パンチの独り言

(2004年10月4日〜10月10日)
(圧迫、有能、場違い、除壁、匂い、閉鎖、破壊)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



10月10日(日)−破壊

 野生動物の出没が話題となっている。熊、猪は場合によっては命に関わる話なので、どこにせよ出合いたくないものだが、それ以外にも鹿の話題が出てくる。こちらは植林の問題と複雑に絡みあうらしく、簡単には片付けられそうにもない。それにしてもどれもこれも根本のところには自分たち自身の問題があって、考えさせられることも多い。
 異常気象だから山に餌が無くなったという話でまとめてしまえば、ことが簡単になるように見える。しかし、実際にはそんなに簡単な話ではないのだろう。自然の食べ物は人間が制御する栽培ものと違って、毎年同じようにできるわけではない。だから、場合によってはその変化の度に動植物の数が変動する。以前話題にしたガラパゴスのフィンチが気候変動による食べ物の変量で、数を増減させるのもそんなところから来るのだろう。こんなことはどこにでも当てはまることで、人が沢山住んでいる島とて例外とはならない。本来なら食べ物が減ることで死ぬはずのものが、別の供給源を見出すことで生き延びるというのが今の図式なのではないか。図々しくなったと言われるが、それも警戒心を解くほど野生とは言えなくなったものが増えているからなのかもしれない。元を辿れば、自然破壊やらそういう類いの話を持ちだすのは容易なのだが、それだけではない、もっと根の深いものがありそうにも思える。つまり、破壊は悪だが、保護は善という考えに基づく様々な動きも、こういう結果を産みだす原動力になっていると思えるのだ。ここで例として引き出されるのは鹿なのだが、保護という名の下に産めよ増やせよという方式が採り入れられると、当然ながら自然が取っていたバランスが崩れ始める。過ぎたるは及ばざるが如しなわけで、趣味やら商売やらで狩猟をすれば減少に拍車がかかるが、一方で一部の狩猟は既に自然のバランスの中に組み込まれている。それが取り除かれればやはり崩壊が始まるというわけだ。樹の新芽を食い荒らすという理由が見つかり、間引きの必要性が説かれた結果、制御に向いだしたようだが、これとてもどこに適度があるのかわからぬままの動きである。結果はどうなることかさっぱりわからない。どうも保護を主張する人々の考えに偏りがあるとしか思えない部分があるのだが、何しろ善であるのだから文句の言い様がない。文句を出すためにはまた別の論理を一生懸命引っ張り出すしかないのである。狩猟が生きるために行われていた頃には、それ自体が一種の調整となっていたはずだが、その時代はとうの昔になってしまった。そうなるともう、均衡を考えた行動に出るしかない。たまに起こる山火事は種の発芽を促すもので、山林が荒れるのを防ぐ手だてになるという解釈が出てきたら、人為的に火事を起こすようになったという話もあるが、ほんの一面を捉えただけの自然制御というのは愚の骨頂に違いない。驕り高ぶりという話はいつの時代もあるのだが、この生き物の特徴なのだろうか。特に質が悪いのは、その度に理由を探し、もっともらしく整えることなのだろう。自分たちにしか理解できない理由を自然に説いても無駄なことだが。

* * * * * * * *

10月9日(土)−閉鎖

 まさに当たり年なのだろう。異常気象と叫ぶにはもってこいの材料が与えられている。以前ならば大したデータもなくどうしたことかと論じるだけだったものが、海水温がどうこうと言えるようになって素人を納得させるには十分な材料が揃ったようだ。それにしても、一つ一つのものによる被害はそれほど大きくなくても、重なればかなりのものになりそうな情勢だ。
 がけ崩れや洪水といった直接の被害だけでなく、雨風が強くなれば色んなところに影響が出てくる。飛行機は当たり前として、列車にもかなりの影響が出ているし、車による移動も例外とはならないようだ。車高が高く、横風の影響をもろに受けそうな高速バスは夜行便を中心に運休となったようだ。立派な車体だけに風を受ければひとたまりもない。高速で走っていれば尚更だろうが、もう一つ別の影響として高速道路の速度規制の問題があるのかもしれない。風雨がひどくなれば、当然運転状況も悪くなるわけで何もない状態を想定して決められた速度制限でも危険を伴うことが考えられる。そのため、時速100キロのところが80キロとか場合によっては50キロに下げられる規制が入る。元々、バスの運行はある速度を想定して決められているのだろうから、極端な減速規制が入ってしまえば時間通りの運行は実現できない。危険という観点もあるだろうが、予定通りというこの国で重視される要素も関係しているのかもしれない。客を乗せて走るバスの場合は危険回避が最優先だと思うが、荷物を運ぶトラックや自家用車の場合はそうでもないらしい。その日に運ばなければならない生鮮食料品とか、契約上の問題があるとか、運送業の場合危険だからといってすぐにやめてしまうわけにはいかない事情がある。速度規制といってもそれを守っていたら市場の要求に応えられないとなれば、少々の危険を顧みずということにもなる。こういう時の高速道路はそんな思惑を抱く車が溢れていて、何とも微妙な危険性を孕んだ状態になっているようだ。だからと言えるのだろうが、事故が当然のごとく起きる。危険性を告知したのにという管理者からの声が聞こえそうだが、本人たちにとってはたまのことなど気にしていてはとなるのではないだろうか。元々危険な状況だから、事故後の処理にも危険が伴うのだろう。こんな日の事故処理にはよく区間閉鎖が使われるようだ。仕方ないと思うしかないのだが、これがまた異常な事態を産みだす。普段ならほとんど車が通らない道路を隊列をつくって、大量の車が移動することになる。こういうことがたまにしか起きないのではないことは、そんな日の道路状況を見ればすぐにわかる。何しろ各所で同じことが起きているのだ。高速道路は一種の大量輸送機関であるだけに、その機能を一般の道路に移すのは簡単ではない。かなりの混乱が起き、場合によっては別の事故の引き金ともなる。何しろ、知らない土地を走るのは難しい。それにしてもまあ色んなところに影響の出るものだ。

* * * * * * * *

10月8日(金)−匂い

 この季節、騒がしくなることも多かったが、今年はそうでもなかった。どこかのお役人の思惑通り、30人もの受賞者が出るのか判らないが、とにかくそれに向かって邁進する雰囲気は中休みのようだ。何をどうすればいいのかという提言よりも、目標設定をするのは官僚の得意技のようだが、これも例に漏れず数字だけが独り歩きしている感がある。
 受賞者の名前が発表されるたびに思うことだが、どうにも興味を持てない。どこの誰だか知らないけれど、何か重要な発見をしたらしい、という印象しか湧いてこないからだ。身近に感じられるものもあるのだろうが、ほんのたまにしかそんなことは起きず、特にあるのかないのか実感もできない素粒子のお話など、右から左になるのが関の山である。とはいえ、一瞬に過ぎないが興味が持てそうな話題も出てくる。今回の中には匂いを感じる仕組の解明といった話があった。自分も持っている能力だから、当然のことながら実感できるし、何となく興味も湧いてくる。しかし、どうやって信号が伝わるかなどというのがどういう具合になっているのか、判ったとしてもどうでもいいのかなとかってに思うところもある。それでも新聞の記事を読んでみると、実感とは違ったことで興味が湧きそうなこともあり、それはそれで面白いと思う。匂いを感じる能力はそれぞれの匂いに対してはじめから備わっているのではなく、生まれた後の経験によるものらしいという話だったからだ。この手の話で有名なのは抗体で、これもまた相手となる抗原との接触が生後の経験によるものだから、その点でよく似ているといえるのだろう。そんな話の詳しいことはどうでもいいとして、そういえば同じ匂いを他の人々がどんな風に感じているのかは興味深いものだと思う。香水などはつけている人間にとっては重要なものなのだろうが、周囲の人にとっては苦痛となるものもある。匂いに対する慣れがあるから苦痛も長続きしないという救いもあるけれども、やはり一時的とは言え嫌に思えることがあるのは避けたいところだ。好きと思えばいいと言われてしまいそうだが、それは無理というもの。身に付いたものを心理的な力で何とかするのは難しいようで、逆に心理の方への影響の方が強く出てしまう。良い香りと思っているものでも過ぎたるは及ばざるが如しとなることも多く、このところ巷に溢れている金木犀の香りもその一つだろう。はじめのうちは淡い香りが漂い、おやと思いながら周囲を見回すわけだが、それが日を追うごとに強さを増し、いつの間にか頭が痛くなることもある。よく見れば、街路樹として植えられているところもあるし、職場のそばには5メートルもあろうかという巨木がある。今年は特に花の勢いがあるようで、木々が黄色く見えるほど花が立派に咲いているようだ。これじゃあ香水をつけ過ぎの紳士淑女と同じではないかと思いつつ、何とか慣れねばと努力するのだが、やはり無理のようだ。少しの間の我慢で、というのも香水事件と同じことで、当分の間悩まされそうな気がする。

* * * * * * * *

10月7日(木)−除壁

 日々の生活で実感する壁の存在は、人それぞれにその大きさが違っているのではないだろうか。能天気と他人に言われている人たちでも、本人の心の中では大きな壁を感じているのかもしれない。それが外に出てくるかどうかも心の問題であり、自分の心の中でどう処理するかが今の社会を生き抜くうえで大切になっているのだと思う。
 ところで、ここで言う壁とはどんなものだろう。英単語で壁は、と聞かれてすぐに思い当たるのはwallだが、これは物理的な存在の壁。というと、堅苦しくなってしまうが、そこにある壁という物を指している。ここで問題にしている心理的な壁はそういうものとは限らないので、あちらでも違う単語で表すようだ。こちらの方も日常的に使う言葉になっているから馴染み深いと思うが、barrierといい、壁と書くより障壁と書いたほうが実感があるかもしれない。バリアを築くという使い方をよくしていたが、相手から攻め込まれないような準備をするといった心理的なものから、本物の壁を築いて入ってこられないようにするという物理的なものまで表現している。どちらにしても、壁を越えるという作業が入るときの壁であり、遠くから眺めているだけの壁ではない。この言葉も最近は別の用法が頻繁となり、よく聞こえてくるのはバリアフリーだと思う。障害者にとっての障壁のない社会という意味で使われることもあるし、高齢者にとって障害の無い生活環境という意味で使われることもある。障害者の社会進出を助ける手段としてのバリアフリーは社会の成熟とともに重視されるようになり、海の向こうの例を追従する形に過ぎないのかも知れないが、とにかくいろんなものが採り入れられている。設備やら構造やらという話はそんな形で何とか整えられるのだろうが、一番大きな問題は人の心なのだろう。せっかくの設備を使えないようにしておく管理者がいたり、利用者が障害者を無視する行動をしたりすれば、何の意味もなくなるからだ。人の心のこういう意識が根づくためにはどうしても時間が必要なのだろうから、すぐにどうせよというわけにはいかないのかもしれない。一方、高齢者が住む家のバリアフリーは段差を無くすとか、手すりを作るとか、引き戸にするとか、いろんなことが考えられているが、全て一種の転ばぬ先の杖のようなものと言われている。転倒などの事故の原因になりそうなものを取り除くという考えに基づくやり方である。フリー、freeというのは自由という意味だけでなく、無いという意味もあり、そこから障壁を取り除いて無くすということでバリヤフリーとなるわけだ。障壁を無くせば、事故も起こらず、安全な生活を続けることができるという触れ込みで採り入れられ、かなりの家で利用されているようだが、最近ちょっと別の見方が紹介されていた。バリアフリーの功罪とでも言うのだろうか。効果は上に書いたように色々と示されているが、逆効果というか悪影響の方は様々な事情から紹介されていなかった。一番大きいのは障害のない生活は障害に対する準備を怠らせるというもので、考え方の根本を揺るがすものになるのかも知れない。つまり、障害を取り除けば全て良しとする考えからすると、こんな結果が生まれるはずがないからだ。現実には全ての障害を取り除くことはできないし、自然の中はそんな整備がされているはずもない。そういう環境で、バリアフリーでの生活を長くすると筋力や注意力の低下が現れ、整備されていないところでの事故が増えるのではという懸念が示されるようになった。これから即座に結びつけられるものではないが、障壁を除けばいいという考え方が浸透した結果、最近は除くことの悪影響を考えることなしに実施しているものが増えているように感じられる。その辺りが社会の歪みの原因の一つとなっているのではないだろうか。

* * * * * * * *

font color=green size=4>10月6日(水)−場違い

 人に考えを伝えるのはとにかく難しい。同じ思考回路を持っているならいざ知らず、それぞれに違う考え方をするわけだから、まずは相手を理解しようとする気持ちがなくては困ってしまう。そんなところから壁の存在を感じるという話が出ていたが、そこにあったどうにもならないものというより、高さや厚さの点で人それぞれに感じるところが違う程度のものなのではないだろうか。
 誤解している人もいるだろうが、考えの伝達の可否は受け手の責任ではない。つまり、相手を理解するというのは考えを受け取る側にだけ課された課題ではないわけだ。送り手の方も、受け手がどんな考えを持っているのか、どんな反応を示すのかを探る必要があり、それに基づいて送り方の工夫をしなければならない。確かに、絶対確実な方法があるわけでもないから、こうすればいいというわけには行かない。しかし、反応を見ながら徐々に軌道修正をする必要があるのは確かだ。以前眺めていて面白いと思ったのは、いわゆる境界領域と言われる学際的な立場の人の対応の仕方である。分野の異なる人々になるべく理解してもらおうとある程度の努力をするが、その場合相手に分かるような話を交えてみることが多い。そうすれば、その範囲だけでも理解できるだろうから、その先へ踏み込む期待が持てるわけだ。それでも結果として、分かる部分と分からない部分が互い違いに現れるだけの結末になるだけのことが多い。こういうやり方が普通のことと思っていたが、ある時まったく違った手法を展開する人を見た。二つの領域に跨がる範囲の仕事をしている人だが、それぞれの領域に属する人がいる場所で別の領域の話を中心に進めていた。つまり、相手が苦手と思う話題を中心に話を組み立てるわけだ。これはこれで一つの戦略なのだろうが、どうも壁を築くことに力を注いでいるように見えて不思議な気持ちになった。元々話をするのは聞き手を納得させようとするためと思っていたが、この人物の場合そうではないらしい。難しさを相手に感じさせるためにそういう手法を使っているとしか思えないのだ。それによって何が得られるのか理解できないことであるが、本人にとっては重要なことなのだろう。これとは別に、違った手法で話をする人もいる。この場合、話の内容を知らせることよりも大切な何かがそこに存在しているような印象を持った。国際的という言葉は国内では何よりも重要ととられることもあり、そういう場での発表を重視する人も多い。国際であるからして共通言語の使用が重要となるのだろうが、そういう場では当然のことながら同時通訳者が存在し、補助的役割を果たしてくれる。だから自国語を駆使して話をすることに対して、文句が出るはずのない状況にあるわけだ。しかし、当人はそういう考えではなく、自ら共通言語を使うことを重視したらしい。その場合、慎重な人々は原稿を用意し、不測の事態に備えようとするのだが、違う目的を持っていたらしい人物は何も見ずに滔々と話し始めた。結果には触れないとして、話のあとに、はてと思うことが幾つかあった。何故なのかがまず第一に理解できなかったし、内容的にも自国語での話の方がよかったのではと思うところもあった。同時通訳は当然ながら予想されたのと逆の役目を果たしていたが、それが本人が自国語で話したときと同じものとなっていたかには疑問が残る。時と場を考えてとはよく言われることだが、その辺りにも理解が必要に思える。

* * * * * * * *

10月5日(火)−有能

 忙しい人はもっと忙しくなる、という話を聞いたことがある。何かの拍子に仕事が飛び込んでくると、次から次へと続いていき、机上に山が築かれることになる。そんな人の近くにさほど忙しくない人がいると、その違いは何なのか気になることもある。それは、仕事のできるできないであるという人がいて、納得できる部分もあるが、それだけなのだろうか。
 何にでも流れがあって、大きな流れと小さな流れがある。仕事にもそんなところがあるようで、大きいところの中心にいれば量が多くなるし、小さなところは少なくなるのだろう。ただ、ここで問題としているのは量であって、質ではない。大きいところが質量ともに高いかどうかは、決まっていないような気がする。いろんな要因によるのだろうが、環境とは別に人となりに仕事の流れを決める要素があるという話がある。頼みやすい人と頼みにくい人という話だ。頼みにくい人にはどこかに壁がある気がするらしく、壁を越える苦労をするより、それのない人の方に顔が向くのだろう。この場合、そこに仕事の質が問われることはなさそうに思える。しかし、集中する人がこなす量が質の方に影響することもあるわけで、長い時間経過してみると結果的に頼みやすさが質の高さを表すようになることもあるようだ。当然逆のこともあるわけで、どんなにやっていても変化が現れない人材もいる。その場合は、ある意味どうでもいい仕事だけが持ち込まれることになるが、受ける人は断らないことを信条としているから大した影響はないのかもしれない。多くのものを抱えている人たちが興味を持つのは、どうやればそういう状況を脱することができるかということだろう。以前聞いた話はかなり極端なものだが、最も効果的なものの一つと言えるだろう。何でも第一印象が大切ということで、まずはじめに頼まれた仕事に関して、上手くこなさないのが重要なのだそうだ。どこかに難点があり、あの人は仕事ができないという評判を立てれば、こっちのものということらしい。なるほどと思う部分もあるが、一方でそんな評判が出れば昇進はなくなると容易に想像できる。そんなリスクを冒してまで仕事の量を減らすことに意味があるのか、それは大いなる疑問となる。ただ、この話には落ちがあって、仕事に種類があるということが大前提となっている。自分の主体となる仕事と脇からやって来る雑用とでもいうべきだろうか、そういう違いがあればその間で扱いを変えても大した影響は出てこないだろう。この話はたぶんその区別をしっかりさせることが重要であるということを意味しているのではないだろうか。何も考えずに降ってくるものを次々に片づけていくというのは愚の骨頂というものであって、ちゃんと主従を明確にし、その上で整理していけば自分自身の能力の評価を落とさずに、仕事量を減らすことができるというわけだ。書くのは簡単なことだが、実際に実行することには無理がある。何しろ、仕事を出してくる先にその区別がなければ、受ける側の判断は意味がなくなる。こんなことを考えると、やっぱり、目の前にあるものを次々片づけていくしかないのかもしれない。山は高くなることはあっても、低くなることがないにしても。

* * * * * * * *

10月4日(月)−圧迫

 記録が出るというので大騒ぎをしていたようだ。それはそれで凄いことだし、その場面を目撃できるのは人によっては嬉しいことだろう。それにしても、この大騒ぎは一体全体どうしたことだろうか。今回のものは毎日の積み重ねから来るものだけに、騒ぎは激化するばかりでちょっと驚いてしまった。やっと終演を迎えて、ホッとしている人もいるのではないか。
 記録は破られなかった期間が長ければ長いほど偉大なものと言われるが、一方で忘れ去られた記録というものも多く、記録破りが出てきて初めて認識されるものも少なくない。今回のものはそんなものの一つに数えられそうなものだったが、やはり破られる段になって本場でも再認識されたようだ。逆に言えば、記録破りがいてこその記録と言えるのかもしれない。競技によっては百年は破られない記録という表現が踊ることもあるが、これは逆に忘れ去られてしまう恐れを表しているのではないだろうか。陸上競技のように一度限りの機会を活かし、その場で記録達成するものには精神的な圧迫の話題はそれほど出されない。現に高地での記録とは言え、何年も破られなかった幅跳びの記録を出した選手は自国の選考会で選考されたとはいえそれほどの記録を出していたわけでもなかったし、その後も活躍し続けたわけでもなかった。一種の瞬間芸のようなもので、確かに才能や努力が必要とは言え、得も言われぬプレッシャーなどというものとは無縁な場合もある。一方、積み重ねを基本とする記録の場合、重ねるたびに意識させられることがあるわけで当然一瞬の勝負とは違った形の精神的な圧迫にさらされる。特に、今回のような期限が決められたものであれば、さらにひどい焦りのようなものを感じるのだろう。それにしても、自信の裏付けがあったからなのか、何事もなかったかのごとく積み重ねていき、あれよという間に達成してしまうのは人の凄さを表しているのだろうか。一方で、このところの話題として聞いていて不思議なものが出てきた。プレッシャーを楽しんでいるという本人の一言を何度も繰り返し流し、それが超人的な偉業の達成に必要な資質であるかのごとく扱っていることだ。確かに、人それぞれに緊張から失敗を繰り返し、そういう状況から逃げ出したくなった経験を持つのかも知れないが、超人こそがそれを押しのける才能を持っているのだろうかと思う。失敗を恐れる人々は緊張に縛られて逃れなくなり、逆に失敗をしてしまうものだが、普段の仕事からそういうものと対面している人は数多くいるのだと思う。別に特別な扱いをするつもりはないが、職人の多くは失敗できない仕事を相手にしており、かなりの緊張下におかれているのだと思う。それでも失敗したらやり直せばいい、という話をする人がいるかも知れないが、それは今回の記録破りでも同じことが言えるのだ。やはり、一つ一つの作品を仕上げるにあたって、これしかないと思いながら続けることには変わりがなく、誰からも注目されないのかも知れないが、常に自分を緊張の輪の中に置いているのだと見える。そんなことを思ってしまうと、偉業は偉業として、その才能の凄さを認めることは当然としても、精神力のことを殊更取り上げるのはどうかと思った。皆それぞれに職業とする以上、それぞれなりに圧力のかかる状況に追い込まれているのである。それを楽しむかどうかは別にして、それを押しのける力が無い者はプロにはなれない。そう考えると、同じような人は世の中に沢山いると言えるのだろう。

(since 2002/4/3)