朝晩冷え込むようになってきた。それでもまだ10℃前後の話で、この辺りでは紅葉もまだだから秋が深まりつつあるという程度の話だ。ただ、ついこの間まで猛暑の話を書いていたわけだから、その変化の速さに改めて季節の移り変わりを感じさせられる。どんなに異常な気象でも、季節はちゃんと巡ってくる。
先日、近くにある古い民家を訪ねてきた。由緒正しいお家らしく、重要文化財に指定されているのだそうだ。そりゃすごいと思うと同時に、こりゃ大変そうだと思ってしまうのは、ある白壁の町並みが何かの指定を受けた途端に住みにくくなったという話を思いだしたからだ。観光客が押し寄せることによる迷惑だけでなく、家屋などの修繕が自由にできなくなることの不自由さがかなりのものだということだった。入場料も何も取れない白壁屋敷と違って、この民家の場合はちゃんと料金を徴収していた。その代わり、現当主が先頭に立って説明をするなど、一種のサービスにも努めているようだ。ここでも住みにくさの問題があるらしく、指定された建物は見学用に改築され、保存されているが、実際に当主の家族が住む家は別にあった。指定を受ければいろんな優遇措置が施されるそうだが、一方で不便さを改善することは許されない。消火装置などの文化財保護のための施設も造られ、色々と大変なものだと思い知らされた。一方、見学者にとっても不便なことがある。家屋の中で茶会を開くことがあるそうだが、真冬でも暖をとることができない。大きな囲炉裏があっても、そこに炭を入れるためには文化庁の許可が必要で、事前に願い出なければならないのだそうだ。何とも面倒極まりない状況で、それではそこに住むことは無理だろうと納得できる。この辺りは戦時中の空襲がなかったそうで、近くの飛行機工場があった地域が焼け野原にされたのとは対照的である。だからだろうか、古くからの建物が残っていて、鋸屋根や煉瓦造りの建物が其処彼処に見られる。民家は町中から離れたところにあり、それらの建物とは建築年代も大きく違うようだが、どうも歴史に疎いせいかよく理解できない。当主の先祖が移り住んだのは室町時代と説明されたような気がするが、立板に水の如くの説明では残るものも残らない、などと言い訳が言いたくなるほど複雑な歴史が有るように聞こえた。その家の名前は、先祖が武士だった時代に治めていた地域に由来するそうで、最近その地を訪問したのだそうだ。家の中でその時のビデオが放映されていた。印象的だったのは、訪ねる人々、迎える人々、どちらも年配者ばかりであったことで、どうもこの国の実情を如実に表したものに思えた。それを見て、これからは年配者の時代と思うべきなのか、それともこのままでは高齢者社会で先行きが暗いと思うべきなのか、そんなことは人によるだろう。いずれにしても、自分たちの根っこを探しに出かけた当主の満足そうな顔が印象に残ったことだけは確かである。
「夜中にデイトした近くの公園で、確かめあっていたお前とおれの愛」を平板に読んだら、何も出てこないだろう。しかし、30年以上前に発売された井上陽水のでビューアルバムを知っている人なら、全然違ったリズムや音が頭の中に浮かんでくるに違いない。この歌の題名は「断絶」、アルバムのタイトルでもある。親子の断絶を描いた歌だからだろう。
あの時代、世代間の断絶は当り前のことだった。それに不安感を抱くこともなく、ただ考え方に違いがあるのは当り前であり、互いに譲れないところがあるのも当然のことだった。だから子供が親の考えに反発するのもごく普通のことであり、まだ勘当などという言葉が生き残っていた時代でもあった。今は、と周囲を見回すと、兄弟、姉妹のような親子と呼ばれ、喜んでいる人々を見かける。仲の良い、同世代のような関係が家族の絆を確かめあうのに必要不可欠と論じる人もいるくらいだ。そんな世の中で、親子の断絶を引っ張り出したとて意味がないと言われるかもしれない。どちらがどちらに迎合しているのかわからないが、互いを大切に思う気持ちがそういう形になって現れているのが今の時代の特徴なのだろう。とはいえ、そんな家族ばかりでないこともわかっている。親が子供にいろんなことを押しつけることはよくあるし、子供が親から様々なものを奪い取ることもよくある。上辺だけ仲良くしているようでも、奥底では違った感情が蠢いている場合もあるだろう。そういうものが素直に外に出せなくなったという解釈が成り立つかどうかわからないが、「あるべき」論がいろんなところで障害になっているような気もする。親子関係を演じることは重要と説いていた教育評論家の話もあるが、そういう演技さえも放棄してしまった人々が増えているのかもしれない。先日、ある掲示板を覗いていたら進学に悩む子供の母親の相談が載っていて、父親の強硬な意見に苦しむ子供への助言を求めていた。大学を卒業して数年と思われる人々の助言が次々寄せられていたが、その中に今の時代の歪みを感じさせるものがあった。多くの意見は進路は自分で決めればいいが、親の意見も重要というものだったが、ある人物はまったく違った意見を展開していた。自分が親の反対を押し切って進路を決定し、今の自分を形作ったという自負があるからだろうか、親の意見に反対するのは当り前であるという意見である。ここまではごく普通のものだが、その後が意外に思える。だから、親が意見を言っても仕方なく、意見を言うべきではないと結論づけているのだ。若い世代の人々にとって、この意見は妥当なものに映るのだろうか。親の世代にある自分には馬鹿げたものとしか映らない。親に反対することで今の自分があると言っておきながら、親の意見は不要であるとするのはおかしくないのだろうか。親子の関係の中でこの話は展開しているが、同じようなことが人と人の間で起きているような気がする。あの人にこんなことを言っても仕方がないと思いながら言わないでおくとか、どうせ聞いてもらえないのなら言っても無駄だとか、そんな台詞がよく流れている。親と子供の間の会話でも、相手に配慮し、反発されそうな意見を出さずにおくとすれば、確かに和気靄々の雰囲気を作り出せるだろう。他人同士の間でも同じことである。親が自分の意見を言わずにおくことは、次の世代に伝えるべきものを捨て去ることのように思える。聞いてもらえぬのなら無駄、は確かにその通りに思えるが、それが無駄なら人生無駄だらけである。
壁の話の続き、というわけでもないが、壁を取り除くための方策と考えられていることに触れてみたいと思う。accountability、アカウンタビリティという言葉を聞いたことがあるだろうか。相変わらずのカタカナ語では何ともならないということであてがわれたものは、説明義務とか説明責任という言葉である。壁を除去するためには説明が必要ということなのだろう。
商品の紹介や行為の勧誘など、まあ色々あるけれども、とにかくそういう場で内容の説明をしなければならないという規定がある。それが十分になされず、誤解や理解不足によって何らかの不利益を被った時には、代償を求めることができるといった感じだろうか。仕事上のことは契約などというものが絡んでくるから、説明の重要性は理解できる。ところが、どちらが先なのかわからないが、日常生活でもあらゆるところで説明を求められることが多くなっている。業務上の説明義務が先にあって、それが日常生活にまで波及してきたのか、日常で説明を要求する雰囲気があって、それが業務にも適用されるようになったのか、よくわからないが、とにかく何でも説明をしろと促される。ちょっと実感が湧かないかも知れないが、これはつまりどんな話をするにしてもその内容の説明が必要というわけで、自分の意見を言うときにはその意見に至った経緯を説明するとか、何故そんな考え方をするのかを説明するとか、とにかくくどくどやらねばならぬことが増えてきた。その上、このやり方が絶対的なものであり、これによって互いの理解が深まるという考えが広まっているようだから手に負えない。たぶん、これを読んでいても何故こんなことを取り上げるのかと思っている人がいるだろう。こんな当り前のことに食いついて、何も役に立つことなどありはしないと考える人がいるのではないか。互いに理解するためには、とことん詳細にわたって語りあう必要があり、その段階を乗り越えてこそ理解が出てくるはずと考えている人たちにとっては、その通りなのかもしれない。しかし、今一度壁の話を思い出して欲しい。どんなに理解しようとしても越えられない壁があるというか、そういう壁を互いに築いているのである。その壁を崩すための説明と一方で言いながら、崩されないように支えている自分を見つけたことがないだろうか。そんな状況下で説明を要求しても無駄である。どうしてこんな状態になってしまったのかよくわからないが、理由の一つとして考えられるのはこれがどこかからの輸入品であるということだ。はじめに書いたように、言葉としては海の向こうからやって来た。その後、この国にも定着し、当り前のこととして扱われるようになった。では、その前はどんな状態だったのか。思いだす術も持たない人が増えているだろうが、たぶんその前は「察する」という言葉が人間関係にとって重要なものとなっていたのではないか。以前は、全部言わなくても、お互い察しなければならないとよく言われたが、最近この言葉を使うと無理という壁が現れる。面白いものだが、あらゆるところに壁が築かれてきて、どこに抜け道があるのか見つけられそうにもない。ただ、どんな状況でもそういう壁を築くのは相手ではなく自分であることを意識すべきだし、自分の壁を低くすると相手も合わせる場合があることを考えるべきだと思う。誤解したくないとか、失敗したくないとか、まあいろんな理由が積み上げられるだろうが、どんなに詳しい説明を聞いても越えられないところがあることからすると、察することを止めてしまったのはどうもいけない方向に向かう原因を作ったような気がする。といっても、この独り言の真意を察するのはやはり難しいだろうか。
日常生活で壁を感じることは少なくない。自分の力不足とか努力不足で、ということもあるだろうが、一方で他人との間に感じることもある。昔からそういうことがあったはずなのだが、問題として取り上げられることは少なかったような気がする。それに比べて最近とみに強調されるようになったのが、人との間の壁ではないだろうか。誰が築いたのかわからぬまま。
集団の中での意見交換を避ける傾向が強くなっているような気がするのだが、他の人たちはどう感じているのだろう。自らの意見を述べることは自分の壁を取り除くために重要な段階の一つなのに、それを避けて通ろうとするのはいろんなことを難しくしそうだ。ところが、その難しさよりも他人に変な誤解をされることによって生じる難しさの方が重大らしく、そのきっかけを与えないために自説を出さないという人たちがいる。どちらの方が重大なのか、人それぞれと思っていたのだが、このところの傾向を見ると誤解の方が重要に受け取られているような気がする。こんな調子だからだろうか、人と話をする機会を自ら放棄している人が多く、それによって生じる問題が大きくなっているような気がしてくる。先日、ある番組で産後鬱という問題を取り上げていた。出産後の子育てなどによる悩みが積み重なって起きる症状らしく、かなり重症になる人も多いのだそうだ。その危機を脱した人々に共通するものとして紹介されていたのが、相談相手の存在で子育ての悩みなどを経験者に相談することによって、徐々に精神的な抑圧から解放されるという話だった。どこにでもある話、と思うのはひと時代もふた時代も前の人間だからだろうか。どうもこういう話になると理解できないところがある。家族の中で相談する相手がおらず、孤独感にさいなまれるようになってしまい、症状が悪化したためという解説をよく聞くが、そのこと自体がどうにも理解できないのだ。病気が発覚してはじめて、そういう相談するところに行き、何らかの治療なりを受けるというやり方が当然のように話されているのを見ていて、何故、特別なところが必要なのかと思うからだ。人と話をする機会はいつでもどこでもありそうなのに、何故そんなところに追い込まれるまで自分の中に閉じ篭もってしまうのか、そこが不思議なわけである。こんな書き方をするとそういう人々の心を理解していないとか、そんなに簡単なものではないとか、そんな意見が出てくるのだろうが、本当にそうなのだろうか。直接接したわけでもないし、自分がそういう経験をしたわけでもないから、いろんなことを誤解している可能性は確かにあるだろう。しかし、人と接することを避けているのは、周囲の人間ではなく自分自身ではないだろうか。自分の思いを悟られたくないとか、変な誤解を受けたくないとか、馬鹿にされたくないとか、未経験なものに取り組んでいるときに、そんなことばかり考えているとしたら、どこかずれているような気がしてくる。確かに、相手によってはあからさまに嫌な顔をされるかもしれないし、何か嫌な思いをすることもあるだろう。しかし、それを怖れることで人を避けているのだったら、ちょっとおかしいと思うのだ。それがさらに徐々に迫り来る恐怖への序章だとしたら、そちらの選択の方が間違っていることになるのではないか。人間は弱いもので、人との関わりにおいて自分の存在を感じるものなのだと思う。その点、今の世の中は自分の中からそれを解決することなく、問題が生じてから対処するやり方ばかりに注目が集まっている。根っこのところの問題がどこにあるのか、意外なほど簡単なはずなのに、それをどこかに放り出してしまっているのではないだろうか。
烈火の如く怒っている人を見ていると、まるで湯気が立っているような気がしてくる。それほど興奮しているわけなのだろうが、それと同時にこめかみの血管が浮き上がっているのが見える。こちらの方は興奮が引き金になっているのだろうが、単に血圧が上昇しているだけだ。だから普段から高血圧の人を怒らせると、どこかの血管を破ってしまうかもしれない。
醤油、味噌といった類いの調味料を開発してきたせいでもあるまいが、この国には高血圧症の人が多い。塩の摂りすぎと言われるわけだが、単純に食事だけのせいでもなく家族性、つまり遺伝的な性質が原因の一つとなっていることもあるようだ。元々血圧が上がりやすい体質のところへ、ちょっと多めの塩分を摂取するような食生活を繰り返すと、高血圧になってしまうというわけだ。以前は塩分を控え目にすることだけが予防措置のように考えられていたから、単純に薄味の食事を強制されていたが、これはやらされる方にとってはかなわないものらしい。味気ないという言葉があるように、まったくそのものといった感じの食事を繰り返させられるわけで、いかに健康のためと言っても食事の楽しみを奪われるのは一種の暴力と思える。さすがに苦情が沢山出てきたのだろう。醤油も味噌も減塩と呼ばれる中身のちょっと違ったものが売りだされるようになった。減塩とは文字通り塩を減らしたものなわけだが、実際には単純に塩分を減らしているわけではない。塩分といっても高血圧に影響のあるのはナトリウム塩であり、その他のものは大きく影響しない。そのため、ナトリウムの代わりにカリウムを使った調味料を開発したわけだ。これで味もそのままであればいいのだが、舌はそう簡単には納得してくれない。カリウムはナトリウムのような塩味を感じさせず、その代わりにわずかな苦味が感じられるのだという。はじめの頃、減塩醤油もどうにも拷問のようだという人がいたが、その辺りに原因があったのかもしれない。楽しく食べられるようにという視点から、いろんな調味料が考えられてきたが、塩に代わるものとして胡椒がある。塩味と胡椒の辛さはまったく違うではないか、という声が聞こえてきそうだが、塩味を抑えた状態で胡椒を料理に加えると意外なほど美味しく感じられるのだそうだ。海の向こうではこちらほど高血圧症は重大な問題にはなっていないが、一部の人種では大きな問題となっているから、その対策もとられている。あちらでは味噌も醤油もほとんど使われていないから、原因は塩そのものとなる。だから代替品を何か見つけ出さねばならなかったのだろう。医者の勧める調味料は胡椒なのだそうだ。試してみればわかることだが、塩の量を減らしても胡椒を入れることで違和感のない味に仕上がる。それでいて、塩分量は減っているわけだから、それが原因の高血圧症は抑えられることになる。こちらでは胡椒とか唐辛子とかは調味料として頻繁に使うものではなかったので、すぐには採り入れられなかったようだが、洋風の料理が増えてきた今ではさほど抵抗も見られないようだ。薄味のソテーに胡椒をふりかける人、薄味のみそ汁に唐辛子を入れる人、大した問題もなく受け入れられているようだ。これで全てが解決というわけでもないだろうが、食事の楽しみは色々あり、中でも味は重要な要素である。いくら病気の予防と言われても、大切なものを奪われるのはかなわない。命より大事なものはないの一言で何でも強要するやり方では、中々賛同は得られないのだろう。
企業の再建について、最近話題になっていることを聞いていて、どうにも理解できないことが多いように思う。関係者それぞれの立場によって、考え方が違うとしか思えないのだが、どうしてそういう違いが出てくるのかわからない。それにしても企業の再建という目標は同じはずなのに、何故こんな違いが出てくるのだろうか。
仕組みの詳しいところがわからないからその辺りを推測することはできないし、一方で経営者達が何に拘っているのかも、報道されている中身からでは見えてこない。表面に現れていることから推し量るしかないのだろうが、どうにも情報不足に思えてくる。それだけでなく、企業自身、銀行、官庁それぞれに思惑があるらしく、さらに複雑な様相を呈しているようだ。そんな中で、国外の企業が名乗りを上げるようになると、さらに複雑化に拍車がかかり、もう手に負えなくなる。あれだけの大きな企業の再生について、一般市民が理解できないような状況が続くのは、果たしていいことなのかどうか。何となく以前にあった銀行などの破綻劇と同じ雰囲気が漂ってきて、そろそろきな臭くなってくるのかと思うのはちょっと考え過ぎなのだろうか。その上、銀行自身も様々な問題が取り沙汰されていて、このところの変化は留まるところを知らないように見える。どこまで変えたら気が済むのだろうかという思いが常にあり、そういう不安定感が不安を呼び覚ましているように感じるのは自分だけではないと思う。まあ、そんなことを言っていても結局のところ、どこかから金が現れ、どこかへ片づけられてしまうのだろう。そんなこんなで同じ繰り返しだろうかと思うが、かと言って国内だけで解決する手段が見つからないのだからどうにもならない。そんな書き方もまた不安を煽るだけのものかも知れないが、現状はどうもそんなところにありそうだ。そろそろ時間切れになりそうなところだから、すぐに結果が出てくるのかもしれないし、結果が出たとしても大した影響も出ないのかもしれない。いずれにしても、とにかく早く結果を出せと思っている人が多いだろう。くすぶっているだけで出口が見えない状況ではどうにも落ち着かないから、どんな結果になるにせよはっきりさせてくれということだ。そうでなくても、次の変化がまたやって来るのは明らかで、こういう時期に乗じてどんどん手札を出してくるわけなのだろうから。何だか、崩壊後の十年が無駄というだけでなく、その後の十年も結局変革だけの時代になりそうな雰囲気である。せいぜい、再建のための変革となるように願うのみだが、さてどうだろうか。企業再建の様子を見ているかぎり、国の再建も同様に混沌の中に入っていくだけのことかもしれない。期待しないわけではないが、どうしてもという考えに固執することには違和感を覚える。
この独り言は始まりの事情もあって、月曜日から日曜日までがセットになっている。その後かなりの時間が経過しているが、この部分だけは変化がない。気づいていると思うが、曜日ごとに色を変えていてそれを維持するためだ。他のところも色々いじっているけれども、面倒くささもあって中々整備できないままだ。
そんな事情もあるからか、月曜日が休日だとちょっと拍子抜けしてしまう。いつものようにと心掛けていても、そう簡単には行かないところがあるからだ。週末が長引くといった感じもあり、一息つく話題の数が増えるのもリズムを狂わせる原因かもしれない。これを習慣とでも言うのだろうが、毎日適当な話題を見つけて、適当に書いていると言ってもこんな具合である。日記のような記録とは違うから続いていると自分では思っているが、最近は頭をよぎる話題が枯渇しつつあるから、どうしても時期的な話題に偏ってしまう。実際にはそういう流れは好きではないし、そんな縛りがあるとどうしても窮屈に感じられる。季節の変化に合わせた自然の営みには違和感を覚えないが、社会的な事象についてはその時だけという感じがして、あまり良い感覚を持たない。どうせなら、いつ読んでも面白いというものの方がいいと思うからだ。そういう思いがある一方、他の人々が書くコラムのようなものにも感心があり、話題が重なったりするとつい読んでしまう。こちらは新聞の記事を参考にすることが無いから、後手を引くことはないと思っているが、色んな新聞すべてに目を通しているわけではないから、たまたま重なり後を引き継ぐこともあるだろう。それとて自分の目に触れるわけではないから、どうでもいいこととなる。その割に、先手を取ったときにはよしと思ったりするから、まあ勝手なものである。勝手な独り言という部分がこういうところにも現れているのかもしれない。とは言え、独特さを売り物にしようとしたら、これもまた逆の結果となる。書いている方が大切にしていることは、話題の独特さではなく、その解釈やそれに対する意見における他との違いである。同じ話題を引いていても、それに対する考え方は人それぞれであり、その違いを楽しむことが重要だと思う。自分とは違った意見に接することで何らかの影響を受ける人々もいるだろうから、そういうきっかけを与えられたらいいと思うのだ。これを読みに来る人々にはあまりいないと思うが、自分の意見と聞かれるとすぐに他と同じとする人がいる。他とは何だろうか、などという話は脇に置いておくとして、普段から考える癖がついていない人が増えていると言われてから、ずいぶん時が経った。その後もその傾向は変わっていないらしく、当たり前のことを書いた本が爆発的に売れたり、不安を煽る話に簡単に乗せられたりするらしい。何故、と思うのは考える人の方であり、そうでない人にはそんな疑問さえ浮かんでこないようだ。疑問を持つべきという指示がどこかでなされる途端に、浮かべる努力をする人々ではちょっと心もとない気がしてくる。せめてこんな話を読んでいて、あれと思ったり、おかしいと思ったりするくらいの気持ちは常に持っていて欲しい。問題意識は問題が出されてから持つものと考える人がどのくらいいるのかわからないが、そんな雰囲気が漂っているように思えるのが昨今の社会の傾向である。平穏無事に過ごすには、波風立てぬことが大切という考えもあるのだろうが、その無事がいつまで続くのかは実は本人次第である。まあ、目の前の小さな波にばかり心を奪われている人には、大きな波は見えないものなのだろうが。