パンチの独り言

(2004年12月6日〜12月12日)
(報復、運転中、学力、留学生、鈍重、占い、冬雷)



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12月12日(日)−冬雷

 ふと見上げると、空が真っ二つに割れている。青空の部分とどんよりと曇った部分がきれいにわかれているのだ。空に線を引いたように見えるその分かれ目はたぶん前線と呼ばれるものなのだろう。北からの寒気と南からの暖気がぶつかり合って雲ができる。そんなことをどこかで習ったような記憶がある。温暖前線、寒冷前線、停滞前線、閉塞前線、そんなものだったか。
 いつの頃か気象に興味をもって、自分で天気図を描いていた。ラジオの第二放送では、一日に四回ほどだったか、気象通報なる時間を設けて、この国と周辺の国々の観測地の天気、気温、気圧などの情報を流すとともに、天気図上の高気圧低気圧の位置や等圧線や前線の通り道を伝えていた。それを聴き取って、自分なりの天気図を仕上げるのはそれなりに面白いことだった。気象に関する知識はそういう中で少しだけだが身に付いたと思うが、それだけでなく副産物的に廈門という海の向こうの地名や厳原という地名もそれで覚えた。しかし、せっかく覚えても、何とも不思議な合併というもので、無くなった地名もあるのではないだろうか。気象予報士などという資格なんて影も形もなかった時代だが、山へ行く人や海で働く人々には、ラジオから流れてくる情報は天気予報とは少し違う自分なりの判断を下すための資料として大切なものだったに違いない。東西南北に細長い国土をもつ国では、同じ季節でも場所ごとに気候が違っている。季節ごとの感覚はやはり生まれ育った土地のものが残っているようで、いろんなところを動き回っていても昔の感覚で行動してしまうことが多い。夏といえば蒸し暑いに決まっているし、冬といえば乾いた北西の風が吹くに決まっている。そんな感覚でいると、全国津々浦々まったく違った気候のあることに驚かされる。たとえテレビやラジオで知らされていても、その土地に行ってみて初めて気がつくことが多く、雪の多い地方はどんな感覚なのか、行ってみなければわからないものだ。中でも驚いたのは雷に関することである。太平洋側では雷といえば夏のものであり、夕立との結びつきが強い。特に雷雲の発達は海岸より内陸部の方が急だから、首都圏の端っこのある地域は全国的にも有名になっている。地表で暖められた空気が上昇し、上空の冷たい空気とぶつかって雲が発生するからなのだそうだ。そんなことから暑い夏にだけ雷が鳴るものと思っていたら、ある年の冬金沢に出かけたときに雷に出くわして驚いた。冬にゴロゴロと鳴る音、それも夏の雷のように夕方に鳴るのではなく、真夜中に不気味に響いている。日本海側で育った人々にはごく当り前のものなのだそうだが、こちらにとっては意外なものである。雪起こしと呼ばれる冬の雷は、その地方での風物詩なのだそうだ。暖冬と予想されるこの冬、はたして雪が降るのやら、それとも季節外れの花粉に悩まされるのやら。

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12月11日(土)−占い

 占いを信じる人はどのくらいの割合いるのだろう。都会の雑踏の中で、ふと立ち止まると、そこに小さな店でも構えるようにして座っている人を見かけることがある。手相見なのだろうが、最近はどんな呼び名がついているのだろう。手相を観て未来を語るより、客の話を聞いて相談に乗るといった雰囲気のものの方が増えているようだ。
 赤の他人に悩みを打ち明けたほうが、後腐れもないし、より多くの悩みをぶつけることができるから良いと思っている人が多い。確かに、近くにいる人にこちらの悩みを知られてしまうと何かしら負い目に感じることも増えるのかもしれない。そういう相談の相手として占い師を使う人も多いのだろう。それでは副次的な人生相談ではなく、占いそのものに対する信用はどんなものか。手相、顔相、星占い、姓名判断等々、色々あるが、どれほど信じられるものなのか、人それぞれなのだと思う。そのわりには、毎朝出勤前に星座や血液型に関するその日の運勢を気にする人も多いのではないか。どうも、こういうものにはつい気を引かれてしまうものらしい。ただ、面白いのはその日一番運勢の良い星座を確かめるだけでそれ以外は見ないという人もいて、自分自身の運勢そのものが気になるわけではないことがわかる。不安定な時代だからか、はたまた退屈する時代だからか、そういう話題はどこでも賑わっているようで、このところ血液型による性格判断のような企画がテレビを賑わすようになっている。それが人気を博しているからかかはたまた単に頭に来るだけなのか、ある新聞のコラムに科学的根拠のない話であるという怒りに満ちた意見が載っていた。番組を好んで観ている人たちにとっては、その中で語られる血液型特有の性格が自分のものとどの程度一致するかが一大事なのであって、それが一般的な話かどうかはまったく関係ない。一部でも合致すれば感心し、合わないところは忘れてしまうから不思議なものだ。そんなことで番組が成り立っているのは何故なのか、それだけ血液型が性格にまで影響するからとする意見もあるだろうが、そう簡単に言えるものか怪しいところもある。つまり、企画の段階で血液型と性格のパターン化を行い、それに合致する人々を取材すればいいわけだから、ある意味思い通りのものを見せることができる。一般に受け入れられているものを流しておけば賛同者も多いだろうから、番組の主旨として成立するだろう。実際はどうなのか、企画者にとっても視聴者にとってもどうでもいいことなのである。そんなことに注意を促そうとする意見を出したコラム氏は、おそらく一部の血液型に対する偏見が悪影響を及ぼすことを憂慮したのだろうが、これまた氏の血液型はなどという憶測が飛ぶのがせいぜいではないだろうか。このところの国民総白痴化傾向は当事者自身が心配になるほどのものなのだろうが、そういう傾向をこの程度のことで食い止められるとはとても思えない。白痴化に拍車をかけている人々の方針変更だけが原因を絶つものだろうから、自分たちの中で相談して欲しいものだ。まあ、こっちはこっちで楽しみたい分だけ楽しむことにするのだから。

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12月10日(金)−鈍重

 株価の動きが鈍いと話題になっていた。単に安定しているという話ではなく、たとえば一日のうちの値幅が極端に小さくなっているのだそうだ。それによって何が問題となるのか、元々値動きが大きいほど売買をするときの差が大きくなるわけだから、儲かる可能性が大きくなるはずで、その大本を妨げることになるから相場への関心が薄れるといったところだろうか。
 まあ、そんな風に書いてしまうと、間違いを厳しく指摘されそうだが、とにかく何だか動きが少なく、面白味も減退している相場のようだ。これがそのまま経済の停滞に繋がるかというと、本来はそうではないはずなのだが、こういうところに心理的要因は食い込んでくるようで、いかにも先行きが暗いような話が多くなる。たとえば、下方修正という言葉がこのところ頻繁に使われるようになってきたが、これは回復のテンポが遅くなるという形で現れているだけで、再び下降する方向に戻ったというわけではない。にもかかわらず、受け手の印象はまるで上昇の鈍化ではなく、下降の始まりに移っているような感じだ。現実にどうなるのかは将来的なことだから、未来が見えない人間としてはどうにも分析のしようはないし、たとえ何らかの可能性を示したとしても雑多なものの中の一つに過ぎない。しかし、心理的な影響だけは歴然とあり、それが見出しを飾ることになる。そんなこんなで、どうも年の瀬にかけてくらい雰囲気が漂い始めているのだが、はたしてどんなものだろうか。このところ経済成長の回復が取り上げられ始め、企業の業績も上方修正が主流となっていたから、明るい兆しが見えていたはずだ。ところがそこに原油価格や中東問題などが入り込んできて、前途多難を思わせる動きが出てきた。そうなると悲観派は喜び勇んで活躍の場を設ける。そして変化を求めたい人々はそういう話に飛びつくといった、まったく毎度のことながら変わらぬ流れの始まりとなった。こういうものの面白さは、悲観のための材料はどこにでもあり、どうにでも解釈されるということで、原油の価格がたとえ下がってきても、それは別の形の悲観を表す指標として使われる。まったく便利な思考回路を持った人々だと思う。彼らの肩を持つつもりはないが、ある企業にいる友人に聞いた話では、今回の業績回復には何かよくわからない要因が潜んでいるのだそうだ。企業自体はリストラ以外には大した方針転換をしていないのに、いつの間にか業績が改善されている。そこにはデフレ脱却のための値上げが存在しているのだが、全体としてはそれを受け入れる方向に動いており、その流れに乗っかっている企業はすべて業績改善という結果を手に入れることができたというのだ。今のところ、大した影響は出ていないのだろうが、末端消費者としては早晩この波をもろに被る恐れがあるわけだ。自分たちが購入する製品に原料などの値上げが反映されれば、家計を圧迫することになるという、これまたどこかで聞いた話題の始まりとなる。はたしてどの程度の影響が出てくるのかわからないが、収入と支出のバランスを考える上では、どちらへの影響が先に出るのかが重要である。考えるまでもなく、この図式では支出に先行性があるわけだし、最近の税金問題の見直しについても同じような影響が考えられる。これ以上苦しめられたら、と悲観的になる向きには困ったことだろうが、長い目で見て、この動きは吉と出るのか凶と出るのか、どっちだろう。

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12月9日(木)−留学生

 かなり言い古された表現になってきたが、高齢化社会について様々な問題が指摘されている。年金問題は個人の問題とは言え、やはり気になるところだろう。一方で社会全体として考えなければならない深刻な問題は労働力の不足にあるのだと言う。年寄りばかりで働き手が少なくなれば、この国の産業を支えることも難しいという指摘だが、どうなのだろう。
 重労働を強いられる仕事について、高齢者には難しいと指摘する向きもあるが、状況によってはできないこともないし、最近の動向からするとかえって若い人々には無理という場合も多い。製造業で今頑張っている人々の多くは、ずっと以前から頑張り続けてきた人で新たな労働力が参入していないことがわかる。そちらはかなり深刻で、上手くやらないとここ数年でがらりと様子が変わってしまうのではないかとも思える。一方、高齢化社会の問題として取り上げられている労働力不足は、高度な技術を持ったものよりも、社会を底辺で支えるための労働力といった扱いが多い。だからと言うと語弊があるのだろうが、外国人の労働力に頼るべきという声が出ている。移民をもっと受け入れるべきというのだが、どうもこの辺りの論理には矛盾があるような気がする。技術の要らない労働に限って外からの力に頼るというのでは、社会の歪みを大きくする結果を招きかねないからだ。良い喩えではないが、欧米各国が奴隷を使っていたときの状況に似たものがある。そんな事態を招こうとするのなら別だが、まさかそのつもりはあるまい。ただ単に、自分たちのしたくない仕事を他人に押しつけたいというだけなのだろう。それにしても、こういう考え方が何の気なしに出てくることに驚く。外国からの流入という意味では、今のところ労働力としては大した量にはなっていない。しかし、先進国の務めとして学習の機会を与えることの重要性が取り沙汰され、それがある時十万人計画なるものになったことを覚えている人がいるだろうか。先日、ついにその目標が達成されたと報じられていたが、そこまでの道程が長かっただけでなく、達成に近づくにつれ様々な問題が噴出してきたことに目を向けた人は少なかったようだ。これもまた同時期に報道されていたが、全国でかなりの数の不法就労者が検挙されている。その中の多くの入国時の身分は留学生であり、一部の学校はそのために利用されていたようだ。入学し、すぐに学校をやめて、その後は不法滞在、不法就労という流れである。目標となる数字が明示されているために、留学生の受け入れが奨励され、おそらくある程度の補助金などが支給されていたのだろう。多くの学校がそれに関わり、しかし何の教育方針も持たないから、結果として本来の目的を達成できない状況になる。一部の善良な留学生にはまったく迷惑な結果となっているが、犯罪の温床になるといったことも指摘されるようになり、監督官庁も重い腰を上げ始めたようだ。教育現場の整備も問題だが、生活支援の整備が整わないまま数字だけに囚われている現状では仕方のないところだが、その意味で計画を組んだ人々の責任は大きい。また、一方そういう劣悪状況にも関わらず、何とかなると甘い見通しを持ってやってくる人々にも責任がないわけではない。人さらいに遭ったわけでもなく、自分の意志でやって来る人々が金銭的な問題を軽視していたのだとしたら、そこにも間違いがあるのだ。生活が苦しいから、学費が払えないから、不法就労をするということを、環境を整えてないのだから悪いことではないと言う人々がいるが、規則の範囲内でやるべきことを忘れているのではないか。

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12月8日(水)−学力

 この国が教育に熱心なのは、今回の騒ぎを見ていてつくづく感じられることだ。世界の上位にいることが当り前となっていたのに、それが脆くも崩れていくような、そんな雰囲気が漂っているからだろう。技術立国の名に恥じぬように、とでも言いたいのだろうか、理数系の成績を特に気にしてきた。しかし、そこに新たな問題と取り上げられたのは、読解力である。
 問題を解く上で重要と言われるのは、単なる記憶力や計算力だけではない。問題そのものの意味を理解する力が無ければ、出発点さえ見出せない状態になるからだ。以前から問題視する向きもあったのだが、実際に問題が顕になるまでは見て見ぬふりをされていたようだ。ここでの理解力として面白いと思うのは、一定のパターンの問題は解けるのに、少し風変わりになると途端に駄目となる場合があることだろう。同じことを問うているのに、同じ手順が思い浮かばないというのは、ある程度理解した上で問題に取り組んだ経験のある人から見ると、不思議に思える。しかし現実にこんなことが起きているところからすれば、不思議でも何でもないのだろう。現実問題として取り組まねばならないことなのだろうから。こんな問題も出ているが、その一方で学力の格差の広がりも取り沙汰されていた。同じ教育が施されているのに違いが出てくるのは、一部の人々にとってはとても不思議なことらしく、またぞろ管轄官庁を攻撃する動きが激しくなりそうな勢いだ。相変わらずと思うのはこちらだけかも知れないが、ゆとり教育なるものの欠陥を指摘し、その改善を迫る気持ちはわからないでもない。理解できないのは、ゆとり教育の問題点を実際に行われたことだけから捉えようとしている点で、それが産み出した問題の有無を論じないところにある。ゆとりとは時間にゆとりのあるという意味のゆとりのはずだから、などと論じているようではまったくどうにもならないことに気づかないのだろうか。問題はその手前のところにあり、ゆとりという名の下にある最低限の理解目標が定められたことにあるのではないだろうか。すべての子供がその目標を達成することが最低条件となり、場合によっては強制的なことをしてでも何とかしようとすることである。上位にいる子供にとっては苛々するほどゆったりとした授業でも、下位の子供にとっては過度な負担となっていることが多い。そういう中で達成目標が明示されることは、ゆとりどころか拷問に近いものになりかねない。それまでとの違いはある意味明らかなのだが、この辺りに議論を持っていく人がいないのはおかしなことのように思える。つまり、それまでなら理解していようがいまいが放っておかれた子供たちが、ある枠をはめられ、最低限のこととして理解していなければならないとされたのである。人の能力は皆同じとする向きからすれば当然の方策なのだろうが、それを疑う向きからすれば暴挙となる。はたしてどちらなのか決定的なことは言えないが、このところの動向を見ているとそういう圧力による悪影響が表面化しているように思えてならない。理解したふりをするための丸暗記は応用力の低下を招いているし、処理能力の向上はパターン化を招くから全体理解の欠如に繋がる。時間のゆとりという表向きの文句にばかり目を奪われていて、肝心な問題点が見えなくなっているのでは、そういう人々自身にも問題が起きていると考えたくなる。嫌な言い方かも知れないが、落ちこぼれは落としておいたほうがいろんな意味で良いのではないか。

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12月7日(火)−運転中

 忘年会の季節ともなれば、交通取締も厳しくなる。飲む機会が増えるからそのためというのが理由なのだろうが、普段はどうなのかと思ってしまう。いろんなことを理由に取締が厳しくされるが、その効果たるやどんなものなのだろう。やらないよりはましとか、その時だけでもとか、そんな声ばかりが聞こえてくるが、根本的な解決と言えないからなのだろう。
 それとは違う取締について、気になることがある。ひと月ほど前に始まった運転中の携帯電話の使用についてである。導入当初は当然のことながら検問を設けたうえで、厳しく取り締まっていたようだが、周囲を見渡すと依然として耳に機械を当てている人も多いし、走行中に画面を覗き込んでいる人もいる。そんなことに気がつくのは、彼らの運転に不自然さが現れているからで、耳の方に集中しているときにはその程度も大したことが無いのだが、目に集中していると完全にお留守になっていることが多い。渋滞しているからというのが理由の一つになることもあるのだろうが、信号待ちの時に現れる影響が大きいようだ。信号が変わっても動き出す気配が無いのである。結局後からの警笛で押しだされるわけで、まあ事故につながるわけでもないから大目に見るしかないのかもしれない。確かに、走行中の使用は禁止されたが、信号待ちなどで完全に停止しているときには問題ないという話もあるから、交通の流れを妨げるぐらいはよしとしなければならないのかもしれない。しかし、対向車線で視線を落としている運転者を見かけるのはあまり気持ちのいいものではない。視野の端っこでちゃんと捉えているからと言う人もいるようだが、集中していても怪しいのにその程度ではと思えてしまう。これと同じだと思うのだが、法律上は規制しにくいように思えるのが、歩行者や自転車に乗っている人々の携帯の使用である。確かに、誰かにぶつかったとしても大したことはないだろうし、免許というものが無い以上取締も効果が得られそうにもない。しかし、それにしてもである。ほとんどが高校生なのだろうが、自転車に乗ったまま携帯メールに勤しんでいるのをよく見かける。まったく、どこでもかしこでもといった光景なのだが、そんなに忙しいのかと、思えてしまう。同じようなものと言われればそれまでなのだが、運転者の携帯電話については営業に携わる人々から悲鳴のような訴えが聞こえている。これでは商売にならないとかそんな話ばかりだが、マイクとイヤホーンがついた装置が売りだされているのだから、今のところはそれで何とかすればいいのではないか。他方、メールなどについてはどうしようもない。一部にはメールの文字を音声に変換するソフトの普及も取り沙汰されているが、はたしてどれほどのものだろうか、またそれほど急がねばならないものがどのくらいあるのか、怪しいものと言わざるを得ない。再び自転車に話を戻すが、あれは歩行者に対する危険よりも自動車に対する危険の方が大きいように思える。片手を離し、視線は画面に集中した状態で、真直ぐ走ってくれるものか心配になる。もし、事故が起きたら、さて誰の責任が問われるのだろうか。強者と弱者の関係は変わらないままなのだから、そういう心配をするのが当り前だと思う。規制がかけられるまではやってもいいという風潮があるかぎり、こういうことが変わることはない。痛い目に遭わなければわからない人々と言っても、それに付き合わされ加害者になるのは御免だ。

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12月6日(月)−報復

 ネットは便利である。何でも調べたければ検索をかければいい。種々雑多、玉石混交、まあ何はともあれ、何もないよりはましとでも言うのだろうか。そこから後のことは、さほど簡単ではないが、それぞれの利用者が考えるべきことだろう。正しい知識に行き着くか、はたまた仮想世界を彷徨い歩くか、人それぞれの自由とでも言うのだろう。
 少し考えれば思い当たることだが、ネット上のデータは増えることはあっても減ることはほとんど無い。それは誰かが昔開設したホームページが長い間使われなくても残っていることからもわかるし、参加する人数が増えるばかりであることからも明白だ。となると、何か問題になることはないのだろうか。人間の場合、覚えることが多くなりすぎると忘れることも多くなると言ったりするし、所詮処理能力は限られたものだからあるところで限界が来るとも言われる。しかし、機械社会ではそんなことは起きないのだろうか。処理能力については幸いなことに、計算機の中心をなす装置や記憶装置の発達は今のところ限界を迎えているようには思えないし、かえって処理速度の増大が急速なために限界などという心配は無用と思う人も多いだろう。それぞれの機械の限界は当分の間問題にはならないと思えるが、一方でより大きな問題となりそうなものに通信装置がある。装置そのものの処理速度が上がっても、そこを流れる情報量には自ずと限界がありそうだからだ。たとえば、水を流す管のことを考えてみると、そこを流れる水の量を増やすためには、管の太さを大きくするかそれとも流れる速度を上げるかぐらいしか思いつかない。太さについては限界が無いと思われるかも知れないが、実際にそうなのだろうか。また、流速についてもいろんなやり方が導入されることで改善されているが、こちらには限界がありそうだ。そんな状況下で、面白いことに改良が重ねられるたびに、処理される情報の量が激増する現象が見られる。つまり、ある時期までは文字情報がせいぜいだったのが、画像情報が流されるようになり、さらに処理速度が上がると動画情報が流されるようになる。これはおそらくきりのないところで、改良自体は別の目的を持って為されたものにしろ、利用者はその意図とはまったく違った方向に向かおうとするわけだ。よく考えると、何のための改善なのかわからなくなるが、これが当り前のものと受け取ればどうということもないだろう。それにしても、こんな状況だと情報の流量に関する限界には思いが及ばないことが多いらしく、昔に比べるとその点での考慮はほとんど為されていないようにみえる。たとえば、以前であればメールによる攻撃はかなり重大なものと思われていたが、今では被害を受けるサーバについてのみ問題となるだけで、通信回路についてはさほど問題にならないように思われているようだ。そういう動きの現れとも思える話がメールを使った広告に対する報復行為に現れているようで、邪魔にしか思えない広告を送り付けた主のホームページに、無意味なアクセスを繰り返す行為をすることで嫌な思いを投げ返すというやり方があるらしい。なるほど、目には目を、かと思ったりするが、この行為の問題点はこれが当り前になると通信回路のパンクを生み出すきっかけになるのではないかということである。ネット社会では報復が回り回って自らの首を締めることになる話が沢山あるようで、これもその一つなのかもしれない。

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