パンチの独り言

(2004年11月8日〜11月14日)
(作文、通話、不便、監視、古臭い、世代論、必要)



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11月14日(日)−必要

 生き物の研究を行っている人たちには、どんな生き物にもそれが存在し、生き残っている理由があり、地球全体に対する存在の意義があるはずと見えることがあるようだ。どんなちっぽけな虫たちにも、更には黴菌と一括りにされる黴や細菌たちにも、役割があり、意義があるはずだ、となる。そんなことだから、人間にはもっと大きなものがあるはずとなることも多い。
 既に存在しているものに対して、存在意義を議論するとなると、つい存在しなくてもと考えてしまうのは、おそらくかなり偏屈な考え方だろう。しかし、悩みを抱えた人間にとって存在意義が問われることは、結局のところ生死の選択を迫られることになりかねない。そこまで深刻な話を書きたいとは思わないし、そんな論理を真っ当なものとして扱いたいとも思わないが、どうもそんなことが気になるほど社会は歪んだものになってしまったようだ。どこがどうしてそうなったのか、という根本的な問題の答えを見つけることは容易ではない。だからこそなのだろうか、今の社会の流れは原因を見つけるよりも、結果として出てきてしまったものをどうするのかを重要視する傾向があるようだ。人間がこうなってしまったら、どう対処したらいいのかとか、悩みを抱える人々を救う方策はあるのかとか、そんなことが議論の中心となっている。実際にはそれよりもっとずっと大きな問題があるはずなのに、そちらの方に触れることはほとんどないのが現状である。こんな傾向が出てくるのは何故なのか、ちょっと考えてみて思い当たるのが必要性という言葉である。こんな言い方よりも、世間一般に通用しているのはニーズという言い方だ。何につけてもニーズが第一であり、それを満たすことが対応の最優先事項であるとなっている。この言葉の氾濫の程度はかなり凄まじいものであり、あらゆる世界に存在の意義を問うとともに必要性を問う動きがある。組織には意義があるとともに、それを利用するあるいはそれと関わる人々からのニーズに応える義務があるかの如くの話が出てくるし、それよりもっと小さな存在に対しても同じような形の話が出てくる。この手の話で面白いと思うのは、ニーズは時代の流れとともに大きく変化することで、それに応えるためには組織は常に変化を強いられることになるわけだ。これが曲者であり、これが原因で歪みが生まれていると言っても過言でないのだが、確固たる形を持たないものを相手に自らの変化を産みだすのは、いかにも柔軟な対応が求められる昨今の典型のように見えるが、逆に見えればどこかに落ち着くわけでもなくしっかりとした形を作れない状況に陥ることを意味する。しかし、世の中ではニーズが絶対的なものであり、市場原理に基づけばそれに対応しなければならないことになるから、無視できるはずのないものになっている。時代が流れるのだから変化するのが当たり前で、それでも適切な対応をすべきと言われれば無視できない。それにしても、客のニーズと言われたら絶対服従となるようだが、そんないい加減なものに従う理由がどこにあるのだろうか。自分の思い通りにならないと去ってしまうだけの存在に対応する意味はどこにあるのだろうか。商売をやるうえでの理念なるものが蔑ろにされ、その場限りのニーズに振り回されるのは何とも変なものに映る。ましてや、十年、二十年先に結果が現れる教育の現場にニーズを持ち込むことはあまりに馬鹿げたことに思える。理念とか本質という言葉の重要性はニーズの大風呂敷によって被われてしまったようだが、そろそろそれに気づかないと困りそうな状況だ。

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11月13日(土)−世代論

 頭の中を整理するために、括りという手法は大いに役に立つ。十把一絡げとなるとあまり評判は芳しくないが、共通点を見つけ出したり、相違点を探したりすることによって、山積して気がかりな問題も何とか整理をつけることができる。分類とか整理と言われるものだが、超という言葉をくっつけた形で何でもかんでもの本を出しまくっている人に言われるまでもなく、大切なものだ。
 一つ一つの事柄に関して、こういう形で共通、相違を整理して、わかりやすい形にまとめることは大いに意味のあることだろう。しかし、整理しすぎて、本来そこにあるべき問題点が消し去られてしまう場合もあるから、その辺りは注意しなければならない。でも、やはり便利なものはつい使ってしまうもので、人のことを考えるうえでも無駄な面を知りつつもつい動いてしまう。たとえば、血液型による性格分類は様々な本が出ているくらいだから、やはり皆にとって気になることなのだろう。それよりももっと長い歴史を持つものには誕生星座による性格や運勢に関するものがある。こちらも、その頃生まれた人々がすべて同じ運命に操られると考えるのには無理があると知っていながら、つい引き込まれてしまうのは、どこかに魅力があるからだろう。これらの例のように書籍の形で世に知られるようになっていないものでも、自分なりの分類を持つ人がいるのではないか。その多くはこじつけなのだろうが、自分にとっては便利な代物で、それを使うことで頭の整理はつくようだ。そんな中で、最近気になることの一つは、世代間の違いである。世代の断絶とか、深い溝の存在とか、そんな話は昔からよく出ていた。これは互いの理解がないと言うことを表すために使われたものだから、単なる比較の問題である。しかし、そういうのとはちょっと違った形で、たとえばある世代はある傾向を持つといったことを感じている人も多いのではないか。ずいぶん昔のことだから、こちらにとっても理解しがたいところはあるが、たとえば戦争体験者のその後についても色んなことが言われている。二十代での体験者の場合、学徒動員や戦場からの復員後に、世の中の仕組みが大きく変わり、それに乗り遅れまいとする気持ちも含めて、旧来のものを排除しながら自分の世界を築くことを続けた人が多いようだ。彼らにとっては、少し上の世代の人間は旧来のものであり、それを踏みつけたり跳ね飛ばしたりしながら、新たな国の建設に携わったと言えるのかもしれない。そうするうちに重要な地位を占めるようになったわけで、そこには確固たる信念があったと想像できる。踏みつけられたうえの世代もたまったものではなかったろうが、実は下の世代にもあまりいい影響はなかったようだ。仕組みが確立されるにつれ、それに乗っかることが重要であり、変革を望めない世代にとっては、上にある大きな存在はまさに目の上のたんこぶだったのだろう。自らの非力さを意識しながら、社会に対する反発を活動という形で表現した世代にとっては、結局のところ大した生産性も上がらなかったような気がしてくる。こんな形で一括りにされたらたまらないと思う人もいるだろうし、例外が一杯あることは承知のすけである。それでも、こういう括りを使うと、その後のバブル崩壊も理解しやすくなるし、更にその下の世代の悲哀もまた考えさせられるものとなる。実際には、その世代は崩壊した仕組みを修復することに終始しかねないわけで、未だに破壊を続けるうえの世代の傲慢さに呆れながらも地道に動いているような気がする。その点、更にその下の世代、この辺りになると年代がどの辺りに来るのかはっきりしないが、バブル崩壊のさなかに奈落の底に落とされた世代とでも言うのだろうか、その辺は色んな意味で苦しいところにあるのかもしれない。戦後の展開が繰り返されるとしたら、その更に下の世代によって踏みつけられることになるわけで、あまり得をしそうにもないわけだが、それでも上の世代が崩れた瓦礫を始末してくれるのなら、それほどの損もしなくて済むのかもしれない。こんなことが繰り返されるとしたら、やはり世代ごとの違いは大いにありそうに思えるのだが、いかがだろう。

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11月12日(金)−古臭い

 科学技術の進歩で、色々なものが新しくなり、以前にはできなかったことが可能になっている。そんな言い方がよく聞かれるが、果たしてそうなのだろうか、と思えるところもある。確かに、できなかったことができるようになったのは事実なのだが、それによって人間の生活やら考え方が根本のところで変化し、進歩しているのだろうか、と疑う向きもある。
 そんなことを疑ってみても始まらず、今この時に次々に差し出されるものを享受するだけでいい、と考える人も多いと思う。良い時代になるのなら、それで良いではないか、ということなのだろう。ただ、便利さを追求したときに、それによる弊害が出てくることも多く、この考えをそのまますべてに当てはめることは難しそうな気もしてくるのも事実だ。所詮は、色々と便利なものが出てきても、その本来の使い方が実行されるだけでなく、実際には間違った使い方とかおかしな使い方と言われるようなことをしてしまう人が多いからだろう。予期せぬ弊害が出てくると、そこから騒がしくなる。場合によっては、制限がかけられるのだろうし、大したことがなければ、新たな用法として紹介されることもある。こんなことを考えていると、世の中は科学技術の発達とともに、どんどん進歩していて、古いものは単に古臭くなるだけで、大したことのないものになっていくと思えるのだが、本当にそうなのだろうか。飛んでもなく古い物を見たときに、そんなことをふと考えてしまうことがある。毎年、奈良で開催される正倉院展は、そんなことを感じさせてくれるもので、二つの点で興味を引きつけるものだと思う。まず始めに思うのは、毎年毎年新しい展示物が紹介されるのを見ると、一体全体あの倉にはどれほどの遺物があるのだろうかという疑問が出てくる。美術品と呼んでもよさそうなものについては、あれほどの数のものが大切にしまわれていることを知るたびに、一体全体どんなことでそんなことが可能だったのかと不思議に思う。まあ、成立の経緯をきちんと考えればわかってくるのが当り前なのかも知れないが、それでもなおといった気持ちがぬぐえない。一方、数の問題ではなく、展示されている品の程度についての興味もかなり大きなものである。選ばれたからこそ、大切にしまわれたのだろうが、それにしても、そこにある技術力の高さには目を見張るものがある。そんなことを思ってしまうのは、結局のところ、科学技術の発展ということが頭の中の大勢を占めているからで、そうであるためには昔の技術は大したことのないものと結ばなければならなくなる。ところが目の前にあるのは、そんな考えを吹き飛ばすほど見事の品なのである。そういうものを目にしてしまうと、自分の安直な考えに嫌気がさすし、一方で何故これほどの技術力があったのかと不思議に思える。実際には、科学技術で言うところの技術と、こういう遺物の製作についての技術とはまったく違った分野のものだし、性質もかなり大きく違うと言ったほうがいいのだろう。しかし、技術という言葉を使ってしまうことによって、その辺りをごたまぜにしてしまうわけだから、気をつけなければならない。そういう意味で、あの場は古い時代に思いを馳せるだけでなく、今の時代を見直すためのものなのかもしれない。

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11月11日(木)−監視

 秘密を守ることや、情報を漏らさないことが、いろんな場面で重視されるようになっている。当り前と思われるのに、こんなことが改めて取り上げられるところに、最近の社会の歪みが感じられるが、歪んでしまったものを戻すためには時間がかかることだろうから、まずはその場の対応が求められているのだろう。守れない、漏らしてしまうという状況に応じるのは簡単ではないが。
 お札が新しくなって、やはりと思うのは、まるで玩具のようだという感覚である。毎回そんな気持ちになるのだから、逆に言うと慣れたらどうということはないわけだ。その新札の印刷段階での試し刷りがネット市場に出たことがあるらしい。通常、すべてのものが処分されるはずで、そんなものが出回る可能性はないと報道されていたが、実際に出てしまったものは仕方がない。何が原因なのか、今更調べてもどうにもならないと思われるが、今でも調査は続いているのだろう。こんな形で、普通よりもずっと厳重なやり方が実施されているはずのところでも、その網の目をくぐることが可能であることがわかってしまうと、一般的なところで完璧な仕掛けを作ることは不可能に思えてきてしまう。しかし、実際に守らなければならない秘密があり、漏らしてはいけない情報があるとすると、それを厳重な形で保管し、処分する手だてを考えねばならない。保管についてはコンピュータ内のデータの保管に関して、いろんな問題が出て、どうにもならないほどいい加減なやり方が実行されていたことが明らかになっていたが、それについても、どんな対応策が実行されているのかはっきりはしていない。一方、処分については特に書類の廃棄処分が大きな問題となっているようだ。紙に印刷された書類の処分では、シュレッダーによる細断が最も一般的な方法だろう。しかし、企業などでは膨大な量の書類が毎日のように作成され、それぞれが秘密のものであるとなると、処理だけでも大変な作業となる。かといって、外注すれば守れないものが増えてしまうから、どうにもならない。結局のところ、社内処理には限界があるということになり、外の信用できるところに、という形になりつつあるようだが、信用できるところがというのが一番の問題らしい。テレビで紹介していたある業者は、まったく新しいシステムを導入し、発注者が輸送車のロックの番号を指定し、その処分状況を監視できるようなものになっているのだそうだが、それを見ていて、ついスパイ映画や泥棒の映画を思いだしてしまった。監視カメラの配線に外部のビデオの配線を繋ぎ、監視室のモニターにあらかじめ撮っておいたものを映させることで、監視の目を誤魔化すことができるし、ロックの入力番号でも、マスターのような設定があれば何とでもなる。施設の入り口のロックに指紋照合装置が設置されていたが、撮影のためにカメラなどが入れたことを考えれば、何とでもなりそうな感じだ。結局、装置をどんなに精密なものにしたとしても、利用するほうに何かしらの思惑があればそれを欺くことは可能だろう。そう考えてくると、何のことはない、人間の心の問題、モラル、道徳の問題に行き当たるだけなのだ。そんなことを思ってしまうほど荒廃した社会になってしまったのかどうか、徐々に明らかになっていくのかも知れないが。

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11月10日(水)−不便

 何でも便利になればいいという時代なのだろうか。確かにそういうところもあるだろうが、一方で一度その便利さになれてしまうと抜け出せなくなって、かえって散財してしまうこともありそうだ。便利さを買っていると考えればどうということもないのかもしれないが、そんなに簡単な話でないこともある。取引して良いことと悪いことがありそうでもある。
 まずは引き込んでおいてから、事を始めようとするやり方は、たとえばパソコンのシステムやソフトでよく起きる話である。一度その系列で統一してしまうと、新しい系列に移ることは難しく、特に互換性に障害がある時にはそういう結果になる。独占を妨げるシステムは何のためにあるのかと思ったら、こういう時まさにその状況が起こりつつあることがわかる。便利さを餌に、顧客をつっておいて、一度かかった獲物には餌をやらないといったところか。世の中には便利そうに見えて、中々受け入れられないものも沢山あって、どこが障害になっているのかと気になることがある。たとえば、高速道路の通行料を支払う際に自動的に処理するものとして、かなり大掛かりに導入されたETCは導入からずいぶん時間が経過するのに、まだ大した普及率となっていない。料金所を通るたびに長蛇の列を横に見ながら、するりと通り抜けるのはかなりの時間の短縮に思えるのだが、そういう便利さとは別のところに使わない理由があるようだ。一番大きいのは利用するために必要となる車載器の設置費用で、便利さとの交換条件としてはいかにも高いという印象を持たれてしまったようだ。確かに、高速料金のプリペイドカードの高額なものが流通していた時期には、何のメリットもなかったのだが、それが廃止されると同じような割引を手に入れるためにはETCを利用するしかなくなった。それからまださほど時間が経過していないので、まだまだ旧来のやり方を続けている人も多いだろうが、そろそろ導入を考える人が増えてきたのではないだろうか。そういう機に乗じてか、設置費用に関するいろんな割引制度を謳った宣伝が見られるようになり、多額の前払い金による割引だけでなく、夜間に利用した場合の割引制度が首都高速道路やその他の高速道路に導入され始めた。混雑を避けるために、なるべく空いている時間に利用して欲しいということもあるのだろうが、こういうやり方で利用者が増えれば結構だという考えからなのだろう。確かに、更なる割引はこの仕組みを利用する人にだけ与えられた特権だから、その利点を活用できる人にはありがたいものになる。それが導入のきっかけになってくれれば、利用率も向上し、あちらの思惑も達成できるというものだ。しかし、意外な盲点があることはあまり知られていないようだ。実際に使ってみると、確かに割引制度の効用は大きく、利用頻度の高い人にとってはありがたいものである。しかし、長距離利用という形で試験運用されていた制度では、事故などによる区間閉鎖で途中の区間の利用が抜けてしまったときには、閉鎖による退出の不利さを補う形での料金体系は通常の利用者も含めて以前から使われていたのだが、この夜間利用制度についてはそれを補う形のものは自動的な処理としては入れられていなかったようだ。結果は明白で、区間閉鎖が起こらなければもっと安い料金で済んだものを、かなりの高額を請求されることになる。これを指摘するためには、担当部署に電話で連絡する必要があり、何とも不便な結果となってしまった。様々な想定を必要とすることだが、このくらいのことは当り前として考えておいて欲しいものだ。

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11月9日(火)−通話

 道端で後から声を掛けられたような気がしたという経験のある人も多いだろう。振り返ると見知らぬ人がニコニコしながら宙に向かって話しかけている。よく見たら耳のそばに手が来ていて、そこには四角い機械が握られていたとなるわけだ。携帯電話が今ほど普及していなかった時代には奇妙奇天烈に映った光景も、今ではごく当り前のものとなっている。
 始めは道端に立ち止まって会話をしていた人々も、何を急ぐのか歩きながらの通話となり、そのうち車の中で電話をする人々が見かけられるようになった。何でも新しい動きがあるとそれを警戒するのが役所の役目なのだろうが、特に道路交通法に関係した部署ではその傾向が激しく出るようだ。車の運転は免許を与えられて初めてできるものだから、その規則は厳粛に守られねばならないという主旨があるためか、運転中にそれとは無関係なことを行うのは危険と見なされる。携帯電話も槍玉に上がったものの一つで、このところの動きは使用禁止へと繋がる一歩と言えるものなのかもしれない。しかし、それに関する報道を聴くかぎり、どこかに歪みがあるように感じる。たとえば、運転中の携帯電話の使用が原因となった事故は、昨年全国で2500件ほど起きたと報道された。これを聞いたときに、多いと感じた人はそれほどいないのではないだろうか。最近は交通事故死亡者数も減少傾向で一万人を割っているが、死ぬ人が一万人いたら事故の数は一体どのくらいあるのかと想像する。小さなものを合わせれば、その百倍や千倍ありそうなものだ。その内のたった2500件なのかと思うと、騒ぐほどでもないという気がしてくる。既にそんな気持ちになっているところへ、運転中の通話は禁止と言われ、片手が使われているからと理由を述べられると、つい煙草はいいのかと反論したくなる。それを見越してか、手がお留守になるだけでなく、携帯メールの使用や発信時の画面注視は脇見の原因になるとか、次から次へと理由を考えてくる。しかし、これも便利な道具となったナビの存在を指摘されると、答えに窮してしまうらしい。あちらも導入当時は色々と虐めの対象になったが、最近では音声による指示を導入するなど工夫を重ねているようだ。そんなわけで、どうも通話そのものには害がないのではないかという考えもでて、携帯電話を持たなくても通話のできるマイク付きイヤホンの売れ行きが好調なようだ。使ってみると音声が意外なほど鮮明で、こちらの方が良いのかもと思えてくるほどだ。そんな情勢になると取り締まる方は躍起にならざるを得ない。研究者を動員して、運転中の通話そのものが注意力の散漫を招くという結果を発表させている。ここまで来ると、もう呆れるばかりになった人もいると思うのだが、車には運転者一人という場合だけでなく、同乗者がいることも多い。その際に、車内で会話に花が咲くこともよくあるだろう。そんなことはこれまでもごく当り前のように行われてきたし、夜間の運転では居眠りを防止する手だてとして奨励されている。通話と会話にどんな違いがあるというのかはわからないが、このまま行くと馬鹿げた議論が始まりそうな予感がしてくる。話をすれば心が留守になることは容易に理解できるが、それによって失われるものがあるのだったら、よく考える必要がありそうだ。ナビの例でもよくわかることだが、ただ禁止するとか悪い点を指摘するだけでは改良はなされない。そこでどんな対応策があるのかを考えてこそ、次のことが出てくるわけだ。研究者と呼ばれる人々も、通話が注意力散漫を招くなどという当り前の結論を出すことで満足するのではなく、どんな機能を付加すればそれを防げるのかとか、車の性能自体に何か考慮の余地はないのかとか、そんなことを研究すべきなのではないだろうか。

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11月8日(月)−作文

 20年ほど前、短い文書を作るために和文タイプライターなるものを使ったことがある。今はおそらく倉庫の片隅に忘れ去られている代物だろうが、当時は和文の文書を作るためにはそれを使う意外に方法はなかった。まるで印刷所のように活字を拾い、それを印字していく。不思議な感じもしたが、時間がかかるとはいえ素人にもまともな文書が打てた。
 その後、ワープロと呼ばれる和文作成機が登場し、あっという間に職場に広がった。それまで綺麗な文書を作るためには、煩雑な作業を必要とする和文タイプを使うか、はたまた印刷業者に発注するかという選択肢しかなかったものが、自分たちの手で短時間のうちにできるようになったのは画期的な出来事だったろう。それまでとの違いで最も大きなものはおそらく修正が簡単にできるようになったことで、タイプや業者を使っていたときには事前に推敲を繰り返さなければならず、準備に時間をとられていた。それに比べたら文書を完成させる過程でも使えるワープロは、文書作成に革命を起こしたと言っても過言ではあるまい。その後の展開は誰でも知っているパソコンの登場とその中で動くワープロソフトの充実によって、職場に限らず家庭でも物を書く作業ができるようになった。そういう気軽さも手伝ってか、小説家や記者のような物書きを職業とする人だけでなく、あらゆる人が自分の思いを字に残すことができるようになった。さらに時代は進み、情報交換の手段としてメールやネットといった類いのものが登場すると、単純に自分のためだけに残してきたものを他人にも披露できる機会が広がってきた。そうなると、多くの人がネット上の様々な場で自らの考えを展開することができるようになり、そんな文書があらゆるところに溢れてきた。一部の誹謗抽象的な動きはさておき、多くの文書は公の場に発表されるようになったが、一方でこういう場所は誰でも入ることが可能であるが、誰もが入るところではないことが明らかになる。つまり、読んで楽しいことが皆に知れ渡れば読む人の数が増えるが、そうでなければ結局のところ自分の部屋の片隅にあるノートとなんら変わりのないものにしかならない。その欠点を補うためか、ブログなる双方向的な日記の道具が登場したが、思ったほどの効果は得られていないようだ。結局のところ、読んで面白くなければ意味がないし、読んでためにならねば時間の無駄といったものなのだろう。そんな事情があるからか、はたまた実社会でも必要性が見直されたからか、最近文章の書き方なる本が巷に溢れるようになってきた。子供や学生を相手にしていたものが、急に大人を相手にするようになったのである。それだけ物を書けない大人が増えたという意味なのだが、それにしても異常にも思える風潮である。何でも教則本をこなせば習得できるという迷信からか、そういう本が次々に出版される。どんなことが書いてあるのか読む気にもならないからわからないが、たぶん大した違いは無いのだろう。書くことで重要なのは、実は読むことであり、自分の書いたものを読んで評価することができれば、上達の道は残されているのだと思う。しかし、他人の文章は批判できるのに、自分のものはさっぱりという人には道が閉ざされてしまっているのかもしれない。読み書きとはよく言ったもので、その順番もその組み合わせもぴったりくるものであり、どちらが欠けても成立しないものである。さて、では、ここにあるのは、と考えるのはまた別の時間にしよう。

(since 2002/4/3)