パンチの独り言

(2004年12月27日〜2005年1月2日)
(責任能力、極微細、風習、救い、無駄、暴露、平衡)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



1月2日(日)−平衡

 子供たちの成長には楽しみがある。身長や体重が増すのも楽しみだし、人間性というか言葉の使い方に変化が見られるのも面白い。一方、大人の方はこう長く休みが続くと歓迎しない変化が現れ、おそらく腹回りなどいくらか増しているのではないだろうか。何にでも成長が望ましいわけではないが、嬉しいものが多いのも事実である。
 昨年の人口増加の推計が発表されていた。遂に十万人の大台を割ったそうで、出生数は調査開始後最低なのだそうだ。それに対して、老人の人口増加により割合は増えてはいないのだろうが、死亡数は増えているとのこと。遂にそういう流れになってきたというべきだろうか。今はかなり鈍化してきたとはいえ、まだ増加傾向にある人口だが、二年後には減少に転じるとそのニュースは伝えていた。そこから問題として取り上げられるのは労働人口とか経済成長というもののようだ。労働人口の減少は高齢化により大きな問題となると言われ続けているが、未だにうまく理解できない。働きたくない人ばかりが老人になっているようには思えず、まだまだやれると息巻いている人も多いようだから、その辺りの調整をうまくやれば何とかなるように思える。先日友人を訪ねたとき、職場の耐震強度の問題に話が進んだ。それよりかなり前のこと、その周辺を清掃する人のそばで同僚とその話をしたら、横からその建物の建てられたのが規制前だからと言われたのだそうだ。建築士の資格を持つ人がボランティアで出ているそうで、一見近所のおじさん風だったとか。そんな人がこれからも増えていくのかもしれない。他方、相変わらず懲りない話だと思えるのは、経済成長に関するものだ。高齢化社会で、人口増加が望めず、更に労働力が低下するとなれば、生産力が落ち込むわけだから経済が悪化するという流れに対する警告なのだろうが、それにしても成長とは何のことを言うのだろうかと思ってしまう。総生産がどうこうとか、個人資産がどうこうとか、いずれにしても数字に表れるものが増えなければ成長と言わないのだろうか。これはまるで、子供の成長で身長や体重の増加に一喜一憂する親と変わらない心境のようである。人間性の成長は数字では表されないから、そこには実感が湧かないと言っているようなものだ。確かに資産が増えればそれに越したことはないのだろうが、そうでなくても生活が豊かになることは大いにありそうである。自分たちが子供の頃の生活と比べて、様々な便利さが享受できるようになったことから考えれば、確かに豊かになったと言えるのではないだろうか。逆にそういう豊かさはうわべだけのもので、心が豊かでないからという話が最近はよく聞かれるようになったが、そちらには別の要因があるように見える。いずれにしても、同じお金でより良い生活ができるようになるのであれば、預貯金を含む資産の増加が無くても成長しているように感じられるのではないだろうか。ここまで言ってしまうと、たぶん反対されるのだろうが、そろそろそんな考え方をする時期に来ているように思える。高度成長期に、一部のものの価値が急激に上昇することによって歪んでしまったあとに、かなり厳しい時代が続いたが、その時学んだのは結局それなりの成長が重要ということのようだ。成長という言葉の魅力には勝てず、数字に表れるものだけを追い求める傾向には変化がない。さて、これから先どちらに進むのか、たとえゆっくりでも成長すればどこかに限界が見えてくるのではないだろうか。

* * * * * * * *

1月1日(土)−暴露

 良い年を迎えられるように、という願いがあったわけでもあるまいが、年の瀬に一つの事件が急展開を見せた。児童誘拐という呼び名が付けられた事件では、色々と猟奇的な面が取り沙汰され、特にテレビや週刊誌が挙って取り上げていたことは記憶に新しい。しかし、遠い昔のように思える事件もほんの一月前のことと知ると、改めて世の忙しさを実感する。
 猟奇的な面と言っても、テレビでは取り上げることは難しく、おそらく週刊誌面を賑わしていただけなのだろうが、それにしてもこういった取り扱いが増えているように感じるのはこちらが敏感になっているせいだろうか。とにかく、そういう面よりもある程度時間が経過した時点での、再度の携帯メール受信という話題の方が異様な雰囲気を漂わせていたが、結局御用となった。取り調べが続いている今でも次々にその内容が明らかにされるのは相変わらず不思議な気がするが、とにかく容疑者を絞り込むための手順が徐々に明らかになっているようだ。そこには通信の秘密との絡みがありそうな事柄が含まれていて、早速その方面の評論家が意見を述べ始めているようだ。郵便配達の自由化で通信の秘密云々が取り上げられたのはごく最近のことだから記憶に新しいが、今回の事件解決には別の形の通信記録の捜査が決め手となったと新聞は伝えている。つまり、誘拐したのち殺害したときの被害者の写真を携帯メールで送り付けた、あの辺りの状況で犯人が犯したミスを調べたものだという。本来通信の秘密は守られるべきだが、今回のような事件が起きると通信会社も捜査に協力しなければならない。一部報道機関のように、情報提供者の権利を守るためという論理はこういうところでは通用しないようだ。そんな形で提供された情報の中から捜査当局は目的のものを見出したようで、それが犯人特定に繋がったとある。実際どのような情報が提供され、どのようなことが行われたのか知る由もないが、同じころに同じ中継局を経由して交わされた通信はすべて調べられたのだろう。他人に知られたくないと思っている人たちにとっては迷惑千万な出来事に違いないが、凶悪事件解決のためにといわれるとさて反論できるのかどうか。ただ、有識者はそういう結果論ではなく、手続きとしてこういうやり方が正しいのかどうかを議論している。それに関してもそう簡単には結論が出せないだろうが、このところの世の中の流れをみていると、自分の身を守るためにも個人の権利の侵害を甘んじて受けるべきという雰囲気が出ている。たとえば、混雑する街でのカメラによる監視体制はその良い例だろう。長崎で起きた幼児を連れ去り突き落とした事件でも、その記録が証拠の一つとなった。その他にも事件解決につながったものは多い。しかし、そこに映っているのは事件関係者だけでなく、何の関係もない人々もいる。それらの人々の秘密があったとしても、そこで暴露されてしまう恐れが無いわけでもないのだ。しかし、事件の重大さからとなれば主張が通りにくそうに思える。ある人々が恐れているのはこういうものがきっかけとなって、すべての記録が容易に閲覧できるようになることで、そうなってしまってからでは遅すぎると言いたいのだろう。身を護るために必要なことが、自分の身を持ち崩すとなれば本末転倒だろう。そんな秘密を持つのが悪いと言われてもそれまた何ともへんてこな理屈である。さて、どこに間違いがあるのか、それとも何も間違っていないのか。根本解決が難しい世の中では、結局こういうやり方しか無いのかも知れないが。

* * * * * * * *

12月31日(金)−無駄

 ホームページの管理は大変なのだろうか。このサイトの場合、アクセス数はせいぜい50程度、それも重複があるから覗きにやって来る人の数はもっと少ない。その程度であれば大した悪影響も出てこないというのか、今までどうにもならないということは起きていない。逆に、それほど刺激的な内容が含まれていないからということなのかもしれない。
 インターネット上の存在は、それを保有している人の人間性とはまったく関係なく、誰でもどんな人でも出入りできるものが多い。閲覧ということだけならほとんど制限されていないことの方が多いだろう。それぞれの国の法律で禁止されていることでさえ、ネット上では規制の方法が明確でないこともあって、何となくそのまま放置されていることがある。結局のところ、使う人間が考えるべきことであり、どこからどこまでが境界と言えない以上、流す方に責任を負わせるのは無理だというのだろう。だから何を流してもいいのか、というのはちょっと違う話だ。つまり、そのサイトが設置してある国の規制にそれらは従わねばならないとなるはずだから。それが理由かどうか知らないが、性に関わるものの多くが、国内ではなく、どこのどんな国かわからないところに設置してある。そういうアドレスを見つけたら注意したほうが良いのかもしれない。最近は話題にも上らないが、かけたことも無い国際電話の請求が来たり、情報料と称する訳のわからない請求書が舞い込むからだ。国による規制が行き届かないのは、ネット上の仕掛けが監視下に置けないかあるいは置きにくいからなのだろうが、これだけ多くの人々が一時に様々なところへ出入りするような状況では仕方ないだろう。それだけ多くの耳目に晒されるわけだから、その利点を生かさねばならないとする人々がいてもおかしくない。色んな掲示板に貼られる無断広告はその一例に過ぎないが、それらが及ぼす影響は小さくなく、資源の無駄という意味ではかなりのものと思える。ここで適用される規制はサイト内で管理者が定めたものであり、社会における法規制とはかなり違ったものとなる。規制をかけるための手間は管理者が負うわけで、それはその人気サイトを保有しているものの定めとなる。また、それが利益を産むためのものであれば、断りもなく貼り付けていく連中は損失を及ぼす恐れのある人々ということになる。同じか違うかわからないが、電話ボックスに貼り付けるあの広告と同程度かそれ以下の行為なのだが、やっている本人はおそらくこれほど効率の良いものはないと思っているのだろう。何しろ基本的には無料広告なのだから、ただ、それを収入を得るためにやっている人もいるわけで、おそらく昔の袋はりの内職みたいな認識があるのかもしれない。いずれにしても、そういう行為の結果として誰が迷惑を被るのか、そんなことを考える人はいないように見える。利潤を追求するために様々な工夫をして管理する人々には、この程度の迷惑は有名税の一種に過ぎないという人々が出てくるくらいだ。社会全体として、などと古くさい口上をしたとしても、そんな見方さえ知らない人々には何の意味もない。意識も仕組みも徐々に変わっていくしかないわけで、それを待つしかないことはわかっているつもりだが、ただ待つのは何だか気にくわない。

* * * * * * * *

12月30日(木)−救い

 遠くに見える山の端がうっすらと化粧をしたようになっていると、同じ気温でも何となく寒々とした感じがしてくる。温度計のような機械とは違った何かが備わっているからだろう。近くにある風景は昔と様変わりしても、遠くの自然の中の景色は何も変わっていない。人間の営みは周囲のものを変えることによって成り立っているのだろうが、届かないところもあるようだ。
 昔は良かったとか、昔は大変だったとか、少し齢を重ねるとそんなことばかり思うようになるらしい。今と昔が違うのは当り前と思っているが、実際にはその違いよりも自分の中にある違いの方がずっと大きかったりする。自分に起きた変化は脇に置いて、周囲の変化だけを取り上げようとするのは元々自分勝手な人間のやりそうなことだ。今どきの若者は、という言い回しも既に何十年、ひょっとしたら何百年も使われてきたものなのかもしれない。その時代時代によって彼らに変化が起きていることもあるのだろうが、どちらかといえば見る側の立場や環境による変化の方が大きいようだ。ついこの間まで若者だった人々が溜め息を漏らすのを見ていると、いつの時代も変わらぬ流れに気づかされる。明治の文豪が書いた作品の中で、心の悩みで苦しんだ作者の思いが如実に著されていると言われるものには、そんな雰囲気が漂っているように思える。つまり、そこに登場する若者たちの悩みにはいつの時代も変わることのない何かが含まれているような気がするのだ。確かに時代背景の違いから階級制度のような人間の立場の違いや教育水準の違いがよく取り上げられているが、それとは別のところにある心の中の動きには今の時代にもそのまま通じるようなものが溢れている。人生に対する考え方や伴侶に対する思いなど、そこに現れているものは今どきの若者の心の中にもありそうに思える。人間の成長過程での身体の変化や心の葛藤には、育った時代からの影響も当然あるのだろうが、そうではないいつの時代も変わらないものがそこにあるような気がしてくる。しかし、明治と平成の違いは明らかなはずで、そういう葛藤に対する処し方も何かしら違ってきているはずなのだ。では、何がその変化を生み出しているのだろうか。情報が溢れていることなのか、それとも別のものか、いずれにしても内なるものというより外から働き掛けてくるものに違いが出ていると考える方が簡単なようだ。変化を強いられた時代に比べて、安定した時代がこれほど長い間続いてくると、自ずと周囲からの働きかけにも違いが出てくる。変化が予想されていても、どんなことが起きるのかわからないわけだから、そこにはこれといった決定的な対処法は存在しないだろう。それに対して変化が起きないかあるいは小さな変化しか起きない時代には、ある程度経験に基づく対処法の伝授が可能に思える。この辺りに違いがありそうで、またそれが今の時代の歪みを産み出す原因になっているように思える。悩む人間を見ると助けねばならないと思う人がいるのは仕方のないことなのだろうが、もし悩む過程が次の段階への準備として必要だったらどうだろう。その助けは一時の救いにはなっても、将来に枷をはめることにならないだろうか。そんな違いを探してみると、今どきの若者の問題はあちらではなく、こちらにあるのではと思えてくる。

* * * * * * * *

12月29日(水)−風習

 気候の変化に異常があると言われるが、それでも夏が冬になるわけではない。季節の巡りには多少の変化があると言っても、暖かくても冬は冬だし、寒くても夏は夏である。そんな巡りが一体どれだけの間続いてきたのかわからないが、その流れに合わせてこの国の文化が築き上げられてきた。
 大層な言い方になるけれども、宗教的なものも含めた色んな要素を混ぜたうえで、季節の移り変わりに合わせて様々な行事が行われてきたのだと思う。他の国からの影響を意図的に受けないようにしていた時代と違い、開国以降はその影響を意図的に受けるようにしてきたわけだから、伝統が失われるような動きは予想されたものなのだろう。大袈裟に捉えればそんなところが昔の生活習慣の消失の原因なのではないか。実際には根源的なところを指摘するまでもなく、若い世代の考え方の変化という形で解釈されているのだが、そうでもないと思えることも多い。低い年齢層よりもかえって自分を確立したと思える年齢層に、そういった行動をとる人が増えていて、面倒だとか意味が無いとかそんな理由を並べ立てて伝統を投げ捨てる行動に出ているようにもみえる。周囲の状況が理解できない世代が行うことではなく、そういう状況を知っているはずの世代が行っている蛮行だから、屁理屈の上に成立していることでもそれを否定することは難しい。若い世代の一部にはそういう親の世代の行動をただ漫然と見ているのではなく、自分たちで取り戻せるものは何とかしようとする人たちもいるようだ。一度失われたものを取り返すのは容易なことではないし、捨てた世代にはそんなことは関係ないのに、その後にくる世代には大きな影響を与える。まったくいい迷惑だと言わんばかりの雰囲気さえ漂っているが、当の放棄世代には何も聞こえないようだ。体制を受け入れず、既存のものの破壊を続けることが自分たちの存在を後世に残すための印であると、そういう人々は考えているのだろうか。この国の人々の特徴として、新しいものを採り入れ古いものを捨てることがよく挙げられるが、現実にそうなのかどうかははっきりしない。伝統はどこかに根付いたままになっていたはずだし、それを守ろうとする努力をしてきた人々もいる。ただ、このところの慌ただしさで、季節の変わり目さえ感じられなくなってくると、意図的に何かをするのでなくても、無意識のうちに色んなことを忘れ去ってしまうのではないかと心配になる。年の暮れには何をしていたのか、年の初めには何をしていたのか、ただいつもの日と変わらぬ生活をすることの方が大切になりつつあるのかもしれない。

* * * * * * * *

12月28日(火)−極微細

 目で見たものしか信じないという話を以前したが、見えるものについてはそうだとしても、見えないものについてはどうなのだろうか。たとえば、拡大鏡を使わないと見えないもの、もっと小さくなれば顕微鏡を使わなければ見えないとなる。そのままでは見えないのだから存在するはずが無いと言う人もいないだろうが、最近はそんな世界が話題になっているようだ。
 ナノテクノロジーと総称される世界はナノメートルという大きさをもつと言われる。突然言われても想像がつかないだけでなく、たとえその大きさを言葉で表現できたとしても結局想像がつかない、そんな世界の話のようだ。ナノとは、十億分の一という桁を表すもので、一ナノメートルは十億分の一メートルということになる。はて、それがどうしたと言われそうだが、大きさとして理解できるかどうかは別にして、その世界の話が話題になっているのだ。想像がつきそうなところとしては、たとえば池の水の中にいるミジンコやゾウリムシは大体一ミリメートルの十分の一くらいの大きさである。こういう生き物が沢山いる水を覗き込むと何となく動いているのが見えるといった程度だ。それに対して食中毒騒ぎや汚染騒ぎの度に話題になる細菌はさらにその百分の一の大きさで、一マイクロメートルと言われる。マイクロは百万分の一という桁を表す。ナノはさらにそれを千分の一にしたものだから、もう空想の世界に入るしかない。野球のボールを一ナノメートルとすると、一マイクロメートルはホームベースから外野のフェンスくらいまでの距離となると表現されるが、これとてわかったようなわからないような話である。では、こんな話はわからなくてもいいのかどうか、これまたはっきりせず困ってしまうのではないか。そんなことを考えていたら、気になるコマーシャルが流れてきた。プリンタの宣伝でその細密性を訴えるものだったのだが、そこで使われていたのがピコリットルという単位。いやはや、ピコと言えばナノのさらに千分の一である。もうお手上げとなりそうなのだが、ここで引き下がっては面白くない。ちょっと考えてみると、実は少し事情が変わることに気がつく。リットルは容積の単位で、一ミリリットルは一辺一センチメートルの立方体の体積である。すると一ピコリットルとなると、その十億分の一になり、とんでもない数字という気がするが、実際には一辺で考えると辺当たり千分の一にしかならない。これだと何となくわかりそうな雰囲気がしてくるのではないだろうか。一センチメートルの千分の一は一マイクロメートル、こう言うと分かりにくいので別の言い方をすれば百分の一ミリメートルということになる。そうか、乱暴な言い方をすると、一ミリのところに百個の点を打てるんだ。これは、髪の毛の十分の一くらいかな。そりゃあ、細かいなあと思うかどうかは人それぞれである。でも、こういう細かいことも見方を変えてみるとわかってくることもある。

* * * * * * * *

12月27日(月)−責任能力

 年の暮れというのにか年の暮れだからか、凶悪な事件が続いている。マスコミは挙って取り上げ、この世の終わりかの如くの論調を続ける。さすがに本心からそう思っているのではないだろうが、社会が病んできているとか腐った人間が増えているとか、そんな調子の話ばかりが並び、最後にはどうしてと首を傾げるのが習わしのようになっているようだ。
 確かに凶悪な事件を引き起こす人間がいるのはその通りで、そこに理由があるのか知りたい人もいるだろう。しかし、すべての人々がやじ馬根性丸出しで現場に出向き、すべてのことを聞き出そうと思っているわけではない。彼らが思うほど関心があるわけでもなく、またそれを自分の生活によりよく反映させようなどと思う人も少ないのではないか。にもかかわらず毎日のように、同じ論調が繰り返され、警告が流され続けている。この様子も違う角度から見るといささか雰囲気の違うことがわかってくるが、はたしてそれが当たっているのかどうかはわからない。事件が起き、その凶悪性が取り沙汰されるまでは、昔と変わらぬ様子だったと思うのだが、最近の流れでおかしいのではないかと思えるのは、各事件の手口や背景をこと細かに伝えようとする姿勢である。何でもかんでも知りたい人がいるのだからそれを伝えるのが務めであるという主張はもう何度も言い古されたものだが、まさにこれを盾にとって行われている行為に思えてならない。知りたい人が、自分も含めて、一人でもいれば、それを公のものとするのが報道関係者の任務であると言いたいのだろう。はたしてそれは当たっているのだろうか。以前から凶悪事件や重大事件などではその手口の類似性が同一犯の犯行かどうかの決め手とされてきた。情報が限られた範囲のものしか流れていない時代にはこれはそのまま適用できたのだろうが、最近の情報氾濫社会ではこんな論理は通用しそうにもない。捜査関係者が大元で情報を漏洩しているからなのか、はたまた以前からそうであったものが報道関係者によって意図的に流されるようになったものなのか、そういう仕事に携わったことのない者には判断がつかないが、いずれにしても不特定多数に大して肝心な情報までが流されているように思える。それに接することで自分もやりたいと思う心の持ち主は既に病んでいると言うべきなのだろうが、そういう人は昔も今もいたのかもしれない。しかし、社会に注目されていることを伝え、その手口の詳細まで披露されるようになると、同じことを繰り返すことは難しくはないだろう。そんな連中の片棒を担いでいるのだと言われても、それはお門違いであると言い返してくるに違いないのだが、模倣犯を作り出しているきっかけにはなっているのではないだろうか。情報が操作されることも困ったものだが、一方でただ流しっぱなしというのも困ったものである。判断は受け手がするものという姿勢でいるかぎりこの状況は変わらないし、おそらくその姿勢を変える必要性は認識されていないと思う。判断のつく人ばかりでない社会であることは重々承知の上で、この認識の欠如は明らかに間違っていると思うのだが、その判断ができない人々が携わっているとしたら、こりゃどうにもならない恐ろしい話になってしまう。

(since 2002/4/3)