小学校の横を走り抜けると、いつになく賑やかな風景が広がる。秋の運動会の季節である。子供の運動会に親が行くのは当り前のことに思われるが、自分たちが小さい頃はそんなことはちっともなかった。平日に開催される大会に働いている親は来ることなどできないし、一時は親のない子供のことを考慮して親子による競技を自粛するところもあったという。
運動会と並んで秋の行事といえば神社などのお祭りだろう。ただ夜店が出て賑やかになるというだけのものもあるが、何年続くという枕で紹介されるその地方独特の行事が注目されるようになった。特に、一時期途絶えていたものまで、何とか復活させようとする動きもあり、それに興味を持つ人々が集まり、出店など無くても以前に比べたらずっと賑やかになっているようだ。こういう風習、慣習にはギョッとするものも多く、そんなものを人前に出してとか、そんな無茶なことをしてと思われるものも少なくない。だからこそ人々の注目を浴びるのであり、もっと人が集まってくることになる。こういう観点からすれば、古くからの風習、慣習は大切に守っていかねばならないとなるのだろうが、全てがそうならないところが最近の世の中の難しいところだろう。ここ当分の間大きなものはないが、選挙の度に登場する置物がある。何事でも始める時に成就を願って片目を入れ、その後思いが達成されたときにもう一つの目を入れるというのが習慣のようだが、いつ頃どのようにして始められたことなのかよくわからない。何しろその置物自体、昔の高僧をかたどったもののはずだが、偉いお坊さんを玩具のような置物にしてしまう感覚はちょっと理解しがたいところがある。いずれにしても、この習慣に待ったをかけようとする話があったのだそうだ。片目では成就できていないというのは、片目が不完全という意味になり、視覚障害者を差別するきっかけとなるというのが主旨なのだそうだが、実際にそのニュースを見たわけではないので少しずれているかもしれない。いずれにしても、そんな訴えに応えて、一部の議員はその置物を事務所に置かなくなったそうだ。なるほどと思う半面、どうもおかしくないかと思う。訴えの中の論理に不具合はなさそうだが、はたしてそんな考えを持つ人がどのくらいいるのだろう。実際にはそれが問題なのではなく、そのやり取りを見た障害者が嫌な思いをすることが問題なのだという意見もあるようだ。いずれにしても、こういう話は複雑な状況を生み出す。そうして、古くからの慣習は差別意識に基づくものであると結論づけられ、忘れ去られることになる。はたしてそういうやり方が正しいのだろうか。そういえばこれとは違う話かも知れないが、差別意識に基づく言葉が公の場では使えなくなってからずいぶんと経過した。未だに文筆家の一部にはその問題を取り上げる人がいて、言葉の自由を奪うものだと主張する。差別という意識がそれをする人々から発せられるものという形式から、それを受け取る人々に感じられるものであるとする形式に変化し、様々な事柄に制限が加えられるようになった。皆に優しい社会を築くために必要なことという主張は大いに評価できるのかも知れないが、どこかに行き過ぎが起き始めていないだろうか。置物の製造者でなくとも、ちょっと気になる動きである。
群集心理を操る方法の一つとして、調査があるのではないかと思う。皆はこう思っているけれどあなた自身はどう、という問いかけを調査結果は示しているのではないだろうか。別の言い方をすれば、これが今の流行だけれど、あなた遅れていませんかと声をかけているとなる。多数が賛同すると言っても全てではないのに、ついそういう声に乗せられる人が多いのだろう。
世論調査とか市場調査とか、調査の前にちょっとした文字が並んで、対象としたものを示すが、実際には誰が対象なのかわからないことが多い。また多くの場合、どんな質問をして結果がまとめられたのか書いてない。だから、集計結果の数字とその項目だけが意味を持つことになる。しかし、実際に答えた人々の理解は違っていることも多く、集計者の意図と回答者の意図にずれが生じることは度々なのだと思う。国民性がよく出ると言われるのはあらゆる質問に中庸の答えを返し、結果がはっきりしないものになってしまうことだが、これはあくまでも質問の内容が悪く、そういう結果を導く聞き方をしているからである。そのあたり誤解している人も多いが、元々はっきりと肯定否定の返事をする人に対して発せられる質問をそのままそうでない人々に対して行うのは意味がないことだ。もし、はっきりとした返答が必要ならばその幅を狭める工夫をすべきなのだから。そういうものではないが、ある新聞に毎週末調査結果が載せられている。行ってみたいレストラン、お気に入りのワイン、乗ってみたい夜行列車、落ち着く庭園などといった話題で、興味の無い者にとっては何の役にも立たないものばかりである。そのこと自体が時流に乗っていない証拠なのかと思うこともあるが、そんな話題で毎週濁している企画者の意図が理解できない。ただ、どこかに群集心理を意識している部分がありそうで、更にはそれによる何らかの効果を考慮しているような雰囲気もある。まあ、穿った見方をすればある意味の広告であり、それによって消費者の動きを調整しようとするものなのかもしれない。いずれにしても、特定の対象が紹介されるわけだから、流されやすく飛びつきやすい人たちにとっては格好の情報源となるのだろう。その中で、少し違った雰囲気のものが数週間前にあった。30代の女性に対する調査というもので、ある意味人生に対する考え方を問うたもののように見えた。なるほどこんな考えがあるのか、ということを読者に伝えようとする意図が前面に出ていて、その点は評価できるのだろうが、中身は今一つ、というかちょっと首を傾げるものだった。何に引っ掛かったのか、と言えば、30代と謳っているのに、そこに書かれた意見にその年齢層に属さない人のものが多く載っていたからだ。掲載の意図ははっきりしている、面白い意見だったからだ。その他の年齢層にも同じ質問をぶつけているから、こういう情報が手元にあったのだろう。しかし、題名との乖離はあまりにも明白である。調査の意義やそこから導き出された問題点など面白いことは沢山あるのだろうが、企画者のこういう姿勢には呆れてしまう。面白ければいいのだという主張がどこかから聞こえてきそうで、またかという気持ちになるわけだ。それなら、いっそのこと全ての意見が30代から出たものと嘘を書いてしまえばいいのにという意見もあるだろうが、そこまでの操作には違和感を覚えたのだろう。問題意識の違いと言えばそれまでだが、これに限らずこんな話が増えているのではなかろうか。
レコード全盛というとふた昔ほど前のことになるだろうか。自宅で音楽を聴くとしたら、レコードをかけるかそれを録音したテープを聴くか、といった具合だった。今では、いろんなものが出回っていてすぐには理解できず、話についていけないことも多い。媒体が変わろうが音楽には変わりがないと言えない部分もあるようで、中々難しいことのようだ。
ジャズは元々海の向こうからやって来た音楽だが、この国でもその歴史は古いようだ。明治の終わりから大正の初めにかけての時代に既に楽しまれていたという話があるくらいである。そんな歴史のせいか、ジャズ好きの人の数は多く、ひょっとしたら本場に次ぐ一大市場なのかも知れない。そんな事情からなのか、レコード全盛期には本国でなくこちらでアルバム製作をするジャズ奏者が沢山いた。意外なことに彼らは本国ではまったくレコードを出さず、もし聴きたいと思ったら輸入盤を手に入れるしかない状態であったらしい。事情通に言わせると、レコード盤の価格の違いにその理由があるそうで、あちらで作っても7ドル程度でしか売れないものが、こちらで作れば3000円を超えるものになる。当時の為替レートを考慮するとたぶん4倍ほどの違いになるだろうか。印税のことを考えればその差は歴然としているし、無ければ少々高い輸入盤でも手に入れようとするのが趣味の世界の常識だから、売れる数の方はどちらで作ったとしても大した差にはならないという判断なのだそうだ。市場原理という言葉が価格競争の方にばかり使われるようだが、需要の状況によってはそういう形に現れないものもあるという例の一つだろう。その後、レコードは忘れ去られ、もっと高度な技術が織り込まれた媒体が次々に導入されていった。ただし、一部のマニアの中には聴覚の限界を超える音の存在の重要性を訴える声が起きていて、懐古趣味とは呼びにくい動きも出ているようだ。技術の進歩は留まるところを知らないというのはどこでも事情は同じなようで、音楽業界も媒体とその仕組の技術革新の波をかぶっている。記憶媒体の発達だけでなく、記憶形式の変更もその一つで、それによって以前では考えられないほどの量のデータを溜め込むことが可能になっている。容量が小さくなれば、単に貯蔵が簡単になるだけでなく、データ転送も容易になる。ある媒体から別の媒体への転送が短時間に行えることは、通信を使っての転送にも当てはまることだから、ネット社会が確立されつつある時代にはうってつけの技術発展なのだろう。そんな中でパソコンメーカーが出した媒体は爆発的なヒットに繋がり、大きな世界を築くまでになった。当然データの供給の形態にも変化が現れ、それ専用のサイトが開設されたと聞くがどんな状態にあるのかよくわからない。音楽の場合、一部を除けば著作権の問題が解決されておらず、データの供給を考えるうえで大きな足枷となっていると主張する人々もいる。どんな媒体にしろデータを販売してしまえば、それを別の形式に変換したうえでデータを供給することは可能だから、音楽家自身が知らないところで取引があっても不思議はない。たとえそこに金銭取引が無くても、他の方法で手に入れるために必要な金銭が流れなくなるわけだから、被害が出ているということになるのだろう。この状態が長く続けば、おそらく音楽アルバムの販売自体をやめてしまう人がでるのではないだろうか。彼らにとっては、実際の演奏を聴きに来る人だけが対象となり、その活動だけに留めようとする動きが起こるかもしれない。これもまた市場原理の一つかも知れず、時に自分の首を締めることに繋がるのもやむを得ないのだろう。
休日はありがたいものなのだろうか。家族を連れてどこかにでかけなければならないと思う人にとっては必ずしもありがたいものではないかも知れないし、何もすることを思いつかない人にとっても迷惑なものかも知れない。それに比べたら、一日中寝て過ごす人にはとてもありがたいものに感じられるのだろうか。いずれにしても、中途半端な感じで困っている。
休みだといっても結局やらねばならないことはあるし、動かないわけにもいかない。そんな気持ちを持ちながら、でも追い立てられるわけでもなくこなしてきて、さて本日の話題はと考えてみたのだがさっぱり思いつかない。どういうわけだかサッパりなのである。無理矢理何かを引っ張り出してという気も起きかけたが、無駄だと思いやめておくことにした。まあ、たまには何のテーマもなく、書き連ねるのもいいではないか、と勝手に思いつつ書き始めたわけだ。天候の話やプロ野球の話など、話題には事欠かないこの頃だが、どうも今一つという気がしてしまう。同じことを繰り返し書くことになるのも一つの理由だが、どうでもいいことに思えてしまうところもある。そんなことを書いては元も子もないわけだが、今はそんな気でいるのだから仕方がない。戯れ言と言われてしまえばその通りだが、開き直って言ってしまえば勝手な独り言に過ぎないわけだから、それでいいのではないかとなる。じゃあ休んでしまえばという意見もあるだろうが、それはそれで何となく気持ちが悪いのだから、本当に勝手なものだ。新聞のコラムのように仕事となれば、どんな事情があっても休むわけにはいかないし、ここまで勝手なことを書くわけにもいかないだろう。その点気楽なものだと思うわけだが、そのくらいのことが無ければ素人がこんなこと毎日やれるはずはないのである。勝手に始めたことだから、いつか勝手に止めてしまえばいいと思っているが、今のところその気が起こるところまでは至っていないようだ。ただだらだらと書く日もあれば、これを言わねばと思いつつ書く日もある。どちらも自分の言葉に違いは無く、どちらにしても同じくらいの手間がかかっている。気持ちの入り方は確かに違うはずだが、それが筆の進み具合に影響するほどのことはないようだ。それにしても、気乗りがしないというのはこういうのを言うのだろう。だらだら書いているだけになっている。やっぱり休みはゆっくり過ごさなければならないのだということだろうか。それとも、ただだれているだけなのだろうか。どっちにしても、今日のところはここまでということだ。
アウトソーシングという言葉がごく普通に使われるようになっているらしい。外部委託と言うとちょっと違うのかも知れないが、自分のところでできないことを他人にやってもらおうとするもので、動機や事情は色々あるけれども結局のところ外に任せるというわけだ。と言っても、実際には社内で派遣社員のような形をとる場合も多く、外部という感覚は感じられない場合も多いようだ。
この制度を採り入れる動機の一つに経費があるが、これが中々曲者のように思える。確かに、社内の人員を配置して大掛かりにかかれば、それだけの出費を計画しなければならず、何でもかんでも試してみるという具合にはいかないだろう。それに比べれば、外部に委託すれば、契約である程度の経費を確保する形にして、上手く軌道に乗ればその後は自社でという移行形態をとることができる。上手くいかなければ、契約期間を終えたところで、打ち切りにすればいいわけだ。無駄な人員配置をする必要もないから、安全で経費の節約にもなると考えられている。実際にその通りかどうか、わからない部分も多いが、まあとにかくそんな制度が採り入れられるようになった。最近は景気回復もあり、そういうやり方よりも自社で独立にというやり方に戻すところも出てきたようだが、機密を守る意味では後者の方が安全と言えるのだろう。経費節約という意味での外部委託は何も企業に限ったものではなく、自治体でもそういう形を採り入れているところがある。一番の問題は人件費であり、そこの切り詰めるために派遣社員を雇ったり、外部に委託する場合が多いようだ。一部ではこの制度の良いところばかりが紹介されているが、実際にリスクはないのだろうか。機密保持という意味での問題は出てくる場合もあるだろうが、それ以外に、特に経費の点で問題となるところはないのだろうか。と思っていたら、先日まったく違うところからおかしな事件の報道があった。一般社会とは隔絶された社会という見方がよくされる学会と呼ばれる社会があるが、それに関係した組織の崩壊に関するものだ。学会事務センターと呼ばれる、学会の事務を代行するところは文部科学省の関係団体として、長い歴史を持っていた。事務を代行するといっても、会費の徴収などにも関係するから、金の管理も行うわけで、細々とした事務処理を一手に引き受けてくれるということから、かなり多くの学会が委託していたようだ。その組織が何を間違えたのかへんてこな金の流用を行い、結果的に大穴を開けてしまったらしい。おかしくなったのは再生の申請が却下されたためで、そこから個々の学会それぞれに問題に取り組まなければならなくなった。大部分の金については問題ないようだが、一部には預かり金のような形をとるところもあり、それについては回収不能となってしまったらしい。実際には多くの学会は社団法人という形態をとっており、自分のところで事務処理を行っている。しかし、新参の多くの学会は規模の問題もあり、外部委託せざるを得ない状況にあったのだろう。信頼おける組織という認識もあり、ある学会についてはかなりの被害を受けてしまったようだ。この学会は規模の点ではかなり大きいものだから、法人化が一つの道だったのだろうが、それを選択せず外部委託の道を選んだ。今風のやり方として注目されていたところもあったが、こんなことが起きてしまうと失敗だと片づけられてしまいそうだ。これは隔絶された社会での出来事には違いないが、実際には一般社会にも当てはまりそうな話である。経費、効率を追い求めた結果、こんなことが起きるとしたら、それに向けて何かの対策を組んでおかねばならないし、外部委託が最良の道とは言い切れないだろう。
隣の国からやって来たドラマが大流行りして、何故だろうかと首を傾げてしまうが、ドップリと浸かっている人々には疑問など無いのだろう。見たこともないから意見を言うこともできず、ただ傍観するのみとなっているわけだが、それにしてもと思うのは自分だけだろうか。昔懐かしい純愛物語というコメントを見ても、何故という疑問は解けそうにもない。
テレビドラマは映画と違って製作に時間をかけるわけには行かない。だからほとんどのものが追っかけっ子のように撮影されているようだ。それでも大昔のように録画装置が無かったころに比べればずっとましである。スタジオで、その場で演技をしなければならず、駄目だしもできない、まるで舞台のようだったらしい。舞台であれば十分に稽古をして、期間中は毎日同じ演技を繰り返すのだからまだいいとして、こちらはその場限り、一度きりの演技である。まったくすごい時代もあったものだと思うが、今となっては遠い昔のことなのだろう。その後も映画が斜陽になるまではテレビドラマに出るなんてという気持ちがあったからか、一流の役者はほとんど出てこず、テレビ専門の役者が登場していたようだ。当時は、ドラマ製作も多くできず、時間を繋ぐためにはどこかから番組を持ってくるしかなかった。そういう事情からかテレビ大国からの輸入物が沢山放映されており、逃亡者、コンバットなどという番組はかなりの人気を博していた。この状況はかなり長く続いたが、今ではほとんど流れなくなった。学園物語や病院物語が一部の局から流されているが、その程度のものである。そんなことを思っているうちに、全然違うところからの純愛物語が流れてきたわけだ。確かにあちらの大国からはそんな物語は流れてくるはずもなく、こっちでも表面だけを捉えるものになるのではと危惧する向きもあって、そんな企画を取り上げることもなかったからだろう。それにしても、よその国のドラマを見ていると、その国の事情が反映されているので面白い。特に憧れの対象となっていた国からのドラマは、そこへ行きたいという気持ちもあって熱中して見た人も多かったのではないだろうか。その中で印象に残っているものの一つに、CHiPsを取り上げたものがある。California Highway Patrolsの略だったと思うが、簡単に言えば警官物語である。毎回事件が起こり、それを解決する二人の警官を中心としたドラマだが、出てくる場面が実際の交通事情を反映したものだから、通常の旅行番組で取り上げられるものと違って、何となくその場にいるような気持ちにさえなった。今思いだしてみると、この国との交通事情の違いがいくつか現れている。高速道路にはゲートが無く、どこも無料となっており、車の出入りが自由だから、逃走車もそれに応じた逃げ方をする。一部の道路は片側6車線ほどになっていて、その交通量の多さなど驚かされることが多い。そんな中で気になったことが一つある。事故の場面が何度も出てくるのだが、その処理の仕方がどことなく違っているのだ。二人で組んでパトロールに出ているわけだから、事故があれば二人で処理をする。その際に一人が事情を聴いているのに対して、もう一人は後続の車の整理にあたるのだ。事故によって生じる渋滞をいくらかでも緩和しようとするのだろうが、更なる事故が誘発されないようにする意味もあるのだろう。沢山の警官が全員で事情聴取にあたり、後続の車はそれぞれ二車線を変えながら現場を抜けるというこの国の状況とはかなり違っていると感じた。何故だかわからないが、何がより重要と考えるのかによることなのだろうか。
こういうのも適応力というのだろうか。カレンダーを見て、休日ということに気がつくが、何故、どういうという疑問に対する答えがすぐには出てこない。何十年も慣れ親しんだ制度を急に変えられるとこんな反応が出てくる。都合の良いようにしてやったのだからと永田町辺りからの声が聞こえそうだが、果たしてそうなのか。
休みは連続していたほうが都合が良いはずとか、ゆっくり休めるから良いはずとか、元々の動機は何だったのか、そういう流れを追っていなかったからまったくわからないが、それにしても毎度のことながら戸惑いが現れる。国民の祝日と言われるものが合計幾つにあるのかわからないが、何かを祝うためのものであることだけは確かで、休むためのものではない。それがいつの間にか順序が逆になり、休みとして意味のあるものにするためには、という考え方が主流になったようだ。今回のものは本来は老人を敬うためのものと小さい頃から教えられてきたが、その由来は教えてもらえなかったようだ。その日に定める理由がどこかにあるはずで、適当に指差して決めたなどというものではないから由来があるはずだが、既に制定の頃からそんなことは重視されていなかったようだ。まあ、そんな程度のものだから、祝うなどと言っても実感はなく、ただの休みと成り下がるのも無理はない。そうなってしまえば、誰かが都合を持ちだせばそちらに流れるのも道理なのだろう。それにしても、月曜日が休みだとどう都合がいいのだろうか。週の始まりが一日遅れるからとか、三連休になるからとか、色んな考え方がありそうだが、商店が休みになることは稀だから、一部の会社員だけがその恩恵に浴しているような気もする。特に最近は休みだろうが、店を開けるところが増えてきて、スーパーでも年中無休どころか、24時間営業のところまで出てくる始末である。経営の立場からの見方がいつだったか紹介されていたのだが、理解できる代物ではなかった。休みを、休みをと求める人々と、休まず、休まずと売る経営者、その間には認識の隔たりがありそうに思える。もう一つ、この国の特徴として挙がるものに休暇制度がある。法律で定めてもらえば大手を振って休めるが、自分の権利として存在する休暇は使えないというのが、村社会的な形態をとる企業の問題であると何度も取り上げられ、長期休暇を推奨する動きが出てきているが、そこはやはり閉鎖社会の常である。笛吹けど踊らずというか、踊ったら負けみたいな雰囲気が残っている。休む必要があるなら休めばいいのに、と考える人々が出てきていると聞くけれど、いざやってみると難しさを実感するという。一方で、学校に通う子供たちを休ませるのはいけないという考えは少なくなりつつあるようだから、そちらの問題は大きくなさそうだ。いずれにしても、働け働けと言われた時代から、労働分担とでも訳せる制度の導入が検討される時代に移り、休暇の取り方についての変化が出てきそうな雰囲気である。しかし、仕事量と人員の均衡が崩れてしまい、それどころじゃないというところも増えているわけだから、すぐには解決するはずもないか。休むという意味で使われるリクリエーションの本来の意味を考えると、怠けると思ってしまう人の心は理解できない。止まったら動けないという考え方もあるから、一概には言えないことなのだろうが。