パンチの独り言

(2004年8月30日〜9月5日)
(邪魔、治水、飴と鞭、通勤、噴火、異才、親子)



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9月5日(日)−親子

 イジメ、学級崩壊など教育現場の問題が大きく取り上げられるようになってから、もう既に20年以上経過するのではないだろうか。その後の展開を眺めていても根本的な解決は見つからず、いつまでも暗中模索が続いているように見える。関係する人々はそれぞれに努力、研鑽して、いろいろな対策が講じられてきたが、どこか肝心なところが外れてしまったみたいだ。
 先日も教育関係の番組が流れていた。ある高校教師の話で、普通科の教師から定時制に移り、夜の街で荒れる子供たちに手を差し延べようとする活動が評価されているようだ。子供たちにとっても、荒れる子を持つ親にとっても、そうでない親にとっても、話がわかりやすく、未然に防ぐための手段や荒れる子供たちへの対応を紹介してくれるから、色んなところから引っ張りだこになっているようだ。また、相談室のようなものを開設し、子供たちからの疑問や相談に応じているから、一部の人々にとっては無くてはならない存在となっているようである。彼が紹介する生徒たちの周囲に存在する薬物問題の現状は耳を疑うほどひどいものだったが、土地によってはそんなところまで達しているのかもしれない。機会とは良いも悪いも環境によるところが大きいから、麻薬、覚せい剤などの薬物と出あうきっかけに関しても、どこに住み、どこをうろつくかということが大きく影響する。しかし、4人に一人はと言われて意外に思ってしまうのは、どこか別の世界に住んでいるからとするには無理がありそうに思う。とにかく、そんな環境に置かれた子供たちを何とか救い出そうと活動しているわけで、薬物中毒の子供との接触も多い。そういう例を目の当たりにして、そこに行き着かないためにはどうすればいいのかを考え、これからの子供たちに警告を発するのも活動の一つであるわけだ。実例を挙げ、具体的な対策を伝授し、何とか道を外さないようにというのだが、効果はどの程度上がっているのか知る由もない。いずれにしても様々な要因が複雑に入り組んだ結果起きたものもあり、まったく単純な形で被害者になる例もあり、簡単にまとめられるものでないから難しいのだろう。ただ、肝心なこととして強調されていたのは、大人たちの責任、それも親だけでない周囲にいるすべての大人たちが子供たちに関わりを持つことの大切さだった。近所のおじさんおばさんの話がそこに結びつくかどうかわからないが、近所づきあいの希薄さが問題視され始めた頃からイジメなどの問題も大きく取り上げられていたようだから、何かしらの結びつきはあるのかもしれない。確かに内と外がはっきりと区別されるようになり、内のことに外からは口出ししないという暗黙の了解がおかれてしまい、関わりは希薄化してしまった。さて、そんな状況になってから果たしてどんな形で緊密さが回復されるのか、すぐには思いつかない。これも難しい問題のようだ。一つ気になったのは、家庭教育の強調に対する危惧の意見で、家庭だけに責任を負わせたら家庭環境に恵まれない子供たちの行き場が無くなるというのが理由だった。確かに、子供の立場に立てばそうなるのかもしれない。しかし、親の立場から見たらどうだろうか。親が家庭教育を重視しなかったら、何が起こるのだろうか。あらゆる観点からの意見を集約させることは難しいが、意見のないところには何も起きない。否定的な意見がある意見を出すために必要なことはわからなくもないが、根本にある要素を揃えてこそ次の段階が迎えられることは確かだ。たぶん、元々の考えは違うところにあるのだろうが、編集されたものではそれが見えなくなる。社会からの働きかけは必要ないというのではなく、こういう考えもあると認めたうえで、再び家庭教育の重要性を強調すべきだと思う。

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9月4日(土)−異才

 オリンピックのような大会があるとつくづく思うことがある。やはり才能が重要であるということだ。努力が必要と言われても、あそこまで行くためにはやはりその下地となる才能がなければ不可能と思う人は多いのではないか。一つの問題はすべての運動に才能を持つ人は少なく、たまたまの偶然にしろ、才能がぴたりと嵌まるものに出合うことなのだろう。
 人間は皆同程度の才能を持って生まれてくるという意見をよく聞くことがある。どこからそんな考えが出てきたのか、たぶんそういう意見を言う人それぞれに違うのだろう。それにしても、運動の上手い下手にこれほどの差があることをどう説明するのだろうか。よく言われるのは、世界一とかある国で一番とかトップになるためには才能が不可欠だが、何かができるできない程度のことならば皆それなりの才能を持ちあわせているはずであるというものだ。何となく受け入れそうになるが、それにしても学校で駆けっこさえあれほどの差が出るのは何故かと思う。差を表に出してはいけないという考えが一部で尊重されたころ、運動会で皆一等賞というわけのわからないことが起きていたようだが、この辺りの考えは才能云々の話と繋がるところがあるのかもしれない。それでも最近ではさすがに差がないとか皆同じと叫び続けることが無駄と感じられるようになったのか、へんてこな平等主義はどこかに忘れ去られてしまったようだ。ひと目で明らかなほどの差を生み出し、少しくらいの努力では何ともならないことが明らかな運動能力に関しては、目くじらを立てて同じであることを主張する人はいなくなったが、別の能力に関してはまだまだそういう考えを出してくる人が多いように思う。体育の時間は学校で週に二三回であるのに対して、他の勉強の時間は残りのすべてであるから、そちらの方の平等主義はまだ根強く残っているように思える。誰でも一流大学に合格できるという主張はこの考えに基づくものとして紹介されることもあるが、実際にはずれている点もあってそのまま鵜呑みにはできない。まあ、とにかく、誰でも学校の勉強はすべて解るはずと言われてしまうと中々反論しにくい面もある。解らないのは教え方が悪いからという理由がつくのも、こういう主張をする人たちに有利なところだ。こんな考えに基づけば当然すべての生徒が解るまでという考えも生まれ、解らないものを教えてはならないとするちょっと話が違うのではないかと思えるような論理が展開される場合もある。てなことで、教科書は薄くなり、教える項目が減り、知らないことが増え、困ったとぼやく人が増える。どこでずれてしまったのかそんな風潮があり、そろそろ考え直すべき時が来ているのかもしれない。根底にあるのが才能云々の問題なのかは明確でないが、少なくとも何らかの歪みが生じているのは明らかで、それを修正するための手だてが講じられるべきだろう。皆に解りやすくという考えが教える側から出てくることはよいことだろうが、皆が理解すべきとなるとちょっと行き過ぎとなる。でなければ、という主張はとても強いものになるし、とても意味のあるもののように見えるが、実際には強く制限をかけるものであり、歪みを大きくする原因ともなる。同じとか平等とか言う前に、違いの存在を認めるべきだと思うし、それがあったうえで同等にするためにはどうするのかを考えるべきだろう。元々同質社会であったところへ、異質なものが混合した社会で生まれた皆が同じ才能を持つはずという考えが入り込んできた。当初はいかにも魅力的なものに見えたが、最近は歪みばかりが目立つようになりつつある。下地の違うところで違う結果が生まれるのは当たり前だが、その原因はどこにあったのか、未だに考えもしない人々がいるようだ。

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9月3日(金)−噴火

 天変地異に対して人間は無力なものである。様々な対策がとられ、準備がなされ、予兆を捉えようと努力しても、それ自体が起きないようにしないかぎり、何らかの被害が生じてしまう。昔の人々は山や海には神がいて、その怒りが天変地異の形で現れているのだから、それを鎮めるために何かを祀るというのも、無力の現れだったのだろう。
 それにしても、よりによって地震対策の一大事が行われた日に噴火が起こるとは偶然というものは恐ろしい。地震予知はこの国特有のものとなりつつあり、予知よりも地震後の対策に力を入れるところが増えているようだが、それでも意味がないわけではないだろう。しかし、その訓練が行われた日に噴火が起きるとなると、同じような形で予知の整備が行われているから、かなり気になるところだ。実際にはある程度の予兆があり、その兆しに対して注意を喚起する動きもあったそうだが、噴火という形で現れるとは予想していなかったらしい。兆しが確かに現れたとしても、それがどんな結果に結びつくのかがわからないと予知は難しくなる。しかし、以前の出来事の予兆と現在観測されているものが結びつけられないことが多いだろうから、経験を基礎にすることも難しいようだ。だからといって、予知は無理と結論づけるのはあまりにも軽率だろうから、何とかうまい結びつけ方を考えねばならないのだろう。今回の噴火は、単純に予知の難しさを示しただけでなく、これと同様に地震に関しても予兆が現れたときにどんなところまで警告を発するべきなのかといった人々にとって最も重要な部分の判断の難しさを示していたのだと思う。たまたまなのか、この程度がせいぜいだったのか、噴火の規模は大したこともなく、被害も少なくて済んだようだが、以前の噴火でかなりの被害者を出したことのある山だけに、影響がかなりありそうだ。天変地異と言ってもどこかに兆しのあるものらしく、あとで考えてみたらあれがそうだったという話はいくらでも出てくる。しかし、事前に気がつかなければ予知というものには役に立たず、なるべく数字の形で出てくるものを指標に使うようだ。それでも、どの数値がどう変化したらどの程度のことが起きるのかというデータがほとんどない状態では、難しいというしかないだろう。積み重ねが大切なのもよくわかるが、今このときの被害を減らすために、今を積み重ねの一つにするわけにもいかないから、更に難しいことになる。まあ、関係者達はその辺りの事情も理解した上で仕事に携わっているのだから、何とかなるのだろうが、期待するだけの人々にとってはそれでは困るとなる。今回の噴火はその辺りの心情や事情を色々と考えさせられる出来事だったと言えるし、それがあの日に起きたことも強い印象を残すのに役立ったのかも知れない。

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9月2日(木)−通勤

 朝の通勤時には皆急いでいる。駅もごった返しているが、道路もかなりのものだ。さすがに勝手な方向に走る車はいないが、歩行者や自転車のように法律での規制がはっきりしていないものに関しては、勝手な行動が目立つような気がする。自分さえよければという考えもあるのだろうが、もう一つ自分は大丈夫という考えが大きいように見える。
 信号無視をする歩行者や自転車は、安全確認をしているから問題なしと思っているのではないか。自分は全体の流れに逆らっても、車はそうならないはずだから、という思いこみに基づいた行動は安全とは言いがたい。車から見ていて特に怖いと思うのは自転車の逆走である。高校生が主体となっているが、朝の通勤、通学時にはかなりの数の自転車の通行がある。軽車両に分類される乗り物だが、歩道が通行可能になっているところもあり、左側を走行しなければならないという基本を無視する人々がいる。歩道を走るかぎり、どちら向きに走ってもよいと思っているから、同じところを行き来する歩行者はとても怖い思いをする。そういう行動がさらにひどくなると、車道でも同じことをするようだ。車に向かって走ってくる自転車は運転をする者にとっては予測不能の動きをする障害物となり、左側通行をする自転車とすれ違うときにははみ出し通行をせざるを得ないから、目の前に飛びだしてくる無法者を避ける準備をしなければならない。こういう行動をする人々の心情は明らかで、自分はきちんとわかっており、安全を確保していて、中には反対側を走らないのは後から車が来るのが怖いというものまである。まあ、色んな考えがあるのだろうが、規則がどういう経緯で定められているのかを考えるべきということが何故世の中全般にあるのかを考えて欲しい。自分は大丈夫という考えは、規則を破る人々の基本的な考え方のようで、時代の移り変わりにもあまり変わっていない。そればかりか、この傾向はさらに強いものとなっていて、何かが起きても責任問題を真面目に考えられない人が多くなっている。暴走族は別の人々に対する呼称だが、まるでそう呼びたくなるような自転車走行者を毎朝見かけるとちょっと嫌な感じがしてくる。もう一つ忙しさを実感するのは、後を走る車の中を鏡で覗いたときだ。毎日とは言えないが、それが女性の場合にはかなりの率で自宅の鏡台の前での行動がそのまま繰り返される。車の中は一種の個室であり、誰からも見られない空間と思っているのかどうか、さてどんなものだろう。電車内での同様の行動に対する苦言が多くなっていることを考えると、見られることに対する無感覚がどこかに現れていると考えるべきなのかもしれない。そんな光景が展開され、やっとのことで終わったと思ったら、煙が出始める。朝の一仕事終えたということなのかもしれない。

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9月1日(水)−飴と鞭

 最近企業内で壊れてしまう人が多いと聞く。特に専門職というのだろうか、特殊な職場の人々に壊れる人が多いらしく、ちょっと気になるところのようだ。人間のことだから機械と違って壊れ方にも色々とあり、兆候も千差万別のようだから中々対策の立てられるものではない。また原因がはっきりせず、少しくらいの対策で何とかなるとも思えないようだ。
 こういう傾向は何も特殊な職場に限らず、企業全体に多くなっているようだし、それ以前にもそんな人が出ていると聞く。こんな様子を聞いていると、つい世の中にそういう類いの人々が増えているのかと思ってしまうのだが、そちらの方は定かではない。いろんな病名が出され、いろんな症状が問題視されるようになっているから、患者と呼ばれる人々の数は増えていそうだが、そうなると以前の資料との比較は難しいからだ。いずれにしても、そういう人を出さないための対策が必要なようだし、実際にそうしているところもあるのだと思う。ただ、壊れてしまった人を見るかぎり、責任のほとんど無い部署につかせる以外に方法はないように思えてしまう。実際には解雇などの措置をとる場合もあるのだろうが、症状の軽重によっては簡単には片付けられないのだろう。一方原因の追究も重要となるはずだが、こちらの方もまた簡単な話ではないようだ。最近変化したものであれば、その世代特有の何かがありそうだが、おいそれと特定できるものではないだろう。ちょっと気になるのは、このところの人の育て方として重要視されてきたことの中にある人を褒めることの大切さという点である。なるべく良いところを見つけて褒めてやることが人を育てるのに役立つと言われているが、褒められるだけで育った人が何かで挫折したり、怒られた場合にどんな反応を示すのか、ちょっと想像できない。悪い点があったとしてもその指摘は行わず、良い方向に向けてやることが大切となるのかもしれないが、場合によってはそうもいかないことがある。そこで仕方なく叱ることになるのだが、その時の対応に不可解なことがあることがある。どうやってそういう窮地を抜ければいいのかわからないのではないか、と思えるような雰囲気なのだ。当然解決策は本人からは出てこず、しばらくの間迷い悩む姿が見られる。その時期に何か対応があれば何とかなるのかもしれないが、ついそのままとなると壊れてしまうことがあるようだ。大したことの無い人が多いはずなのだが、どうもそうでもないのかもと思えるところもあるようだ。褒められ慣れた人々が増え、叱られ慣れてないとなると、さて、どんな対処方法が適切といえるのか、ちょっと考え込んでしまう。飴と鞭の飴ばかりが強調される時代だが、はたしてそれでいいのか、そろそろ考えてもいいころなのではないだろうか。鞭ばかりが強調された時代も歪んだものだったが、どちらか一つですべてが丸くおさまるとも思えない。バランスをとることが一番難しいのだろうが、強調しすぎないことくらいはできそうだ。では、そんな方向に向かわせるとしたら、どんなことから始めるのがいいのだろう。あるいは、まだ時期尚早というべきだろうか。何となく歪みがありそうだと思えるときに、そろそろ次の対策を考えておかないと、揺り戻しがかなりきつくなりそうだ。少し様子を見つつ、何かしら考えていくことが大事そうだ。

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8月31日(火)−治水

 猛暑だったせいか、この夏は集中豪雨やら台風やらが各所で暴れまくった。被害に遭った人々のその後の生活は悲惨なものだが、動きのとれぬ人間としてはその復旧に遠くの方から応援するくらいしかできない。元に戻すことはできず落胆しているのだろうが、そういう雰囲気は漂ってこない。人間の強さが感じられる光景だと思う。
 被害者の人々から見たら無責任な書き方になっていると思うが、風水害の跡を見て思うことがある。確かに甚大な被害が生じ、その場にいる人々は大きな損害を被ったと思うが、同じような風水害が起きたとき他の国ではどんな被害が広がるのだろうかと。洪水が度々起こることで有名なバングラデシュの状況は毎度毎度数十万人の被害者がでて、死者の数も尋常ではない。その上、衛生状態が元々悪いから、洪水後に生じる被害者の数がまた多いのだと思う。その点からすれば、かなり酷い状態に追い込まれると言ってもこの国ではそこまでのことは起きない。普段の生活水準の違いと言ってしまえばそれまでだが、天災による被害は直接的なものだけでなくこういった間接的なものの大きさが大きく影響するようだ。もう一つ、今年の例としては隣の大国での台風による被害の報告がある。こちらも100人を超える死者が出るとともに、避難した人の数は数十万人に及んでいる。どちらの国も人口が多いことやはるかに大きな川の流域であることなどから被害が大きくなっているのだろうが、治水整備などの問題も絡んでいると思う。台風のような甚大な被害を及ぼすものの影響が大元にあるとはいえ、それがどんな被害を及ぼすかは二次的なものを含めて国による整備の具合によるところが大きいのではないか。国内での今年の風水害の被害の多くは堤防の決壊によるもので、堤防自体の強度の問題や上流域のダムの貯水量の問題などが取り上げられているが、あれだけの人口密集地での被害としては小さく抑えられたのだと考えられなくもない。被害が起きないように願い、対策を練ることは重要で、そういうものに完全などあり得ないのかもしれないが、いろんな積み重ねとそれらに対する投資からこの水準に達してきたと言えるのではないだろうか。被害に遭ってしまった人々にとってはそんなことは関係なく、自分たちの住んでいる地域での問題をもっと大きく取り上げて欲しいと思うのだろうが、全体的な見方をすればこんな形になるような気がする。金銭的な被害の大きさは生活水準によるから一概には言えないと思うが、人の命の方はどこへ行っても同じに扱えるものである。その点だけからの判断からすれば、ゼロにはできなかったとはいえ、対策を講じてきたことの評価はある程度できるのだと思う。自分が被害者になったら別の考え方をするのではないか、と言われてしまえばその通りかもしれないが、そうではない立場から考えることも大切なことではないか。何度も同じことを繰り返さないことが、たぶん一番重要なのだろうから。

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8月30日(月)−邪魔

 寝不足の解消に妙案はないものだろうか。今頃そこら中でこんな話題が飛び交っているのかも知れない。地球上には昼と夜の区別があり、そこにいる生きものたちはそれに従って暮らしている。だから場所ごとに違いがあるのは当り前なのだが、それを打ち破る手段を人間は考え出してしまった。一種自業自得と言えなくもないが、それにしてもどうすればいいのか。
 時差があるためにせっかくの中継を観る人が少なくなると心配する向きがいるのは今に始まったことではない。経済大国のある国では、それを解決する手段を見つけ出した。今回はそんなことはなかったようだが、前回は一部の競技の開始時間に首を傾げたくなることがあった。こちらとしては時差がほとんど無い状態だから、そういう大会の中継は大歓迎のはずだったのだが、おかしな時間と思えることがあった。それもある国の選手が活躍しそうな競技に限ってのことであり、疑いは増すばかりとなっていた。欧米という国際社会で主導権を握る国々にとっては、自分たち主体の考え方にはどこにも矛盾が無いようだ。しかし、何よりも金が重要な時代になると、単に存在としての重要性だけでは主張を通すことができなくなり、何事も金次第という図式が目立つようになった。テレビ中継ともなれば莫大な広告収入が絡むわけで、それを得るために必要なことは広告がより効果的となる時間帯に放映することである。録画を流しても同じように注目を浴びることができるのならばいいのだが、どうもスポーツ観戦においては勝敗の行方などの予備知識は興味を失わせるのに十分な効力を持つようだ。だから最重要課題は、注目されている競技を皆が見やすい時間帯に放映することであり、生という制限がかかれば、その競技の時間帯を都合のいいところへずらす必要がある。そんなことから、別の国からみたら変な時間帯であり、競技が行われている国にとっても少々不都合とも思える時間帯に設定されてしまうことがあるわけだ。今回についてはそんな感じはしなかったのだが、こちらの注意力不足のせいなのか、それとも開催国とその周辺の国々の力が海を渡った向こう側の国を上回ったせいなのか、はっきりとはしない。いずれにしても、経済力も一時ほどの勢いがなく、更に世界地図の端に存在する国に関しては、そんなことに絡む要素もなく、ただ寝不足の人々を作りだすだけとなったようだ。最後の最後まで、ゴタゴタの絶えなかった大会だったが、少なくとも大掛かりなテロの発生が無かったからよかったというべきか。ドーピング疑惑の大揉めも国内ほどの騒ぎはなかったのだろうと想像できるが、妨害事件の方はすぐには解決しそうにもない。運動選手にとって観衆は応援してくれる対象のはずが、そうならないとなれば余計な心配も必要となる。そう言えばテニス選手で刺された人がいたが、身体の傷だけでなく心の傷も大きかったと聞く。互いに信じる気持ちがなければ成立しないことは世の中にたくさんあることをこういう事件は示していると思う。

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