パンチの独り言

(2004年12月13日〜12月19日)
(道路建設、男女差、検索、世代差、便利店、負担、孵卵)



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12月19日(日)−孵卵

 技術立国を自負する国にとって、理数系の科目の実力の低下は衝撃的なのだろう。結果が公表されたあとも、あちらこちらでその話題が取り上げられ、それだけ重要な問題の一つと受け取られていることがよくわかる。しかし、ただ単に大変だ大変だと連呼するだけでは何も変わらないことも事実で、それらの中に具体的な方策を含むものがほとんどないのは現状の厳しさを表すものなのだろう。
 実際に対策などというものがあるかどうかも怪しいのだが、こういうことが起きると必ずと言っていいほど、危機感を煽る論調が大半を占めるようになり、先行きの不安が増大することになる。まさかこんなことで子育てに不安を抱く人もいないと思うが、何でも理由にしたがる人々には格好の材料を与えていることになるのかもしれない。一方で、教育理論を構築する立場から理数系の教育を考える人々がいるようで、彼らの研究対象は実際にその知識を活用できた人々にあるようだ。ノーベル賞を受賞した人はどんな勉強をしてきたのかとか、数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞を受けた人は一体どんな少年期を送ったのだろうかとか、そんなことを取り上げて、そこに何らかの答えを見出そうとするものらしい。その結果としてわかってきたことは、彼らは天才ではなかったということらしく、また小さい頃から今の自分の興味と同じようなものを抱いていたわけでもなかったということのようだ。これは一部が取り上げられた新聞の記事からの情報だから、調べた本人の総括がどのようになっているのかわからないが、一部の教育関係者にとっては不満の残る結果なのではないだろうか。幼少期から英才教育を施し、天才を育てるためにはとか、子供の興味を伸ばすためにはとか、そんなことを取り上げることでエリート教育がなされると主張する人々にとっては、大いなる成功を収めた人々がそれとは大きく異なる軌跡を辿っていることは何の役にも立たないばかりか、現在進行形の手法がひょっとすると大きく間違ったものになるのではないかと思えるからだ。そうなれば、客を失うばかりか、逆に被害を受けたと訴えられることもあり得るわけで、まったく逆効果としか言い様がない。自分が小さい頃のことを思い出してみれば誰にでもわかるはずのことなのだが、天才と呼ばれる人々はどこかが違っているに違いないという思い込みから、おかしいと思えることでも何となく納得させられてしまう。では、何が大切なのかと改めて考えてみると、大したことでもないことばかりが浮かんでくるのではないだろうか。本人の能力を伸ばす教育という形で、能力のありそうなところを取り上げてそこに集中させるというものがあるが、気づかぬうちに好きでもないことを強要する結果となり、歪んだ性格を産み出してしまったとか、褒めることが大切という形で、無深慮にすべてを褒め上げて、結局自分勝手な人格を形成してしまったとか、そんなことを見直してみると、そこにある失敗の原因とは結局積極的な働きかけや無理強いといった形のものに思えてくる。成功した人々が思い出すことの多くは、ある適当な時期にある思いを抱くことの大切さであり、そこには外からの強制力が存在せず、単に自らの内からの発現のようなものがあるだけである。周囲の関わりとして考えられそうなものは、そこにある環境を整えることだけなのではないだろうか。適度なところを見極めることの難しさはあるのだろうが、待つこと、仕向けること、促すこと、等々、強制とまでいかない程度のものが必要なようだ。

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12月18日(土)−負担

 政治の世界での禁句の一つに増税があるのだろう。国民に選んでもらうために、彼らの嫌う言葉を使うことは控えねばならない。たとえ財政破綻が見えていても、たとえ税収が明らかに足りない状況にあったとしても、どんなときでも国民に更なる負担を強いる増税は禁じ手となる。何があっても使えない手をどうやったら使えるか、今はそんな愚問さえ出されそうな雰囲気だ。
 定率減税という何とも不思議な言葉が登場したのは、1997年なのだそうだ。これまで恒久的な減税という制度に守られて、国民の負担は軽く済まされてきた。どんなに財政赤字が膨れ上がろうとも、そんなことは一国民にとっては無関係なことで、自らの負担さえ増えなければそれで良いという考えが大半を占めていると思える感じさえある。しかし、実際のところ、このまま行けば赤字の増加は鈍化するどころか、さらに増え続けるという流れがどこからか出され、ついに封じられていた手を開かねばならない時が来たようだ。さて、このところの流れははたして理解可能なものだろうか。赤字が増大し、税収が減少し、という話はバブルがはじけた後ずっと続いて言われてきた。そんな中で、恒久的な減税が行われ、何とか景気を回復させようとする動きが続けられてきた。しかし、先行きに対する不安という実体の無い理由が前面に出され、それを原因としてあらゆる経済活動が抑制され続け、この形での景気回復は望めないこととなっていたようだ。それでも、企業の業績は徐々に回復し、そこからの税収が望めそうな気配も出てきたが、それとて大した効果を産み出してはいない。それより、年金制度の問題から、別の形での企業負担を強いる方向に動き始めているから、これ以上企業という組織だけを対象とするわけにも行かなかったのだろう。ついに、個人を対象とする制度変更が行われそうなところにやって来た。増税は安易に行われてはいけないのだろうが、はたして今回の制度変更はどの程度の影響を持ったものだろうか。負担が数万円増えるとか、家族構成が違うと増加の程度が違うとか、そんなことを取りざたし、それがかなり大きなものであることをマスコミは示しているように見える。実際の数字を示すことで、国民に訴えかけようとするものだろう。それに呼応して、今回の増税も安易な考えに基づくものであり、そんな施策より先に税金の使い方を考えるべきとする主張がたくさん出されているようだ。当たり前のことを言っているように自分たちは思っているのかもしれないが、はたしてそうなのかちょっと首をかしげるところもある。確かに、税金の使い方にはまだまだ色んな無駄が存在しているのだろう。しかし、一方で人員削減の影響をもろに受けているところもあり、そろそろ歪みが生じ始めているところもある。さらに継続して工夫を重ねることも大切だが、それを相手に任せるだけでその社会の構成員である自分たちは何もしないですませるというのはどんなものだろうか。増税に賛成するという立場でもないが、この窮状を理解しようともせず、ただ自分たちの生活を守るためという考え方を押し付けるだけでは、この状況を脱することはできないのではないだろうか。痛みを共有しようなどという馬鹿げた主張を支持するつもりは毛頭無いが、全体による負担という考え方が必要となる時期に来ていると思う。

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12月17日(金)−便利店

 昔は正月の三が日はどんな店も閉めていた。だから、料理をしない人々はその間の過ごし方を真剣に考えたものだ。何をどう買いだめしておこうか、そんなことを考える余裕があれば、年の暮れに準備もできただろうが、それも忘れてしまうと飛んでもない日々を過ごさねばならない。それも、カップ麺が登場し、コンビニが登場した頃には、どうでもいいことになったのだが。
 商売をするものは常にお客に忠実でなければならない、という話はいつ頃から出てきたのだろう。たぶんずっと以前からその手の話はあったのだろうが、何よりも優先してという考え方は昔はなかったような気がする。こういう時は商売をしなくてもよいとか、休むのは自分のためでなく別の要因があるからとか、とにかくいろんな事情がちゃんと用意されていた。それがいつの間にか、客が要求するのなら、すべてに応えなければならないといった風潮が出てきて、何でもかんでも用意しておくことが当り前のようになった。誰かが始めてしまえば、横並びが得意な国民性である、あっという間に広がってそれが当り前となる。いつでも開いている商店という形態が登場してしまうと、他の商売にまでそのやり方が広がってくる。まるで、やらないのは裏切り行為のような雰囲気さえ出てきて、どんな商売も休みというものが存在しなくなってしまった。こうなると、その流れをせき止めるには法律での規制しか方法がないが、そういう考え方が元々なかった国だから、今更何ともならない。というより、日曜日には営業してはいけないという法律を作っていた国でさえ、最近法破りが登場して、なし崩し的に営業を始めるところが出てきたという話がある。まったく何がどうなっているのかわからないが、お客様は神様ですという誰かの叫び声が聞こえてきそうな世の中になっているようだ。何でも揃うという便利さに一度浸ってしまうと、まずそこから抜け出すことはできない。安くはないが日常品なら適当に揃っているという小さな店が、昔からの何でも屋とは違い、四六時中営業しているわけだから、こんなに便利なことはないわけだ。それが当り前となれば、緊張感は出てこない。震災直後のコンビニの様子が伝えられるたびに、油断とは違った何かずれた感覚がそこら中にあることが実感される。いくら用意すべきと言われても、普段からそこに行けばあるという状態が続けば何も用意しないのが当り前、なのである。それとは少し違った便利だが、何でも安く揃うという店がこのところ増えてきている。昔ならバッタ屋と呼ばれたものなのだろうが、今やそれが一流のごとく扱われるのだから、どうにも不思議な感覚がする。いずれにしても、街中に駐車場も設けず、狭い店内に所狭しといろんな商品が並ぶ店に、沢山の人々が押し寄せる。たぶん便利で安いということなのだろうが、どうにもゴタゴタしていて行く気は起きない。そんな店舗内で何かが起きれば大変だろうと考えながら買い物をしていた人もいたのだろうが、先日の火事はまさにその典型というべきものだった。不幸中の幸いなのか被害者は従業員に限られていたが、真面目に動いた人にそういうことが起きてしまったのは、何とも言えない気持ちになる。やっとのことで行政側が動き始めたが、以前の雑居ビルでの火事と同じことが繰り返されているのに、何かが起きるまで重い腰を上げることはない。やっぱりと思う方も、そんな流れに慣らされてしまっているのだろう。

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12月16日(木)−世代差

 世代の格差とか、断絶とか、そんな言葉はもう使い古されたのだろうか。それよりも、各世代に固有の名前を付けたほうがいいというのだろう。今話題になっているのは、Yと呼ばれる世代である。なぜYなのか、よくわからないが、理解しがたい世代という意味でXと呼ばれた世代があり、その後に来た世代だからというだけなのかもしれない。
 最近の若い者は、という表現はどの世代でも共通に使われたもので、何となくバトンを渡していくような感覚で時代の経過とともに次々に継承されていた。少し物事に対する判断がつくようになると、自分より若い人々の考え方との違いが目立つようになり、そこに隔たりを感じることから発せられた言葉なのだろう。当り前のことなのだが、面白いのは、それが時代が変わろうともほとんど変わらぬ形で繰り返されてきたことで、逆に言えばなんだかんだと言ったとしても、人間は年を重ねればそれなりに変わっていくことを示している。そういった繰り返しのテンポがひっくり返されたのがXと呼ばれる世代が登場した時代で、それまでの繰り返しとはまったく違った方向の考え方や生活感などが表面化して、以前と同じ感覚では理解しがたい行動や意見が若い世代から出されるようになった。面白いのはそれぞれの国の事情が大きく違うはずなのに、ほとんどの国で同じような変化が現れたことで、おそらく安定した時代が長期間続いたことによる影響の現れなのだろう。安定していれば、その流れや波に乗ったまま進むことが最良の選択となるわけだから、自ら変化を求めず、一見漫然とも思える行動に出るようになる。その代わり、周囲からの働きかけは十分に行われたようで、ある意味至れり尽くせりといった風情が漂っていたようだ。それがどんな結果を産んだのか、その世代のその後を追いかけてみればいいのかも知れないが、そんなことをしているまもなく、次の特異な世代が登場したということなのだろう。特集が組まれていても、それを真剣に読む気も起こらず、そこに紹介されている若者の輝きをいくら説明されても、あまりこちらに響くものはない。何が違うのかわからないが、あまりに特殊化され、あまりに極端な取り上げ方をされたせいなのか、どうも一般化できそうにもないことのような気がしてしまう。今このときには取り上げるだけの価値があるのかも知れないが、少し時間が経過したら大して面白くもないとなるのでは、という気持ちの方が大きい感じがしている。それよりも、そういう世代に対する親の世代の取り組み方の方が真剣に取り上げられるべきで、親だけでなく周囲の考え方の問題など、もう少し掘り下げて考えるべきだろう。相手がこうなってしまったのはもう仕方がないから、応急手当に専念するというのは、このところの時代の潮流のような気もするが、そこに大きな間違いがありそうに思えるのだ。今問題として取り上げられている人々より、その予備軍である子供たちに対する対処を色々考えてみることに頭を使ったほうがよさそうに思えるのだが、どうも目の前の難問に気持ちが奪われてしまっているらしい。さて、こんなこともただ繰り返されるだけだから、ここ当分この状況は変わりそうにもない、と言ったら、あまりに悲観的になってしまうのだろうか。それが当てはまるような気がしてならないのだが。

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12月15日(水)−検索

 いくら思いつくままを書いていると言っても、思いつきもしない日も出てくるものだ。このところ、落ち着いて考えることもなく書き始めているから、何のまとまりもないものが続いているような気がしている。形としてはまとめているつもりだが、書く前に大体の雰囲気を掴んでいるときとそうでないときで、終わらせ方は大きく違う。その辺りに違和感があるのだ。
 独り言の話題を思いつくのは、多くの場合通勤途上である。別にゆっくりとした時間というわけでもないが、運転しながらラジオから流れてくる話題を聴いていると、何となく思いつくことができるから不思議なものである。しかし、場合によってはそんなことができない日もある。そういう時はかなり苦しいが、まあ何とか無理矢理に近い感じで話題をひねり出すわけだ。そんなのを読まされるほうはかなわないかもしれない。一方では、ひねり出したものにはあまり極端なひねりが入っていないから、かえって読みやすいものになっていることもある。さてどっちなのだろうか、このところのものは。ところで、独り言のページに新しいメニューが加わったことに気づいている人はいるだろうか。これを始めてから数ヶ月が経過したころ、一部の人々から以前の独り言を探しにくいという苦情が届いた。タイトルを見ても、その時の話題が思い出せないから、内容から探しだす手段を作るべきというものだ。元々ブラウザには表示されたページ内の検索を行う機能がついている。それを利用すれば、内容の検索も可能と思い、そんな形式を始めのうちは設置していた。しかし、表示が遅いとか、色んな障害があったからだろう。利用者はほとんどいなかったようだ。まあ、別の見方をすれば、以前のものに興味を持つ人が減り、ほとんどいなくなったからといった理由の方がぴったりと来るものなのだろうが、とにかく新しいやり方を考えたほうが良いのかもしれないと思っていた。これには別の要因もあり、内容検索のための長大なデータを表示するためのファイルを作るのが面倒になったのもある。そこで、お手軽な検索機能をもったソフトがないかと探してみたら、幾つか見つかったのである。便利そうなもので、色んな所で使われているソフトは、残念ながらこのサイトでは使えないようだった。と言っても、この程度のデータ量ではその便利さも十分に活かせないと言ったほうが正しい感じもしたが。そこで残ったのが現在設置してあるソフトである。使い勝手は、こちらが試した程度のものであれば十分かと思える。但し、独り言の入力の癖から、表示されるデータが長いものになるという欠点があるようだ。それでも、探したいものが探せるのは、人によってはとても便利なものなのかもしれない。今のところ、利用者は二人だけだが、はたして他の人たちが気づいているのかずっと気になっていたので、この機会に紹介してみた。

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12月14日(火)−男女差

 海の向こうの国へ行くと、何事にも扱われ方が違っていて、文化の違いを感じるのだと聞く。乗り物の乗り降り、扉の前、その他諸々のことについて、男性が女性をいたわり優先する習慣を目の当たりにすると、そこに根本的な違いを感じるわけだ。確かに、こちらでそんな光景を目にすることは少なく、文化が違うのだというしかない。
 ただ、こういう習慣の根底にあるものは何か、そちらについてはすぐに理解できるわけでもないし、当事者とて理解できているとは限らない。習慣は習慣なのであり、そこに一定の論理があるとは限らないからだ。しかし、普段受けたことのない扱いを受けるとやはり気持ちが良くなるのだろう。女性は総じてそういう扱いを歓迎する。男性といえば、自分たちにそんな習慣はなく、今更何とかするのも大変という場合には、話題として取り上げられることも避けたいと思うようだし、そうでもなく何とか実行できる場合には、話題に取り上げる必要もないと思ったりする。結局のところ、文化の違いによるものだから、と片付けられてしまうのがオチだが、人それぞれに感覚は違うようだ。一方、そういった伝統文化の類いとして扱われるものではなく、もっと深刻な問題として取り上げられるものに、男女平等があるのではないだろうか。女性優先の文化はそれ自体が男女平等を表すのでないことは、ずっと昔の欧米社会を見てみればわかるだろう。そこには平等という意識も制度もなく、男性社会が歴然として存在し、その中で女性を優先させるという文化が存在していたわけだ。それが30年ほど前に海の向こうでそのことを強く意識すべきという運動が起き、その後は女性の社会進出が促進されたり、制度として様々なことを援助することで、進出を助けてきた。その結果として現在の状況があり、本当の平等かどうかは別にして、かなり多くの女性が要職につき、社会の中で活躍するようになった。それに遅れてはいるものの、この国でもそういう提言がたびたびなされ、徐々にではあるが、改善されていると思われる。当事者たちから見れば、大した変化もなく、未だに厳しい状況という場合も多いのだろうが、それでも昔に比べれば、である。但し、個別の例を調べたら、それほど単純なことでもなく、良い場合も悪い場合も色んなものがあり、色んな扱われ方がされているのだと思う。こういう制度が導入されたあと、それがある程度の落ち着きを見せてくると、今度は別の歪みが目立ち始めてくる。差別が制度の変化によって逆差別に変わることも多いし、それによって実際に被害を受ける人もいるだろう。どうしても、制度によって定めてしまうと、それ自体が持っていたはずの柔軟性が失われ、別の形の硬直化が始まる。男女平等とか、差別とか、そんな話題についても他の話題同様の展開があり、まだまだ柔軟性をもった制度が定着するには至っていないのだと思う。いつになったら、と悩む向きもあろうが、海の向こうでさえ未だに試行錯誤が行われているのだから、そんなに簡単には行かないだろう。元々歴然とした違いが存在するものに、まったく同じことをさせるのが、本当の平等かどうかという疑問もあるわけで、その辺りも含めた形の制度が実現可能なのか、難しいところだ。

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12月13日(月)−道路建設

 週末でも大都市周辺を除けば、道もそんなに混んでいない。一般道路だろうが、高速道路だろうが大した違いはないようだ。それにしてもこの程度の交通量で採算が取れるのだろうか、と思ってしまう。おそらく道路自体の維持管理だけでなく、料金徴収の採算でさえ怪しいものなのだろう。自動化することで人件費はある程度削減できるのだろうが。
 あれだけ大騒ぎをしていたのに、もうすっかり忘れてしまったような感じさえする高速道路の計画についての議論だが、実際どうなったのだろうか。計画中の道路のどれだけの部分がそのまま建設されることになったのか、ちゃんと調べたらどこかに示されているのかもしれない。しかし、新聞などのマスコミは既に興味を失ったのだろう。どこかで大々的に取り上げるということもなさそうである。計画中の道路を走ることは不可能だが、部分的に開通した路線を走ることはできる。それらを走ってみて感じることは、所要時間の短縮やその地域に不案内な人間にも使いやすいことなど、どちらかといえば正の効果である。走っている人間にはその道の採算性など問題にはならない。納税者として税金の引き上げに繋がったりすると、文句の一つも言いたくなるのかも知れないが、現実にはそれを利用する立場での印象の方が強くなるような気がする。そう考えてみると、道路の建設の是非を論じている人々に、それを利用することのありそうにもない人が多いのは気になるところである。そういう立場の方が採算性云々を客観的に論じることができるという論法はよく使われるが、そのやり方には時々疑問を感じる。何故客観性が必要なのか、ということ自体にも不可解さが出てくる場合もあり、この手の施設の問題は利用者の主観を無視して成り立つのかよくわからなくなる。しかし、現代は客観性が何にも増して重要視される時代である。何事にも口を出し、何事にも関与し、何事からも恩恵を授かりたいという人々が溢れていて、何だか逆に利権に群がる強欲者の集まりのように見えてしまうこともあるから不思議なものだ。全体の利益を考えるために集まっている人々が、いかにも客観性を重視しながら議論しているのだが、実際にはそこにおける自らへの利害を中心に考えているだけなのかもしれないのだ。利用者の主観による利害の方が、施設の有用性を論じるためには重要な気もするが、ここではそういうエゴは通用しないと言われる。それでは、別のエゴはと言いたくなるところだが、客観を前面に出している人々の意見にはそういうものが存在しないことになっているのだ。まあ、そんなことはどうでもよく、ただ単に便利なものができてくれればいいと思っている人も多いのだろう。実際に走ってみると、そんなことしか考えないのは確かだ。

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