パンチの独り言

(2004年10月25日〜10月31日)
(変動、脳時間、初雪、期待、多様、避危、快食)



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10月31日(日)−快食

 休日の朝に安売りをする店がある。特定の商品を安くするのではなく、全体に割引をするので結構賑わっている。少しでも安い店があれば、そこまで足を延ばすという人の話はちょっと信じ難いが、どうも全国的に安いものを買い漁る習慣がみられるようだ。こういうのを早起きは何とかと称するのはどうかと思うけれど、とにかく皆必死なようである。
 どこからやって来たのかわからない生鮮食料品とか、おやと思える生産国が印字された食料品が少しぐらい安く売られていても、手を伸ばさない人はいると思う。それに対して、普段から食べているものが安売りになれば、深く考えずに大歓迎するだろう。昔に比べると食べるものに対する配慮が少しは為されるようになってきたのは、かえって心配なものが増えてきたからなのかもしれない。それにしても、添加物やら農薬やら、あれほど心配して、規制をかけても、次から次へと問題が生じる。その上、牛肉のようにそれ自体のもつ病気が人間にも悪影響を及ぼすという話まで出てくると、あらゆることに疑いを持たざるを得なくなるのかもしれない。そんなこんなの心配をする人々がいる一方、周りから観ているこちらの方が心配になる人々もいるようだ。安売りの品だから、当然大量に買い込んでということなのだろうが、何箱も即席麺を買い込む老人たちを観ていると、どうしたのだろうかと思えてくる。確かに食品として危ないものが入っているわけではないから、安全なはずだし、それ自体が問題になるはずもない。しかし、どんな家族構成になっているのかわからないにしても、あんなに大量に買い込むのはどうしたものかと思ってしまう。一つ百円もしない即席麺が、お湯を注ぐだけでたった数分で出来上がるわけだから、こんなに便利なものはない。塩分やら糖分も余計に含まれているわけではないのだろうから、健康に悪いと言うわけにもいかないだろう。それにしても、あんなものばかり食べていてと文句を言う立場だったはずの高齢者達が、率先して買い込む姿を見るとおぞましくなる。何とかポテトという商品の栄養価やら成分が検討されていて、身体に悪いと強調されるほど塩分も糖分も多くなく、かえって普段の食事よりも健康的だという反論が返ってきていたが、これもまた不思議な論法に思える。いつの頃からか、成分ばかりが論じられるようになり、そこに食という観点は無くなってしまった。最近は、また失ったものを再発見しようとするが如くの動きが盛んになってきたが、それもまだまだの状況にあるように思える。子供の頃の漫画や映画で未来を題材にしたものが多かったが、その中では錠剤になったビーフシチューが登場したり、栄養剤が食のすべてという世界がやって来ると言われていた。当時のその流れの源が海の向こうの食に関して貧しい国にあったことを考えると当然のことなのだろうが、実際には当の本人たちでさえそんなことは言わなくなった。その代わり、補助食品なるものが蔓延しているのはいかにもと思える。そういう動きの中で、食の愉しみを自ら放棄する人々がでているのを目の当たりにすると、またぞろ心配になってくる。一度失われたものを回復するのには大変な労力が必要となる。便利、簡単、そんな言葉で騙され続けた世代が、また騙されようとしているのをただ見過ごすことが良いことか、それとも過ぎ去った世代は無視して、これからの世代に向けて何かを働きかけるべきなのか、どこにも妙案はないのだけれども。

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10月30日(土)−避危

 旅行は楽しい、と思う人がいる。特に、観光はいろんなものが観られて、楽しいのだという。こちらはそういう気持ちがほとんどないから、何が楽しいのかさっぱりわからない。わざわざそれを見に行くために出かけるという感覚がない人間にとって、そこにそれがあるから出かけるという人の気持ちを理解することは不可能なのだろう。
 楽しいはずの旅行もちょっとしたことで悲惨なものになることがある。事件や事故に巻き込まれてしまったとき、旅先での出来事は住み慣れた場所のように上手く処理できないことが多いからだ。それでも、国内旅行の場合は言葉の問題も起きないし、お互いの気持ちが理解できる場合も多いから、大したことにはならないで済むだろう。しかし、海外でそういうことに出くわしてしまうと、わからないことばかりで不安も募り、大変な事態になることがある。最近は凶悪事件も増え、人を信じられなくなってきたが、それでもこの国の治安はよく保たれているほうである。欧米各国も同じようなものという認識を持つ人がいるが、それは訪ね歩く場所によるわけで、どの都市にも危ない場所があるという話がある。特に観光地として有名な場所の近くにそういうところがある場合、ついうっかりという行動が思わぬ結果を招く。リトル東京なる日本人街を抱える都市も、そのすぐ南には危ないと言われる場所があり、そこでトラブルに巻き込まれた人も多い。それでも、安全そうに見える観光地を歩く人々にとっては、そこから一区画離れたところでそんな目に遭うなど予想だにしなかったに違いない。一方、先進国に分類されない国を旅行する場合には、さらに危険な目に遭う可能性を常に意識しておく必要があるだろう。中米のある国で友人が遭遇した事件はそういう類いのものの一つである。友達のホテルを訪ねるために、徒歩で自分の泊まっているホテルから移動しようとしたその人物は、慣れない町で道に迷ってしまった。仕方なく通りかかったタクシーに乗り込み、探しているホテルへ向かおうとした友人に思わぬ災難が舞い込んだのである。少し走った街角でタクシーは急に止まり、両側から見知らぬ男達が乗り込んできた。彼らの手には拳銃が握られていて、当り前のように金品を奪い取ろうとした。その後、数時間の間生きた心地がしない時を過ごした友人は、クレジットカードで金を二度引きだされ、他の所持品を奪われた挙げ句、町の外れでタクシーから放り出された。やっとのことで警察に届け出ても、そんな事件は日常茶飯事であり、ちょっとした調べだけで自分のホテルに帰った友人は、命があったことだけでも良いと考えるしかなかったようだ。二度の出金は真夜中をまたぐ形で行われ、一日の出金額の制限をよく知る者の犯行であることがわかる。それほど、そういう事件が頻発しているのだろう。一方、タクシーに関しては調べたとしても埒が明かないと警察が踏んでいるような印象を持ったようだ。その国ではホテルで客待ちするタクシーしか乗らないようにと注意されるそうで、それを守らなかった友人の不注意が原因とも言える。流しのタクシーは強盗タクシーと思え、などという考えはこの国に育った人々には思いも寄らぬものであろうから、仕方のないものだったのかもしれない。それに比べたら、先日起きた中東の事件なぞは、その域を超えたもののように思える。それにしても、命を失う危険を冒してまで見つけなければならない自分とは何だったのだろう。

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10月29日(金)−多様

 独り言は思いつきだし、勝手なものである。そういうつもりで書いているから、読んでいるほうからすると、おかしな具合に感じることもあるだろう。特に、身分を明かさずに書いているものには、そのしがらみを断ち切った感覚が加わっているから、普通ではない雰囲気が漂うこともある。でも、それだからこそ面白いという場合もあるだろう。普通じゃつまらないから。
 毎日題材を求めてと言っても、自分の周囲に近いことを取り上げるわけにも行かない。特定されることはなるべく避けたいし、そういう話題を取り上げるのなら別の機会を捉えたほうが良いと思うからだ。ここも大体毎日10人ほどの人が覗く。5人くらいが頻繁に訪れる以外は、一見さんであり、それっきりの人が多いようだ。興味本位で記録をとっているが、個人を特定できるものではないし、それほどの出歯亀的興味はない。訪問者の動向が気になるだけで、誰が覗きに来るのかを調べるほどのことはないわけだ。でも、とにかくそういう人々が訪れて、何も言わずに立ち去っていく。まあ、これもこちらが匿名で書いているからこそのことなのだろう。でも、だからこそ言いたい放題ができるわけだ。立場が影響するのかどうかはよくわからないが、世間的には大きく影響することが多い。新聞を賑わす政治家の発言などは、匿名の独り言だったらどうということもないものだし、ネット掲示板では日常茶飯事である。だから無責任に、という思いはまったくないが、受け取る側にしてみたら、そう思えることもあるのかもしれない。もう少し、自分の周りの事柄を取り上げてみたい気持ちは常に起こるけれども、それをしたらおしまいという制動がかかっている。そうやって制限をかけると、結局題材にも苦しむことになる。しかし、では自分に関係したことを書いていたらそうならないかといえば、そうではないわけだから、まあ、これはこれでよしとするべし、という結論に達する。とにかく、季節ものは気楽なものだが、何年も繰り返していくと年寄りの戯れ言が繰り返されることになるし、一方で時事ものもあとで読んだらつまらないような気がして今一つかなと思ったりする。いずれにしても、あれやこれやと書いているとそれなりの蓄積が出てくるわけで、これは前に書いたのかどうなのか、などと気にしていては言葉が出なくなる。やっとのことで、今日の分は終わり、となったときに、さて明日は、などと考えるようになったらおしまいなのだ。最近は特に数日分の話題を思い描くということもなくなった。どうも、話題の枯渇が激しいようにみえる。世の中で起きていることは沢山あり、それぞれを追いかければ簡単なことと思えるが、実際にはそうでもない。それだけを追いかけていると、結局話題を掘り出す能力の方が衰えてきそうな気がするからだ。今度は独り言とは違う機会が降ってきて、さてどうしたものかと悩むことになりそうである。自分に直接関係ないものをという観点に拘ってきたのが、逆のことをしなければならない。多種多様という意味からはこれはこれで面白いことだから、そちらを楽しむことにすればいいことだ。

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10月28日(木)−期待

 いつになく多くの仕事が降ってきて、かなり危険な状態である。それなら、こんなところ後回しにすればいいのにという声が聞こえてきそうだが、どうもそういう気にもならないから不思議だ。とにかく、あれもこれもと降らせてくる人のことはよくわからないが、あちらはあちらでどこかから降ってくるものをやり過ごしているだけなのかもしれない。
 こういう話に対して、ただ文句を書き並べたり、愚痴を書いたりするだけだったら、読まされる方はたまったものじゃないだろう。当人は不満がたまっているし、締め切りが近づけば焦りも出てくる。そんな心理が働いて、どこかに捌け口を見つけようとしているのだから、大目に見ることができる人がいるのなら、そうしてやればいい。とはいえ、ここであれこれとごたくを並べるわけにもいかないから、この話はこれくらいにしておく。とにかく、こういう仕事量の多少が起きる原因はおそらくそれを引き受ける人の能力によるものである。能力とはこなす能力という意味と同時に引き受ける能力とでもいうのだろうか。単に、仕事の速度だけでなく、相手に与える心証の違いにもよるのだろう。頼んだ途端に嫌な顔をされ、文句が連発されるようでは、頼むほうはかなわない。そういう相手にはものを頼まないのが適策ということになる。逆に言えば、この手を使えば誰からも仕事の依頼を受けずに済む。そういうことに窮している人には格好の対策のようにもみえるが、実際には針の蓆のような感覚があとから襲ってくる場合があるのでお勧めできないものである。いずれにしても、仕事を引き受けない人はそういうことにも動じない性格だろうから、こんな対策のことを今更言われなくてもとうの昔に実行しているだろう。依頼というのはこういった期待の上になされることが多いわけだから、そういう状況をよく了解したうえで引き受けることが望ましいのだと思う。その方が自らの精神状態も良好なままに保てるだろうし、他人の期待に沿おうとする気持ちはいろんな意味で良い方向に働くものだと思う。しかし、多くの人はそういうことを考える余裕がなく、ただ仕事に追い回されてしまう。その結果、精神的にも肉体的にも疲弊してしまうから、仕方がないと放置するのもどうかと思う。結局、期待に応えるときにそのことをかなり強く意識することが大切なのではないだろうか。そこまで大袈裟な話でなくとも、相手が何かを働きかけてくるのはそこに期待が必ず存在しているからとすれば、少しは心理的に良好な状態が保てそうである。仕事が舞い込むだけでなく、たとえば努力といった言葉を添えた助言がなされるとか、頑張れとか言われるのも、そういう意図があってのことと思えば自分なりの納得ができそうに思える。ほんのちょっとしたことなのに、これができないために愚痴をこぼすばかりになったり、気疲れしたりするようだったら、時々こんな考えを持ってみたらいいのではないだろうか。言うのは簡単だからと言わずに、実際に思ってみることが肝心なのだが。

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10月27日(水)−初雪

 通勤の車のガラスに赤い落ち葉がくっついた。月並みな表現だが、世間で何が起きようとも、季節は確実に変化している。もうすぐそこに冬がやって来たという気がしてくるほど、このところ日に日に気温が下がってきている。こうなってくると北の方からは冬の便りが聞こえ始める時期になる。住む家を失った人々にとっては厳しい季節の始まりかもしれない。
 冬の便りには幾つか種類があると思う。霜、雪、氷といったところだろうか。台風被害を受けた葉物は冬場のものについていえば、霜の被害は受けない。かえって霜が降りてくれたほうが、甘味が増すとさえ言われている。氷についてはそうもいかないかもしれない。実が傷んでしまえば商品価値が下がるからだ。いずれにしても、冬の訪れは生活がしにくくなる面が多くて、歓迎されないところが大きいのかもしれない。しかし、一方で冬を心待ちにしている人たちもいる。雪の上での運動を楽しみにしている人々だ。地震災害の影響で今シーズンはどうなるかわからないと心配する向きもあるだろうが、とにかくどうしても行きたい人は別の場所を目指すのだろう。極端な暖冬にでもならないかぎり、どこかには雪が降り積もるわけで、それを目指せばいいわけだ。そんな中で、そろそろ雪の便りが聞こえ始めている。初雪、はじめての積雪、初冠雪などといろんなところから便りが流れてくるが、使い分けがされているところみると微妙に違う意味を持つようだ。微妙どころか大きく違うと思う人はもう既に違いを知っているからで、そうでない人はああ雪の便りか、という程度の認識しかないのだと思う。初雪はその冬初めて雪が降ったことを指し、それが積もるかどうかは関係ない。それに対して積雪という言葉を使えば、積もらなければ話にならないわけで、場合によっては数日から数週間のずれがでる。本格的な冬の訪れという意味では、初雪よりも積雪の便りの方が重要になってくるわけだ。これらはどちらかと言えば平地での話であり、山ではもう一つの言葉が使われる。冠雪、つまり山の頂きに雪をかぶることを表現するのだ。当然それが冬初めてのものであれば、初冠雪となる。頂きが麓から見える山についてはこういう便りが届き、山の上の方に冬が来ていることを知らせる。実は山の上でも初雪と初冠雪の使い分けが行われるところがあった。こういう便りは気象の公式記録であるから、素人や町の役場が出すものではなく、気象庁管轄の気象台や測候所が出すものである。つまりその場所にそういう施設があれば、そこに人がいて目で見たデータを発表するわけだ。初冠雪は麓から観た記録であるのに対して、初雪はその場で観測した記録であるから、山の上にそんな施設がなければ発表できない。そんな事情から、去年まではそういう記録があったのに、今年からはそれが無くなった場所がある。この国一番の高い山、富士山で、山頂に測候所がある。つい先日まではそこに人が常駐しており、気象データをまとめるだけでなく、人の目でする観測も行われていた。富士山山頂の初雪という便りも、彼らがもたらしてきたものであり、人がいなくなったこの冬からは発表できなくなった。これからは麓から見える山頂の雪の有無、つまり冠雪の有無が雪の便りの第一陣として知らされるわけだ。時代の変化がこんなところにも現れているが、ちょっと寂しい気がするのは何故だろうか。

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10月26日(火)−脳時間

 時間は一日を基準に決まっていると言っていいのだろうか。長いほうを見れば、一年はどうやって決めているのかとなるし、短いほうを見れば、時間とか分とか秒がどうやって決められたのかが気になる。ただ、これらの時間はきちんと決められたものであり、人によって変化はしない。でも、時間という感覚は人によってかなり違うものとなることがある。
 たとえば、行列の中で待つとき、待っている時間を長いと感じる人もいれば、短いと感じる人もいる。同じ時間、同じように待っていても違いが出る。また、同じ人でも急いでいるときには長く感じることがあるし、逆に余裕がある時には大して苦痛にならずに済む。時計が刻む時間は何があろうとも変化しないが、頭の中の時間はいろんな要因で変化するわけだ。このことをふと思ったのは、地震で脱線した列車に乗りあわせた乗客達の反応が伝えられたときである。はじめに流れた談話では、車中の指示がきちんと行われ、ほとんど混乱なく待ったうえで、列車を降りて駅まで徒歩で移動したという話だった。ところが、次の日になって流されたものでは、まったく逆の内容となっていた。つまり、状況説明などはほとんどなく、要領を得ないもので、苛々したという話で、対応の拙さを訴えようとするものだった。さて、どちらが本当なのか。簡単な答えは、どちらも本当というものだろう。説明の理解は人によるし、自分だけの判断でなく周囲の人々の判断の具合によるだろう。誰かが不満を口にすればそれが伝染して、そういう気持ちになる人も沢山いる。そんなことを考えれば、前者はおそらく本人も含めて周囲の人々の待つ姿勢がゆったりとしたものだったのに対し、後者は何らかの理由でいらだたせる雰囲気ができていたのだろう。流された情報が同じものであっても、それに対する反応は正反対のものになることはよくある。解釈には善意と悪意とがあって、受け取り方一つで大きく違った方向に向いてしまうわけだ。営業運転中の脱線がどんな原因にせよ、初めてだったことについても見解は分かれている。こんなことが起きるのは対策が不十分だったからだと、まずは不備な点を標的とする人々がいると思えば、脱線したとはいえこの程度の事故で済んだことは幸いだったとしたうえで、しかし運に頼るだけでは駄目だから対策が必要であると説く人々がいる。確かに、いろんな運が重なったことで人的被害がでずに済んだとする考え方があるが、一方で構造上のことから転覆の可能性は低いと指摘するものもある。ただ、こういう考え方の人でも、そこに対向する列車が飛び込めばと仮定すればと続けることで、更なる対策の必要性を議論すべきと指摘する。この辺りの流れを見ていると、人それぞれに同じ事故を見てもまったく違うところを見ているものだということがわかる。大真面目に批判のみを繰り返す人については、単なる賑やかしであって、何の役にも立たないだろうことが推し量られるが、事故の分析から今後の対策法まで論じる人を見ると何となく頷いてしまう。騒がしくすることが世論を動かし、それが誰かの重い腰を上げさせるのだと主張する人がいるが、その結果馬鹿げた対策が投げられ、どうにもならないものを生み出したことは数多くある。それにしても、未だにそういう傾向の人間の声の方が、簡単に届いてしまうことには呆れるばかりだ。自分の感想を書く必要などないのだが、敢えて書いておく。さすが、新幹線はすごい、神戸の時の惨状に比べたら、走っていてあの程度で済んだのだから。

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10月25日(月)−変動

 災害があると、いろんな影響が起きる。大地震ともなれば先行きへの心配から、様々な経済指標に変化が現れる。心配というのは余計なものや過度なものがあるから、変化も当然のことながら大きくなる。あとから考えれば過剰反応とも思えるものでも、その時は実際に心配しているわけだから、過度と片付けるわけにも行かないだろう。
 経済ではよく需要と供給のバランスと言われるが、本当にそうなのかと思えることが沢山起きる。今回の台風被害の影響についても、そんなことが言えそうな雰囲気がある。大雨による水害から、生産地が大きな被害を受けてしまい、供給が激減したとの報道があった。それにより、卸売の段階での価格は高騰し、当然ながら小売の段階ではかなりべらぼうな値がついていた。このときの報道で気になったのは、供給の減少割合と価格の上昇割合の格差である。その時の市場への供給に関して、確かレタスだったと思うが、入荷が約半分に落ち込んだと伝えていた。これでどういう価格になるのか、計算のしようもないのだろうが、しかしそこで伝えていたのは約八倍につり上がったということだった。確かに、将来的な不安感が価格に影響することもあるのだろうが、何故半分が二倍ではなく、八倍になってしまうのだろうか。この辺りが経済動向の理解しにくいところなのだろうと思う。需要と供給のバランスから自動的に価格が設定されるわけではなく、そこに心理的な要素や将来予測といった別の因子が入り込んでくる。特に、現状を表す需要と供給とは違い、将来はあくまで予測であり不安定なものであるから、過剰な反応を示すことも多々あるだろう。そんな様子がこういった価格変動に現れてきたと考えるのが妥当なのではないだろうか。それにしても、何がどうしてこういう結果を産みだすのか、供給量を追いかけるだけでは解ってきそうにもない。特に過剰な反応が心理的なものに起因しているのなら、それを分析することはほとんど不可能に近いのではないだろうか。悪いことが起きているときには市場を悲観主義が占めるという話はよく聞くが、今回の騒動はまさにそれなのではないかと思えてくる。不安を拭い去る方法は色々とあるだろうが、実際にその最中に効力を示すものはほとんどない。真っ只中で不安を消し去るのは外からの力ではなく、結局内なる力しかないようで、自分たち自身の中からその不安を打ち破る気持ちが出てくるしか方法がなさそうだ。そのためには落ち着くための時間が必要であり、結局、それまでの期間は混乱が続くしかない。災害が次から次へと起きているところでは、時間はとめどなく長くかかりそうな気がしてくるが、果たしてどうなるのだろうか。レタスはあんまり食べないから良いのだが、白菜、大根の類いはこれから鍋の季節だから、ちと困る。まったく身勝手な話になってしまうが、結局はそんなものなのだろう。この材料を使わねばならないという制約がある人々にとっては、この騒動はかなり厳しいものになるのだろうが。

(since 2002/4/3)