パンチの独り言

(2004年11月1日〜11月7日)
(議論、希望職、外観、土台、財産、肩書き、復興)



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11月7日(日)−復興

 人の行動は周囲の状況に左右される。集団の中で自分を失わないように行動することは困難で、つい全体の流れに流されてしまうことが多い。ただ、これは流される人間は駄目で、流れに逆らう人間が偉いという意味ではない。どちらが適切なのかを見極める目が必要で、何も考えずにどちらかをすれば良いというわけではないからだ。これは更なる困難を招くわけだが。
 どこの国でも政治を動かす人間は力を持っていると認識されるようだ。災害があるとそこを慰問に訪れるのも、復興にかかる費用の工面に関わることだし、それを決める力を持つからこそ現場で歓迎されるのだろう。それに比べると国の象徴である存在を歓迎する気持ちはまったく別のところから出ているのだと思う。どちらが正直な気持ちかといえば、両方共であろう。どんな思惑が付随しているのかに違いがあるだけで、本人の利害といった観点からはあまり違いがないのだろうから。こんな光景が画面に映し出されるたびに、慰問は直接何かの助けにならなくても意味のあるもの、といった感覚がしてくるが、この間の災害では正反対の流れがあった。副大臣と呼ばれる何とも不思議な存在がいつの間にか登場してきたが、その内の一人が災害現場の慰問に訪れていた。そこでの展開は本人も含めて訪問者の予想したものとは似ても似つかぬものになり、片付けをする人々から罵声が浴びせられたようだ。やって来るなら手伝ってくれ、というごく当り前の要求なのだろうが、慰問すればよいと思い込んできた人にとっては意外なものとなる。そそくさと立ち去ったなどと報道されたのでは、面目丸潰れだったのではないだろうか。その後も方々訪問していたようだが、さすがにどこでもそうなるわけではない。多くの所では片付けの手を休めて、礼の挨拶をする人々が映し出されていた。この辺りが、全体の雰囲気に流される人々の心理をよく表していると思う。誰かが文句を言えば、皆それに同調する。誰かが礼を言えば、皆頭を下げる。当り前といえば当り前のことだ。一方、度重なる災害の最後に起きた震災では、ある放送局が被災者の消息と関係者の心配の声を流す番組をほぼ一日テレビ、ラジオを通して流していた。この企画はとても面白いものに思えたが、一部の人々からは批判の声が出ていたようだ。忙しいときに、テレビもラジオも観たり、聴いたりするはずがないという外からの声があったが、果たしてどうだったのだろう。ラジオを抱えて避難した人も多かったと聞くのだが。さらに歪みを感じさせたのは、度重なる不祥事の悪い印象を払拭するために企画したものではないかという意見で、まあ、そういう見方をしたくもなるのかと思うが、そこまで考える余裕があるのは被害を受けなかったからなのかもしれない。どうも、暇な人間ほどこういうことを考えてしまうのでは、などと思ったりした。情報社会では情報を流す立場の人々の責任はさらに重くなりつつある。以前ならば局所的な情報のみで足りていたものが、今では広域に渡るものが要求されるようになった。それが進めば進むほど、情報源に対する依存の度合が大きくなる。はたしてこのまま進むことが正しい方向に向いているのかそろそろ考えておいたほうがいいのかもしれない。便利さや安全性を追求する一環として、情報網が考えられているようだが、甚大な被害を及ぼす災害に襲われた場合、正常に働かなくなるものの一つになっている。徐々に対策が練られているとはいえ、まだまだ不十分なところがありそうだ。そういう中で様々なことを試みるのは重要な事柄の一つであろう。そこでの批判も重要だが、それよりも波及効果などの評価を先に出すことの方が大切に思える。

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11月6日(土)−肩書き

 老後のことを考えるようになったら、もうその人は十分に年をとったということ、という意見もある。しかし、海の向こうでは子供の頃から資産運用を考えさせられ、それは老後を有意義に過ごすためと教えられる。となると、こちらよりあちらの方が年をとるのが早いということになるのだが、そんなことを言ったら笑われるだけだろう。慌てて急に皺を増やすより、準備万端が良いだけなのだろうから。
 老後を考えるうえで、仕事を続けている人にとって深刻な問題がある。会社のような組織の中では一般に年を重ねるとともに、自分の下にいる人の数が増えていくと言われる。組織を取りまとめる集団の区分があり、それらのまとめ方によって、その集団はさらに大きな集団に組み込まれていく。その階段の上を人々は歩いていくと言われているのだ。当然のことながら、階段を一つ上がるごとに呼称が変わり、肩書きといわれるものが仰々しくなっていく。頂点に君臨するまでに至る人は少ないが、ある程度のところまでは多くの人が到達することになる。しかし、辞める段になると、この肩書きが急に外れる。肩書きを当然のものと思い込んでいた人たちにとっては、それが外れることはかなりの衝撃らしい。それに耐えきれずに、精神的に参ってしまう人もいると聞くが、はたしてどの程度の衝撃なのか、人様々に違うだろうから一概には言えないのかもしれない。それにしても、人は中身といくら言われても、やはり肩書きのようなものに振り回される人がいるものだ。相手にするときも、相手にされるときも、重要な役割を果たすことが多いようだから、ある社会では重要なものなのだろう。先日もある会議で気になる発言をする人がいた。肩書きのある人を通さないと、事が進まないと主張しているようだった。普段から、成果主義と言われ、それを声高に主張する人に限って、どうもこういった態度をとる人が多いような気がしてならない。そしてその裏には必ずと言っていいほど、社会の歪みに対する批判がつきまとう。昔からこういった傾向に接する機会が多かったから、余計にそんなことを思ってしまうのかも知れないが、こういう人に限ってというのは別の面にも現れてくる。つまり、成果主義が肩書き主義へと移行する姿がよく見られるのだ。不満を漏らす人ほどその傾向が強いというと言い過ぎなのかも知れないが、そんな気がしてしまうほど多くのかつての批判者が今や君臨する立場に居座る。そして、下からの批判に対して目を光らせるわけだ。どんな考えに基づくのかは自らの経験から熟知しているし、どんな対応が適切かもよくわかる。ただし、これらのことはすべて自分の今の地位を守るために使われるのである。どこにも組織全体に対する配慮とか、将来の展望といったことは存在しない。かつて、そんなことを強調していた人が豹変するわけだから、どうにも言葉が出なくなる。所詮はそんなものと言ってしまえば簡単なことだが、どうにもこの体制では明るい未来を期待することができなくなる。逆に言えば、今の体制を維持することが一番安定で安心な世界を築くことになるといえるのかもしれない。下剋上の世界はいかにも合理的で、発展的な仕組を築くことになるように見えるが、そこに潜む精神的な不安定さは上に向かうときに大きな力になるとともに、転げ落ちるときにも加速度を加える。誰しも今の立場に満足しないのだ、という意見もあるが、それと批判的な言い分とは必ずしも一致していない。自分に無いものを批判することは実は一番簡単なことなのだろうから。

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11月5日(金)−財産

 年金問題と無関係な世代でも、先々のことを考えれば、気になることは多い。大した違いなど無いと諦めるのも簡単だが、何とかなると思うところが少しでもあれば、何かしておこうという気になるのも当然のことだ。ただ、老後の問題とは単にお金の話だけでは済まないところがあり、生活を愉しむとなれば何かしらの付加をつける準備も必要だ。
 貯金、蓄財に一生懸命になりすぎるのもどうか、と言われるようになって久しいが、やはり先立つものを気にするのは当たり前のことだろう。海の向こうとの違いは、金を金融機関に預けるだけという消極的なやり方で、運用という言葉で括られる積極的なやり方とは大きく違うと評される。まあ、どの程度の違いがあるかはさておき、資産運用という意味で、自分自身の持つ資産運用についても考える必要があるように思える。ここで言う人間が持つ資産とは、財産とか金とかいう物質的なものではなく、精神的なものとでもいうのだろうか。ただ漫然と生き延びるのではなく、何かしらに楽しみを持ちつつ、残りの人生を送るといった感じのものである。働いている人は、人それぞれにその職を辞する時期が来て、その後の人生は仕事とは無関係な形で送る場合がほとんどだ。そうなると、それまで培った仕事上の知識や知恵を活かす場はなくなり、それとは違う自分だけのためのものに精神活動を向ける必要が出てくる。この際に、人それぞれ、まったく違った方向に向かうのがよくわかるのだ。それまでも含めて自分の趣味とするところを大いに愉しむといった継続的なやり方をする人と、どちらかといえば今まで思い描いていたけれども、実行に移せなかった対象に新たに取り組むというやり方をする人がいる。それ以外に、何もやらないという人もいるが、こちらに関してはここで何か論じる必要もないだろう。そしてまた、それがその人自身にとって最も楽しいやり方であれば、他人がとやかく言う必要もないことだ。とにかく、仕事とは無関係なものをしようとする心は、人によっては事前に準備をしておくだろう。それには、実行に移すという形のものもあれば、単なる下調べであって実行に移すのは自由になってからという形のものもある。いずれにしても、それまで主であったものを消し去り、従または存在もしていなかったものを主たるものとして取り上げるわけだ。これはこれで中々大変なように見えてしまう。大変革であることは確かだし、その行く末が見通せないものだろうから、落ち着かないものになってしまうだろう。でも、そういう変化こそが、生きる楽しみを生み出すのではないかとも思える。新しいことに挑戦する人々、未知のことを学ぼうとする人々、新たな交際を開拓する人々、種々雑多な人々がいるが、これらの人は全て目を輝かせて、自分の将来を見据えているように見える。若い頃の将来とは違って、この将来には明らかな終焉が見えているように思える。そういう中で、自分の好きなことを見つけ、それに取り組む姿勢を持ち続けることは年金とともに老後にとって重要な問題なのだろう。

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11月4日(木)−土台

 独り言を何度も読んでいる人にはすぐにわかることだが、他の人と違った見方をしようと努力している。違った角度、違った解釈、違った何か、何でもいいのだが、どこかに違ったところがあるようにしないと、書く意味も読む意味も無いように思う。それでなるほどと思ってもらわねば、とは思っていないが、皆同じでは面白くない。ただそれだけなのかもしれない。
 地震の直後、災害対策の専門家と思われる人々が集められ、どこの局でもその提案を流していた。こうすべきというものではなく、ただ単にこうしたらどうかとか、今の状況でいいとか、そういったコメント程度のものだった。その中で印象に残ったものの一つに、この国はやはり安全であるという話があった。よその国なら、大地震があって混乱に陥れば、盗難、強奪などの事件が頻発するはずなのに、この国ではそういうことが起きないという内容だが、おそらく安全性を訴えたかったのだろう。しかし、よく考えると、以前はそんなことが当り前で、わざわざ安全云々を論じることもなかったように思える。となると、一体全体どうしてこんなことまで言う必要が出てきたのか、ということの方に気持ちが移っていく。社会的な大事件が起こるたびに、いろんな混乱が生じる。大地震はその典型だし、戦争だってそういう類いのものだ。どちらの場合も、直後にはかなりの混乱が生じたと言われている。流言蜚語の類いは日常的に飛び交い、実際に行動に出てしまうことさえあった。しかし、その後は平穏無事な時代が長く続き、そんな事件も起きなくなった。平和であれば、何が起きても大丈夫、と思われたが、どうも戦争の無い平和と心の平和とは直結していないのではないかと思えてくる。経済的な打撃が大きかったせいもあるのだろうが、何しろ自分を中心に様々なことを考える人が増えている。それが良いことに繋がることも多いが、悪いほうに働いているものの方がはるかに多いのではないだろうか。他人のものを盗む事件も、生活に困って強盗をしたという話は昔のものになりつつあり、どちらかと言うと借金を自らの欲望の結果として作り、それが強盗に結びつくものや、金を手に入れるために農作物にまで手を出す人々が出ている。この辺りの状況は異常に思えるのだが、そうでもないと思っている人が多いのかも知れないと時々思えてくる。何しろ根底にある自分中心については犯罪を犯す犯さないに関係なく、どこかしらにありそうだという自覚があるし、それが何か決定的な役割を果たす可能性は否定できない。その結果として、良い仕事ができる場合もあるし、悪い犯罪に走る場合もあるという違いだけだ。そんな時代背景から安全性を強調する動きが出てきているのではないかと思ったわけである。その後、案の定というべきか、現地では犯罪の煙がくすぶり始め、住民すべてが避難したところでは実際に何かが起きそうな兆しがあるという報告もあった。今更言っても何の役にも立たないことだが、やって良いことと悪いことがあると何度も言われたことがあるし、何か悪いことをすればばちが当たると言われたことも度々ある。そういう言い回し自体が既に捨てられてしまった感じもあるが、本来その程度のちょっとした考えが道徳を築く礎になっていたのではないだろうか。地震などがなくても、土台が揺れ動くようでは、とても立派な建物は建たないのだろう。

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11月3日(水)−外観

 毎年、この時期になると新聞紙上を賑わすものがある。どこかの世界で有名な人々の名前が連なるのだ。身近な世界なら知っている人の名前が出たりするが、縁遠いところだとさっぱりわからない。こんな人がいたのかと思うこともあるが、一方で演劇関係はさすがにテレビの普及とともに、誰もが知っている人を作り出しているようだ。
 褒章とか勲章とか言われても、その区別さえつかない人間にとっては、どうでもいいことのように思える。単に国から貰えるご褒美のような感覚だ。しかし、手近な辞書を探ってみるとそこにははっきりとした違いが書き込まれている。勲章は、「勲功を表彰して授ける記章」とあり、これではわからないから、もう一つひかなければならない。勲功とは、「国家・君主などに尽くした、功労・手柄」とある。それに対して、褒章はと言えば、「立派な行為に対する栄誉のしるしとして国家から授ける徽章」とくる。前者は国に対して何かを行ったことに対してのものであるのに対して、後者はその点は問わず、行為そのものに対するもののように見える。違わない、と言う人もいれば、明らかに違う、と言う人もいるだろう。受け取ることの無い人や、受け取る気の無い人にとっては、どうでもいいことに違いない。さて、そんな名前の中に漢字の研究を続けてきた白川静という人がいた。漢字はこの国で発明されたものではなく、海の向こう、普段言っているのと方向は違うが、からやって来たものである。何故、よその国の文化を研究するのか、と訝る向きもあるようだが、研究は何を対象にしてもいいのだろうから、そんなことを言うこと自体おかしく聞こえる。さらに、漢字はそちらの国にしかないものではなく、今やこちらで大きな役割を担っているわけだから、その研究を行う意義は大きいと言える。しかし、本家本元の研究者を差し置いて、それを借用しただけの国の研究者ができる貢献など大したことはないと思う人も多いのではないか。実際、そんな評判もあったようだが、結果として彼は発明した国の研究者が成し遂げられなかったほどの成果を挙げたのだそうだ。旧来の研究に縛られて、伝来の文書の本質を見抜けなかった人々に対し、そういう色眼鏡を外すことによって新しい視点を産みだした功績の大きさはかなりのものだと聞く。この話は白川氏の偉大さによるものという考えは当然なのだろうが、一方で別の要因がありそうな気がしてくる。本場だからこそできることと、本場だからこそできなくされてしまうことの入り組んだ関係とでも言うのだろうか。この国の経済状況の分析においても、そんな話がバブル期に何度も出版されていたが、そのほとんどは外からのものであった。自分たちには見えないものをよその国の人々が見ているというのは必ずしもいいとは言えないことなのだろうが、とにかく違った視点からの分析が本質を見抜くために必要となることがあり、そのために現場にいることがかえって逆効果になる場合もあるのだろう。本来は、内側からの視点と外側からの視点の両方を持ち合わせることが重要なのだが、それが難しいことをこれらの例は示しているのだと思う。ちょっとした見方の違いと言ってしまえばそれまでなのだが、言うのは簡単でもやるのは難しいようだ。普段から密接な関係を持つものほど、その傾向は顕著になる。自分からその気になるように努力しないと、意識だけを外に飛び出させることができないからだ。漢字の研究とは関係ないところでふとそんな気持ちを持った。

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11月2日(火)−希望職

 将来就きたい職として人気のあるのは何だろう。幼稚園の頃は、料理人とか運転手だったりするが、小学校を卒業する頃になるともっと現実的になる。親が望むものと、本人が望むものは違っていて当り前なのだが、親の方は思惑ばかりが目立っていて、首を傾げてしまう。そんなに納得づくで職を選ばせてどうしようと言うのだろうか。
 夢のある話ということで、プロのスポーツ選手にさせたいという話はよく出てくる。ただ、高校野球を見ていればわかるが、全国のあれだけの数の高校生が野球をやっていて、毎年新人として皆の前に出てくるのは60人ほどなのだから、とんでもなく大変な状況にあると言っていいだろう。サッカーも然りである。才能云々を議論する前に、数の話をしても仕方ないのかも知れないが、そんなものである。才能があっても、誰かの目に留まらなければだめなわけで、そう考えると厳しいものだなあと思う。一方、私たちの頃と違う印象を持つのは、公務員の扱いなのではないだろうか。公務員なんて、国のお役人になれる上級公務員ならまだしも、地方の役所に勤めるなんて大したことはない、という考えが一般的で、実際にそうなった同級生の噂を聞いても、終業時間が近づくとさっさと帰り支度をするなどという話が聞こえてくるくらいだ。そこに仕事としての魅力は紹介されず、毎日同じ単純な仕事を繰り返すだけで、給料がもらえるといった扱いがせいぜいだったように思う。それが最近は、どういうわけだか人気のある職業になっているらしい。理由は安定しているからというのが一番なようだが、これは結局今の企業の状況が反映しているといえるのだろう。これといった理由もなくリストラの対象にされるかもしれない不安や企業自体の地位が危なくなるような不安定な時代には、安定志向がより強調され、そういう項目が重視されるようになる。確かに、母体がしっかりしていれば崩壊することもないだろうし、公務員であればリストラの憂き目に遭うこともないと言えるのかもしれない。しかし、最近の地方自治体の財政状況を見るかぎり、とても安泰とは言えないだろうし、公務員といえども成果主義が採り入れられてしまえば、リストラの対象となりかねないだろう。仕事の面白さではなく、安定を選択理由の一番に挙げるのは、結局は仕事を重視していないからで、最近の家族志向と合致するところがあるのかもしれない。愉しく暮らすことが大切で、そのために必要な収入のためだけに仕事はあるとすれば、確かにそういう考え方が出てくるが、そんなものなのかと思えるところがある。人それぞれに考えは様々なわけで、そういう人が駄目で、仕事に命を懸ける人が偉い、と言うわけにも行かない。とにかく、重要と考える順位が人によって違うのだから、それをどうこうと論じるのも実際には馬鹿らしい話になってしまうのかもしれない。それにしても、仕事に魅力を感じなくなった人が、他のものに魅力を感じられるというのは、自分としては想像できないから、こういう傾向にはどうしても違和感を覚えてしまう。さて、安定成長が再び戻ってきたら、今度はどんな職が望まれるのだろうか。

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11月1日(月)−議論

 勝ち組、負け組というのは、最近になって流行りだした言葉なのではないだろうか。何にでも勝ち負けをつけ、決着をはっきりさせないと気の済まない人たちが出てきて、その表現方法としていろんなところに顔を出すようになったように思う。こういう人に限って、自分は議論で負けたことが無いと豪語するようだが、実際のところどんなものだろうか。
 議論で負けないためには最後まで引き下がらないことが大切である。妥協など念頭に無く、自分の意見を言い続けることが負けない秘訣と言われる。確かにそうかもしれないし、そういう人を相手にした時どうにもならないことを思い知らされる。そこにあるのは一方通行の、まるで矢を射る如くのもので、ただ単に言い放っているだけの音声再生機を目の前にしたようなものだからだ。もう一つ大切なことは声の大きさなのだそうだ。自分が主張しているときに他人が意見を挟む余地を無くすためには、声で全体を圧倒することが重要であるとのことだ。議長が何を言おうが、自分の主張を声高に掲げることで、その場の雰囲気を一方的に決めてしまうわけだ。こういう人が議論の場にいると、それだけで相談事は進行しない。ただ単に、あらかじめ決められたことが騒々しい中で決まっていくだけのことである。逆に言えば、議論の場を制御したい人がいたら、こういう人を仲間に引き入れて利用するのが一番ということになる。いろんなところを点々としてきたので、そういう人々の行動には何度も遭遇することがあった。特に、本人が論理的と思い込んでいる人ほどこの傾向が激しく、自分の論を曲げることが無い。その欠陥を指摘しようものなら、激しく抵抗して、反撃に出てくる。そういう人を相手にする気が無ければ、さっさと退却して無難な結論を導きだそうとするのが普通なのではないか。こんな経緯を端から見ていれば、そこには議論の応酬など存在せず、ただ単に一方的な叫びのみが残ったことが明らかなのだが、当人にとっては勝利を得たということになってしまう。論理的な人ほど、その論理の綻びを指摘されることには敏感で、何とか繕おうとする。しかし、決定的なものほど、ちょっとした修繕では間に合わないことになり、最終的には論理もへったくれもないという反論が展開されることが多い。こうなるともう手に負えないわけで、標的となった人は罵声を浴びせられることとなり、その場は収拾のつかない修羅場と化す。しかし、あまりにも馬鹿げた提案の場合、それを受け入れることには無理があるから、あっさりと退却するわけにもいかない。そういう場合、代案を出すだけでなく、別の形の餌を与えて、そちらに気を向けさせるくらいしか方法が無い。本人の満足だけでなく、一見勝利を得たように見えるものを用意するのは容易いことではないが、どうにもならないから工夫するしかない。そういう相手を持つだけでこんな労力が必要だとしたら、それほどの無駄はないはずなのだが、どこにもそんな人がいるようだ。

(since 2002/4/3)