パンチの独り言

(2004年10月18日〜10月24日)
(交代、品格、副詞、愛街心、保守、屑、伐採)



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10月24日(日)−伐採

 猛暑、噴火、台風、地震と次から次へと天変地異が起きる。被害も大きくなるからよく取り上げられ、あんまりふざけたことは言えない状態にある。でも、たまにはこんなことを言ってみたらどうだろうか。「総理、この天災の責任を負って辞任して下さい!」と。天災は誰の責任でもなく、責任のあることは人災と呼ぶのだけれども。
 冷夏と違って気温も高く日照時間も十分にあった夏だったが、ここに来て台風の襲来で作況指数の下落が伝えられている。これが良ければ、あれが駄目といった状況だが、農業の難しさを表現するものだろう。山の状況も悪く、動物達が人里まで下りてくる話題も毎日のように伝えられている。餌を与えればいいという安易な考えをする人々には、保護という意味が子供の過保護と同じようにしか解釈できないのだろう。自然の成り行きには色んな面で教えられるものがある。人間は人工物の中で生きているから、自然とは切り離されたものという思い込みが一般化しつつあるが、自然災害と対面する度に自らの無力さと傲慢さに気がつく。思い通りになるとか、制御するとか、そんな言葉が吹っ飛んでしまうほどの力を自然はもっているのだから。といって、大きな話ばかりしていてもつまらないので、身近な話をすることにする。秋も深まるとそろそろ恒例のことが始まる。木にたわわに実る赤と黄の混じった色の実を採るのだ。接ぎ木をしないと甘くならない性質から、下は富有柿と呼ばれた実の種もその実とは似つかぬ形の実を結ぶようになった。豊作の年には一本の木に300ほどの実がなるのだが、今年は200ほど、不作と呼ぶべきだろう。夏の暑さの影響か、はたまた別の理由があるのか定かではないが、このところ今一つの出来という年が続いている。巷で豊作と言われた時もさほどでもなかったから、そろそろ木が疲れてきたのかもしれない。狭い庭に植えられ、たぶん20年以上経過していると思うが、幹の表面を見るかぎり老木といった印象はない。高枝鋏を使って一つ一つ伐り採るのだが、大きな実だけに力もいるし、気も遣う作業となる。100個ほど採ったところで、屋根の上からも届かぬところに実が残るだけとなった。去年まではそこでおしまいだったが、今年は高く伸びすぎた木を伐る目的もあり、鋏に鋸をつけて途中で伐ることにした。二本の長く伸びた木を順に伐っていったが、これがこれで重労働である。新品の鋸はよく切れるから助かったが、以前古い鋸を使おうとしたときは途中で諦めた。伐ることも大変だが、伐ったあとも倒れた枝が電話線に引っ掛かり、そこでまた大騒動。素人の仕事はやはり簡単には片付かないものだ。やっとのことで線から枝を外し、地面に降ろしたところで一段落。出来具合は数も少なく、実も少し小さい気がいたからやはり不作なのだと思う。実際には渋柿を相手にしているのだから、ここから先の作業が大変である。といっても、まあ、夜なべをするだけのことなのだが。ところで、枝を切り落とされた木の方は来年また頑張ろうという気になるのか、それともこのまま老いて朽ちていくのか予想できないが、数年前に同じことをした次の年は豊作になった。危機を感じるとでもいうのだろうか。人間にも当てはめたくなる出来事だった。

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10月23日(土)−屑

 腹立たしいニュースが流れていた。またか、という思いと同時に、何故、という疑問が湧いてくる。人のする行為にはある法則があり、何度も繰り返されるのはそこにそうなるべき必然性が存在するからという。皆が同じことをやるのはそこにそうなるべき必然性が存在するから、なのだそうだ。そんな話を聞いていて、腹が立ってきた。
 事件はプロ野球界の話である。といっても、親会社の不祥事がとか、新球団の実態がとか、このところ話題になっていた話ではない。もうすっかり忘れ去られていたが、ドンと呼ばれた人物にこの世界から身を引くと言わせたきっかけとなった事件のことである。やってはならぬことだから、その責任をとってという発言に、それ以外にも沢山そういうことをという意見が出ていたが、とにかく本人は責任をとることにしたようだ。しかし、依然として暗躍しているのではという憶測が飛び交うほどで、野球界での彼の存在はそう簡単には消えないものらしい。それは兎も角、事件自体はよくあることで、制度の問題として片付ける評論家が沢山いた。そこから制度改革を導こうとする思惑があったからだろうが、案の定よくあることは次から次へと明るみに出てきた。そこで再び、制度の問題の大きさを訴える声が強くなる。金にまかせてというイメージが固定されている球団ばかりでなく、ケチとまで言われていた在阪球団さえもこの不祥事に絡んでいたから、それ自体に落胆する声が出てきて、それこそ腹を立てている人もいるようだ。どちらかというと、制度問題と球団の問題に話題が集中して、ニュースも専らそちらの方ばかりを取り上げているように見える。実は、腹立たしいと始めに書いたのは、このことではない。これらの事件に関わった大学球界注目の選手のことである。今回再び取り上げられた金銭授受の件についても、前回のものと同じ人物が受け取ったと伝えられている。報道は選手の才能を重視しているからか、今回の事件は制度の問題であって、特定の人間の問題ではないという扱いをしているようだ。おかしいと思うのはこの点である。金銭を渡すことが慣例となり、それを受け取ることも当たり前となっているのは、歪んだ制度の問題であるとするのはまあ仕方がないとして、何故この選手は複数の球団からの金を受け取ったのか。そこに道徳とか倫理のようなものはないのか。それが不思議なのである。あっちにもこっちにもいい顔をするというだけで、そんな環境を作った制度が悪いのだと結論づけるのはおかしいと思う。責任転嫁と書いているだけでは気がすまないほど腹立たしく、こういうのは屑だと思ってしまう。人間は弱いもので甘いほうに寄せられてしまうとか、まあ理由は何とでも作れるが、人間形成の部分で重大な間違いがあったとしか思えない。どんなに才能があろうとも、選手である前に人間でなければならないと思うのは古い考え方だろうか。ずっと昔空白の一日事件を起こした選手がいたが、今回のものはそれとはまったく違い人間失格を思わせる。

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10月22日(金)−保守

 政治の世界は複雑で、ちょっとやそっとでは理解できない。保守、革新などと呼んでいるうちはまだましで、この国でも中道なるわけのわからない代物が出てきていたが、海の向こうもさっぱりわからない。保守、conservative、と革新、progressiveではなく、民主、democraticなのだが、その分類よりも、自由主義、liberalとの対比の方がよく聞く。
 そんな中に、ネオコンなる存在が注目されるようになっているらしい。neo-conservativeの短縮形なのだが、新保守主義とでも言うのだろうか。現政権の中核はこれに属する人々によって占められていると伝えられるが、実際のところ、何が何だかわからない。どこがどう違っているのか、確かめてみればいいのだろうが、そんな気が起きないから、やはり政治の世界は複雑と片付けるのが簡単なようである。政治的な面は脇に置いて、元々保守と革新というのは変化に対する考え方による区別のようである。以前からあるものを守り保つという人々と、新しいものに改革しようとする人々を対比するために考え出されたものなのだろう。昔のものを大切にしようとするのは年寄りであり、既存のものを壊し新たなものを築こうとするのが若者、という固定観念があったはずだが、最近はそうとは言えない状況になっている。その理由は簡単で、変化が自然に起きていた頃には次代を担う人々は新たなものに飛びつく必要があったのに対して、安定期に入りほとんど変化しない時代には新しいものに飛びつく危険を冒すことはないからだ。そのため、老若に関係なく、変化を先取りしようとか変革を起こそうという動きは少なくなり、全体的に保守的な考えが大勢を占めるようになる。しかし、その中でも先行きに思慮を巡らす人々がいて、少ない変化で大きな効果を得るためにはどうすればいいのかを考える。こういった人々は何故だか若い世代よりも高年齢層に多く見られるようで、一昔前の老人=保守、若者=革新という等式とは逆の式が成り立つことになっているようだ。その際の考え方として面白いものが幾つかあり、なるほどと思わされることがある。進学や就職などの機会に身の回りは大きく変化することがよくある。それに対して、その変化に対応することに追われる人々が多いためか、自分の中から変化しようとする気持ちはあまり起きないようだ。だから、周囲から変化を促されてもそれを拒絶することが多い。既に、自分の周りの変化に合わせることで手一杯だからこれ以上は御免である、という考え方があるのだろう。これとは別に、組織に属している場合でもある程度の経験を積んだ、しかしどちらかといえば若い方に分類される人々に変化を受け入れない人がいる。せっかくここまで無事にやって来たのだから、このまま進めさせて欲しいという願いがあるのだろうか。別の見方からすると、このまま組織を維持すると早晩歪みがたまってきて、どうにもならない状態になるから今のうちに、となっているはずだが、変えて欲しくないという願望が強い人々にはそういう先見はないのかもしれない。誰だって、現状を維持することの方が簡単なのだが、それでは無理が来るとなれば変わらねばならない。その際天秤にかけることになるが、それでもどちらかと言えばやっぱりとなることが多いようだ。まあ、自分たちとその下の世代にしわ寄せが来るかどうかなのだから、勝手に決めればよいことだ。

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10月21日(木)−愛街心

 言葉は悪いが、人に会ったときに相手を値踏みしている人がいる。どんな人間か素早く見極めようとするが、一言二言交わしたくらいですぐにわかるはずもない。第一印象が大切とよく言われるが、一方であまり急ぎすぎると判断を誤ることもある。多くの場合、経験に基づいて分類することで見定めるわけだが、これは逆に言えば固定観念による見誤りを産む。
 人の性格をその行動から推測する場合に、こういう人は、という言い方をよく聞く。相手にとってはそんなことで判断されたらかなわないわけで、もっときちんといろんなことを見た上で判断して欲しいところだろう。この傾向が激しくなると固定観念が強いと言われるのだが、あちらではstereotypeと呼ぶようだ。元々は印刷に使われた言葉のようだが、業界以外で使われる場合にはこちらの用法となるらしい。風貌から判断するとか、出身地から判断するとか、人種から判断するとか、一種の分類によるものであればすべてその範疇となる。便利なやり方だからつい使ってしまうのだが、実際には間違っていることが多い。それでも手放してしまわないところを見ると、こういう思考が習慣となっているのだろう。やっているほうは自分の理解のため、くらいのつもりなのだが、やられるほうはそうもいかない。勝手な判断で自分の価値を決められたのでは納得できるはずもない。それに、こういう考え方をする人たちは大した経験もデータもないままに判断していることが多いから、まったくの誤解に基づくことになることもある。そんな気持ちはあるのだが、最近発生している事件を見ているとついそこに傾向があるようにみたくなる。帰宅途中で背後から自転車に乗った男にとか、バットを持った若い男達に襲われたとか、多くは怪我だけですんでいるが、運の悪い人々が命を奪われる事件が続いている。同じ地域で繰り返し起こる犯罪に、取り締まるほうが振り回されている図式が見えてくるし、年齢による扱いの違いを利用した犯罪者の心理が現れているものもある。これらの傾向は一見無関係のように見えるが、ある見方をすると地域の問題という点が共通しているようにも見える。前者は地域全体の取り組みによって防ぐことができるものだろうし、後者も実際には子供たちが絡んだものであり、家族だけでなく地域社会の問題とも言える。そういう見方をしようとはじめから思ったわけではなく、これらの事件が起こった場所を考えているうちにそんな気が起きたのだが、多くの場合大都会でも田舎でもないところに起きているように見えた。首都圏と呼ばれる地域のうちで、都心から少し離れたところにそんな事件の巣が沢山あるように感じられたのだ。これらの地域は、ある時期人口が爆発的に増えたところで、少数の先住民と多数の新住民が暮らす街である。発展を遂げたといえば聞こえはいいが、その陰で多くの歪みを生じている。地域に対する考え方はまったく違った方向にあるし、お互いの理解は存在しないかのごとく流れてきた。そんな中で、こういう事件が多発しているように見えている。実際には地域社会に貢献すべき警察も地方出身者が多く、収入の道と考えている人が多いと聞くと、さらに複雑な様相を呈してくる。そう言えば、不祥事も多いなあと思ってしまうのはそんな話を聞いたからだろうか。地元意識は邪魔なものという変な考えが蔓延ったせいなのかも知れないが、そろそろ足元を明るくする方策が必要なのだろう。

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10月20日(水)−副詞

 文語と口語などと言っても、そろそろ死語になりつつあるのかもしれない。それとも、もうとっくの昔に鬼籍に入っているのだろうか。若者言葉とか、顔文字とか、何度教えられても覚えられない特殊文字とか、そっちの話ばかりが巷に溢れていて、肝心の書くことと話すことの違いは、どこかへ行ってしまったようだ。言葉は生き物だからというのが言い訳にも聞こえるが。
 今更、そんなことの違いを引っ張り出しても仕方ないだろうし、こっちもそんなものの違いを細かく論じられるほどの知識を持ちあわせてはいない。ただ、時々何となく気になることがあって、その度にさてこれはどういう違いなのかと思うだけだ。言い回しで気になるものはいくらでもあって、たとえば、全然良いとか、何気にとか、色々あるけれども、そんなものを列挙してもたぶん何の意味もないだろう。言葉は相手にこちらの意図が通じればいいのだから、という主張があって、確かにその通りだなと思うけれども、本来の使い方と違っていると違和感を感じてしまうし、それが理解の妨げになることもあるから、できたらもう少し気配りがあればなあ、と思ってしまう。そんなことを言っても、こちらだって間違った用法を平気で使っていることもあるから、他人のことは言えない。ただ、公共放送でそういうものがやたらに出回るようになると、本当に困るのではないかと心配になる。民間放送の喋り手と違って、ある程度の基本訓練を済ませた人々の口からは、とんでもない言葉遣いはあまり出てこない。何しろ民放から流れている言葉は時代の先端を行くという褒め言葉でも使わないと、ぶった切りたくなるほどの酷さに溢れていて、こういうものを手本としてしまったらと心配どころじゃ無い気分になる。それに比べたらずっとまし、という表現を使わねばならないほど、あの放送局の人々の言葉も荒れてきている。ニュースは原稿を読むのだからそんなことは起きないが、ゲストを迎えて話を聴く番組などではちょっとびっくりするほどの暴走がみられることがある。まあ、仕方がないのだろうな、その場でさっと出てくる言葉まで訓練することは難しいのだから、といった形で何とか理解することにしているが、気になることは気になる。しかし、最近はその程度の逸脱ではすまなくなっている。原稿作成の段階で既に変な表現を使ってしまうことが出ているような気がするからだ。若者言葉というわけではないし、間違った用法というわけでもないのだが、最近特に気になるものにこんな表現がある。「ここ数年間で、最も土砂災害の危険性が高くなっている」と原稿を読むアナウンサーを見ていると、おやっと思えてしまうのだ。今、これを読んでいる人はぜひ声に出して読んでみて欲しい。もし、違和感を感じないのなら、こちらはなるほどと引き下がるしかない。しかし、違和感を感じてしまう人がいるとしたら、こんなところではないだろうか。「ここ数年間で、土砂災害の危険性が最も高くなっている」という表現ならば、何となく問題なく聞き流せるのだ。つまり、「最も」という最上級の表現がどこにあるかという違いである。最上級は形容詞にくっつくわけだから、その直前が当り前と思っている人間にとって、強調する目的があるとはいえ、それがずっと前の方に出てくるのは耳障りな流れである。ラジオから流れると特に理解しにくくなる。ただ、誰かが指摘したのかも知れないが、このところ何度も流れる台風情報では、こちらが正しいと思っているものが流されている。それで仲間がいるのかも、と安心するわけだ。

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10月19日(火)−品格

 こちらから見ると海の向こうはちゃんと野球だけをやっているのに、こっちは野球どころではないといった感じさえしてくる。合併は単なる序章であり、次から次へと表に出てくる企業の情けなさ、不誠実が本来無関係であるはずのものにまで影響を及ぼしているようだ。結局は仕組みの違いですんでしまうものだが、それにしても何故こうも違ってしまったのか。
 ゴタゴタは簡単には済みそうにもないし、一つ片付けたら次の問題が待っているという状態になっている。そんなところで、あれやこれやと揉めているのを眺めていると、やっぱり浮世離れした世界なのかと呆れてしまう。確かに、金もうけだけに走ればいい企業経営とは違い、何かしら別の出力を求められているわけだ。憧れの職業とか、模範となるようにとか、彼らのやっていることとはまったく無関係なところで、要求されるものがあるだけ難しさがあるのだろうか。それにしても、経営という観点からすると、これほど何もせずに済まされてきた世界もないのだろう。実際には競争社会で生き抜いてきた人々が所有しているはずなのに、彼らが経験したものは反映されず、まったくの別世界を築いてきた。比較的最近参入した企業でさえ、本業での活躍ぶりとは正反対の動きをしたり、今回の揉め事でも信じられない言動を繰り返しているような気がする。どこでどう定められたのかわからないが、部外者には理解できないしきたりがあり、それに従うことが第一と見なされる世界なのかもしれない。確かに、現状では不安定さが見え隠れする企業の参入が検討されているわけだから、両手を上げて歓迎するわけにもいかないだろう。しかし、これまでもそういう歴史はあったわけだし、それで振り回された人々がいたことは間違いないが、そんなことはごく当り前のことと見られていた。ところが、今回の展開を見るかぎり、あの輪の中にいる人々にとってはその歴史は汚点を残すものであり、繰り返されるべきものではないとなっているようだ。検討段階では色々と材料が提供されており、中には首を傾げたくなるものもある。インターネット関連の企業であり、こういうところで議論することも馴染まないわけではないから、一つだけ気になったものを取り上げる。候補者のどちらも実際の状況についてまったく知らないから、誤解しているところもあると思うが、このところ取り沙汰されていたものの一つにアダルトサイトへのアクセスということがある。青少年のためには不健全であるという見解があり、スポーツに関わる組織に似合わないという解釈があったらしく、候補者の一つが的になっていた。その類いのところに直接は入り込めるルートがあったからなのだそうだが、それに対して社長は対策をとっていないという見解を述べていた。一方の企業は、きちんと対策をとっているという意見だったようだが、この話俄には信じ難いものに聞こえた。何しろ年齢によってアクセス自体を制限することはネット社会では基本的に不可能なことである。今キーボードを叩いている人間の年齢を判断することができないからだ。にもかかわらず、対策ができていると断言できるのは何故だろうか。していないと答えたほうの真意はわからないが、正直な反応というだけだったのかもしれない。そんな風に考えてみると、こんなことを議論することの無意味さが見えてくる。品格を持ち出す人々の顔が見えるたびに、鏡を持ちだしたくなる人もいるはずだ。

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10月18日(月)−交代

 人間の性というのか、それとも営みというのか、学問と大仰に言うまでもなく、人はそれぞれ自分なりの解釈を様々なことに当てはめようとする。人間同士のこともそうだが、自然の事象についても押しつけの解釈を編み出し、それによって悦に入ることを繰り返すようだ。天変地異のように思い通りにならないことにはその手の興味を抱かないが、動植物には興味津々だ。
 野生動物の出没をストレスによるものと解釈することで満足する人もいるだろうが、それが人のものと同等のものかどうかは聞く人の判断に委ねられる。植物の花の形を虫を騙すために開発したと解釈する人にとっては、何でも思い通りにできるという考えがどこかにあるのかもしれない。人に喩えて話をする人々も沢山いて、聴く人にとっては分かり易いものとなるから、すぐに受け入れられる。だからと言って、その解釈が本質をついているとはいえない。ただ、人にとって分かり易いというだけで、そう断定することはできないからだ。しかし、こんな話を目の前の猫や犬にするわけではないから、人間相手の戯れ言として考えれば、分かり易さはとても重要な要素なのだろう。自然は人間が余計な手を加えないかぎりほとんど変化しないと思われている。それでもそこにいる生き物が永久不滅なわけではなく、何らかの形で代替わりを行い、同じ状態が続いているように見せているようだ。命の短い動物や毎年生え変わる植物については、ちょっと見ているだけでもその様子がわかるが、大木になる木々のように寿命の長いものにそれを見つけるのはちょっと難しい。そんなこともあるからだろうか、その様子を伝えるものには格別の興味を抱く人がいるようだ。屋久島の杉の林の中で朽ちた木の上に生えている若木を映している映像にはそんな思いが込められてるようで、次の世代を育てるために自分を犠牲にするといった解釈が流れてくることもある。そこから引きだされる人間での喩えは、次世代を育てるために潔く身を引くことが肝要であるといった類いのものだが、この場面だけを捉えてそんな教訓的な解釈をするのはどうかと思う。これは、次の世代を育てることが間違っているという意味ではない。潔く身を引くという表現が引っかかるのである。もしも、これが自然界との比喩で出てきているのであれば、そこには大きな間違いがある。朽ちて倒れた木は、それまではそこに君臨していたものであり、次の世代のことを思慮して朽ちたわけではない。それどころかそれまでの君臨の時代には、自分の根元に生えてくる若木に太陽の光を届けさせないようにして、自分の身を護り続けてきたわけだ。そんな解釈をすれば、何が潔いものかということになる。分かり易く、教訓的な解釈を展開すれば、その映像を見ているほうはなんとなく納得させられるかもしれない。しかし、それがほんの一面しか捉えたものに過ぎず、間違った方向に導くものであれば、無意味どころか害を及ぼすものとなる。潔くという言葉にはいろんな意味が込められているのだろうが、邪魔にならぬようにといった意味を込める人がいる。ここで使った意図にそんなことがあるのならば、大いに間違ったものとなるだろう。次の世代を育てるためにはいろんなやり方があるとはいえ、何もしないでただ退けばいいでは困ってしまう。それまでの様々な蓄積を大切にしなければ。

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