プロ野球のストが続いている。ストライキと聞くとつい鉄道のやつを思いだし、迷惑という言葉が浮かんでくるが、こちらのストにはそんな気持ちが出てこない。日常生活に溶け込むほどではなく、ちょっとした娯楽程度のものであるのと、もう一つ重要なことは最近テレビでゆっくり観戦することが無くなったからだろう。
「選手ごとき」という言葉が雇い主の口から出てくるほど、立場の違いは大きく、金と魂を交換してしまったような雰囲気が漂う。何ともへんてこな雇用関係だが、理由の一つは彼らの年俸にあるのだろう。飛んでもないと一般人には思えてしまうほどのお金を稼いでいる人々には、一般の職業人に与えられている権利は必要ないという論理が何故だか通用してしまうようで、今回のスト騒ぎでもそういう声が聞こえてきている。終身雇用制のような社会では40年近くの雇用期間が普通だが、体力で勝負する世界では大体半分の20年が限界のようだ。その事情やその他の環境要因を考えると、一部の超一流の選手を除けば、彼らの給料が法外に高いと言えるものなのかどうか、はっきりしなくなる。子供たちの夢のために給料が高い必要があるかどうかは別にして、色んな保障制度が整っていない状況で、あそこだけを取り上げて議論するのは不公平な感じさえする。いずれにしても、一つの球団が消滅すれば50人ほどの選手が職を失うことになる。リストラ騒ぎで労使交渉をしている企業の例を挙げるまでもなく、これはかなり大きな動きに違いない。実際には経営者側の無策から生じた結果とも見える現状が、雇われた人間の処分のみによって片付けられるのは、一般企業でもよく見られた現象でここにも同じ経営感覚が蔓延っているのかと落胆するが、社会との接点が極端に少ない点で一般企業とはかなり違う様相を呈している。見せる職業だから社会との接点は非常に多いはずなのだが、こと経営に関してはほとんどすべて黒い箱の中にあるようだ。そのいい例が合併に関する発表にあり、その後の展開も箱の外からの働きかけを一切拒絶する形になっていて、箱の存在を鮮明にさせるものとなっている。こんな状況になると一斉に集中砲火を浴びせるのが今の社会の抱える問題の一つだが、この件に関しても経営手法に対する批判が浴びせられている。但し、面白いと思うのは、現実問題として取り上げるべき二つの球団についての提案がまったくないことだ。拒絶姿勢を崩さぬ人々を相手にしても無駄という判断があるのだろうが、それにしても今あるものをどうにかするのは難しいということなのだろう。小さい頃、親会社である新聞社が配っていた招待券で何度か球場に行ったことがあるが、当時の万年下位チームとの対戦ばかりでテレビで知っている選手を見ることはなかった。また、球場での野球観戦は臨場感はあるものの展開はまったくわからず、テレビやラジオでのものとの違いがはっきりしていた。この事情は海の向こうでもまったく同じで、遥か彼方で米粒のような選手が動いているのを見ても、どこの誰かさえわからぬ状態である。結局、その場にいて雰囲気を楽しむことが野球観戦の醍醐味であり、細かなことを見るためのものではないことがわかる。何しろ、ビデオによる再現が無いわけだから、何が起こったのか、何を揉めているのか、さっぱりわからない。でも、その雰囲気が楽しいからこそ、あれほど多くの人が見に行くのである。では、閑散とした球場はどこが悪いのだろうか。評論家がよってたかって提案しているから、今更何も言う必要はないだろう。要は、そういう声を聞くべき人たちが聞く気になるか、自分たちだけではない色んな人を含めた自分たちの問題として考えるかにあるのだろう。
例年になくとか、観測史上初とか、そんな話題が気候に関して続いている。そこまで言われるほど稀な天候が続いているようだが、猛暑とか、台風という話題以外に、気がつくところはあるのだろうか。つまり、こんな異常事態に他の生き物はどうなっているのか、身の回りで気づいたことは何だろうか。
人間は暑い、暑いと言いながらも、外へ出ずにエアコンの効いた部屋に居座ることができる。しかし、自然の生き物はそんな待避所を持っているわけではない。暑かろうが、風が強かろうが、植物はそこから逃げ出せないし、動物とてそういうものが過ぎ去るのをどこかで待つのがせいぜいである。猫の行動を見ていれば、彼らなりにましなところを探し、しのいでいることがわかるが、それとて他に比べたらましという程度のものだ。そんな具合だから、人間よりも異常気象の影響を大きく受けそうに思える。台風による大風で実を落としてしまった林檎や梨の例は、突発的な事故といった印象だし、自然にあるというよりも人間のために栽培された特殊なものといった感じがある。そういうものではなく、もう少し自然の中にあると言えそうなものの中に変化はあるのだろうか。このところ少し気になっているのは、以前も書いた彼岸花、曼珠沙華のことである。北から南まで天候の移り変わり方がかなり違うから、全国どこでもと言うわけにはいかないだろうが、その名の通り秋の彼岸の頃に咲く赤い花である。葉が出るより先に花芽が出てきて、花がその軸の上に咲くわけだから、日照時間の移り変わりや気温の変化をどうやって感じているのかさっぱりわからない。しかし、見事なほどきちんと時期を合わせて咲き始める。どうやっているのだろうかと不思議に思ったことが何度もあった。ところが、今年はちょっと事情が違っているようだ。今月に入ってしばらくしたところで、こんなところにと思える場所に赤い花が咲き始めた。毎年同じところから出てくるのだが、そういう記憶は不確かなものらしく、毎年同じようにこんなところにと思ってしまう。とにかく、例年に比べると二週間ほど早く咲き始めたように思う。時期を測る優等生と思ってきたのに、彼らでさえ狂わされてしまったようだ。日照時間というか、夜と昼の時間の差については、異常気象でも変化はないから、こういう異常事態が引き起こされたのはやはり気温によるものと考えるのが妥当なようだ。確かに、植物の多くで芽が出るきっかけとなるのは、温度の高さではなく変化で、ある気温より下がった後に気温が上昇し始めると春に芽を出す植物は反応し始めるという。そうなると秋に花を咲かせる植物の場合は、どういう変化を感じているのだろうか。ある程度高い気温に達した後、下がり始めてから何日目、といった具合なのだろうか。気温に比べると地温は変化の度合いが少ないから、私たちが感じているものとはちょっと違ったものになっているかも知れない。いずれにしても、異常な状態はああいうところにも現れているようだ。まあ、そうは言ってもこの程度のずれというところは優等生らしいと言えるのかも知れないが。
廃品回収という仕事はちゃんと続いているのだろうか。リサイクルという言葉が市民権を得て、更に強制的なリサイクルが導入されるようなものまで出てくると、廃品という扱いが当てはまらなくなりそうだ。多くの場合名称を変えて、商売を続けているのだろうが、一時期流行していたちり紙交換はほとんど姿を消してしまった。
リサイクル、再生が環境を守るために必要と言われ、自治体が先頭に立って紙や瓶の回収を始めてしまうと、家庭から出る不要紙を回収して売ることで成立していた仕事はかなり厳しい状況に追い込まれる。更に追い討ちをかけるようにこういった事業のために回収される紙の量が増えてしまえば、古紙の市場価格は下がることになり、厳しさは増す一方である。そこで考え方を変えて家庭を対象にせず、企業から出る紙を回収する方向に動いた人も多かったのだろうが、別の問題もあって誰でも参入できるといったものではなかったようだ。いずれにしても、業界全体に重苦しい空気が漂っていたのではないだろうか。だから、というわけでもないが、自治体が実施している古紙回収に目をつけた業者がいたようだ。回収日に回収場所を眺めていれば、どこからともなく車がやって来て、自分たちに関係するものだけを回収する姿を目撃することができる。はじめのうちは自治体から依頼を受けた業者かと思っていたが、どうもそうではないらしい。何しろ、次から次へと違う車が現れて、古紙を積んでいくのである。朝早いうちにやって来れば、回収できる量は少ないが、目撃される可能性も少ない。しかし、その後に出された古紙はといえば、別の業者がまたやってくるわけだ。実際の回収時間には古紙はほとんど残っておらず、その他のものや製本されたものが少しあるだけとなっている。ちょっと考えると、ちり紙交換との違いははっきりしている。交換するものを必要とせず、ただ回収すればいいだけのことなのだ。回収といえば聞こえがいいが、単に盗んでいるだけのことだ。さすがに自治体も無視することができず、いろんな対策に乗り出したようだが、住民にとって便利なように設置された多くの回収場所のすべてを見張ることもできず、摘発にまで発展することは少ないようである。とはいえ、先日ついに摘発という文字が紙面に踊っているのを見つけた。しかし、そこにあった情報は犯罪防止の基本から外れたもののように見えた。古紙を回収場所から無断で持ち去った場合の罰金と、それまでに持ち去られた古紙の価格の総額にあまりの格差があったからだ。そうなれば、もっと罰金を高くすべきという話が当然出てくるだろう。やり得としか思えない状況になっているわけだから、そういう流れも仕方のないところと見える。しかし、このところの犯罪傾向を見ていると、リスクが高まってもそれが抑止効果をもつとは限らないことがわかる。最低限のモラルという話が、当然のことと思えなくなってから、それ以外の方法では犯罪を抑え込むことができないことが明らかになりつつあるようだ。ではどうすれば、という話になるわけだが、まったくどうしようもないとしか言い様がないように思える。古紙の中から現金が見つかり、それを届けたら自治体と所有権での争いになったという話もあったが、元々美談として取り扱うのが不思議である。盗っ人の解釈が変化してきたのかも知れないが、上手く生きることがそんな方向に向かうようでは困ったことだとしかいえない。
やっと秋らしくなってきた。そうなれば、そろそろ食欲の秋、といきたいところである。検査項目の要注意の文字を気にしながら、ついついという人もいるのではないだろうか。そっちの秋も楽しみなものだが、子供たちにとってはいよいよ運動の秋、運動会の季節がやって来た。
先日も、ある小学校の脇を通っていたら、運動会の練習をしていた。女生徒達が騎馬戦をやっていたのである。昔なら女の子が騎馬戦ということはなかった。危険だからという考えよりも、女の子だからという考えの方が先に立っていたのではないかと思う。しかし、最近はそういう考えは大人たちの社会のある考え方に逆行するものとして排除される。どんな経緯でいつ頃始まったものなのかわからないが、今ではどこでもやっているらしい。一方、昔やっていたのに最近とんと見かけなくなった出し物に棒倒しがある。最上級生の男の子達が棒の上にある旗を取りあう競技で、棒を支えている子供たちの上によじ登って旗を取りに行く子と、その邪魔をする子が激しく戦うというかなり過激なものだった。それでも棒を支えているのは大きな子で、同級生の小さな子から見たら逞しく頼りになる子だったし、棒に登っていくのはすばしっこい小さな子が多かった。何人かが棒に取りつくと支えることができずに棒が倒れ、ついには旗を取られてしまうわけだが、紅白に分かれてどちらが先に取るかを競うものだった。いつ頃から無くなってしまったのか、おそらく子供の上に子供が乗り、棒が倒れるときには将棋倒しのようになるから、怪我をすることが多いというのが理由だったのだろう。それと似た理由で見かけなくなったものに器械体操がある。子供たちが積み重なって山を作り、最後にそれをドッと崩すというのが盛り上がりだったが、そこで下敷きになった子供に骨折が増え、できなくなったのではないだろうか。子供に怪我がつきものという考えはどこかに吹っ飛んでしまったらしく、今ではあらかじめ配慮して怪我をせずに楽しく遊べるようにという考えが主流のようだ。だから、校庭にあったジャングルジムやブランコが撤去されてしまう事態に陥っている。その一方で、危険回避の感覚のない子供が育ち、日常生活で交通事故などの危険に遭遇する羽目になっているのかも知れない。大人たちは大人たちの考えで子供たちを保護しようとするが、そこには子供たちの成長にとって重要な要素も含まれており、保護がそれらを排除する方向に働けばかえって仇となることも多い。肥後守と言われてはてとなってしまう世代でも、刃物の扱いを小学生のころから知っていた人が多いだろうし、危険なものに近づかないことが安全に繋がることくらい知っていただろう。危険なものは誰かが取り除いてくれるというか、そういうものが周囲に存在しないことが当り前となっている世代とは大きな違いがあると思う。子供たちがそうなることを望んだとは思わないから、やはり大人たちが仕組んだことなのだろう。運動会の徒競走で皆で手を繋ぎながらゴールするという話が美談として語られたことははるか昔になってしまったが、ある意味狂った考えが蔓延っていたことは否定できない。大人たちの過剰な意識と配慮が産んだそういう暴挙は今では非常識なものと片づけられるようになったが、その当時は差別意識を無くすものとして大いに推奨されたようだ。邪推に基づいた配慮など意味のないどころか害を及ぼすことさえあるのである。
言葉の乱れを指摘し、意味の取り違えをただし、自国語に誇りをもって、言葉を守ろうとする動きがある。そうなる理由は簡単で、自分たちだけに通じる言葉を話したり、古い言葉に新たな意味を持たせようとする人々が沢山いるからである。ある研究所が先頭に立ってそういう声をあげているようだが、どうも流れを止めることはできない情勢のようだ。
生き物が使うものだから言葉も生き物であるとよく言われるが、生活様式や習慣が時代の変遷とともに変化していくのだから変わるのが当り前なのかも知れない。たとえばあるものの呼び名などは、それが存在しないときには必要もなかったわけだから、新しく作られねばならず、はじめのうちはへんてこに聞こえることも多い。それでもそのものが世の中に受け入れられ、認識されるようになると、呼び名の方も市民権を得てくるわけで、いつの間にか当り前のものとなる。フリーターという言葉を初めて聞いたときの印象はまさにそれで、何故アルバイターと呼ばないのかなと思った。アルバイトという言葉自体も和製英語ならぬ和製独語で、本来の意味は働くということだからこの国で使われる意味とは違っている。そこから作られた言葉のどの辺りが気に入らなかったのかわからないが、どこかに違いを出そうとしたのだろうか、新たな言葉の登場となり、あっという間に受け入れられてしまった。こういう言葉の使い方は言語の持つ柔軟性の指標だと言う人もいるが、この国の中だけがそういう新語の大発生地になっているわけではない。新たなタイプの人が出てくればそういう言葉が出てくるのはどこでも同じで、海の向こうでもそういうことが繰り返されているようだ。数十年前にあちらの方から入ってきた言葉でDINKSというものがあった。今はこの国でもごく当り前のものとなった人々の呼称だが、Double Income No KidSの略で、共働きで子供のいない夫婦を指す。二つの新しい生活様式が重なったものとして、初めて聞いたときにはそういう人々もいるのかと思った。それとはちょっと違うがここ数年よく聞くようになったSOHOもある呼称の省略形である。Small Office Home Officeということで、新しい企業形態を指す言葉として登場した。大きな組織でないと商売が成立しないと言われた時期から、小さくて小回りの利く組織の方がという認識が出てきた時期への変革の時に使われ始めた言葉のようだ。ただ、今の時代を見ているとそれはそれとして、大きいことはいいことだという考え方がやはり大勢を占めている感じがしないでもない。こんな新語の中でごく最近耳にしたのは、NEETである。フリーターというのにも少し驚いたが、こちらは驚くというよりも呆れに近い印象があった。Not in Employment, Education or Trainingの略ということだが、フリーターが定職に就いていないことを指していただけなのに対して、こちらは職に就いていないだけでなく、その意欲さえもない人のことを指す言葉なのだそうだ。当てはまる人々に対して失礼な言い方になるが、昔ならばただ無視される存在で、呼称を与えられることもなかった人だろう。しかし、世の中はある方向に進んでいるようで、こういう人々の存在を無視することは悪いことであり、何らかの救済をしなければならないと考える人が出てきたようだ。精神疾患の一種と捉え、だからこそ治療のようなものを施す必要がある、などと書いたら、間違いと言われるかも知れないが、話を聞いているかぎりそんな感じである。いやはや、言葉だけでなく生きることも難しい世の中になったものだ。
仕事が生き甲斐で、退職した途端に元気が無くなるという話を昔はよく聞いた。と言っても、ずっと昔はそんなことはなかったようだから、一時的な現象だったのかも知れない。最近もまたそういう話が聞こえなくなってきた。仕事一筋が評価対象となっていた時代はこんな話もあったのだろうが、今どき仕事しかできない人間は駄目と言われるのだから変われば変わるものだ。
仕事と家族のどちらが大切かなどと聞くのは野暮な話で、答えは決まっている。しかし、仕事は金稼ぎのためのもので、趣味や家族との時間は人生を豊かにするものなどという話を聞くと、首を傾げてしまう。仕事だって違う形で取り組むことは十分できるし、余暇が苦しみを伴わないわけではない。愉しさを感じることが大切という意味では、どちらも同じなのではないだろうか。逆に言えば、趣味として始めたものが高じてきて、いろんな困難にぶつかると苦しみを感じることもあるわけだ。町の研究家と呼ばれる人たちはそれを生業とするわけでなく、趣味の範囲で研究を楽しんでいると言われる。だから大したことはないなどと言えるはずもなく、中には専門家から一目置かれる人もいる。科学者が職業となったのはニュートンの頃と言われるが、それまでは皆市井の研究家という存在であり、本職は別に持っている場合が多かった。職業科学者が登場すると、素人と同じという扱いを受けることが多くなったが、それでも一つのことに長年取り組むことは様々な発見をもたらすことが多い。結局、専門家の社会で立場を確立することが難しいといった問題から軽く見られることが多かったわけで、内容の差はプロかアマかで区別されるものではないだろう。ただ、素粒子とかクローンとか特別な設備を必要とする分野では、関わることのできる人が限られてしまうから、理論的なものを除いてプロの独壇場となってしまう。それに比べると、算数、数学の世界は、誰もが自由に取り組めるらしく、今でも多くの人が関わっているようだ。実物を見たことはないが、神社に奉納された数学の問題があるそうで、算額と呼ばれている。江戸時代の人々が自分の考えた問題をそういう形で皆に披露したとのことだ。ちょっとやそっとで解ける問題でもないし、かと言ってじっくり取り組む気は起こらないが、この研究を行っているのもどこかの高校の数学の先生のようだ。市井から市井に、語り継がれていくものは沢山あるのだろうが、それが注目されることは少ない。他の国の事情はわからないが、そういう土壌はこの国にはあるようだ。ファーブルの昆虫記が翻訳されたとき、多くの人々がそれを読み、その後も子供たちの間で人気が保たれている。何が人気の秘密なのかははっきりしないが、おそらく市井の研究家のような雰囲気が近い存在を感じさせているのではないだろうか。本国よりもこちらの方が人気が高いという不思議さもその辺りの事情があるのかも知れず、その元となっているのは上に書いたような土壌なのかも知れない。人種によって、国によって、そんな違いはあるはずが無いと言われればそうかも知れないが、人を育てるのは人であることを考えると、そんな伝統のようなものがあってもいいのではないかと思えてくる。
ひと月ほど前はまだ青々としていた田んぼに、頭をもたげた稲穂が見えるようになり、色づき始めた。こういう光景は場所によって時期がかなり違うようで、早いところでは先月の初めにはもうそんな雰囲気になっていただろう。去年と違って猛暑となり、日照時間も十分にあったせいか、どこも実りはしっかりしている。台風の影響を受けたところを除けばだが。
稲が育ってもちゃんと収穫されるまでは豊作かどうかはわからない。しかし、人より早く手を付けることで良い米を安く手に入れようとする気持ちは昔も今も変わらない。最近は田植えの前から契約を取り交わし、そこで収穫された米をすべて手に入れるようなやり方も行われているようだから、リスクと保険の関係がかなり変わってきたのかも知れない。田んぼに稲が育ってまだ青い状態の時に、そこに実るだろう米を買い付けることを青田買いというのだが、田植えも始めていないときの買い付けは何というのだろうか。いずれにしても、人の先を行くことが商売の秘訣という話がそのまま現れているものの一つだろう。しかし、商売には失敗がつきものである。どんなに整備され、どんなに準備されていたとしても、天候は気まぐれなものだし、天変地異はいつ起こるのかわからない。そんな訳でリスクを覚悟しておかねば、大きな儲けは得られないという話に繋がるわけだ。青田買いは本来の意味で使われることは少なくなり、もっぱら就職戦線での用法が主体となってきた。卒業予定の学生の中の才能のありそうな人をいかにして取り込むか、一部の企業はその戦略を立て、様々な方策を試みてきた。優秀な学生を見つけたらどうやって囲い込むかとか、他社より先に学生と接触するためにはどうすればよいか、など規制がかかっている時代でもそれをかいくぐる手だてを次から次へと考案していったものだ。今では就職活動の開始時期に関する規制はなくなったようで、以前の卒業年度の7月だの、10月だのという話は過去のこととなっている。その代わり、早ければ早い程よいという考え方が主流になるから、始めのうちは少し遠慮気味に卒業年度の始まりくらいのところにおいてあった開始時期が、あっという間にその前年度になだれ込むようになり、ついには3年次の夏という時期に落ち着き始めている。といっても、すべての企業がそうなっているわけではなく、多くのところは卒業年度に入った学生を相手にするわけで、まだまだ進級も決まらぬうちにという状況には入っていないようだ。では、何故3年次の夏が開始時期になるのだろうか。最近注目されているものの一つにインターンシップという制度がある。会社での実地研修のようなもので、会社と大学の間の取り決めて単位を出すところも多いようだ。学生にとっては卒業のための単位取得に利用できるだけでなく、実際に企業での仕事の経験を積めるという利点がある。本来はそのくらいの目的で立ち上がった制度だが、目的意識が重視される社会ではこの制度は既に就職活動に利用されるようになっている。卒業を一年半後に控えた学生をその時点で確保しておこうというのである。どうも、お互いの思惑が一致したせいか活用している企業、学生とも増えているとのことだ。青田どころか耕しかけた田んぼを買うようなものだが、土壌の質を自ら調べておこうというものなのだろう。そろそろ次の呼称を用意しなければならない時期なのだろう。