覚えている、というのは何となく不思議なことのように思える。ど忘れのように、どんなにがんばっても思い出せないことがある一方で、ふと何かの拍子に思いだすことがある。その違いは何だろうか。よく言われるのはきっかけとか引き金というものの存在で、それによってひょいとスイッチが入るかどうかが違いになって現れるのだそうだ。
年齢を重ねるとともにそれまでに入ってきた情報も同じように重なるから、その量はどんどん増えることになる。だから年寄りほど沢山のことを覚えていなければならないというと、一度に反対意見が聞こえてきそうだ。入ってきたものは多いのだろうが、その内で頭の中に留まるものについては逆に減っているのではないか、というのが理由の一つになりそうである。これが事実かどうか、簡単に片づけられるものではなさそうだ。特に、新しい記憶についてはそういう傾向があるにしても、古い記憶についてはそうならないように思える。小さい頃に覚えた歌や学校時代に覚えさせられた詩などがふと出てくることがあるのは、古い記憶がちゃんとおさまっているからだろう。古いものに関して問題となるのはそれが入っている抽き出しの開け方にあるようで、思い出せない場合の大部分はここに障害が起きたときらしい。一つきっかけが出きればあとはいとも容易く解きほぐされるようで、記憶自体は古びていないことが多い。それに対して、新しい方は入ってこなくなるとどうにもならなくなる。そこにないものは何をしても出てこないわけだ。ある時ふと思いだすこともあるが、この間の経験はちょっと面白かった。レストランでよく音楽が流れていることがあるが、何気なく聞いていることが多いのは曲名も何も意識しないことから明らかである。ただ、時々そんな弛緩した状態が急に変化することがある。懐かしい曲と認識できたときもそうだし、曲名を思いだそうと急に思いついたときもそうだ。思いがけない場所で思いがけない曲に接することもあって、以前海の向こうのデパートで学生時代に聴いた曲が流れてきたときには驚いた。先日の話はこれと似ていて、以前から気になっていた曲なのだが、さほど流行りもしなかった映画の主題曲だったから、そんなものはどこにも残っていないと思っていた。今も旋律を思いだすことができるけれども、それを実際に聴くことはないと思っていた。ところが、また意外なところでそういうことが起きたのだ。面白かったのはそれと認識するまでの自分の行動で、はじめは流れている曲に何の反応も示さず、ふとおかしいなと思いはじめ、最後にはハッと気づくという流れだった。知っている曲と気づいてしまえばあとは何だったかを思いだすだけである。このときはさほどの苦もなく思いだしていたと思う。学生時代に観に行った映画の主題曲、ずいぶん昔のことなのに覚えている。どこで覚えるべきかどうかを決めているのかよくわからないが、一度覚えておくと何度も出してくることができる。でも、何がそうなるのとならないのとの区別をしているのだろうか。この辺のことは、まったく思いつかない。そんなところから不思議だ、と思うのである。
国際化が叫ばれ続けているせいか、共通言語の習得が重視されている。そのための方策として、早期開始が第一という主張が一時期強いものとなっていたが、最近はその効果を疑問視する動きも出ているようだ。第一言語の習得が言語能力の構築にとって最重要課題であり、その途上で第二、第三のものに手を出すことに対する懸念があるらしい。
言語能力はその使い方によって大きく二つの領域に分けられると聞く。話す、聞くという音声を介した伝達方法と、書く、読むという文字を介した伝達方法のどちらを使うかによって、ずいぶん違う能力を使っているらしい。いずれにしても、言語能力のことをさす場合、これら両方が身に付いてこそのことで、話す、聞くという能力があっても、読み書きが不十分であるとどうにもならない。この国の場合、文盲の存在が問題視されないほど教育の整備がなされているから、この違いに気づかないところがあるが、義務教育制度が無い国や整備できない国ではこれら二つの能力の違いが明確になる。アルファベットを文字として使っている国では、文字を覚えるのに大した苦労を伴わないけれども、一方で言葉、単語の綴りを覚えるのに苦労する場合がある。言語によっては、綴りと発音の間に法則性が適用できない場合があるからだ。だから綴りを対象とした競技会が存在し、学校の代表が戦うという行事が各地で開かれるという国もある。かなはこの国でしか使えないアルファベットだが、表音文字と言われるように音をそのまま表しているから、綴りの部分で苦労することはない。話している言葉をそのまま文字にすればいいからだ。その代わり、話している音を全て表現しなければならないから、覚える数も当然増えてくる。これは大変なことと言いたくなる人がいるかもしれないが、現実にはそうなっていない。なぜなら、その先にもっと大きな山がやって来るからである。小学校で苦労した人ならすぐに思いつくことだが、書き取りの時間と関係している。かなは表音だから音を忠実に再現するだけであり、同じかなの並びにしかならないので同じ音の繋がりをもつ言葉を表そうとしても不可能である。そのために登場するのがかなが作られるより前に外から伝わってきた漢字ということになる。漢字は意味を表す文字、表意文字であり、音はわからないが意味はすぐにわかるということになる。それとかなとの組合せによって、この国の書き言葉は作られていて、読むときに意味がすぐにわかるようになっているわけだ。しかし、これが難物で、複雑な構造をしたものを丸覚えしなければならない。義務教育期間9年を使って、膨大な数の漢字という記号を覚えるのがこの国の子供たちに課せられた重大な義務なわけである。そんな過重をかけることを問題視し、外からやって来た文字を排除しようとする動きは何度も起きたらしく、百年ほど前にもそんな提言がなされていたらしい。もしそれが採用されていたら、楽だったと思う人はいないのではないだろうか。この文をかなだけで読まされたら、ぞっとするのではないか。本場よりもすごいと言われる漢字学者によれば、漢字は借り物でも何でもなく、この国の文化にとって重要な要素の一つである。色んな形で本来の意味が伝わらないような変更が採り入れられてきたが、それでも文字の意味との連関は維持されている。学校での難行苦行は確かにつらいものだが、こんなに便利な道具を発明してくれた人々に感謝するとともに、それを採り入れてきた先人達に感謝すべきなのだろう。
いつの頃からか、上がり始めたガソリン価格は二割増しの水準に達しているようだ。車での移動を余儀なくされる人々にとっては、かなり厳しい状況に思えるが運送業などどうなっているのだろう。何でも値下げが当り前だった時期が長かったせいか、どんな形にせよ値上げは歓迎しにくいものである。特に、原材料の値上げを製品の値上げに結びつけられない職種は大変そうだ。
今回の値上げの原因はどこにあるのか、はっきりしたことは言えないかもしれない。しかし、最近の報道を見ているかぎり、原油価格の高騰が影響しているとするのが一番手っ取り早いようである。便乗しているかどうかは別にして、このところの価格の動きには異常なものが感じられるし、それが程度は色々あるだろうがガソリンという製品の価格に跳ね返っても矛盾はなさそうに見える。しかし、実際にガソリン満タンを依頼してみると、そこに記された総額にはちょっと驚かされる。確かに二割も増えてしまえば、4000円だったものが4800円になるのだから、馬鹿にできない。改めて、こういう原料の価格の調整の大切さを実感するものだ。このところの高騰について、次から次へと上がってくるために、その要因の解説に追われている感じが報道姿勢に現れている。現実に不足したために起きている現象であれば、その理由を述べるだけで済むもののはずだが、実際にはそんなことは起きていないから、ことがややこしくなっているのだろう。あそこの国の政情不安がとか、あちらの国の生産調整がとか、あの国の原料輸入の伸びがとか、次から次へと出されてくるが、どれも決定的には思えない。確かに要因の一つになりうることは認めるが、決定的な要素とは思えないからだ。それよりも、例の如くのゲーム感覚の動きが見え隠れしているほうがもっともらしく聞こえる。要因として分析筋が出してくるものの多くは、後付けのものが多く、どこかから無理矢理引っ張り出した感が否めない。それに対して、高騰する動きに便乗する投機筋の動きはいつものようにはじめはゆっくりと、そして加速され、最後にハシゴが外されるという図式を展開する。今のところ、加速した段階に過ぎないから、ハシゴまで至るかどうかは単なる推測に過ぎないが、相変わらずと思えば、それで十分に説明がつく。また要因として出されるものもそういう筋に加担する人々が裏付けとしての必要性を感じたうえで出してくるものだから、もっともらしく聞こえればそれで十分となる。特に、不安要因は心理的な効果があればどんなことでもよく、先行き不透明感を強調することが最適と考えられる。見えないものにこそ不安感を抱き、それが時には恐怖感にまで発展する。その辺りを巧く制御することができれば、収益を上げることができるだろう。今回の原油高騰が例の如くの流れに乗ったものかどうかは定かではないが、どこかでそんな動きが暗躍していても不思議には思われない。末端で給油の価格が上がったことにブツブツ言っている人々にとっては、そんな上流の細かいことはどうでもいいことなのだろう。そんな分析するよりも、さっさと値を戻してくれという声が聞こえてきそうだ。
教育における平等、不平等について少し書いてみたが、どんな印象を持つだろう。世代による違いがはっきり出るのではないかと期待しているのだが、自分のこと以外には想像がつかないし、どうせ書いてみても推測に基づくことに過ぎないから、意味がなさそうに思える。しかし、現場では推測でもいいから何か案を出せといわれるのではないだろうか。
家庭教育を除けば、どの現場の教育も初等、中等、高等の区別に関係なく何らかの指針に沿って行われていると言えるだろう。学校教育はそういう形式をとらないと、集団を相手にしているだけに始末におえないものとなってしまう恐れがあるからだ。家庭教育にはそれらに比べるとずっと高い自由度があるように思える。しかし、これは裏を返せば、どうにもならない結果を生み出すことになりかねないという意味になる。最近の家庭教育や地域教育の荒廃は学校教育の荒廃とともに問題視されているが、指導書などが存在しないことからわかるように、系統だった対策の取りようがないようだ。だから放置しておいていいというわけでもないのだろうが、なんとなくそのまま流されているように見える。それはいけないということで、何らかの対策を取るべきとなると、何が起こるのかそれも恐ろしい気がする。一時期、教育関係者から家庭教育のための学校を開くべきという提案があったようだが、これなぞどうにもならないものを生み出すとしか思えない。学校という集団を対象にした現場と同じように、個々を相手にする家庭に指導書が持ち込まれたらどんなことになるのだろうか。想像するだけでも恐ろしい気がする。子育てのときにどんな育児書が役に立つのかといえば、不安を煽るような書き方をせずに、まずそういう感情を鎮めるような書き方をしたものの方が、現実には親を安心させる効果という意味で役に立つ。家庭教育の指導書が出されたとしたら、現在の学校で使われている指導書同様ある方向への不安を煽り、間違った方向性を持たせる結果になるように思える。だから、やめておいたほうがいいと思うわけだ。それでも、何でもかんでも授けるのが当たり前とか、なんにつけてもマニュアルと呼ばれる手引書が必要とされる時代には、馬鹿げたものでも欲しがる人々がいる。さすがにお墨付きの指導書はないが、家庭教育の本は書店に溢れている。内容を読んだこともないから意見もないが、なんとなく想像はつくし、それを読もうとする人々の気持ちも理解できる。理解できるが、どうにも役に立たないことをしていることになると思う。どんなことにせよ手本となるのは親などの周囲の人々であり、それを見て子供は育つ。家庭教育の基本はただそれだけなのではないか。幼児に英語を、漢字をと焦る人々には、自分を見つめる子供の視線が感じられないのだろう。一方向の教育はそろそろ捨てて、双方向という互いに見ることの大切さを重視して欲しい。子育てが親の教育にもなることを実感できない人はせっかくの機会を失っているのだから。
教育は国の事業の一つであり、重要な課題として取り扱われてきた。だから、社会の様子がおかしくなると決まって、国の施策や監督官庁の責任を問う声が大きくなる。戦後の教育の荒廃が今の世の中の歪みが生じる原因であったとするのは定説となりつつあるようだが、どんな荒廃で、その原因が何であったのかははっきりしない。議論が起こるたびに各論ばかりでどうにもまとまらないからだ。
各論ばかりだから議論として意味がないというわけではない。各論ごとの総括は問題点をまとめるうえで重要だし、それによって何らかの対策が見えてくるかもしれないからだ。しかし、これまでの流れをみているかぎり、総括は不十分なままで放置されている感じだし、対策など別の方向に走るくらいしか思いついていないのではと疑いたくなるくらいだ。先日もある番組で教育現場にいる人々とタレントの中で教育に関心がありそうな人々を集めて、教育の現状を把握し、問題点をまとめ、今後の対策を考えるといった形のいつもながらの企画が流れていた。相も変わらずという思いがあるのと、食事中ということもあり、神経を集中できる状況にはなかったが、それでも呆れることが度々あり、相変わらずの問題点の存在と、その把握における不手際のようなものを感じた。大きな問題として取り上げられていたのは、個性を伸ばす教育が本来とは違う方向に発展してしまい、多くの面で歪みを生じている現状だった。個性を伸ばすことが、個性を引きだすのではなく、自由を促進するほうに働き、それが結局責任の存在しない場所の提供に繋がっているとのことで、現代社会で大きな問題として捉えられている自由と責任の組み合わせにおける矛盾の源がそこにあるという結論だったようだ。個性教育推進派からすれば、個性教育の意味を取り違えた人たちによる間違った方向性を、個性教育の問題とされることへの憤りが前面に現れ、誤解を解くことに躍起になっていたようだが、現実にそういうことが起きている原因を突き止めようとする力はどこにも存在しないように見えた。これでは、お互いに批判と反論を続けるだけで、そこに存在する子供たちの被害は膨らむばかりとなる。現実にどういう方策をとるべきかを論じる人々もいたが、それとて微々たるもので全体の流れを止めるには非力すぎるようにも見えた。ただ、こんな状況ではそんなことを言い続けていても無駄で、結局は小さな動きからでも始めることが肝心なのだろう。一方、もう一つの荒廃の様相は学ぶことの喜びをどう教えるのかといった基本的とも思える事柄に出ているようだ。途中からしか聞けなかったので誤解をしているのかも知れないが、あるタレントが自分の経験に基づく知る喜びの例を紹介したとき、現場の人からそれは特定の人によるものであり、クラス全員で共有するものではないとの指摘があったようだ。そこら辺りから沸騰していた議論は、結局のところ今の現場が抱えている大きな問題の一端を表していたのではないだろうか。それはつまり、皆がわからねばならない、わかるまで教えねばならない、といった基本姿勢である。皆が同時に納得しわかることはあり得ず、おそらくそこに時間差が生じる。そうなれば、全員が終着点に達するためには、一部の人は待たねばならない。これはいかにも平等の考えに基づくように言われているが、そこに大きな間違いがあるのではないだろうか。つまり、それによる一部の子供の知る喜びの機会が奪われているのである。遅れている人々に手を差し伸べることが社会生活において重要であるという考えはいかにも崇高なもののように扱われているが、実際にそうなのだろうか。歪みを実感している今だからこそ、皆同じであるべきという空想の産物を見つめ直すべきではないか。
猛暑が続き、残暑というおまけまでがおつりが来るほどに続いてしまうと、すっかりいやになってしまう。そんなことを言っていても、いつの間にか気温は下がり、何となく秋のような気配が漂ってくるから不思議なものだ。ああ、季節が巡ってくれて助かった、と思うのは、この国だけとは言えないけれども、一部の地域だけの特権なのかもしれない。
猛暑の夏には気温が上がるたびに温暖化を強調する人々がいて、一種の恐怖を煽る風潮が続いていると実感できる。じゃあ、この間の冷夏は一体何だったのか、と質問をぶつけてみたくなるが、大部分の人はそういう質問には答えてくれない。自分の言いたいことを、自分の都合のいいように言い続けるだけである。何しろ、民衆は忘れっぽいのだから、こんな人々が箱の向こうで声高に叫んでも、日常に追われて忘れてしまう。だからこそ、何度も強調する必要があるのだという主張もあるが、叫んでいる内容を考えるとどっちもどっちという気がして、賛成する気にはならない。温暖化は気温が上がることという考え方が当り前となっているから、冷夏の時は大人しく知らんぷりを決め込むしかないと思っている人が多い。しかし、今年の猛暑でも、どこかの国では真夏に雪が降ったことがニュースになっていた。たぶん、その国でも同じ考えの人が多くて、温暖化の話はタブーだったのかも知れないが、実際にはどこもかしこも暖かくなることが温暖化を意味するわけではないようだ。よくよく思いだしてみれば、温暖化という言葉を度々使っているが、その前に地球という言葉が入っていることを忘れている。地球規模の温暖化であって、ある地域の温暖化なのではないのである。では地球温暖化はどういう意味なのか、これも思いだしてみると、地球全体の平均気温が徐々に上昇することであり、地域ごとにみれば時には暑く時には寒くなることもあるということのようだ。平均という言葉の難しさからすれば、こういう誤解が生まれるのは当り前のことかもしれない。とにかく、全体として温度が上がっているわけで、それが異常気象の原因となっていると学者達は主張しているようだ。エルニーニョがどうこうと、毎年どこかで言っているが、実際には違う結果が生まれる。暑い夏になったり、寒い夏になったり、暖かい冬になったり、寒い冬になったり、こんな調子では温暖化の影響と説明されても俄には信じ難い。そういえばそういうときの説明にカオスという言葉が出ていたような気もして、そんな説明を聞かされたらこっちの頭の方がカオスになってしまうと思ったものだ。いずれにしても、平均気温は確実に上昇しているという。地球全体の平均気温ってどうやって測るのだろうか、という小学生みたいな質問はどこからも出てきていないようで、何の説明もない。でも、確実には変わりがないのである。その上、今後の上昇率はうなぎ登りだそうで、不安を煽っているつもりがないにしても、聞いているほうは心穏やかにはいられない。さて、今度の冬の賽の目はどちらに出るのか、次の夏はどうなるのか、考えても仕方のないことのようだ。
人前で話すのが苦手な人は多い。そこにいる人全ての注目を浴びるからで、一対一で話すときには滑らかな人でも、多人数を相手にすると臆してしまうらしい。何とか話し始めたとしても、終わってみると何を話したのか覚えていないことも度々のようで、どこかに緊張があるのだろう。先日噺家が人という字を、をやっているのを見たが、彼らでもということだろう。
失敗してはいけないからというので原稿を用意し、それを棒読みする人々がいる。小さな集まりだろうが、大きな集まりだろうが、慣れていようが無かろうが、そういう人たちはお構いなしである。逆の立場に立てばよくわかるが、読むことと話すことは聞く方にとって大きな違いを持つ。聞く方の思考速度に対して、話す方は大して変わらない程度なのだが、読む方はついていけないほど速くなるからだ。読んでいる人間にとっては、目の前にある字を追いかけることに集中しているから気がつかないが、見たままを発声するのに思考が入り込む余地はない。噺家が原稿を持ちながら高座に上がる話など聞いたことが無いが、喋ることを職業の一部としている人たちでも慎重を期すときにはということがあるらしい。一種の慣れに過ぎないことだが、だからこそそれを身に付けるための訓練が必要だ。話すことを重視する国では、小さな頃からそういう機会を与えているようだ。皆の前で、自分の宝物を見せながら話すという試みや、教師が示した絵に対する批評を話し合うという試みがごく自然に行われれていると聞く。慣れてしまえば簡単なことという安直な考え方を基本としたものだが、全ての人が同じように力をつけるわけではない。好きなものならいくらでも話せるが、そうでないと駄目という人がその典型だろう。それでも人前で言葉を選びながら話せるのなら、この国で悩みを抱えている人よりはずっと良いということになるだろう。しかし、この手法はかなり知られたものになっているのに、実施されているという話はあまり聞こえてこない。上辺だけをさらりとすることはあっても、それを訓練の一つとするところまでは至っていないようだ。この対比と同じような考え方で、人にものを見せることについてもかなりの差があると感じる人がいるようだ。プレゼンテーションという行事については、話し方だけでなく、見せ方の巧拙が問題とされる。こちらについても同じような訓練を施すところとそうでないところを単純に比較しても、意味が無いかも知れない。ただ、そこでの差を文化の差にまで拡大しようとする人がいるようで、あちらの国の人々は見せ方が巧いけれどもこちらは下手というところから、文化にそういう土壌が無いとなってしまうようだ。何かの歴史を理解させるのに、年表を使うのは当り前として、そこに視覚に訴えるものを採り入れるのは効果的と思われる。しかし、同じようなものがこの国に無いからといって、視覚に訴える手法が無いのかといえば、そうでもないような気がする。先日何かで見せていた話も、鳥獣戯画や戦国物の絵巻などにある前から後への話の流れに沿った絵の流れが、画面展開の一種と受け取ることができると解説していた。そういえば、最近は歴史物の漫画が沢山あるし、実際には50年前にもそんなものが売られていた。漫画なんてという意見も多く聞かれるが、この国ではこの手法が伝統的に通用するのかもしれない。そういう見方をすると、この国の発表技術も捨てたものでもないのだろう。