パンチの独り言

(2004年11月22日〜11月28日)
(林相、表音、ずる、負債、同上、惰眠、免疫)



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11月28日(日)−免疫

 いつもなら立春を過ぎてからが時期と言われるが、今年はそうでもないらしい。強い南風が吹く春一番の話ではなく、最近患者が増え続けている花粉症のことだ。猛暑の夏に続く冬から春にかけては花粉の飛散量が激増すると言われていたが、単に量が増すだけではないことがこんな様子からわかる。徐々に飛び始め、量が増えるところにも、全体量の影響があるようだ。
 報道を聞いていても俄に信じ難いところがあったが、季節外れの強い南風の吹いていたとき、どうもムズムズする感じが続いた。これがスギ花粉のせいなのか、はたまた新たな花粉の参入なのか、それとも従来からあった猫の毛によるものかは定かではない。アレルギーの不思議なところは、というか生体反応なのだから不思議も何もないのだが、対象の好き嫌いにはよらないことである。猫と犬を比べれば、そこで起きる感情の違いは歴然としているのだが、一方で免疫反応の方は逆に出てくる。確かに、免疫は生来のものではなく、生まれてから後天的に確立されるものだから、接触という経験の多少が影響する場合もあるのだろう。それにしても、ムズムズするのはどうにも耐えられない。おそらく最近の家屋のように密閉性が高くなるとこういう症状が出る可能性も高くなるらしく、そこにいるだけで症状がひどくなる。まったく困ったものだ。ただ、それにしてはと思うところもあって、辞去したのちも何か続いているような気がしたのだ。反応が引き起こされたからそれが続いたのでは、という解釈も成り立つのだろうが、もう一つの嫌な予感も捨てがたい。当日は生暖かい風が一日中吹き荒れ、どこかから例の花粉が飛んできたとしても不思議がないほどの天候だったのだ。考え過ぎかもしれないし、さらに悪いことの始まりなのかも知れないが、いずれにしても、この冬から春にかけてはかなりてこずりそうな感じである。比較的反応が鈍いほうだと思うが、それでもこの程度の出方をするとすると、ひょっとして重症の人々は一体全体どんなことになってしまうのかと心配になる。そろそろ耳鼻科の門を叩く人も出始めているようだし、何故だかマスクをした人が目立ち始めている。一人ひとりに聞くわけにも行かないが、風邪によるものなのか、それとも季節の先取りによるものなのか。いずれにしても、ビクビクしながらの生活が続くわけで、特に場所による違いがかなり明確になるから、出かけるときには常に心配しながらということになる。元々生体反応によるものであり、自業自得的なものだという諦めができているから、大した対策をとるわけでもないし、たとえとったとしても大して期待ができないと思っている。それでも不快な症状は抑えたいところだから、ちょっとした対策はとっている。医者に行けば色々とやらされることは明白で、そんなことは真っ平御免というわけだから、素人療法丸出しである。でも、まあ、それで厳しいときを何とかやり過ごすことができるのならば、いいではないか。何でもかんでも、最新式とか完治するとか画期的とか、そんな売り文句で出されるものに対して、ちょっと抵抗を感じるのは自分だけでもあるまい。重くないから、と言われればそれまでだが、その程度で済んでいるんだから、対応もその程度なのである。

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11月27日(土)−惰眠

 電車に乗るとすぐに寝てしまう、という経験を持つ人も多いのではないだろうか。せっかくのゆったりした時間なのだからと、鞄に入れた本を取り出し、いざ読書に耽ろうと思っていても、いつの間にか睡魔に襲われる。疲れているだけと片付けることもできるが、そう簡単でもない。ちょっとした雰囲気の違いなのかと思ったりするが、さてどうだろう。
 ずっと昔、まだ車の往来がそれほどでもなかった頃、街中には路面電車が走っていた。今では、指折り数えられるほどの地方都市でしか見ることのできないものだが、当時はかなり多くの町で人を運んでいたように思う。それが車の増加とともに邪魔者扱いされ、どんどんと隅のほうに追いやられていったのはいつの頃だろうか。育った町のことを思い出すと、確か30年ほど前までは走っていたような気がする。重い車体を揺らしながら、沢山の人々を乗せて、悠々と走る姿を懐かしく思い出す人もいるだろう。路面電車といえども電車である、バスに比べたら輸送量がかなり大きいわけで、そのあたりの事情は大きく変わってしまった。バスが道を塞ぐほどになってしまう朝の通勤ラッシュも、当時は路面電車の活躍でずいぶん違った雰囲気だったようだ。しかし、輸送量の問題よりも、自家用車の増加の問題の方が重大となり、あっという間に姿を消してしまった。その廃止が検討されている頃、電車愛好者の口から出ていた電車にあってバスにない特長には中々面白いものがあった。例えば、大量輸送のこと、これはすぐに理解できる。大きな車体で窓際にくっついた席に座る人を除けば、沢山の人々が立って乗ることができる。前向きの座席が多かったバスと比べると、その辺りのところが大きく違うわけだ。ただ、数のことは判っているような気がしていても、実際には無くなってみないと実感が湧かない。一本の電車の代わりに、何台ものバスを運行する羽目になってしまい、それが道を塞ぐのと違法駐車の車との問題から、結局バス専用レーンの設置など何となく昔の路面電車の時代に戻ったような雰囲気さえある。もう一つ面白いと思ったのは、電車の中なら読書ができるが、バスは無理という話だ。電車は左右に車体を揺らしながら走る。路面が多少凸凹していても、線路が敷いてあるから縦揺れはほとんどない。それに対して、バスの方はと言えば、路面の凸凹に忠実に揺れる。当時の舗装状態は今よりかなり悪かったから、当然の事ながら揺れがひどかった。車の方も揺れを吸収するための装置も不十分だったから、今とは比べ物にならないガタガタ感があった。そんなところから言われたのは、横揺れならば目がついていくが、縦揺れはそうも行かないという話で、字を読むためにはバスは不向きという指摘だったわけだ。なるほどと思っていたが、この程度では廃止の流れは止められない。ついに決定がなされ、線路が剥がされ、敷石も消えて、舗装しなおされたら、もう電車が走っていた面影もなくなった。電車に乗ると眠くなるのは、この横揺れのせいなのだろうか。何となくそんな気もしてくる。まあ、車を運転しているときに同じようなことが起きてしまったら、大変なことになるから寝られなくて幸いなのだろうが。

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11月26日(金)−同上

 中流とか平均的とか、そんな言葉で表される中庸を好む国民性にとっては、皆と同じということが重要なのだろう。自分独自を求める傾向を持つ国の人々とは大きく違っている。それでも、全体がある目標に向かって進んでいるときには、何の問題もなく皆が同じように努力をした。ところが、急に梯子を外されると皆同じように戸惑ってしまった。
 この手の話は何も個人に限ったことではない。企業についても、公的組織についても、当てはまることだろうし、人々が集まって暮らす町もそんな戸惑いに溢れている。成長していた時には町の様子などに気を配る人はほとんどおらず、ただ経済的な成長のみを楽しみとして暮らしていた。ところがそちらの成長が期待できないとなった途端に、別のことに楽しみを見出さねばならなくなった。これがそんなに簡単じゃないことは、今の町の様子を見ればよくわかる。皆が悩んで、昔の祭りを復活させたり、まったく新しいことをいかにも町にとって意味のあるかの如く仕掛けてみたり、そんな様子が其処此処に見られる。それでも独自性を出そうと努力する向きはまだましなほうで、どこかの成功の噂を聞きつけ、徹底的に模倣に走るところも少なくないだろう。それまで皆と同じが最良の選択と思い込んでいた人々に、急に変化を求めたり、突然独自の路線の模索を強制するのは無理に違いない。しかし、停滞してしまった以上、現状のままでは駄目だろうし、従来の方式を踏襲するのはさらに悪い方向に向かいそうである。突然のことで周囲を見渡す余裕などないのかも知れないが、ここは一番ゆったりと構えて自分たちの暮らす町をじっくりと観てみる必要があるのではないか。何が特徴となっていて、何が売りに出せそうなものなのか、そんな観点から見てみると意外なことに気がつくかもしれない。そんな余裕のない人々の多くが町の政治を行っているようだが、依然として工場誘致やら大規模商店街の建設などに走っているところも多く見かける。新都市建設という看板を立てるのならまだしも、ただ単にそういう大きな箱を呼び込むことで何とかしようというのでは、成長期の考えとまったく変わらないことになる。それで成功する例はかなり少ないようで、結局箱だけが廃虚のように聳える光景が広がったり、それまでの緑を廃した味気ない土地の広がりが放置されるだけになっているところも多い。いろんなやり方があるにもかかわらず、未だにそういう安易な方向へ走る人々にとっては、自分たちの住む町の特徴など見つける気もないようだ。かえって、外の企画会社に依頼して特徴を見つけ出してもらったほうが良い結果を産みだすのかもしれない。何とも情けないことだが、それくらい自分を見つめる目が曇ってきているのである。町の中心街の交差点の角地にある貸しビルが、いつまでも空いたままで昔の看板がそのままぶら下がっているとか、新たに参入した商店がすぐに撤退してしまうとか、そんな様子を見ているかぎり、そういう町に復活の兆しは見えない。現状を打破するためには新たな企業の参入が、というお題目は使い古されたものだが、何となく効果がありそうに思えるのだろう。町の其処彼処でそういった声が聞かれる。しかし、戦災も受けず、昔の町並みをそのまま残しているところを、どう活かすかを考えずに、さて何とするのだろう。地方都市の抱える一般的な問題なのだろうが、どんな答えを出すのか、そこに皆同じはありそうにもない。

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11月25日(木)−負債

 色づいた葉が北風に揺れて落ちてゆく。立冬も過ぎ、小春日和が話題になるのは、結局冬本番を迎えるからなのだろう。道行く人々もコートの襟を立てて、風に負けないようにしている。暗く冷たい季節の始まりだが、経済はと言えば、それなりの回復をしているようだ。下方修正だろうが上向きなのは確かで、それを取り上げるのは思惑からだろうか。
 もう少し状況が良くなれば雰囲気が変わるのかも知れないが、長く続いた暗い時代のせいか色んなものに対して寛容さが見られなくなっている。逆に言えば、抜け駆け的な動きが目立つようになっているわけで、隙をついて上手くやればそれで良いという結果重視の時代なのかもしれない。そうなってくると、法律の網をくぐり抜けようとする動きも盛んになり、悪いやつだけが得をするという雰囲気も出来上がってくる。これは別に経済の状況が悪いということだけによるわけではない。この国の事情とは異なる状況にある国々でも、不正を働く輩は無くなりもせず、どんなに規制をかけても無理と思えるほどである。制度上の問題はさておき、社会構造の変化がこれほど急になってくると、様々なところに歪みが生じる。ネット社会はそれを映す鏡のようなものと言われるが、まさにそんな雰囲気が漂っている。この独り言があるホームページでは幸いなことに起きていないが、それは単にここが閑散としているからにすぎない。ネット掲示板のように多くの耳目が集まるところでは、毎日のように下らない投稿が繰り返される。内容が下らないとか、狂気の沙汰とか、そういったものが多いのも、仮想空間ならではのことなのだろうが、それよりも大きな問題を産みだしそうなものが宣伝行為である。宣伝には効果がつきものであり、対象の規模が大きくなるほどそれが期待できる。日常的に見かけるテレビのCMや新聞の広告はそれを実行したものであり、効果の大きさがそのままそのための料金に反映されている。それに対して、局地的な効果を狙ったものでは折り込み広告や各家庭への広告の配布などがある。こちらは広範囲に渡らないものだから、それだけ廉価になる。これまでの考え方を基本とすれば、宣伝にはそれなりの経費がかかるのが当り前だった。その仕組みを一変させたのがネットであり、その典型的な例がネット掲示板ということになるだろう。通常の投稿と同様のやり方で、広告文を投稿する。ただそれだけで、かなりの数の人の目に触れさせることが可能だ。下らないとか、馬鹿げているとか、逆効果だとか、そんな意見もあるが、それにしても減る兆候は見られない。無料という利点を生かしているだけという主張が聞こえてきそうだが、それに対する制限を管理者がかけるとなれば、そのための経費がかかることになる。つまりは、無料に乗っかって、実は負の生産を繰り返すことになるのだ。投稿記事には責任を負わないと明記してあっても、実際にどうなるのかは分からず、もし訴訟騒ぎになれば更なる出費がかさむ。それを避けるための微々たる経費ならばというわけだろうが、抜け駆けする人々にはそんな事情は無関係だ。仕組み全体にとって何らかの影響が生じるに違いないことだが、そういう心を持つ人々にはそんなことは関係ない。現実社会が抱える問題の一端を垣間見せる現象の一つに数えられることだが、未だに減るわけでもなく規制の手だてもない。荒んだ心に響くものはどこにもないということなのだろうか。

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11月24日(水)−ずる

 隣の国で起きた事件が物議を醸しているようだ。学歴至上主義という言葉も既に箪笥の底に仕舞われた国では想像がつかないほどの加熱ぶりを見せていたあちらの受験事情では、起きて当り前のことと片付けられるのだが、それにしても不正を働いてまで手に入れなければならないものなのかと首を傾げたくなる。事情を知らぬ者の無知という返事が戻ってくるだろうが。
 事件が発覚してからまだそれほど経過していないから、全貌は明らかになっていない。しかし、今までにわかったことで不思議に思えることは、関わった人間が受験生とその後輩に限られており、悲劇を食い物にする輩が登場していないことだ。これまでにも不正の報道は度々あり、大掛かりなものもあったから、かなりの社会問題になっていることは理解できるが、それにしてもたったこれだけのことで本人の人生どころか親戚一同の運命まで左右されるなどという話は俄には信じられない。いずれにしても、自分たちで決めたことなんだから、自分たちがそれに振り回されたとしても仕方のないことである。この辺りに問題の原点があると思えるのは、今回も受験生は被害者であり、困った末の不正に対して同情しようとする動きがあることだ。不正の原因は加熱した受験戦争にあり、といった一昔前にはこの辺りでもよく聞かれた台詞が登場し、社会やその構造に問題があるのであって、それに振り回された挙げ句に不正を働く若者には罪が無いという論理には呆れてしまうばかりである。学歴至上主義はどの国にもある程度あるもので、表面に出ていなくても明らかな区別があるところは多い。加熱させるかどうかは関係者の問題だが、それに加わっている人間が困ったから何をしてもよいというのでは、法治国家は成り立たない。不正はあくまでも不正であり、正当な競争を妨げるものにしか過ぎない。そういう根本を放り出して、単なる同情に走るのは馬鹿げたことだと思う。確かに試験というたった一つの方法で人の価値が判断されるのは正しい方法とは言えないだろう。しかし、どんな方法で判断するにしても、そこに何かしらの有利不利は働くものである。そういうことを無視して現状に対する不平不満を並べ立てても、自分にとって有利なものが出てこないかぎり、終わることの無いものにしかならない。価値判断を自らが持つことの大切さをいくら説いたとしても、こういう人たちには何の効果もないだろう。一方で社会の価値判断をニーズと考え、それに対して競争原理を導入すれば市場開拓は容易にできそうである。しかし、ここでの価値は受験にしかなく、教育現場の役目はそれだけとは言えない。そういう矛盾の中で、自由競争が展開されれば当然の結果として歪みが産みだされる。この状況は何も隣の国に限ったことではなく、こちらにもぴたりと当てはまるものだから恐ろしい。競争というものを拒否した現場に、別の競争が持ち込まれることに抵抗を覚えない人々には、どんなものが見えているのだろうか。

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11月23日(火)−表音

 何度も取り上げているが、言葉は生き物である。生まれてくるものもあれば、死んでいくものもある。さらには、昆虫のように変態をして、元の意味とはまったく違った意味を持つこともある。新しい事柄が出てくれば、それを言い表す言葉が作られねばならない。自分たちで作ることもあれば、事柄が入ってくると同時に輸入される言葉もある。
 そんな言葉の多くは外来語と呼ばれ、この国独自の言葉でないことを意識させるためにカタカナが使われることが多い。読み方をそのまま表現できる表音文字だからこそできる離れ業だが、最近はどうも風向きが悪いようだ。意味を正確に伝えることが苦手な言語を駆使してきたせいなのか、あるいは意味もわからずに濫用する輩が増えてきたせいなのか、はたまた単なる愛国主義なのか、とにかく元々異言語であるものを使っているだけだから、カタカナ表記に意味は込められていない。本来苦肉の策だったはずのものが、安易な対応となってしまったこともあり、今一度検討する余地があるというのだろう。文化を守ることを主な役割としている官庁が毎年新しい言葉を作りだし導入しているのだが、どうみても混乱を招いているとしか見えないのは何故だろう。やはりお上の仕業が災いしているというのだろうか。カタカナ語は巷に溢れているが、元々どんな言葉だったのかわからないものも多い。さすがに古い用法だから、今の若者には通じないものもあるが、それでも面白いと思えるから、少しだけ紹介しよう。メリヤスという言葉はもうほとんど使わないと思うが、元は西語である。服の生地となるものだが、同じ服関連にはワイシャツがある。これはこの国の言葉と思っている人はいないと思うが、元の言葉を知らずに使う人もいるだろう。英語のwhite shirt、つまり白いシャツの発音、ホワイトシャツが訛って、こうなったと言われる。その類いでは、もうほとんど使われなくなったメリケン粉、小麦粉のことだが、これは、入ってきた国の名前を被せてつけられたものと言われる。メリケン波止場というのも死語となっているようだが、これも同じで、Americanがメリケンとなっているわけだ。そんな馬鹿なと思う人はいるだろうが、カタカナで当てはめたらアメリカンとなるはずのものが、昔はメリケンとなっていた。理由は簡単で、原語の発音を聴いてそれをそのままカタカナに落としたからだ。今の外来語と違うところはそこで綴りをカナにするのではなく、音をカナにしていたわけだ。同じような例として取り上げられるものにミシンがある。縫製機、つまりsewing machineが訛ったものと言われるが、ちょっとわからない感じがしていた。なぜなら、今は機械、machine、のことをマシンと呼ぶからで、誰もミシンとは言わないからである。ところが先日アメリカ映画に出演している海を渡った俳優マコの話を聴いていて、なるほどと思うことがあった。彼は映画に登場する日本人の役を演じていて、たとえばショーン・コネリーが主演した「ライジングサン」では、日系企業の社長役をやっていたが、彼の話の中に機械の話が出てきて、ミシンと言っていたのだ。たぶん、昔渡米した人々の間ではその発音が当り前だったのだろう。よく聴けば、マシンとミシンの中間のような音が聞こえるから、どちらが正しいとも言えない。母音が五つしかない言葉とそれより多い言葉の間を繋ぐためには、こんなことが起きても当り前なのだろう。事柄だけでなく言葉も外から採り入れ、それが定着するのは表現を豊かにするためにも重要なやり方なのかもしれない。一方で、伝統文化を破壊するという指摘があるのは事実だが。

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11月22日(月)−林相

 ずいぶん冷えてくるようになった。特に朝晩の冷え込みはかなりのもので、うっかりすると風邪を引きそうである。気温の低下とともに木々の色づきにも変化が現れ、紅葉前線は確実に南下しているようである。色とりどりの木々が山を彩り、まるで印象派の絵画のような趣を出すのもそろそろで、四季の移り変わりがはっきりとした国に暮らす喜びがここにありそうである。
 全山が紅葉に染まるという景色もいいものだが、実際にはいろんな色が混じった様子の方が好きだ。何となく彩りの妙といった風情があり、青く染まっていた時期には想像もできない色具合が出てくるからだ。不思議なことに、そういう記憶はどこにも留まらないらしく、毎年同じ山を観ていても新たな感動が生まれる。確かに同じ風景を見たはずなのに、思い出せないのである。それはそれで楽しみが増えるわけだから悪いことではない。しかし、災害にしろ植林にしろ、がらりとその風景が変わってしまうのは悲しいことである。最近はほとんどなくなったが、杉の植林が盛んだった頃は広葉樹林を次々に針葉樹林に変えていくことが繰り返され、一時的に禿山のようになるところから、いつまで経っても変化が出ない常緑樹の味気なさを押しつけられることが多かった。最近は、里山の扱いや林に対する関心、さらには広葉樹の効用を説く人々が増えて、ずいぶん様相に変化が出てきた。一気にぶれる傾向は相変わらずで、こういう時も以前のものを完全否定し、これから始めることの礼賛に終始するわけだが、そういう姿を見るとまたかと思ってしまう。気温や降水量の条件に恵まれた国では大した調節もせずにそのまま放置しておくだけで、変化に富んだ植生を観ることが可能だ。しかし、里山のように人家に近いところではこれまでも様々な関わりを持つことによって維持されてきた植生があるわけだから、関わりを無くすことはまったく違った結果を産むことになる。それに対して、奥山の場合は少し事情が異なるだろう。今までなら植林を中心として、様々な関わりを持ってきたが、結局のところ手入れが行き届くわけでもなく、かえって均衡のとれていない荒れた山を作り出すことになってしまい、災害の際にも崩れてしまったところがあったようだ。そういう山については、再び元の状態に戻すことは容易でないとはいえ、何とかそういう方向に持っていくことが必要と考えられる。ただ、言うのは簡単だが実際にやるとなるとそんなに簡単なことではなく、またかかる時間を考えると即席的な効果を狙うのは良策とは思えない。一世代や二世代で結果を出そうとすれば、かなりの関わりをすることが必要となるだけでなく、それを継続することが重要となる。結局のところ、依存性の強い自然という何とも矛盾した代物を産みだすことになるのだが、それを望む人はどのくらいいるというのだろうか。歴史が語っているように、始めてしまえばそのやり方を続けなければ元の木阿弥である。さて、どんなことになるのか、観る機会は得られないものと思うが。

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