設するようになり、彼らの知識に書籍という形でなくても触れることができるようになったからだ。
これは革命的なもので、知識に飢えた人々にとっては朗報だった。その後の展開においても、情報交換の道具としてネットを使うようになり、目の前での講義ではなく、画面を通した講義を特別な設備もなく受けられるようになった。これによりそれまで障害となっていた物理的な距離が縮まり、接続可能な範囲がすべて教室となった。教育を受けるという意味でこの改革はとても大きな影響を及ぼした。しかし、陽があれば必ず陰があるもので、必要な情報が流れるようになると同時に不要な、偽の情報も流れるようになった。ある時点からは限りのある陽より、限りの無い陰の方が多数を占めるようになり、悪い面ばかりが目立つようになったが、だからといって得られる利益が小さくなるわけではない。こんな状況になればなるほど、道具は使いようということが明確になり、活用の仕方が重要になる。巷に溢れる情報は個人のサイトにもネット掲示板にもどこにも存在するが、その真偽の判断は受け手に委ねられている。間違った理論、間違った考え、とんでもない話などをまとめたものとして、トンデモ本というものがあり出版されているが、それらに接する機会はネット上のトンデモ話に比べるとずっと少ない感じがする。昔から新しい理論を発表して、学会で総すかんをくらう人々はたくさんいるけれども、ネット社会はそういう人々も暖かく迎え入れてくれる。自己主張の場としては、認知の有無さえ考えなければ、格好のものとなっている。有名無名に関係なく、文字の形で発表できるのだから、書籍に比べたらはるかに平等な世界と言えるのかも知れない。ただし、知識や理論を発表する場に平等という考えが適用できるかどうかは大きな問題である。そういう中では何度も繰り返すことになるが、送り手ではなく受け手にいろんな責任が覆いかぶさってくる。一方でちょっと面白いと思うのは、これまでならば接することもなかった書籍にネット上で出合うことがあることだ。調べものをするためにネット検索をしていると、いろんな文章に出くわす。その中にはいい加減なものも多く読みながら辟易としてしまうが、それがある有名な人が書いた書籍のコピーだったりするから驚きだ。本になっているものは確かなものという先入観があるが、こういうこともある。種々雑多な文章に溢れたネット世界では、読み手に吟味力が要求される。一方で、情報源に飢えた人々にとっては、ネットは宝の山に映るのかも知れない。ただ、最近の動向を窺うと、宝石かただの石かの判断もなしに、丸写しに励む人々が増えている。文章の権利が主張されていなければ、何をしてもよいとでも言うのだろうか、その行為が無能さを表す指標であることに気づかぬ人が多い。新聞の投書欄にもそんなものが増えていると聞くが、吟味をする側にも今迄とは違う能力が要求されているようだ。ネット上の文章の盗用は検索によって多くの場合防げるはずで、その段階を含めるべきだろう。まあ、吟味能力が不足している人による盗作は所詮ゴミを生み出すだけなのだろうが。
同じような話題を続けると読むほうも飽きてくるのかも知れない。書くほうはネタが尽きないかぎり書き続けられるのだが、読むほうにはおんなじ話ばかりと思えてしまうのだろう。同じような話が多方面から出てくるということだけでも、実社会におけるネット社会の存在の大きさが想像できるし、仮想とばかり言っていられない状況であることも理解できる。
インターネットはいろんな面で恩恵に浴すことがあるのは事実で、その力は予想以上に大きいものと認識され始めている。しかし、明るい面がある一方で暗い面も当然存在する。ネット上に存在するもの自体が暗い面をもつ場合もあるが、それとは少し違って受け手によって明暗が分かれるものもある。中でも噂話はインターネットという世界でその力を急激に増大させたものなのではないだろうか。近所の噂、職場の噂というように、噂話はその伝搬する範囲が限定されていた。ただ口伝てで広がる場合には特に少数の人々にしか伝わらないので、影響があったとしても大したことのないものとして受け取られていた。それが新聞、ラジオ、テレビという対象が多い媒体を通るようになると、急激に受け手の数が増大した。ただし、これらの媒体は関係者の管理の下に機能しているから、根も葉もない噂はそう簡単には取り上げられない。その辺りである程度の歯止めがかかっていると言われるわけだ。それでも、昔から変な噂が堂々と伝えられることがあり、情報源を漏らさないという事情も手伝って、大きな影響を与えた噂話が流れたこともあったらしい。歯止めがかかる状況でもそんなものだから、ネットのように発信自由、受信自由という状況では、根も葉もない噂話が何らかの思惑に基づいて流されることは当然のことかも知れない。それにしても悪質なものが多いと思うのだが、これらを取捨選択するのは現状では受け手の責任とされる。何か問題が生じた場合にはいろんな措置がなされるが、信じるか信じないか、始めのところでの判断は個人がするしかない。根も葉もないものどころか、最近では少年犯罪の関係者の実名が堂々と載せられたり、写真が出てきたりする。確かにそこに載せられている人物が犯罪を犯したのだろうが、実名を伏せる措置をとる理由はそういうことをする人々にとっては意味をなさないものなのだろう。これまた、そういう名前を見て何かをするかどうかは、それを読んでいる人々に判断がまかされる。何とも無責任に思える状況だが、自由を謳歌するためには必要不可欠なものなのだろう。こういうことが変な方向に働いてしまえば、個人攻撃などが巷に溢れるようになり、そのための強力な手段としてインターネットが使われることになる。まさに両刃の剣と表現すればそれでいいと言えるのかも知れないが、殺人などの重大犯罪に関係してしまうとそんな言葉だけで済ませてしまうのはおかしな気もしてくる。幼い頃からそういうことへの対処の仕方を教えるべきという意見も出ているが、今更何をと思えるところもある。ネットだからと特別視して、その扱いも特別なものがあるように受け取る向きもあるが、ごく普通の個と個の関わりとの違いがそんなに大きいとも思えない。不特定を対象としたものと特定の関わりとを同じとは見做せないと言われるかも知れないが、そんなに簡単に線引きができるのだろうか。目の前の血の通った個人とうまく関われない人間が、画面の向こうの姿の見えない多数と付き合う方法があると思えないからだ。前者を克服してもなお、後者に困難が伴うとなれば話は違ってくるのだろうが。
ホームページの管理ソフトに不具合が出ていると面倒なことばかりになる。管理サイトには繋がるのだが、肝心のファイルを開くことができない。そうなるといつものようにはいかないから、ファイル転送ソフトを使わざるを得ない。いつものやり方ができないと何となく面倒になるが、別の方法があるだけでも良いとするか。
連日ネット社会のことを書いているが、自己主張のできる場を提供するという意味でネットの功績は大きいだろう。一般の人々にとっては本を書くことは自主出版以外にはあり得ないし、新聞の投書欄でもそう簡単に掲載されることはない。それに比べれば、ネット掲示板は誰のどんな意見でも載るから、日頃から一言二言言いたいと思っている人にとっては魅力的な場となる。もう少し気合いが乗ってくると自らホームページを開設して、その中で自分の意見を展開させるようになる。こちらの方は他人の意見など無視できるから、唯我独尊の人にとっても自己主張に適した場になるだろう。掲示板は一方的な意見を述べる人がいるとはいえ、意見交換の場を提供しているから、うまく活かすことができれば議論の技術を高めることも可能であろう。しかし、ベストセラーになった本にあるように、根本的なところで相互理解が起こらないとすれば、そんな場は単なる欲求不満のはけ口にしかならないし、意見交換とは名ばかりの喚き合いの場となる。喚き合うことが得意であり、そのこと自体になんら抵抗も感じず、相手の言葉に傷つけられることもない人々にとっては、相手の顔を見なくて済む、匿名性の保たれた社会は好都合と言えるだろう。そんな人々ばかりであれば、実社会でたまりたまった鬱憤をこういう仮想社会で吐き出すことによって、実社会での行動が正常化できることになり、いろんな意味で良い結果を生みだすことになるかも知れないが、実際にはそうなっていないことが多い。ネット上で浴びせられた罵声に即座に反応することによって興奮状態が急激に高まる場合もあるし、一方で実社会同様罵声に対して落ち込み、精神的不安定に陥る場合もある。そんな人々が不満を漏らすと必ずと言っていいほど、無視することが大切とか、読み飛ばせばいいとかいう助言が流れる。確かにその通りであり、それができれば不安にはならずに済む。しかし、実際にはそうならないことばかりで、相手の言葉が気になる人にとっては次の発言も気になる対象となり、結局無視できずに覗いてしまい、気落ちするという図式が繰り返される。そういう人と実社会で接している人々はネット社会との関わりを断ちきることを勧めることもあるようだが、そういう人に限ってその意味を理解できず、いつまでもそこに留まることになる。たとえそれが病状を悪化させることがわかっていても、どうにも止められないのが現状であり、無限ループを落ちていくことになる。自己責任といえばそれまでだが、さてどうしたら良いのだろうか。答えは本人にしか見出せないものであり、テレビゲームに取り憑かれてしまった人々同様、何とか生き返る人もいれば、そうでない結末を迎えてしまう人もいる。そうなってしまったら、いろんな意味で難しいことばかりになりそうだ。それにしても、言葉で傷つけ、傷つく人々は、どんな感覚を持っているのだろう。そういう流れを読むたびに感じるのは、多くの場合言葉そのものの意味よりも更にその裏にあるものを見ようとする心が働いているように見えることだ。確かに元々の言葉は他人が発したものだが、それが直接傷つけるほどのものでなくても、傷つく形に変換するのは本人であることが多い。実社会での会話の難しさを実感しているのなら、仮想社会ではもっと気をつけたほうがよさそうである。
子供の頃、触っちゃいけないと言われるとつい触りたくなるとか、開けちゃいけないと言われるとつい開けたくなるとか、そんなことが何度もあったのではないだろうか。それとも聞き分けの良い子で、親の言うことはきちんと守るという子供だったろうか。してはいけないという言葉はその目的とは正反対に興味を呼び覚ます効果をもっているようだ。
しかし、大人になってもそういう性向が残っている人も多いのではないだろうか。大抵のことは歯止めがきいていて何とか思いとどまることができるが、誰も見ていないことがわかっているとついそんな気持ちが出てくる。わざわざ隠れなくてもそんなことができる場面はたくさんあるが、やってしまってから後悔することもあるだろう。実社会ではいろんな人々との関わりが現実のものとしてあるから、中々自分だけの世界には入れないだろうし、入ってしまうと出てこれなくなっておかしなことになることがある。それに対してネット社会では端から虚構の世界であり、仮想社会だから何をしても大したことのないような気がしている。ところが実際にはそういう仮想空間に入り込んで出てこられなくなっている人がいるようだ。肉体的には現実空間に存在しているから、どこかに幽閉されているとは言えないのかも知れないが、精神的な意味でのことである。現実社会での引きこもりが問題視されているとはいえ、仮想空間での精神的な引きこもりはあまり問題視されていない。とは言え、ゲームに取り憑かれる人々と同じような形で、ネット社会に入り浸り、中々外の現実社会に出てこない人がいるようで、逆の見方から引きこもり傾向にある人が何らかの形で他の人々と接触できているのだから良いのだとする見解もある。この辺りの見方の違いはその後の展開やものの進め方に大きな違いを生み出すが、実際にはそれほど大きく取り上げられることもなく、ネット社会の拡大が続くことで当り前のことと片付けられるようになっているのではないだろうか。精神的な不安定を抱える人々にとって、こういう閉鎖社会が救いとなるかどうかは明らかでないし、逆効果とする向きもあるくらいだから、何とも言えない。しかし、現実には目の前に仮想空間が存在しており、そこでは同じ悩みを抱える人々との交流が可能となるとなれば、つい手を出したくなるのも無理はない。ただ、実社会で他人の言葉に敏感になる人々が、ネット社会での言葉には無関心でいられるわけもなく、同時進行でなく時間差進行である状況を考えればさらに複雑な状態に追い込まれる可能性がある。安定に一役買う場合も多いのだろうが、かえって逆効果になり不安定を引き起こすとなれば、本来ならばそこを避け、引きこもるという自衛行動が起こるはずである。しかし、問題となる社会への入り口はすぐそこにあり、つい手を伸ばしてしまえば、また傷つく機会を自ら招くことになるわけで避けがたい状況を生み出す結果となる。手軽なものほどそういう傾向があるわけで、だからこそ覗きたいという欲求を断ち切ることができなければ悪い結果を生み出す可能性が大きい。決断できない人が悪いのだとするのは簡単なことなのだが、本人にとってはそういうわけにもいかない。目の前に展開される会話や飛び交う言葉が自分を攻撃するものと思い込み始めたら、その呪縛を解くことは難しいのだろう。単なる掲示板のやり取りだけでもそんな雰囲気が漂っているわけで、そういう人々が集まる場所ではどんなことが起きているのか想像できない。こういうのも便利の一つであり、その影響は良いほうにも悪いほうにもあるものだ。読まねばいいというのは簡単だが、だからといって相手を傷つける書き込みを繰り返す人々が正当化されるわけもない。単純な答えは寄らず触らずしかないのかも知れぬ。
巷には何やら詐欺というものが溢れているようだ。新聞、テレビ、あらゆるところでその実態を報告し、警告しているが、そういう番組の数が減らないところをみると、犯罪そのものの数が減っていないのに違いない。親族の名を騙って金を巻き上げる詐欺、公的機関の名を騙る詐欺、相変わらずの恐喝を基本とした詐欺、どれもこれも下らないものだ。
こういうことに関わる人々の考え方の基礎にあるのは、騙されるやつが悪いというもの。自らの犯罪を正当化しようというのか、まったくどこまで堕ちれば気が済むのだろう。もう一つ、重要な要素となっているのは金に対する考え方だろう。金の無いやつは何も言う資格がないと思い込まされた時代から、物の価値が暴落して金に走る時代に移り、元々金至上主義に育った人々にとっては、何を失おうと金さえ手に入れば文句は言わないとなるのは自明のことかも知れない。それにしても、犯罪が犯罪と認識されない状況では大抵の対策が徒労に終わる。詐欺の主体となるものは次から次へと名前を変え、新種の手法が開発される。犯罪とは元々そういう類いのもので、対策を練ってもその網をかいくぐる方法はいくらでもあるらしい。手の込んだことをしなくても、ただそれらしい葉書や手紙を出すだけでそれなりの反応が返ってくるし、電話も同じことである。一つの詐欺で10万円を騙し取れるのなら、葉書では2000通、電話ならそれ以上の回数試すことができる。金額が増せばそれだけ試行数が増やせるわけで、そんなことを考えると恐ろしくなる。でも、これは普通の製品のテレビや新聞の広告や手紙による宣伝と基本的な仕組は変わらないのであり、そこに詐欺行為が存在するかどうかの違いがあるだけだ。詐欺そのものに良いも悪いもないのだが、最近はこれを上回る形の詐欺行為が目立ち始めた。ネット社会特有のものといってしまえばそれまでだが、電子メールを使った詐欺広告である。ウィルスメールでもわかるように、発信者を特定するのは素人には難しい。だから、詐欺メールが届いたとしてもその発信元は特定されないことが多い。これは、番号表示式の電話で無表示の電話を受け取るようなものであり、詐欺を行う者にとっては好都合と言える。特定の送り先が必要であると言っても、最近はそういうアドレスを作り出すソフトも出回っており、それを使って絨毯爆撃のようなメール送付を繰り返す。以前、携帯メールで問題になったあと対策が講じられたようで、その辺りは静かになったようだが、まだこの手法は生き残っているようだ。もっとネット特有と言えそうなのは、ネット上の掲示板を利用した広告である。これ自体は詐欺かどうか決められないところだが、多くの人々が書き込みをするネット掲示板には毎日のように広告としてのお勧めが書き込まれている。一説にはこれらはバイトを雇ってのものという話もあるが、その真偽は定かではない。管理者もある程度の対策を講じるのだろうが、手間をかけても何も得るものが無いということもあり、絶えることなく続いているのが現状である。それを見る人の数からいえばかなりのものであり、新聞やテレビの広告料から考えればとんでもない金が絡むべきものである。しかし、不特定の人間による絨毯爆撃では訴訟騒ぎになるはずもなく、当事者も被害者を装えばいいわけだから何ともならない。自動検索による自動削除という方法もあるはずだが、きりのないことのようだ。ネット社会はバーチャルだからという意見を出す人もいるが、このところの流れを見るかぎりこういう考えは当てはまらないと思う。早晩、同じような行為が実社会にも登場するだろう。現実と仮想の区別のつかない人間が増えているのは、確かなようだ。
ネット掲示板に対する規制が厳しくなりつつある。はっきり言えば野放し状態であり、何がどのように書かれていてもお咎めなしというのが実情だから、少しでも制限をかければ厳しさが増すとなるのは当り前のことだ。だからといって、何故そうなるのかを考えなくても良いのかとは言えないと思う。仕方がないとか、どうしようもないで済まされぬこともあるのだろう。
たとえばある個人に恨みを抱いて、脅迫状を送り付けるとか、無言電話を繰り返すとかという行為をすれば、現行法では罰せられることになっている。しかし、ネット社会ではそうなっていないことが多かった。個人の情報に関して、管理者はそれらを部外者に漏らさない義務があるといった雰囲気があり、また接続方法を工夫することで特定されないような努力をする人もあり、重大と考えられるもの以外は放置していたと言うべきなのかも知れない。それだけではないのかも知れないが、悪質なものが氾濫し始め、重大性だけを論じていては底辺の広がりを防げないという危惧も出始めたようだ。しかし、ネット社会では特定の個人を対象にした特定の個人からの攻撃というものはどちらかといえば少数派だろう。実際には、見ず知らずの人間に向かって罵倒するとか、罵声を浴びせるとか、人権蹂躙に近い行為に出る場合の方がはるかに多くあるようだ。面と向かって言えないことを、キーボードには入力できるというのは、いかにも心に問題を抱えた人々のやりそうなことだが、月並みな表現で言えば欲求不満のはけ口を求めた結果と言えそうな具合だ。不特定の個人を不特定の個人が攻撃するというのはいまだかつて存在したことのない図式だから、こういう行為への対応にはこれといった絶対的手法は見出されていない。一つ一つの場合に、細かく対応し、処分していくしかないようで、法律上も整えられていない部分があり、どこをどう適用すべきかがはっきりしていない。だからといってこういう行為は許されるものではなく、関わった人々は攻撃する側とされる側の両方に立ってみて、どんな印象を受けるのかを考えねばならないと思う。一般社会とまったく同じことが展開されるのは、議論の場としては当り前のことかも知れないが、批判する立場が圧倒的に有利になる。ネットでは特に同時進行にならないこともあり、提案と批判が交互に戦わされたときに、どうしても提案側に不利に働くことが多いようだ。これはディベートと同じ状況に追い込まれているからで、立場を入れ替わることが重要な要素となる。賛成、反対の立場という意味ではなく、提案、批判の立場の意味で、提案側が専ら提案とその守りにつくのではなく、時に批判側に提案を要求するのである。総じて何の反応も返ってこないが、それは批判側に立つ人々の問題意識に欠如する部分があるからだろう。同じようなことは、質問と回答という立場にも現れ、常に質問する立場に居続けようとする人がいる。この辺りは、実社会よりもネット社会の時間差対応により鮮明に出てくるようで、傍目には不公平感が感じられる。これらのことは規制をかけようがかけまいが影響されることはなく、関わる人々の感覚の問題によることである。ネット社会の普及がここまで及んでくると、実社会との境がはっきりしなくなる人も出てくるだろうから、人の感覚だからどうにもならぬと放置するわけにもいかないだろう。まるで子供たちだけの問題のように論じる人もいるが、ネット上では口の立つ幼児としか思えない人々が溢れている。手遅れとかたづけるのも一つの手だろうが、何か妙案はないのだろうか。
量の問題もあるが、嵩張るとか重いとかそんな理由からだろうか、ビール瓶を自宅で見かけることはほとんど無くなった。確かに酒屋の数が制限されていた時代と違い、いろんな店で売られるようになったし、量販店も増えている。その代わり、以前のように酒屋が配達という形式はほとんど見かけなくなった。自由化の影響はいろんな形で出るようだ。
ビール瓶からビールを注いでいた頃は、瓶の形が微妙に違っていることに気がつくこともあった。ある会社のラベルが貼ってあっても、瓶の肩のところの刻印のようなものは違う会社だったりした。これはガラス瓶が再利用されていたからで、酒屋が瓶を回収するときに違う会社の瓶を選り分けなかったために、起きたことなのだろう。始めのところできちんと分別しなければ、あとの洗浄などの処理はある程度規格の揃った瓶であれば違いは出てこない。そのためいろんな会社のちょっと形の違った瓶が混在した形で利用されることとなる。容量はまったく同じはずだから都合の悪いところは出てこないし、口のところも直径が違うわけでもない。肩のところの刻印とラベルに違いがあるのはある意味滑稽だが、一方でちゃんと再利用されていることを表していたのだろう。それに比べると缶ビールの缶は再利用されているはずだが、そんな痕跡はどこにも出てこない。熔解して、再度整形するからなのだろうが、ラベルの付け方にも大きな違いがあり、瓶のようなやり方は通用しないからだろう。最近は再利用とは言わずにリサイクルと呼ばれるようだが、この辺り微妙な意味の違いがありそうだ。瓶の再利用ではそれをそのままの形で洗浄して使うという意味で再利用と言われていたが、アルミ缶の場合そうではない。材料として使い、用途も同じままだから、意味的には再利用に近いが厳密にはそうならないのだ。更に意味の違いが大きくなるのは、ペットボトルではないだろうか。PETとは、PolyEthylene Terephthalateという樹脂の名前の略号だが、舌を噛みそうだから略号は確かにありがたい。そういう石油製品で作られた瓶は今や店頭に並ぶ瓶詰め商品の大半を占めるものとなっている。そこまで溢れてくると石油製品の基本が使い捨てだったとはいえ、ゴミ問題なども出てきて放置できなくなった。そこでリサイクル問題が出てきたわけだが、使用済みのボトルを回収する作業だけでもかなりの手間がかかるわけだから、当初はいろんな問題が山積していたようだ。最近は自治体の努力もあって、リサイクルの回転もかなり滑らかになってきた。ところがここで気になることがある。ペットボトルがペットボトルに生まれ変わることはほとんど無いということである。たぶん食品に関する規制があるからだろうが、元々飲料水が詰まっていたボトルが再び飲料水を詰められるようにはならないようだ。その代わりに洗剤の瓶になったり、合成繊維として再生され、服に変わるようだ。これでは用途からしてまったく違ったものになってしまう再利用で、以前の再利用という考えとは大きくかけ離れたものになっている。そのせいか、あるいはカタカナ好きな国民性のせいか、リサイクルの方が今や当り前の言葉となってしまった。こんな形で、回収、洗浄、再生という過程がそれぞれ問題なく進められるようになって、リサイクル自体はきちんと機能している。しかし、飲料用のペットボトルの生産は増加し続けるしかない。何しろ、再利用ではだめなようだから。一方で、こういうリサイクル機構の中に、お隣の大国からの進出が目立ち始めたという話がある。石油から作るより、再生するほうがコストがかからないということから、ペットボトル大国に目をつけてきたということだろう。システムを動かすために重要だった無料引き取りが売れるとなれば、誰だってありがたいから当然の帰結かも知れないが、さてどんな変化が生まれるのだろうか。