パンチの独り言

(2004年12月20日〜12月26日)
(過保護、台本、大国、受信、錯覚、異質、継続)



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12月26日(日)−継続

 自分のことながら毎日よく続くものだと思う。はじめの頃に比べるとたぶん倍くらいの量を書いているようだが、大体原稿用紙3枚程度の文章のようだ。これを多いと見るか少ないと見るかは、書く方に立つか読む方に立つかで違うだろうし、読み慣れた人かそうでないかにもよるだろう。さらには、内容による違いもあるし、文体にもよるのだろう。
 いずれにしても、毎日書くことを習慣としたことのある人ならば、大体の様子がわかると思う。と言っても、書いている本人はそういう習慣を持ったことがなかったので、始める時はまず一年だけと思っていた。それが一周巡ってみると、まだいけそうな気がしたので、さらにもう少しといった感覚だったのではないだろうか。さて、その積み重ねでこれまでに何回書いてきたのか、まさかご存知の方もいないだろうから数えてみた。単純な作業は苦にはならないのだが、いかんせん目の追いかけ方が心もとない。まあ、いくらかの数え間違いがあるかも知れないが、今回で991回目のようだ。そろそろきりのいいところと思っていたが、少し早すぎたようである。せっかく数えたのに、きりのいい時まで待ちぼうけというのも面白くないので、ちょっと早いが前祝いといったところだろうか。まあ、祝いも何もなく、ただ闇雲に走ってきたわけで、どの時点でも単なる通過点に過ぎない。三枚が千回積み重なるとどのくらいの量になるのか、あまり想像したくないが、まあそんなものである。自分自身は始めの頃少しだけ推敲していたとはいえ、最近はほとんどそういうこともしないくらいで、ましてや後になって読み返すということもない。どんなことを以前書いたのかさっぱり覚えていないのもある意味不思議なところかもしれない。文章に限らず、昔のことは一部を除いてさっさと忘れるという癖がついているからかも知れないが、実際に何を書いたのか前日のことでさえ忘れているのだから我ながら驚いてしまう。そんな調子だから、毎日適当に思いつきを出せて、それを形にできるのかもしれない。以前何を書いたのかを気にしていたら、次に書くことを考える前にいろんな儀式が必要となってしまうからだ。事前調査も以前は時々やっていたが、最近はそれもとんとしなくなった。たぶん、負荷を軽くしようとする心が動いているためだろう。そうでもしないと長続きしないのは、長距離走者が一見痩せ細っているように見えるのと似ているのかもしれない。自分の体を動かすのに、余計な荷物は減らしたほうがいいのだ。実際の体重は減る兆候も見られないが、頭の方の負荷はかなり減らしてしまったようだ。記憶という抽き出しも余計な使い方はせずに、その場だけ少し働かせるようにする。たぶん、以前の経験ばかりが話題になるのも、最近の記憶が入りにくくなったせいなのだろう。こと文章を書くうえでは、大して不便にも感じないのだから、皆もそんなものかもしれない。仕事上の文章ではそうも行かないが、こちらはその点気楽なものである。これからの問題はと言えば、さていつ終わらせられるのかということだろうか。何も考えずに続けているかぎり、いつまででもとなりかねないが、さてどんなものだろう。

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12月25日(土)−異質

 たまに都会に出ていくと強く感じることがある。挙動不審者が目立つような気がするのだ。お互い他人のことは言えないわけで、自分もそう見られているのかも知れないが、それはそれとして、駅でも店でもどうもおかしいなと思うことが増えている。社会が病んでいるからとする人々もいるが、本当に総数が増えているのだろうか。
 挙動不審と言っても、理由のはっきりしている人たちもいる。ただ、その人たちに対するこちらの視線は一瞬注がれるだけで、その後は注目することはない。それに対して、理解しがたい行動に出ている人たちに対しては、怖れを半分含んだような視線を飛ばし続けることになる。何故あの人はあそこであんなことをしているのだろうか、と思うことは、まさに差別意識によるものであると指摘する向きもあろうが、自分の中にそれを意識する部分はないように思う。無意識にやっているのだとは言わないが、差別という形の上下をつける感覚はないのである。区別と差別は単なる言葉の遊びによる違いという意見もあるが、どちらかと言えばそれぞれの違いを見出そうとするわけで、そこに上とか下とかいったものはない。それでも、いつまでも同じ行動を続ける人がいれば何となく気になるし、どうしてもそちらの方に意識が向いてしまう。ついでに周囲を見渡すと、同じような行動に出ている人もいるが、彼らのほとんどはそれを悟られないように注意している。そんなわけで、そういう場では何とも異様な雰囲気が漂うことになる。以前からこんなことはあったはずなのだが、今ほどその数を意識することはない。実際に数自体が増えているのかも知れないが、一方でそういう人々がこちらの目に触れるところに出てくるようになったのかもしれない。どちらが正しいのかわからないが、ひょっとすると両方共に増えているのかもしれない。先日見かけた光景もちょっと不思議に思えるものだったが、それ自体問題とすることもないのだろう。ある喫茶店で、入ってきた客がそのまま給水器に走り、コップに何杯もの水を飲み始めた。いつ終わるのだろうかと、遠目に眺めていたが、そのうち満足したらしく、次はトイレに駆け込む。出てきたらまた同じ儀式である。そんなこんなの内に、やっとアイスコーヒーを頼んで、それも一気に飲み干し、再び水の儀式。一体どのくらいの水が入るのだろうかと不思議に思った。その手前では、祖母と孫とおぼしき二人連れが飲み物をはさんで話をしているが、時々漏れてくる内容はこれまた首を傾げたくなるもの。祖母は何か言いたげだが、言っても無駄ということかうな垂れた様子さえ漂う。こちらが気にしていることは当然相手にも悟られていたのだろうが、何故だろうと思ってしまうからどうにもならない。これらの人々が少し違っているように映るのは、何故なのだろう。どこが違っているような気がするのだろう。上手く説明できそうにもない、何となく違う気がするだけなのだ。でも、そういう人々をよく見かけるようになった。ということは、こちらの気持ちが変わったからだろうか、などと考えてしまうこともある。まあ、そんなことに気づいても、何が変わるわけでもないのだろうが。

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12月24日(金)−錯覚

 情報が氾濫する時代になった。振り回されたくない人は、いろんな手だてを引っ張り出している。たとえば、情報源を沢山持つとか、逆に信用できるものに絞るとか、どうしても消極的な手だてになってしまうが、何もしないよりはましなのだろう。一方、自分の目で見た、耳で聞いた、というものしか信じないという人もいる。情報社会になる前からいたようだが。
 確かに、自分の持ち物は他人の持ち物よりも信用できるだろう。しかし、実際に目で見たことや耳で聞いたことが真実かどうかは、信用できるできないとはちょっと違ったところにありそうである。夜、空に浮かぶ月を見ていて綺麗だと思うのは、気温が下がってきて空気中に含まれる水蒸気の量が減ったからだろうか。澄んだ空に浮かぶ月は確かに美しい。その月が出てくるとき、沈んでいくとき、中空に浮かぶ月と比べて、同じように見えているだろうか。地平線の近くにある月の方がより大きく見えると思ったことのある人は多いと思う。その説明には二つの説があり、一つは地平線近くでは通り抜ける空気の層が厚くなり、その屈折率の違いから大きく見えているというもの。これは写真に撮ってもその通りになるはずのもので、そんな日没の絵を見たことがある人もいると思う。一方、単なる錯覚を主張する人もいる。中空に浮かぶ月はその大きさを比べる対象が観察者の近くにあるものであるのに対して、地平線近くにある場合は遠くの景色が対照となるから、そこに相対的な大きさの感覚の違いが出てくるというものである。以前は後者が支持されていたが、いつの頃からか前者の方が科学的といった雰囲気があるために、後者は誤解とする人々が増えてきた。実際には、前者の効果はさほどでなく、後者の方が大きく影響しているようだ。これを実感するのは偶然に頼るしかないのだが、たとえば中空に浮かぶ月でもたまたま遠くの景色と比べられる場面に出くわしたとき、まさに見かけの大きさの変化に気づくことがある。さっきまで見えていた月の大きさと明らかに違うものが目の前に現れるのだ。まるで魔法にかけられたような気になるが、また違った場面に変わると元の小さな月に見える。不思議な感覚としか言い様がないが、実際に経験した人にはよくわかることだと思う。これは地平線近くの月についても同じことで、大きく見えていたものが視界が開けた途端に小さくなってしまう。月が急に近づいていないことは、たとえば硬貨を持って腕を一杯に伸ばした状態で月と大きさを比べてみればわかることだ。丁度同じくらいの大きさになるはずである。錯視と呼ばれる心理的な現象は、目がそれを作り出しているのではなく、脳が勝手に誤解していることから起きる。だから自分の目で見たものも信用できない、と言ってしまうと、何を信じればいいのかと悩んでしまうだろうから、そこまで言うつもりはないが。一事が万事、その調子であることは知っておいたほうがいいだろう。目ではなく脳は見たくないものは見えないふりをするし、耳から入った音でも聞こえないものは多い。脳という処理装置は高度な篩を持ち合わせているのだが、それが思わぬ効果を産むことがあるわけだ。自分をも疑っては何ともならないのかも知れないが、そういう可能性が常にあることを心に留めておくことは大切だろう。

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12月23日(木)−受信

 連日のように、「相次ぐ不祥事」という見出しが踊っている。該当する組織はこれまた数多くあり、これだけでどこのことを指すとは判断がつかない。それにしても、何故相次ぐのか疑問に思う人もいるだろう。一つ見つかったら他も、ということはつまり元々沢山の問題が蓄積していただけなのだ。だけなのだが、これは今の社会の抱える問題を如実に表している。
 不祥事が賑わす紙面や番組を見ていても、楽しいことはあまりない。まして、それを自己批判するための番組を企画し、議論の場を自ら設ける動きには首を傾げるばかりである。はたして内部調査が十分に行われたのか、一つの事件のみを取り上げて議論することは、かえって他の問題を隠蔽することに繋がらないのだろうか。そんな思いまで抱くほど、組織全体に対する疑いは大きくなっているのだと思う。それはそれで重要な問題なのだが、社会の抱える問題として別の面も注目されるべきなのではないかと思えることがある。放送協会のテレビ、ラジオの放送を受信していれば、機会を捉えるごとに受信料についての解説が流される。番組がそれらを元にして製作されていることを伝えるものだが、この料金の徴収に関しては以前からいろんな意見が出されていた。番組を受信しているからといって支払う必要はないはずと、法律を持ち出してまで主張する人がいるかと思えば、一方的に送られてくるものに対して料金を支払うのはおかしいとする人もいる。いずれにしても、公共放送と言われるのだから無料が原則とする気持ちがあるのだろう。それに対して、徴収する側は単に受信するための料金という主張では不十分と考えたらしく、番組の制作に必要な経費を賄うためという少し違った形の理屈を流すようになった。まあいずれにしても、支払う人とそうでない人が同じ社会を構成しているわけだから、何とも矛盾に溢れたものである。その中で、今回のような一連の不祥事が発覚すると、不払い派の勢いが増すのは致し方のないところだろう。彼らの主張は基本的には最高責任者の責任の取り方に対する不満と番組製作費の流用という自分たちの支払った金の不正使用に対する憤りの二つに絞られると思う。どちらも、話を聞いているかぎりごく当然の主張のように思える。これが批判のための意見であればおそらく問題がないのだろう。しかし、そこに受信料の支払いとの繋がりが出てくると話が混乱してくる。支払いを拒否することを決断した人々は、上に挙げた二つの理由などによってそれを決めたこととしている場合が多いが、そこに妥当な解釈が成り立つのだろうか。支払っているから意見を述べる資格があるはずという話なら理解できるが、その主張が通らないからといって受信を継続しながら料金を支払わないのはどこかずれがありそうな気がする。不買運動ならぬ、受信拒否運動のようなものならば理解できるのだが、そういう観点での議論はあまりなく、ただ単に支払い拒否だけなのである。こういう料金は税金の一種ではないかと言ったら叱られるかも知れないが、番組を受信している人々に対してはそんなものとみなすのが分かり易いと思う。恩恵に浴すためには納税の義務を負うというごく当り前の論理をそのまま当てはめると抵抗感があるだろうが、それに近い部分もあるのではないか。不祥事を起こした人間や責任者に対する憤りはわかるが、それを向ける方向がちとずれているのではないかと思えるのだ。

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12月22日(水)−大国

 二十年くらい前、海の向こうの国の経済状況は悪いと言わざるを得なかった。そんな状況の中で、日の出のように勢いを増していた国があり、そこから運ばれてくる工業製品に対して制限をかける動きがあった。しかし、その一方で自国生産物を買おうという動きも活発で、単なる不買運動に走るだけではない一面を垣間見たような気がしていた。
 実際には一部の工業製品を除けば、こちらから運ばれてくるものを買わねばならないほど国内での生産能力が落ちていたわけだが、その後生産性を上げる努力がある程度なされた結果、経済状況の回復基調が見られるようになった。その頃には、日の出の勢いだったはずの国は風船がはじけるように、国内で積み重ねられた問題が一度に噴出し、経済破綻を来してしまった。あれだけ海外への投資を盛んにしていたものがあっという間に萎んでしまい、次々と撤退を余儀なくされていた。当然国内状況の悪化はさらにひどいものであり、その後の回復の様子を見るかぎり、その時のショックは経済そのものだけでなく、心理的にも非常に大きかったことがわかる。あちらの国はその後波に乗ることができ、それなりの水準にまで戻ることができたようだが、実際にはまだまだ不安要因が潜んでいるようだ。双子の赤字と言われるものもその一つなのだろうが、物を生産する事業ならまだしも、何しろ動かしていなければいけない状況にあるものだから、とにかく金を右から左へでも動かしているのだろう。そうなれば一時のこちらの状況と似ているところが出てきて、不動産投資や企業買収なども表面化してくる。何となく、二十年前の立場逆転だなあと思いつつ、さて、それではその後の結果はどうなるのだろうかと、他人事とは言え心配になったりもする。何しろ、このところ世界情勢からすると、あちらの国に勢いというか優位性が無くなってしまうと、いろんなところに不具合が出てきそうなのだ。これほど、周囲を圧倒しようとする外へ向けての力が発揮された時代はなかったのではないだろうか。その中で何とか、関係するものを制御下に置き、その中で自国の繁栄を築いていこうとするのは、仕方のないやり方なのかもしれない。それにしても、歪みはどんどん大きくなっていくように見えるし、見えるものの生産よりも、見えないものの生産を拡大することにも不安を抱いてしまう。情報という目には見えないものが世の中に氾濫するようになり、それを商取引の対象とするようになってくると、この先どんな方向に向かうことになるのか、危ういように思えてしまう。それでも何とかなるものというのが大戦後の流れだったのだが、それは大きな戦争がなかったからであり、それが起きるところへ向かってしまったらと考えたりしたら、のほほんとしてもいられないのかもしれない。そんなことはありえないと思うことが一番楽なのだが。

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12月21日(火)−台本

 季節外れの暖かい日が続いたから暖冬だと言うが、冬が付いている以上やはり冬なのだ。それらしく気温が下がるとともに、名物の北風が吹き荒れている。ビルの陰を急いでいると、風に吹き飛ばされそうになるくらいだ。論理の飛躍と批判されるのを覚悟して言えば、世間の風もこんな感じなのかもしれぬ。そろそろ春が恋しいが、何としてでも冬にしておきたい人もいるのだろう。
 年末、誰しも忙しくしている。年末恒例というものがだんだん少なくなっているのに、気忙しさだけはいつまでも残っているようだ。正月を迎えるために、という理由がつきそうなところは特にこの時期忙しくなるようだ。別段特別なこともしないくせに、何となく正月だけはという人も多く、その一つに年賀状があるだろう。もう書き終わったという人もいるのだろうが、いやいやこれからという人や、さて年賀状をどこで買おうかという人もいるだろう。人それぞれに準備の仕方が違うのはそれだけで面白いものだと思う。一方、年明けに向けて忙しいのではなく、さらにその先を目標に忙しくなっている人々もいる。霞ヶ関と称される人々で、来年度の予算案をそれぞれの役所が提出したのに対して、金を握っている役所が原案を出したとあった。毎年同じように繰り返されるこれらの手順は、国の予算の使い方を厳正に決定していることを印象づけるためのものだろうが、最近は単なる行事のような感がすることは否めない。まず、それぞれの省庁からの予算要求は表の台本だろう。それを検閲して上演を許可するのが戦時中の警察ならぬ財務省である。ずたずたにされた台本が手元に返ってきたとき、さてそれぞれの担当官は何とするか。当然、自分たちの要求が通らなかったことに腹を立て、さらなる理由を並べて元通りとはいかぬまでも、何とか話の筋を通そうとするだろう。そうしなければ芝居が成立しないほど、肝心なところが削られてしまうことが多いのは、時代も背景も変わったとはいえ、変わらぬことのようだ。そうして行われるのが復活折衝と呼ばれる行事だが、ここでは復活が主体であり、さらなる変化を持ち込む場面ではないらしい。穿った見方をすれば、これは単に財布の持ち主が金を欲しがっている人に優先順位を示せと迫るようなもので、始めから順位など決まっているだろうにと想像したくなるものだ。いずれにしても、これらの手順を経て、さらに予算の使い方は細かく決められる。しかし、これで終わってしまっては肝心の千両役者の出番がない。もう一声、と舞台から声がかかるわけでもあるまいが、主役とおぼしき人物が検閲室になだれ込み、あっちの長と直談判をする。それによって、各省庁に配られる予算に色が加えられるわけだ。役者の方も室長の方も、この手続きによって面目躍如となり、八方丸くおさまるわけである。しかし、この手順、どこかにおかれた裏の台本にあるのではあるまいか。そんな疑いが出てくるのは、単にこちらが年齢を重ねたせいだけなのかも知れないが、まあとにかく、今はそのやり取りの真っ最中というわけだ。緊縮の一言がくっついていることには変わりなく、明るい予算とはならないのだろうが。

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12月20日(月)−過保護

 仕事帰り、といってもあまり早い時間ではないが、そんな時にラジオから流れてくる情報に集中させられることがある。かなり疲れているから、理解できないこともあるが、興味深い話も時々あり、なるほどと思ったりする。一方で、そういうところで取り上げられる話題でさえ、最近は独り善がりと思えるものも増えていて、時には反論したくもなる。
 先日取り上げられていたものもその一つだと思う。弱者をいかに保護するのか、現代社会の抱える大きな問題の一つである。社会的弱者にも色々とあり、それぞれに対策が異なるのは当り前のことだが、そういう議論の中であまり取り上げられないことにそれぞれの共通点といったものがあるように思える。弱者とは障害者であり、失業者であり、低所得者であり、というように列挙していけばきりがない。しかし、彼らは社会の少数派であり、多数に押し切られる対象とみなせば、そこに共通点が見えてくる。実際には、彼らに対する救済策を講じようとする人々がこういう議論の場に出てくるわけだから、忘れ去られるかもしれない人々を議論の対象とすることで押し切りを無くそうとするわけだ。しかし、その議論を聴いていると其処彼処に首を傾げたくなる意見が出ているように思える。弱者は保護されねばならない、という基本理念に沿って議論が進んでいくのはわかるが、保護とは何を指すのかが曖昧になっている。親が子供を保護するということについても、最近ではかなり歪んだものが蔓延しているくらいだから、保護という意味自体が変わってしまったのかもしれない。しかし、強者が弱者を保護するという図式をすべての点で展開しているかぎり、弱者は永遠に弱者でしかなく、強者はずっとその立場に居座ることができる。その辺り、当事者たちの気づかぬところで議論の端々に立場の継続性が現れていて、何とも言えない気持ちになる。すべての関係者がそうだとは言わないが、どうしてもそうとしか思えない話が多くなっているような気がするのだ。たとえば、路上生活者に対する援助として生活保護という制度があるが、これをそのまま適用し続けると社会復帰の芽を摘むことになるという意見がある。つまり、安心させることが慢心させることになり、復帰しなければいけないという気持ちが薄らいでしまうというのだ。保護制度によって人間の心が歪められるという例の一つだろうが、現実に問題となっているようだ。そこでさらに社会復帰を促すための方策が必要となるわけで、どこでも何でもいいから仕事を与えるべきという話が出てくる。そういう形で徐々に復帰の機会を与え、そこからさらに進めることによって以前属していた社会に戻そうとするものだ。そこで出てきた意見が興味深いもので、職人などの意識の高い人々はそういう簡単な作業を仕事として与えても満足せず、復帰の意欲さえ失うようになるというものだった。簡単なことは逆に意欲を削ぐ結果を産みだすという話である。この辺りに来ると親子関係でよく取り沙汰される話との類似性が高くなってくる。つまり、この子はもっと上を望んでいるのだから、そういうものを与えねば意欲が出てこないといった論理のことである。いかにもそれらしい論理なのだが、実際には大いなる間違いが潜んでいるように思える。つまり、意欲はその対象によって高くなったり低くなったりするとはいえ、負の効果を与えるものは自分自身の心以外にはないということである。こんな仕事は自分の役割じゃないと解釈するのは自分自身であり、それは心の問題に過ぎない。そういう心の動きまで保護の対象にするのは無理があるのではないだろうか。いろんなところで同じような展開があるから社会の抱えている大きな問題の一つなのだろうが。

(since 2002/4/3)