パンチの独り言

(2004年11月15日〜11月21日)
(主語、競合い、糊塗、手本、祭り、万能、差別)



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11月21日(日)−差別

 あまりにも当り前のことだと、当たり前すぎてその存在に気づかないとかその意義に気づかないということがある。国の制度にはそういうものが沢山あって、この国の中では当り前のことが、よその国へ行くとそうでないことも多い。井の中の蛙と言ってしまえばその通りなのだが、それでは先が出てこない。たまには外を見てみるのも大切なのだろう。
 この国の国民であるかぎり誰もが差別なく持っているものに戸籍がある。これは当り前のことだ。しかし、世界中どこの国でもそうなっているわけではない。たとえば海の反対側の国では戸籍などというものは存在せず、人々の唯一の記録は出生証明書にあるのみである。だからかどうかは知らないが、あちらで生まれた子供はすべてあちらの国籍を取得できる。誰の子供かは問題ではなく、どこで生まれたかが重要なわけだ。戸籍の保存してある場所を本籍地と言って、そこに行けば戸籍の写し、謄本だったり、抄本だったりするわけだが、それを手に入れることができる。こちらでは誰の子供かが国籍取得に関わるわけで、それは戸籍の中での繋がりが証明するものだからだろう。本籍地は写しの入手のために必要になるだけでなく、時々必要となる履歴書にも記載するようになっている。しかし、そこでは都道府県名の記入のみで、証明書の入手に必要になるほど詳しいものは要求されない。就職先がそれを必要としないからという解釈も成り立つが、以前聞いた話はそういうものではなかった。ずっと前はすべて記入していたのに、ある時からそういう欄が消滅した理由は、本籍地からあることが推測されるからというものらしい。あることとは地域によるもので、ある差別的な扱いが行われているので、就職に際して不利益を被る恐れがあるからだという。そういう地域と接する機会を持ったことのない人間にとっては想像できないことだが、確かに差別が存在するのだそうだ。差別の対象を知らない者にとっては、差別も何も意識しようがないが、差別された経験のある人々にとっては重大な事柄である。逆に、知らない者が意識せずに何かをしたときに、それを差別と受け取る人がいれば、その差別は意識したものより大きくなる場合もある。だから知らないことは駄目で、知る必要があるというのが教育現場での現状のようだ。これとは別の話だが、言葉による差別が話題になり、放送で流すことができなくなっている。この場はそういう制限のないところだと思うが、盲とか唖、乞食などという言葉は軽蔑の意味を含むから使ってはいけないのだそうだ。文章を書くことを生業とする人々からは猛反対があったようだが、受け取り手の問題だからという一言ですべてが片付けられている。この風潮はかなり広範囲に広がっており、最近の何とかハラスメントはそのいい例になるだろう。実際にこの流れが正しい方向に向いているのかどうかはわからないが、時々疑問に思うことがある。運動を起こす人々からすれば差別意識は言葉からということなのだろうが、何故そこまでと思うことが多いのも事実である。つい先日も、おやと思う例があったが、それは痴呆症という言葉の変更である。老人性痴呆症とか若年性痴呆症とか、最近は色々と話題になることが多いから、目に触れる機会も多くなっている。これがいけないのだそうだ。そういう意識を持たれてしまうと、もうどうにもならない。だから結局、新しい言葉を作りださねばならない。それも差別的な要素が含まれておらず、なおかつ症状を的確に表す言葉を、である。その結果出てきたのは、認知症である。はて、認知は確かに差別的ではないかも知れないが、それがどうした症状なのかと思う。正確な表現を避けてでも、差別をなくすということは、つまりその症状自体を差別的に捉えていることにならないのだろうか。意識をすればするほどその考えから逃れられなくなると言った若者の言葉は、そんなことを的確に表しているように思う。

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11月20日(土)−万能

 万人向け設計という言葉が使われ始めた。相変わらずの輸入品で、元々"universal design"という英語を、ユニバーサルデザインとカタカナにしただけのものが使われていたが、最近の国語事情から意味を成す言葉に置き換えることとなり、散々検討された挙げ句の果てのようだ。これで意味が通じるのかと言われると、即座に頷くことも難しい気がするが。
 原語の"universal design"を検索にかけてみると、一千万件以上のヒットがある。それだけ時流に乗った用語なのだろう。その流れはこの国でも起きていて、様々な機会に取り上げられているし、おそらくもう既に日常生活の中にも入り込み始めているだろう。万人と称するのは、従来の機械や設備が一部の人々にとって使いにくいかあるいは使えないものであったからで、それを改良することですべての人々が使えるようにしようとする概念だ。一部の人々と言っても、それは人口のかなりの部分を占める高齢者である場合もあるし、それよりもかなり少ない割合の障害者である場合もある。ここで改めて言うまでもなく、こういう概念の原点となっているのは弱者保護といった考えだろう。高齢者も障害者も社会的な弱者であり、彼らを蔑ろにするのはそうでない人々の恥ずべき行為であるといった考えが主流となっている。それ自体が間違っているとは思わないが、何にでも適用できる万能の考え方のような扱いにはちょっと辟易とすることがある。万人向け設計においても、弱者を対象とした改良がそうでない人々にとって使いにくいものを産みだすとしたら、それはどこかがずれてしまったものになると思う。誰にとっても使いやすいものという考えが根底にあるはずなのだが、場合によってはそういう代物を産みだすことができない。そうなったとき、弱者保護の観点から一部の人々だけに我慢を強いるのではなく、すべての人々にある程度の不便を受け入れてもらうという考えが出てくるのかもしれない。その結果、何ともならない役立たずを産みだしたとして、それは意味のあることとなるのだろうか。根本の理念としてはそういうことが起きてもおかしくないとする人もいるだろうが、それには強硬に反対したいと思う。誰もが使いやすいという考えを容易に捨てる姿勢に対する疑いと、何故一つのものにそれだけの機能を負わせる必要があるのかという疑問があるからだ。たとえば、公共施設の表示についての色覚異常者に対する配慮に関しても、誰にでも見易くという理念が貫かれているとは思いにくい面がある。まだまだ改良の余地があるのだとする向きには反対しないが、それにしてもまるでてんこ盛りのような代物を作り出すことには無理を感じる。誰にでも使える道具は公共の場に設置する場合には重要だろうが、一般に売るときにそれしかない状態になったらどうだろう。今の状況を見るかぎり、そうなって欲しくない気持ちの方が大きい。右利きと左利きでははさみの形状を変えることは有名だが、これを一つにすることはできない。そういう無理には取り組まないというのかも知れないが、理念ばかりでどこかに矛盾がありそうに思える。また、さらに高度なものを望む人々に対する設計はこういう考えを持つ人の念頭には無いようだ。一部という意味では彼らにも当てはまるはずだが、強者と言われそうな人々にはそんな助けなど必要ないということなのだろう。良い傾向に見えなくもないが、どうも動き方がぎこちないと思うのは、気のせいなのだろうか。

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11月19日(金)−祭り

 普段は火が消えたような商店街に賑やかさが戻ってきた。年に一度のお祭りだからだ。高度成長期には新しいものはすべて良く、古いものはすべて悪いといった風潮があり、伝統的なお祭りの多くがその歴史を閉じてしまった。その後の展開からか、ある時期から古きを懐かしむ風潮に変わり、途絶えたものを再興する勢いが全国的なものになった。
 すべての祭りがそういう憂き目にあったわけではないが、とにかく町の元気さの指標となるはずのものを捨てようとしたわけだから、その後の勢いの減退は当然の帰結だったのかもしれない。慌てて巻き戻そうと努力しても、そう簡単に元の通りにはいかないが、それでも一時の活気の一部だけでも戻っているのかもしれない。この際ずっと昔のものまで再興させようという動きも起こり、全国の奇祭が復活して、画面を賑わすことも多くなった。やはり祭りの基本はそれに参加する人々の活気で、企画する人たちの思い入れはもちろん、当日そこへやって来る人々の気持ちが大切なものとなる。当然、気持ち良くやって来て、気持ち良く帰ることができれば、また来年もとなるわけだから、それを繰り返すことが祭りを大きくしていくための必要条件の一つとなる。関西では有名な祭りだが、当地の周辺ではここだけという今回の祭りも、毎年かなりの賑わいになる。道路を本来の目的で使用する者にとっては、この時期は最悪で道路にはみ出した露店とそれを覗く人々を避けながらの運転は容易ではない。それでも、年に一度だからという考えが出てくるのは、人間の祭り好きの由縁かもしれない。元々町の祭りという場合には実行委員会なるものが存在し、そこが全体を仕切る形式がとられるが、神社仏閣が関与するものについては伝統的な形式がとられているようだ。氏子やらが出てくる場合もあるが、毎年恒例のものとなっているから、これという仕切りはほとんど必要ないのかもしれない。それでも、準備風景を眺めていると、普段見かけぬ強面の人々が見回る姿を見かける。祭りの露店の不思議さの一つはその並び順で、数多くの店がお互いに重なり合うように並ぶためには、何らかの調整が必要となるはずだ。昔は的屋とか香具師とか呼ばれた人々が大半を占めていたのだろうが、最近はどんな人々がやっているのだろう。手慣れた雰囲気の店もあるが、まるでコンビニのバイトのようなところもある。祭りが開かれるたびに町から町へと移動する人々もいれば、その時だけというのもあるのだろう。そんな具合に種々雑多な人々が関わるところでは、それを仕切る人の手腕が大いに発揮される。その土地に根づいた人々によって管理され、それをもっぱら行うことで生計を立てている人々にはある呼び名がついていたが、最近は違う意味に使われるようになり、同じような役目をする人々も地のものではなくなったのかもしれない。強面の兄さん達が行き来しているのを見ると、はて彼らはどこからやってきたのかと思ってしまうが、この辺りではまだ地元の人が多いのかも知れない。それにしても、せっかくの祭りに水を差すような雨だが、金を引き寄せる熊手を買いにどれだけの人がやってくるのやら。

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11月18日(木)−手本

 この国の今の経済のお手本となっているのは、海を挟んだ向こうの国らしい。紆余曲折の後、様々な問題が噴出するにつれて、学者達の反省が続くようになってきたが、しかし真似をする相手を変えるつもりはあまりないらしい。と言うより、そればかりを一生懸命学んできた人々にとっては他の選択をする余地など残っていないのかもしれない。
 それにしても、自由とか資本とかいう言葉は言葉として、その主義を貫くための手法が一つしかないわけでもないのに、これほど入れ込む理由はさっぱり理解できない。そればかりか、あちらの国の事情を見てみると歪んだ社会が顕在化していて、どうにもそんなものを手本にする気持ちが理解できない。確かに社会全体の経済を考える上で、ああいうやり方は選択の一つになりうるが、何故これほどまでに入れ込んでしまったのだろう。そこら辺の事情はそういう世界に嵌まっていない人間にとっては一生理解できないのだろう。初めて事情を見学したときに感じたことは、あちらの国の状況の劣悪さとこちらの国の整備の良さである。今こんなことを書いても、誰も信じないし、何をとち狂ったことを書いているのかと思われるだろうが、大真面目にそう感じたのだから仕方がない。但し、すべてにおいてそう感じたわけではないから、こういう指摘もあながちお門違いとは言えないだろう。その時話題になったのは二つの国の保険制度の違いである。いくつかの段階をおって徐々に明らかになっていったのだが、まず始めは健康保険制度で自由の国ではすべてが保険会社によるもので、低所得者層にとっては厳しい現実のように見えた。雇用者が補助してくれれば何とかなるだろうが、そうでなければ保険をかけることさえままならない。必要ならば自分の手で何とかせよ、という声が聞こえてきそうだった。次に見えてきたのは年金制度、こちらは今や破綻寸前と言われるものだが、それでも当時は非常に整ったものとして誇りに思った。自分の手で老後の準備はするものという自由な考え方には首を傾げる部分もあった。何しろ、社会どころか、家族さえも支える側には回らないのである。それが自由の原点と言われたら、そうなのかも知れないが、弱者に対する目が存在しない国であることを痛感させる事柄だ。最後に来たのは自動車保険である。これが一番大きな問題を産んでいると思ったが、そこには二つの大きな違いであり、問題となるものがあった。一つ目は自賠責保険、いわゆる強制保険の存在の有無である。自己責任による自由を主張する国だから、公的組織の関与はあり得ない。その結果として、無保険車が町中を走る状況が生まれる。この話を聞いたときには、事故が起きてしまったらどうするのかと心配になったが、自分の身は自分で守るのが基本で自分の保険で何とかするのだそうだ。この劣悪状況をさらに悪くしているものに、保険料の地域格差があり、貧困地域や事故多発地域に住む人々の保険料はそうでないところと比べてかなり割高になっていた。通常500ドル程度の保険料であるのに対して、2000ドルもの支払いを要求される。年収が2万ドルであることを考えると、飛んでもない額であることがわかるだろう。その結果として、保険をかけられない車が増加し、さらに状況を悪化する。しかし、こういう問題を抱えるのは低所得者層に限られ、彼らの声は政治や経済には反映されない。これが自由の国の自由の意味だと知らされたとき、変に思わないほうがおかしいと思う。そんな国を例として仰ぎ、追従することが何を意味したのか、そろそろ表面化してきているようだ。

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11月17日(水)−糊塗

 どうも気になるので、また書いてみる。今の世の中のかなりの部分で切り札のように使われているニーズについてである。何が気になるのかと言えば、この言葉が頻繁に使われるようになってから、いろんなところに不具合が生じているような感じがするからだ。ニーズとは、needsであり、必要とか需要という意味で、辞典にも載っている。
 消費者のニーズに応えるとか、社会のニーズに応えるとか、そんな使い方が一般的なようだが、消費者も社会も実体は見えない。一般化されすぎていて、その姿がはっきりしないのだ。その割りには、ニーズはとても大きな存在であり、それを蔑ろにしてはあらゆることが立ち行かなくなるという雰囲気がある。まるで幽霊を怖がって、夜眠れなくなるようなもので、元々存在しないものを打ち消そうとしてもないものはないままである。こんな書き方をすると、そんなことはないという反論が返ってくるだろう。なぜなら、社会には必要とか需要とかいうものが溢れているからだ。それが幽霊の如くのものなどと言ったのでは、何もわかっていないと受け取られるのがせいぜいなのである。しかし、改めて考えてみて欲しい。世間で言われているニーズのうち、本当に実体を伴ったものがどのくらいあるのかを。たとえば、本来の仕事には直接関係はないが、いろんな便宜を図るものという意味で使われるサービスがある。ああいったもののうちで、便利だなあと感じられるだけでなく、必要不可欠なものと思えるものはどのくらいあるのだろうか。一度便利さに触れてしまうと不便さがたまらなく嫌になる、という傾向は確かにあるし、そういう形で便利な世の中が築かれているのだろう。しかし、そういう便利さの中にも、一時的なものに過ぎず、その後の展開を見るかぎり大した効果を産んでないものも沢山あるのではないだろうか。一度も使ったことのない者にとっては、そのサービスは意味のないものであり、そのために余分な経費が使われているとすれば、被害甚大となるのではないだろうか。たとえば、街角に建てられている現金自動支払機のブース、誰が必要としているのだろう。確かに利用者が沢山いることはわかるが、必要不可欠な存在なのだろうか。かなりの経費をかけて建てたものだが、最近は重機の餌食になっている話ばかりで、何のためのものかわからなくなりつつある。ここで述べているのは今このときの需要の話だが、同じ言葉を使って将来の話をすることがある。たとえば、教育はその典型的な例であり、その場で役に立つのではなく、将来役に立つことをニーズとして取り上げている。しかし、将来を考える上で基礎的なものを対象とするならわかるが、その場で流行していることや今社会で必要とされているものを対象とすると話がおかしくなる。大学に入るときその頃の流行の走りといった感のあった専門に進んだが、卒業時には就職の口はほとんど無かった。しかし、あと二年経過してみると、がらりと変わり引っ張りだこになっていたのである。たった二年でこれほどの変化が起きる社会に対して、教育の現場が社会のニーズに応えるようにしていたのでは、基礎の定まらない建物を建てるようなものになる。それから三十年近く経過して、まさに世の教育は最悪の道をひた走っているように見える。表層的なものばかりを追いかけ、化粧を施した見かけだけの魅力で引っ張り込もうとする動きは、荒廃を招くものにしかならない。教育に限らず、今一度、基礎とは、本質とは、という立場に立ち返って物事を考える時期に来ているのではないだろうか。

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11月16日(火)−競合い

 睡眠不足で文章を書くと、どうも散漫なものになってしまうようだ。論理の飛躍は度々出てくるし、後から読んでも意味不明に思えるところが多い。だからと言って書き直すのは主義に反するから、今更何をするわけでもない。そんなことを思いながら次を書くわけだから、こりゃ単なる言い訳に過ぎないなと自分でも思う。確かに、そんなところなのだろう。
 どちらにしても勝手な話が続くわけで、読みやすさはそれとは別の話である。しかし、そんな状況に陥らせた眠きを吹っ飛ばす話があったので、それについて書いておこうと思う。猛暑、台風、大雨という調子で農作物に被害が出ているが、そんな中でも驚くべき話があった。レタス、白菜、キャベツなどが一玉千円という飛んでもない値が付いた話があったが、それを遥に越える話が東北地方から流れてきた。風が吹くたびに話題になる林檎だが、全国的に有名な産地ではなく、どちらかというと知る人ぞ知るといった感じの産地からの話題で、それも小売値ではなく卸値での話である。この産地はふじの生産で知られているようで、特に無袋のものを売りにしている。袋を被せれば一定の出来が期待できるが林檎独特の色が出ない。それに対して、袋を被せないと別の問題が生じるけれども、林檎らしい赤い色が鮮やかに出てくる。さらにきちんと樹に付いた状態で熟すから、蜜もたっぷりとなるそうで、その状態になって初めて「サンふじ」という名称が付くのだそうだ。そんなこだわりの林檎の競りが行われ、一箱45万円という驚くべき高値がついたのだそうだ。一箱は10キロ入りで、大体28個ぐらい入っているようだから、一個一万六千円という値段になる。これをいつものように八切れに切って食べるとすると、一切れなんと二千円である。こんな計算しなくても、もう既にどうにもならないほどの高値ということがわかると思うが、都心の高級果物店でもこんなに高い値段の果物が売られたことはないのかもしれない。確かに初物は高値を呼び、マスカットが一房十万円だとか、サクランボが同じくらいの値だとか、そんな話が時々流れてくるが、林檎については聞いたことがないほどの高値である。だからこそ、全国ニュースで流れるし、夕方のラジオでも紹介されるのだろう。聴き手の二人からは呆れた感じの笑いの混じった質問が飛び、相手の市場関係者からは面白い話が出てきた。結局、競りで関係者が熱くなり、止める声も届かず引っ込みのつかない競り合いが続いてしまった結果なのだそうだ。市場原理からいえば当然のものだし、ちゃんとそれを守った結果と言えるのだろうが、こういう結果を生み出したものが原理に基づくとは思えない。関係者の心理も原理に含まれるはずという意見もあるだろうが、こんな結果を生み出した競争意識は冷静な判断の下にあるべきものであり、ただ一時の感情に走った判断から来るべきものではない。それでも、結果は結果であり、これによる様々な波及効果が期待される。良い方向に働くものもあるだろうが、悪いものも出てくるだろう。こういうところにも市場原理が働くわけである。まあ、そんな具合の判断をしてしまえば、何事も流れるままにとなるのだろうが、どうも今一つ納得はできない。それにしても一切れ二千円、誰の口に入ったのだろうか。

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11月15日(月)−主語

 この国の言葉を習得しようとする人々にとって、何が大きな障害となるのだろう。初等教育課程から徐々に身に付けてきた人間にとっては、大した問題ともならないものでも、一気に片付けなければならない人々にとっては、かなり大きな問題となるらしい。文字で言えば漢字が一番の強敵のようで、特に単純なアルファベットを使っている人々には難物らしい。
 まるで何かのデザインのようだという話はよく聞くし、まったくその通りに服の模様として使っているところもある。何でこんな漢字をと思う人間にとっては、それが構造的に面白いからという理由は中々受け入れられないものである。ちょっと話が違うが、海の向こうの大学名が入った服を喜んできている人をこちらで見かけたその国の人々は、首を傾げるのだそうだ。まったく無関係の大学の名前に何の魅力があるのか、ということなのだろう。お互い、根本的なところに目が行ってしまうと、表層だけで捉える人々の考えは受け入れにくいものなのだろう。漢字とは別に、この国の言葉で扱いにくいものの一つに助詞があるという。てにおはとか、がとはの区別とか、そんなことがよく取り上げられており、母国語としない人々には理解しにくいものと指摘される。さらに、そういう品詞を持たない言語を操る人々にとっては、かなりの難物といった印象があるようだ。以前は、こんな形で外国人にとっての障壁という雰囲気だったものが、最近はそうでもない状況になりつつある。はて、何のことかと思うかも知れないが、ネット上に登場する文章の構造を見ていて気がつくことだ。当り前になりつつあるものの一つに、主語が登場しない文がある。何がどうして、という形が出てくれば分かり易いが、何とかの場合、何とかして、といった形で流れ始めると、いつの間にか文章が終わっている。主語が欠落していることに書き手が気づかなかっただけなのか、それとも読み手にも省略された主語がわかるという形式なのか、さっぱりわからないが、長文を書く傾向のある人に限って、そんな文が目立つような気がする。よく問題になる了解事項では、仲間同士の意志疎通のために文章を書く癖がついた人にとっては、文体が形式通りにならなくても想像がつくはずという思い込みがある。お互いによく知っているから、全部言わなくてもわかるはず、という流れはいかにもいい関係を築くために重要に思えるが、外部のものを受け入れないという意味で逆効果も大きいと思う。特に、ネットのような誰でも入ることのできる世界では、こういう取り決めはかえって誤解を産むことになる。その後の展開は、日常的に起きていることだから、ここで書くまでもないことだろうが、ちょっとしたきっかけで生まれた誤解が予想外に大きくなる。主語がはっきりしないというのは結局は助詞が正しく使われていないから、という解釈が当てはまるかどうかわからないが、今の乱れを見るかぎりそんな推測が当てはまりそうな気もしてくる。

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