パンチの独り言

(2004年9月6日〜9月12日)
(想定外、元気、意識変化、独善、緩和、強行、凶行)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



9月12日(日)−凶行

 不思議なものの続きである。政治同様普段の生活にも不思議なものは満ちあふれている。特に、安定した世の中では身の回りに刺激が少なくなるせいだろうか、まるで刺激を求めているかのごとくの流れがあり、それに乗せて供給する側の活躍が目立っているように見える。興奮する対象が何であるかは人それぞれであるにもかかわらず、もっとという欲求からなのか。
 何かを知りたいという欲求は人間誰しも持っているもののようだ。ただ、その対象とするところは人それぞれに違い、身の回りの自然現象に興味を抱く人もいれば、人間の営みそのものに興味を抱く人もいる。前者の場合、研究と呼ばれる高尚そうに見える活動に精を出すのだろうが、後者の場合は一部を除いてそこまでする必要もない。ごく一般の毎日の出来事が自分を満足させてくれるものになるはずなのだから。しかし、自分も含めて身の回りの人間の営みにさほどの変化あるいは刺激が感じられないと、自分の住む世界とは別のところに刺激を求めたくなることもあるようだ。興味本位で事件の詳細を追いかけるのはそんな心の動きから出ているのかも知れない。自分自身で首を突っ込んで追いかけるのは人それぞれの趣味に違いないし、それを他人がとやかく言うものではないだろう。ただ、最近の興味本位の報道を見ていると、まるでそれがすべての人間によって求められていると誤解しているように思える。若年層の凶悪犯罪が過去に比べて増加しているかどうかはわからないが、殺人事件が起こるたびにその詳細が伝えられる。犯人の心情がどうこう、被害者の家族の心情が云々、などと次から次へと流されるが、はたしてそのどれだけが普通の人々にとって意味のあるものなのだろうか。興味本位と断定することはできないが、このところ発生している殺人事件について共通して感じられることがある。殺人の手口の紹介を延々と、子細にわたり流していることだ。まるで人の殺し方の手ほどきをしているかのような報道の姿勢には首を傾げざるを得ない。どこの誰が殺しの中身に興味を持っているのだろうか。殺人事件が起きた時に被害者は誰であり、加害者が誰であるかを知りたい人がいるのは理解できるが、裁判の場でもないのにどうやって殺されたかを詳しく伝えることはまったく理解できない。もし、ごく一般の人々がその情報を欲しているとしたら大きな驚きであり、そんな世の中になってしまったのかと思うしかない。ただ、まだそこまではいっていないと思うのだ。何故、そんなことに興味を抱かねばならないというのだろうか。もし、まだそこまで行っていないとして、何故報道する側は逐一報告をしなければならないと思っているのだろうか。とても不思議なことなのである。どんな凶器をどのように使ったかを伝えたら、見つからなかった証拠がどこかから出てくるというのだろうか。たとえそうだとしても、それを不特定多数に知らせる必要があるというのだろうか。まったく不思議な世の中になってきたものである。

* * * * * * * *

9月11日(土)−強行

 不思議な政治が続いている。不思議と思わない人がいるのかもしれないが、少なくとも今迄踏襲されてきたものとは違う形のものが表面化しているように見える。根回しという言葉で表されてきた水面下での動きが表面に出てきたせいなのか、それとも根回しは相変わらずあるのに表面的にはまるで無いかの如く振る舞うせいなのか、どちらとも判断がつかない。
 集団の代表は集団の総意に添って様々なことを決断するものと思われてきた。だから、水面下でどんなやり取りがあったとしても、集団の総意を集めて決めているという形式を重視してきたのだろう。ところが現状はそれとはほど遠い世界を突き進んでいるように見える。与党の代表者である人間が自身を選んだ人々とは違う方向に政治を進めているのでは、ただでさえ不安定と思える政治の舵取りが上手くいくはずがないと思うのも無理はない。議論の余地が無いから強行採決するという手段は今迄に何度も実施されてきたものだが、これは与党が野党に対して多数を占めるからこそ可能な手段であった。しかし、今現在行われている政治では数の論理が成り立つ中での強行とは言えない状態が続いている。代表として選ばれたのだから、自らの責任において決めているという論理はいかにも妥当なものに見えるが、これまでの流れから測るとまったく正当性を欠くもののように見えてくる。所詮は組織内の勢力争いの結果として出された代表なのだから、強いものの見方になるのが当り前という図式は、この場面では成立していないようだ。党内からの反対があっても最終決定ではないのだからという理由で押しきって、決定してしまうのを見ていると、そこに強行採決のようなシナリオが見え隠れし始める。これまでは数の多少によってすべてが決められていたのが、実際には数においては劣勢であるはずの人々の言葉がその存在を大きなものにしつつある。まるで声の大きなほうが勝ちという論理の介在を許さぬ世界の出来事のようだ。声の大小も実際には本当の声の大きさより、どれだけ人の前に出てくるのかという違いから来るものばかりだから、最近のマスコミの利用の仕方を見るかぎりどちらに軍配が上がるのか明らかなように見える。政治における決定が正しいのか誤っているのか、やってみなければわからないとよく言われる通り、今問題になっている案件もどちらが正しい道になるのか誰にもわからないだろう。その上、運用の仕方によって結果が異なってくるとすれば、まあとにかくやってみようという気持ちになるのも無理はないのかも知れない。しかし、それですべてが解決するとしてしまうと、とんでもないことにならないだろうか。やってみてだめだったら、などという考えを持つ人間がおかしいと言われてしまえばそれまでだが、そうならばだめなときどうするのかの準備をする人がいるはずもない。改革は変えてこそ、という基本理念に基づいてあらゆることを変えようとする意欲を評価する人々がいるが、壊すことだけが道ではないと思う。このところの流れを見ていて、どうも数の論理で様々な道を切り開いてきた人々にとって、数での優勢を活かせない不思議な押しきられ方がなされるのではないかと思えてきた。それにしても、これらのやり取りの中で代表者たちを選んだ人々の声は相変わらず聞こえてこないのが気がかりだ。

* * * * * * * *

9月10日(金)−緩和

 同時テロの記念日が近づいている。あれ以来、鷹揚だった国の外国人の扱いは大きく変わったようだ。一部の国を除けば、来るものは拒まず、去る者は追わずを基本姿勢として、場合によっては厳しい検査をしたとしても、入国を拒否するということはほとんど無かった。しかし、最近は商用といえども許可が出ないとして問題になっているようだ。
 そうやって取り上げられる国の中にこの国は入っていない。同盟国として高く評価されているから、というのが理由なのかもしれないが、これまでの経緯を見ていると十把一絡げで扱っていたら足元をすくわれそうな気がする。どの国にもある偏った思想を持つ人がいて、信じるものにまっしぐらに向かうことで問題を起こす場合があるからだ。それでも前歴のある人々に関してはお互いに共有しているデータの中に記録が残っているだろうから、調べてみればわかることである。ある意味一番恐ろしいのは初めての人の場合なのだろう。調べるためには同じ識別方法を持たねばならない。一番に使われるのは個人名で、それがごく一般的なものだった場合、それに加えて何かしらの鍵となるものを記録しておく。あちらの国の場合、こういう時に鍵として使われるのは母親の旧姓で、さすがにそこまで一緒ということもあるまい、という考えからである。一方、名前の表記の仕方が違う場合、そこにも問題が生じる場合がある。漢字を使って名前を表記したものは、英語のアルファベットではその読みで表記しなければならない。そこにずれが生じる場合があって、漢字ならばさほど苦労せずに識別できるものでも、アルファベットでは難しくなることもある。以前も取り上げたことがあるが、そういう理由なのかどうかわからないにしろ、この国ではあらゆることに制限をかけることが当り前になっているところがある。音からアルファベットにする場合に規則を設けており、それ以外のものは例外的なものを除いて認めない方針を貫いてきた。例外とは、その表記が本人の識別において使われており、規則に基づいた表記では誤解される恐れのある場合である。その表記が識別に必要不可欠であることを示せば許可が下りる。そういう手順を踏むためには、本人がその証明書類を提出する必要があり、かなり煩雑な手続きを要求されていた。そこには自由などという考え方は皆無であり、無知な国民には規則が必要とする考えが根本にあるとしか思えない。それで少し前の外務大臣が自分の名前の表記の制限を外させようと働き掛けたこともあり、他の名前に関しても制限が緩和される方向に動いていたようだ。今回更にそれを進めて、違う表記を必要とするという意思さえ示せば、煩雑な書類の提出を必要としない方針が示されている。ずいぶん世の中は変わったものだと思う人がいるかもしれないが、この程度の変革で安心してはいけないと思う。なぜなら、これらはすべて、国が定めた規則に則った名前の表記に加えて括弧付で併記されるものだからだ。つまり、こういう表記もあるとするだけのものであり、出入国の手続きでは政府公認の表記での届け出しか受け付けられないのである。互いのデータ共有という観点からも、この国からの出国で届けられた表記でないと先方の入国では受け付けてもらえない。自分たちが管理する所では依然として別表記の使用を認めていないわけである。これでは不十分と思うし、本当に自由にさせるのであれば、別名という形式を使うのはおかしい。徐々に変化するものという期待もあるが、実際にはこの程度の変化しか起きてこないわけだ。悪名高きお役所の相変わらずの態度と言えるのではないだろうか。

* * * * * * * *

9月9日(木)−独善

 一般人の科学の知識についての調査が時々行われる。その度に問題とされるのは物知りの数の減少である。教育が行き届いているはずの国で、何故これほどまでに常識の範囲内の科学の知識を知らない人が多いのか、他の国と比べても不思議に思えるという総括が毎回のように出されている。昔はどうだったのかという資料は無いから、何とも言えないところだが。
 一般の人々と言っても、最近では大卒者がかなり多くなっている。ということは大学まで進んでも科学の知識は大したことはないと結論づけられるだろうか。こういう話は分数のできない大学生を主題にした書籍が出版されるくらい数学のできない学生が多いという話と同列に扱いたくなるが、数学嫌いで文科系学部に進学した学生の話であることから、ちょっと違ったところがあるかも知れない。一方、科学の基礎知識の欠如が一般というより専門の中でも問題にされていることがどこかで報じられていた。大学の理科系学部の学生に対する物理の基礎知識の調査の結果ということだが、その中で印象的なのは重さについての設問である。詳細は思い出せないが、要点は地球上である重さのものが月の上ではどのくらいの重さになるのか、というものだ。月面着陸に成功した時代には、この手の話がテレビでよく取り上げられていたが、最近はとんと聞かなくなった。そのせいなのかどうかはわからないが、答えの多くに重さゼロというものがあったのだそうだ。理由として一番多かったのは、真空だからというものである。さて、これは正しいのか間違っているのか、まずは考えて欲しいと思うが、これを読む人々がどんな人たちなのかわからないから、どんな答えが返ってくるのか想像できない。まあ、そんなことはともかくも、重さがどんなことにより決まるのかを理科を得意とするはずの学生たちでも理解していないという結果は、教える側にかなりの衝撃を与えたようだ。この辺りの話しから、初等中等教育の現場での科学教育の欠陥が明らかになったと結論づけるのは、あまりにも短絡的であるように思うが、さてどうなんだろう。この話を聞いたときに、学校で習うものだろうかと思った人もいるのではないだろうか。常識という言葉の持つ意味の難しさを以前論じたことがあるが、ここでも常識と思われそうなものがそうなっていないことが問題となっている。もしも常識と見做せるのなら、学校で習うまでもなく、誰もが身に付けているはずのものと言えそうだが、最近のこの手の問題はすべて学校教育の欠陥に帰結されるようだ。真空だから重さがないと答える人々の多くは、最近ならばスペースシャトルでの光景を思い浮かべるらしい。機外活動の際の浮いている姿は確かに真空中のものと言えなくもないが、だとしたら機内でのふわふわ浮いている姿をどう考えるのだろう。こういう問答が交わされた後、どうも真空と無重力は同じ意味ではないことを認めるようだが、はたして理解されるのかどうか。こういう話が聞こえてくると、この辺りの論法で独善的な展開をする人々が増えていることに気がつかされる。不十分な知識から想像によっていろんなものを理解するという手法は必要不可欠なものだが、その妥当性の検討には別の能力が必要となるようだ。知識を詰め込めば何とかなるという考えが大勢を占めている中で、もっと全体的なことを視野に入れた能力の開発を真剣に考えたほうがいいような気もしてくる。

* * * * * * * *

9月8日(水)−意識変化

 アンケートの項目の中には年齢を答えるものがある。具体的な数字を記入するものもあるが、年齢層を提示してそれに答えさせるものも多い。何十代かということを尋ねてくるわけだが、その分け方がどういう意味を持つのかよくわからない。とにかく、まあ、便宜的なものなのだろう。
 そんな分け方に慣れていたせいか、先日見かけた記事の分け方は一種独特に思えた。バブル期の成長を支えた世代、はじけた後の混迷に巻き込まれた世代、更にその下の世代といった形で大体十年ほどで年代を区切っていたが、当然のことながら数字として区切りのいいところになるわけはない。実際に書かれていた文言を思い出せないのだが、こういう分類もあるのかと思いつつ、それに基づいて何かを調査したら面白い傾向が出るのだろうかと想像してしまった。ただ、自分の年齢をその分け方に当てはめたときちょっと首を傾げたくなる部分もあり、まあ一つの目安に過ぎないのかもと思うところもある。分け方自身が何かを語るわけでもないのだが、こうするとある世代は何となくそれらの出来事に責任があったように見えるし、別の世代は割を食ったと見えるだろう。個人個人で違っているはずのものが一つの括りだけで十把一絡げになるのはいつものことだが、ちょっと線を引くだけでまったく違った立場というか状況になることが面白い。いずれにしても、このところ悪いことばかりで良いことが無いと感じている人は多いから、世代の違いなどどこかに吹っ飛んでしまっているのだろう。それが原因なのだろうが、とにかく元気がなく先行きに対する不安ばかりが強調されるようになると、それを少しでも明るくしようとする動きが歓迎される。政治の改革については大した変化も期待できず、諦めの境地といった雰囲気がいろんな所に漂ってしまっているが、そういう中で大きな声を出して元気そうに見えることが大切だと受け止められているようだ。実際、記者の質問に答えるときのマイクの位置にまで注文をつけたのは声の調子が元気のよさを決めるように感じたからと言われているし、そういうところの配慮が自らの立場にある程度の影響を与えることを自覚していたのだろう。明るく振る舞うと言っても結局のところ訳のわからない言葉の連続になっているし、元気と言っても空元気と見えてしまう状態では大したこともないという見方が出ているが、それはほんの一部の考えと見なされているようだ。調査をすれば意外なほどの支持率が出されるから、それほどの意識の乖離があるのかと感じてしまうがその辺りはどんなものなのだろう。様々な人々の意見からすると支持率の高さは説明できないように見えるが、そこにも何かしらの仕掛けがあるのだろうか。年齢層の分け方がある場合に意味を持っていたのと同じように、あることに関する質問の仕方にもそれぞれ意味があるのかも知れない。以前と同じことを繰り返し聞いているだけなのにそこに違いが出てくるのは、ひょっとすると聞かれている人々の意識の持ち方に変化が出てきたからなのかもしれないが。

* * * * * * * *

9月7日(火)−元気

 絵に描いた餅のようだと言われたら、どんなことを思い浮かべるだろう。絵に描いた餅は、どんなにきれいに描かれていても食べられず実物とは違うというところから実現しないことの喩えと見るだろうか、それとも実物とは違うから役に立たないことの喩えと見るだろうか。最近は前者の用法が多いように思うが、これも誤った使い方なのだろうか。
 政治の話をするのは好きではないし、たぶんそんなことを話しても意味がないのではないかと思っている。様々な場面で批判の雨霰が降っているにも関わらず、一切耳を貸さない施政者が君臨している世の中ではまさに戯言として扱われるだけだし、何かが変わるという期待は皆無と言わざるを得ない。郵便局絡みの話は公社という形態に変わった後、ご本人が長年叫び続けていたと主張する最終目標である民営化へと移りつつある。しかし、どうも本人の周囲以外の情勢は以前と変わらぬほど厳しいものになっており、独裁者的決断を下さないかぎり押しきることは難しいのではないだろうか。元々、何故と首を傾げられることが多かった話だが、他の改革同様、ご本人にとっては一世一代の大仕事であり、後世の人々から認められるものと結論づけられている。絵に描いた餅という喩えを使いたくなるのは、これらの改革が言葉だけの中身の無いものとなることが予想されているからで、もしかしたらこういう気持ちを持っている人々が敗残者となるのかも知れない。それにしても、民営化の基本理念がどういう意味なのか、理解できる人がいたら教えて欲しい。この国で民営化の先駆者となり、成功したと言われているものの代表は鉄道会社だろう。国営だったころの末端職員の態度と現在の窓口業務者の態度を比べれば一目瞭然とはよく言われることだが、実際にはそんなところに出ているものは民営化の効果とは言えないものである。本来は収益性とか、競争原理とかが問題とされるはずであり、そちらの方を強調せねばならないのにそうなっていない。また、逆効果として公的機関としての役割の減退がどう現れているのかも議論の対象にせねばならない。にもかかわらず、そんな類いのテーマは扱われることもなく、成功したと総括されている。この背景には、他国の鉄道会社の民営化による失敗の歴史があるのかも知れない。民営化自体が絶対的な成功の秘訣と言えないことは他国の例から明らかだが、それを強調してしまっては元も子もない。この国で成功していると見られているのは実際には他国でうまくいかなかった点を克服したことであり、民営化の根本目標の達成というところではないことをもっと重視すべきではないだろうか。そう考えてくると、次にやって来る民営化も謳い文句だけは大きくなりつつあるが、実体、中身の方はさっぱりの状態である。既に公社化したときに民間企業並の商品開発を試み、待ったをかけられたのだから、一方で問題視されている巨大組織の弊害が更に露になることは明らかだ。民間企業が巨大化によって利益を集約しようとしている中で、更なる巨大組織が突如として出現することは全体の不利益を産みだすことにならないだろうか。郵便事業に民営化の弊害は海の向こうで顕在化したが、その問題に関しては鉄道事業と同様、この国独自の対応によって克服されるだろう。しかし、それ以外の点に関しては未知数に思える。それにしても、元気のない国では声高に主張を発する元気のいい人が歓迎されるようだ。対抗馬は次々に消失し、反対意見も小声で発せられるほどだから、したい放題が当然なのかも知れない。この機会を捉えてというには弱体化してしまった党内対抗勢力は心もとないし、一時的な勢いだけで拡大傾向にある政党も信頼度は今一つ。そんな中で、元気のない人々に元気を与えているという図式を展開してきた人の運命はどちらを向くのだろう。

* * * * * * * *

9月6日(月)−想定外

 いやはやいろんなことが起きるものだ。集中豪雨、台風、噴火と次から次へと天変地異が起きて、各所で被害が大きくなっていたが、そこへ今度は地震である。変な言い方では今年は当たり年とでも言うのだろう。それがまたよりによって防災週間と呼ばれる一週間にあったというところが偶然にしてはと思わされる。
 台風はある程度進路予想が可能になっているし、時間的にも余裕があるから心の準備だけでなく、いろんな準備ができる。それでも特大のものとなると予想をはるかに超えるものになるから、ちょっとやそっとの付け焼き刃的な補強では無理なようだ。それでも、他の災害の突発的なものに比べるとまだましと言ったら怒られてしまうだろうか。集中豪雨はある程度の範囲に絞り込むことは可能になったがまだここと決めつけることは難しいし、更にその後の被害の起き方に対してすべての警告がなされているとは言い難い。特に降雨地から下流にある地域の被害が大きく出たときの対応には首を傾げたくなるものもあり、単なる降雨量だけで片付けられないところがあるようだ。それでも大量の雨を降らせそうな雲の行方を追うことが可能になったから、絞り込みが不十分とは言えある程度の範囲に警告を出すことができる。これらに対して、噴火や地震は警戒地域が定められていると言っても、起きそうな時期を特定することは未だに難しい状態にあるようだ。以前にも書いたが予知という立場から様々なデータを収集しており、それらがかなりの精度で解析されるようになっている。しかしそれでもどうなれば起きるという図式が見えていないから、結局のところこれこそと決断することは難しい。今でもことが起きてしまってから、これらの数値の変化が予知に役立ちそうだという話が出てくるだけで、これという決め手を事前に定めることはできないようだ。今回の地震は予知できなかったということよりも更にその後の展開の予想からしてまだまだ無理のあることを示した点で、一部の人々に印象深いものとなった。地震は一般的にはじめに起きるある程度規模の大きなものが本震であり、その後のものは余震と呼ばれ規模が小さくなる。一般的と言われる由縁は当然のことながら例外があり、はじめに起きたものよりも次に起きるものの方が大きくなる場合がたまにあるからだ。今回の地震はまさにそれで、例外的なものだっただけに関係者は困惑していたようだ。しかしこういうことが起きた場合、はじめの地震が予知に役立つわけで、そういう観点からの意見が聞かれたら良かったのだろうが、実際には大した余震もないだろうと結論づけられていた。だから外れの中の外れ籤を引いてしまった気持ちで責任者はいたのではないだろうか。そうは言っても、津波に対する備えは予行演習のおかげで何となくできていたようだし、警報、注意報の出し方にもそんなところが現れていたようだ。そんなところから心の準備が必要ということを端的に表しているように思える出来事だった。しかし、一方でネットニュースのサイトははじめの地震の津波注意報発令に対する批判記事を本震の直後に貼り付けていて本震そのものの記事の貼り付けが遅れたことなどを見ると、インターネットの役割や意義に対する意気込みがまだまだ低いところにあるのだということがわかる。以前津波の心配はないと勝手に報じたニュースサイトがあったが、どの辺りが問題なのだろうか。

(since 2002/4/3)