パンチの独り言

(2004年11月29日〜12月5日)
(旧石器、侵入、木守り、滑脱、忘れ物、相談、見出し)



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12月5日(日)−見出し

 疑い始めるときりがない。それが高じてしまうと、色々と難しいことになる。程度の問題は別にして、毎日そんなやり取りをするのではないだろうか。程度がある線を越えてしまうと、ちょっと大変なことになるらしい。ただ、その線がどの辺りにあるのか、こちらははっきりしない。ちょっとしたことで、あっちに行ってしまうとも聞くが。
 ちょっと不気味な書き方になってしまったが、それほど深刻なものではないと思う。どちらかというと、今の情報社会に対する感想を書いたようなものだ。このところ、外遊が続いたせいもあって、色んな発言が、新聞にしろラジオやテレビにしろ、流されていた。その時感じたものがここでの感想である。お隣の国の長たちとの会談の内容を伝えたものだが、伝達手段によってかなりの違いがあるように感じられた。すべてを見聞きしたものではないから、確定的とは言えないが、何だかおかしいなといった感覚が残った。はじめに流れてくるのは音声や画像という媒体を通したもので、そちらの場合時間の流れに乗っかっているからすべてを流すわけにも行かない。しかし一方で、ある一部だけを流すのは誤解を産む恐れがあるからか、なるべく全体に渡る情報を流そうとする意図があるようだ。だから、それぞれの詳しいところはわからないが、発言の各項目をおさえることはできる。それに対して活字になるほうは少し状況が違う。活字を追うのは読み手の自由選択だから、どこをどう読むか、更にはいつ読むか、といった類いのものは自由に選ぶことができる。そのせいもあって製作者はすべてを俯瞰的に捉えさせる努力はあまりせず、どちらかというとそれぞれの項目に軽重をつけて、全体の捉え方を調整できる。これは単にそれらの作業に携わる人々のおかれた環境によるものだけでなく、それらの人々自身の考え方によるものもあり、テレビでも新聞でも、それぞれの局や社によって違いが出てくる。すべてをおさえていないとわからないのかも知れないが、実際にはそれらを見たり聞いたり読んだりする人々はその一部にしか触れられないのだから、この程度のやり方で何かを言っても構わないのではないだろうか。気になったことは、テレビのある局では会談の内容の抜粋のような形で、話題となった項目を取り上げ、それぞれについて短い言葉を流していたのに対し、次の日の新聞について取り上げていたテレビ番組で映し出されていた見出しはある項目のみに集中したものになっていたことだ。同じ媒体を通しても、その前に異なる媒体が存在しているのだから、違いが出てきて当たり前なのだが、それにしても新聞の捉え方には違和感を覚える。見出しは非常に重要な道具として扱われ、それが編集方針を示すものになるわけだから、ここでの違いは新聞社の考え方を示すものになるはずだ。つまり、その見出しとして使われた話題が会談の中で最も重要な項目と判断されたわけである。なるほど、どこかの領地やら領海やらを侵犯されることはお参りに比べたら大したことのないことなのかもしれない。しかし、何故こんな取り上げ方に終始しているのだろうか。それも皆横並び的に、である。こんな姿勢を見ていると報道における情報の操作を危ぶむ声が出てくるのもやむを得ないと思えてくる。操作などしておらず、単に軽重を付け加えただけで、すべての情報を流していると反論できるのだが、実際にはどうなのだろうか。その順序や順位付けに受け手は左右されないのだろうか。また、それを意図してそういうことを繰り返しているのではないだろうか。現場に行って、すべての情報を手に入れることは、誰にもできない。必ずそこに媒介者がいて、それを通して伝えられることに接するのがせいぜいである。それでもすべてのものに目を通して、順位をつけた意図までも汲み取る必要があるというのだろうか。そろそろその辺りにも気をつけないといけない気がしてくる。ただ盲目的に信じるのではなく、色んな形で情報を吟味し、そこで自分なりの判断をする必要があるのだろう。確かに捩曲がった情報を流す人々を糾弾する必要もあるのだが、その動きがこれほど鈍いとどうしても自己防衛が必要となるわけだ。

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12月4日(土)−相談

 言葉の意味は時代の流れとともに変化するもの、ということがわかっていても、それが正反対の意味になってしまっては、過渡期に混乱を招く。今もちょうどそんな時期なのだろうが、それにしても誤解、思い込みといった話がよく聞こえるし、安易さが手伝っている場合も多い。自分にわかりやすいのだから、人にもそうであり、本来の意味には注意が行かないのだろう。
 気のおけない友人という言い回しもその一つで、一時は油断ならない友達という意味で使う人が多かったと聞く。そんな高尚な言い回しを使う気にもならない人間にとっては、誤解も何もあったものではないが、背伸びするのを常とする人々にとっては人との差を際立たせる道具として便利だったのだろう。ただ一つの誤算は、用法の間違いに気づかぬままにいたことで、これではかえって墓穴を掘ることになってしまう。とにかく、気遣いをしなくてもいいほどの友達というものがどのくらいいるのかわからないが、それこそ油断ならぬという気持ちが出てきたのが当然のように思える背景が最近の若者の心の中にあるという話が流れてきた。友達とは遊び仲間とか、楽しい時間を共有できる対象とか、そんな楽しみのためのものでもあるが、時には頼りになる存在ともなる。一人で悩んでいて何の解決策も思いつかないとき、誰かに相談すれば解決の糸口を与えてくれるかもしれないし、そこまで行かなくとも話をすることで心が軽くなることも多い。そんなときの相手として信頼できる友人がいれば、その人にとっては幸いなことに違いない。生涯の友人を持つことはとても大切なことと教える向きもあるほどだが、そんなことは簡単なことでないし、それを失ったときのことを考えて心配する人もいるかもしれない。最近の若者の動向として気になるのは、上に書いた友達の役割のうち前半の楽しさのみを追い求めたものが大勢を占めるようになっていることだ。誤解に基づくことかも知れないが、仲間同士で集まっているのを観ていても、楽しいからという話が流れてくることが多い。一方で、たとえばその中に何でも相談できる人がいるのかと尋ねるとそうでもないという答えが返ってくることが多い。相談するのはもっと遠くにいる友人という場合が多いようで、それに理由があるらしい。近くで普段から接することが多い友人の場合、立ち入った相談をしてしまうと他の仲間にまで話が広がることを気にするようだ。そうでなくても、相談することでその後の友人関係に変化が訪れることを心配する向きもある。そんなことから、遠くでたまにしか接しない知り合いを相談の相手とするのだそうだ。おかしいのは、大学生の就職相談でもそんなことがあるらしく、事情のわからない人間に相談しても大して期待が出来ないのではと思えることである。本人は相談によって良い答えを導き出そうとしているのではなく、おそらく単に気持ちを落ち着かせるためにやっているだけなのだろうが、どうも腑に落ちない。答えを導き出すために近くにいる人に悩みを知られてしまう危険を冒したくないということなのだろうか。この話を聞いたとき、何か根底にあるものが違うのだということが少しわかったような気がした。だから、どうということもないのだが。

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12月3日(金)−忘れ物

 忘れ物をしたとき、取りに帰るものだろうか。たぶん、忘れたものが何か、によるという答えが返ってくるだろう。そんな調査をした人がいたようだ。携帯電話を忘れたときにどうするか、という質問に対して、かなり多くの人が取りに帰ると答えた。財布と同じくらい大切なものなのだそうだ。電話としての用途以外の使い方をしている人が多いからなのだろう。
 何故、こんなことを書くのか、理由ははっきりしている。車を走らせ始めて数分したところで気がついたのである。これまでも何回かそんなことが起きた。時と場合によるが、大体そのままにする。戻る時間が勿体無い気がするのと、無ければ無いでどうにかなるという気があるからなのだろう。忘れ物にはどうも嫌な思い出ばかりが残っている。小学生の頃、忘れ物をよくしていた。前日のうちに準備をすれば、そんなことは起きないといくら忠告されても、できないものはできないのである。それだけなら嫌な思いをしなくても済んだのかも知れないが、ある年の担任はそういう子供を徹底的に痛めつけていた。体罰を繰り返すのである。男生徒はビンタ、女生徒は尻叩きである。女の子の顔を傷つけてはいけないという配慮があったのかどうかわからないが、その年のそのクラスの子供たちの多くは何らかの形でこういう体罰を受けていた。その効果はいかほどのものだったか、こちらの心に傷を負わせたのが精々で、大した効果は上がっていなかった。だからこそ、そういうことの繰り返しを止められなかったのだろう。結局、その学年が終わるまで同じことが何度も繰り返された。興味深いのはこういうタイプの人間は好き嫌いで態度を決める傾向があることだ。ある男生徒は徹底的に虐められ、廊下に立たされるだけでなく、首から札をぶら下げるという屈辱的な罰を受けた。さすがに他の先生からの指摘でそのことは起きなくなったが、体罰自体はおさまるところが無かった。とにかく子供の方からみれば、単に欲求不満の解消と怒りのぶつけ所といった形で、何の抵抗もできない生徒をみなしているとしか思えなかった。寺の子として生まれた人間が先生となり、子供たちの行為のすべてに疑いを持つ態度には、何とも言えない嫌な気分だけが漂っていた。その後も、同窓会で再会しても、その思いは変わらない。どのくらいの子供たちに影響を与えたのかはわからないが、少なくともここにその被害者がいるわけだ。どんな事情があるにせよ、上の学校から下ろされてきた先生がどんな思いを抱いていたのか知る由もないし、子供にとってそんなことは無関係である。本人はその一年の荒れ放題によって、その後は落ち着いた教師生活を送ることができたのだろうし、彼の生徒達の大部分は何の大禍もなく過ごせただろう。こんなことは運が悪かっただけで済ますに限るのかも知れないが、この頃ではそういう形の解決は図れそうにもない。生来のいい加減さからか、その後も先生嫌いにならずに済んだのは、幸いだったのだろう。

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12月2日(木)−滑脱

 読んだ本などという項目がメニューにあるので、読書好きと思われるらしい。そんなつもりはまったく無いし、どこかで書いたかも知れないが、学生時代には活字を毛嫌いしていた。読もうという気が起きなかったし、読まねばという切迫感もなかった。今はと言えば、その頃よりは少し活字の方を向いているようだ。ただやはり読むより書くなのだが。
 本を読むことについて皆がどんなことを考えているのかわからないが、自分は本に語りかけることと思っている。読むという行為は単に受け取るのみと思っている人がいるのかも知れないが、真っ白なキャンバスに本から受け取ったものを絵の具としておいていくのだとしたら、そこに構図が無ければただ単なる落書きにしかならない。受け取り手としての考えがあってこそ、本の中に書かれていることの意味が明確になるのだと思っている。勉強というものの延長線に読書があると思う人にとってはこんな感覚は異様に映るのではないか。特に高校までの学習を基本に考えると、用意された定食を食べるが如く、皆同じものを同じように消化することが肝心なわけだから、読書についても同じ活字を追うのだから、同じことを学び取るに違いないと思える。そんなことはあるはずが無いのだが、どうにもこういう呪縛から逃れられない人たちがいるようだ。読み手からの働きかけがあるということは、同じ読み物でも感じ方や受け取り方が異なるだけでなく、読んでいるときの気分も変わりそうである。最近そんなことを特に強く感じるのだが、ある本を読んでいるとなぜか苛々がつのり始める。何故気分が悪くなるのかと始めのうちは不思議に思っていたが、ふと考えたらそこにある活字を追うことが原因とわかった。具体的な指摘はできないが、滑らかに読めない文章が綴られているのである。この辛さは実際に経験した者でないとわからないかも知れないが、とにかく読む速度が激減するのである。そこで止めてしまえばいいと思えればいいのだが、どうもそうもいかないところがある。辛さを感じつつ最後まで読むときに、おそらくかなりの読み飛ばしが出ているのだろうと思う。敢えて言うなら、リズムが合わないのである。たとえそれがよく売れた本でもそうである。一方で何の抵抗もなく文章が流れ込んでくる本もある。辻邦生の書いた「言葉の箱」という本だが、彼の講演を落としたもので、小説家を目指す人々に向けての言葉が並んでいる。しかし、そこに実際にあるのはある特殊な職業のための心得ではなく、ごく自然に人々が持つべきものであり、それが特殊なものを対象としているが如くに述べられているのがとても新鮮な気がした。彼の最晩年にある講演会での話を聴いたことがあるが、その時のゆったりとしていながら要点をつく語り口が思いだされることもあって、久し振りに良い本に出会ったと思った。そこには彼独特なのかも知れないが、じつに心地良いリズムが感じられるのである。前者と後者の違いは受け手の問題かも知れないが、文章の良し悪しにはそんなものがあるような気がする。滑らかな流れは文章において重要な要素の一つなのだ。それはその文章の役割には無関係に、受け手の心に働きかけるものなのだろう。

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12月1日(水)−木守り

 ようやく冬らしくなってきた。北の方から雪の便りが聞こえ、雪の積もった道路が映し出されていた。この辺りはそれほどでもないが、やはりかなり冷え込んできて、暖房器具を引っ張り出してきた。温度自体はさほど低くもないのだが、変化しか捉えられない身体にとっては、これでも十分寒い。この程度で終わってくれればと思うが、そうもいかないものだ。
 この季節渡り鳥達はそれぞれの越冬地に向けて移動しているが、留鳥達はそのまま里に留まっている。冬になって食べ物が減るだけでなく、小さな体にとっては寒さもかなりこたえるはずだ。仕事場への道すがら、どこかの庭に植えられた柿の木の一つだけ残った熟柿にヒヨドリがとまっていた。真っ赤に熟した柿の実をひとり黙々と突いていたのが印象的だった。木に実を一つだけ残す習慣があるが、この実を木守りと言うのだそうだ。柿の場合を指すことが多く、木守り柿と書いて、きまもりがきと読んだり、きもりがきと読んだりするとのこと。普通は前者を使うそうだが、後者は俳句に使われる。音のリズムを大切にするからなのだろう。そんな少しだけ残った食べ物を里に残った鳥達が先を争って食べる光景もこれから度々見られるのだろうが、さてこの冬は十分な残り物があるのだろうか。ひと月ほど前にはよく聞かれたクマの出没も最近はとんと聞かなくなった。冬眠前の食欲を満たす行動としての出没だったのだろうが、さすがに寒さが増してそんなことをするのも無理になったのだろう。山に食べ物が減り、それによって里に降りてきたという解釈が一般化しているようだが、どうも解せないところがある。確かに食べ物の量の問題は大きなものだろうが、それ以上に外敵に対する感覚の変化が大きく影響しているように思えるからだ。これは以前も書いたような気がするが、とにかく人間を怖れない野生動物が増えているように感じる。恐怖は本能に基づく感覚で、それがあることで無茶なことをせずにすませ、種の存続が図られていると言われるが、ここで言う恐怖とは本当に根本的なことであり、ある特定の対象をどう感じるかというものとは明らかに異なる。つまり、特定の対象に対しては、おそらく後天的に経験として得たものが大きく影響するわけで、経験の無いものに対する恐怖と怖さを味わったものに対する恐怖はその大きさがかなり違うだろうということである。このところ、野生動物の保護が叫ばれ続けていて、その一方でそれらの動物による人への被害が大きくなっている。被害は単に傷つけられるとか、襲われるとか、そういったものだけでなく、農作物への被害や林業での被害など、かなり多方面に渡るものが報告されている。そんなことを起こしている動物達に共通するのは、人の姿を見ても驚かないことで、こちらを敵と見なしていないことがうかがえる。保護を訴える人々の感覚は理解できない面が多く、ここで論じるつもりはないが、天敵やら外敵やらといわれるものの存在を実感できなかった動物達には、恐怖感というものは出てこないのかもしれない。それが今の状態を招いているとしたら、保護は間違った方向に向かっていることにならないだろうか。さすがに冬眠をやめてしまうクマの話は出てこないが、早晩そんなものが出てきても不思議はないような気までしてくる。経験として必要なものを相手から奪い取ってしまうことは、彼らの存在をも揺るがすことを招きかねない。これはまるで、子供たちに対する一部の親の所業に似ているような気もして、ちょっと空恐ろしくなってしまう。

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11月30日(火)−侵入

 いつものように独り言を書き始めようとした。通勤途中で見かけた光景をきっかけに、というつもりだった。しかし、管理画面を見た途端に気が変わった。何かが変わっているのである。誰かが悪戯をしたとしか思えない。単純なやり方で警告を発したのかもしれないし、ただ単に遊びだったのかもしれない。いつそれが起きたのかわからないのが、気持ち悪いが。
 昨日の入力画面では何も不自然なところはなかった。ところが、今朝になってみると一変している。特徴が幾つかあるので、何となくだが気がつくところもある。しかし、それで誰がやったかがわかるわけでもないし、実際に誰かが悪戯をしたのかどうかさえわからない。犯人捜しは下らないことだし、ネット上ではどこからでも侵入可能であるわけだから、そういう作業が無駄なのは明らかである。それにしても、何でこんなところにと思う。悪戯をするにしても、こんなにちっぽけなところを相手にしても大した反響もないだろうし、第一そこに意味を見つけることは不可能だ。政治的なものや国際問題に関するものについても、極端な記述があるとも思えないから、そんなところから流れてきたものとも思えない。一応こういう形で済ませておくが、できれば次の機会を狙って欲しくはない。一つ気になることがあり、そこでの作業が今回の問題を起こしたと考えられなくもない。かなり注意をしたつもりだったが、何しろどんな仕掛けがあるのかわからない。外部からの入力は極力避けたいが、実際には無理であることも多い。できるだけというくらいしかできないのだ。便利な道具は両刃のものと言える。作業を容易にするためにはいろんな手順を省略することが最も簡単である。しかし、省略はつまりはパソコン自身に記憶機能を付けたり、手順そのものをすっ飛ばすような機能を付加することになる。この部分に関しては、作業をする本人でなくても同じ過程を行うことができるわけだから、危険性も高くなる。誰もが使うパソコンの場合、そういう危険性を排除するための設定が為されているはずであり、それを確認することも必要である。確かめたはずといっても不十分だったかもしれず、そういえばと不自然さが思い当たるところもある。ブツブツ書いているだけになってしまうのだが、実際に何が起こったのかは明らかでないから、何ともならないわけだ。もう、今となっては、いつ誰が何を起こしたのか、あるいは誰も何も起こしていなかったのか、ということさえわからなくなっている。この世界で作業をする以上、自分で守るべきものは守るしかなく、何かが起きたとしてもそれを防ぐ手だてを考えるくらいしか方法はない。今回の手だてが十分かどうかはわからないが、せっかくの苦労が水の泡とならないためには、こんなことが必要になるときもあるのだろう。

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11月29日(月)−旧石器

 もうずいぶん昔のことになるが、石器の発掘に関する捏造事件のことを覚えている人はどのくらいいるのだろう。当時、ある新聞社が現場の証拠写真を掲載し、それまで「神の手」とまで呼ばれた人物の悪行を暴いた。その後、彼の関与した遺跡の大部分は贋物という結論が出たのだが、それだけで済んだものかどうか最近はとんと噂にも上らなくなったのでわからない。
 自分で作った石器を発掘現場に埋めておき、それを見つけることですべてのことが運ばれていたようだが、これでは神の手どころか単なる捏造でしかない。そんな現場を押さえようと記者も躍起になっていたのだろうが、撮影に成功したことで結論が出された。しかし、その現場については確かなことだろうが、それ以前のところについては不明な点もあったようだから、そう簡単に結論が出ないのではないかと思っていた。しかし、実際には勢いがついたかのごとく、いとも簡単に結論が出されていたように感じた。一度嫌疑がかけられれば、それ以外のものにも同じ措置がなされるということなのだろう。研究者の中にはすべてを贋物とする動きに反対する向きもあったようだが、一度起きた流れを止めるにはこういう研究分野の証明や類推の手法はあまりにも非力なものなのだろう。逆に、勢いがあった頃には凄まじい調子で認定されていたのだから、表が出るか裏が出るかの違いくらいしかないのかもしれない。ただ、あの顛末を見ていると、それでは他の遺跡に関してはどうなのだろうか、という疑問が出てくる。この手の話には怪しいところも多いようで、いろんな人が関わり、いろんな類推が飛び交い、そしてある結論にまとめられていく。その時証拠品として出されるのは出土品であり、それはそこに埋まっていたはずのものなわけだ。出土品には疑いはなく、それに関わる人間はすべて善人であるという前提があったはずのものが、この間の事件で根底から崩されてしまった。近くの遺跡に出かけてみると、発掘当時の写真が展示され、出土品が顔を出した瞬間が撮影されている。地面を上から掘っていくのではなく、崖地を横から削っていく方法で発掘されていた現場では、上にあるような捏造はやりにくそうである。しかし、こういう事件が起きてしまうと、やはり人間疑い深くなるもので、ついそういう考えが頭をもたげてくる。そういえば、中学の頃だったかこの時代の話を社会の時間に習っているときに、出土した矢じりなどの原料となる黒曜石がその周辺では採れなかったことから、その当時に他の地域との交流があったという解釈がなされていたが、これも疑えばきりのないところだろう。たった一人の出来心から起きたことだが、その影響の広がりはかなりのものである。旧石器時代の解釈があるところまで凄い勢いで進められていたものが、今では逆方向に振れて揺れ戻しがかなり大きい感じがする。始めの勢いがあったがために、その揺れ戻しも大きくなるのだという話もあるが、とにかくこういうときこそ冷静に構えて欲しいものだ。マスコミの騒ぎはさておき、研究者たるものその辺りの分別はできているものと思っていたが、そうでもないらしい。

(since 2002/4/3)