パンチの独り言

(2005年1月3日〜1月9日)
(年賀、淘汰、我慢、津波、厚化粧、篭居、便利)



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1月9日(日)−便利

 便利とは何だろうか。身近にある便利さとは何か、改めて考えることはほとんど無い。ただ、それが当り前のことのように存在していて、その当り前の中で暮らしているだけだ。しかし、便利なものは確実に生活の中に浸透してきて、自分たちの生活習慣にさえ変化を及ぼす。便利さこそ生活水準を計る指標であるという人もいたが、最近はちょっと変わってきたようだ。
 直訳すれば便利な店となるコンビニエンスストアは、現代の便利さの権化のようなものだろう。近所にあって、何でも揃い、一日中やっていると来れば、使わない手はないのだ。何でも効率で考える傾向のある国からやって来たこの店舗様式は、あっという間に全国に広がり、過疎地域にさえその手を広げている。数社が競って出店する勢いは留まるところを知らず、過当競争となっているところも沢山あるだろう。そういう中でうまくいかずに閉店するところもあり、一度味わった便利さを失うことの痛手を感じた人も多いのではないか。国内の市場に限界を感じ始めた企業は、当然の如く海外に新たな市場を開拓し、日の出の勢いで業績を伸ばしていると聞く。お隣の国の大都市に新たに出店したところでは、利用者がコンビニの特長について、綺麗で清潔な店ということを強調していた。それに比べると以前からある朝食を売る店は汚くて不潔に見えたのだろう。おそらく彼らの世代の人間はあっという間に新しい店に集まり、その後に更に上の世代が追いかけることになる。この国の現状を考えれば、便利さに抵抗することの難しさがはっきりしているからだ。以前からコンビニで売られている食品の管理に対する不信感は色々と出てきたが、その度に対応が図られ、何とか切り抜けてきた。その結果として、少量の出来合いの食品を買い求めるのに最適な店という地位を築き上げることができた。そういう流れは今後も海外の店で繰り返されるのだと思う。しかしその後となるとどんなことが考えられるのだろうか。便利さだけで十分と思う人々はこんな流れに乗ってきたが、それに疑問を抱く人が最近増え始めているようだ。これは効率を重視する国でも起きているようで、何でも便利で速ければ良いといった考えが見直され始めているそうだ。ファストフードが全盛の頃は、それだけで栄養価として十分だからという理由で否定論は打ち消されていた。そこに数字で計れない指標を持ち込む人々が出てきたわけだ。速いのではなく遅いことこそ重要とするスローな考え方は、まだ一部にしか浸透していないがかなり大きな勢力となってきた。何でも真似をすることが好きな国の人々はまるでそれが新しい考え方のようにそういうことに飛びつく。実際には便利さや速さが採り入れられることで、消し去られかけた昔からある独自のやり方がまさにそのものなのに、いかにもまったく新規なものとして受け入れようとするのにはいつものことながら首を傾げざるを得ない。面白いのはそういう情勢の変化を読み取ることに長けている便利さ追求組が、いち早く自分たちの店にそういう傾向を導入することだ。ここにはスローもあるというわけだが、どうもずれているような気がする。ゆったりとという意味に込められた感覚は、そんなことを表すものではないはずだ。ただ、便利が第一になってしまった人々にとって、それを失うのは大きな痛みに違いなく、結局そこにしがみつかざるを得ないわけだが。

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1月8日(土)−篭居

 批判的なことを書いてばかりいると必ず、自分のことは棚に上げてと言われる。確かにそうなのだろう。すべてにおいて完璧な人間など存在せず、自分が批判していることを違った形でやっている人は多い。だからといって、批判することは間違っているというのはどうかと思う。自由な意見交換を考えると、こういう制限は足枷になるだけだからだ。
 そうは言っても、やはり他人のことはよく見えるし、自分のことはあまり見えない。また人から指摘されたことはたとえそれが当たっていても、まずは否定したくなるものだ。素直に忠告を聞き入れる人は偉いという人もいるが、実際にすべての忠告を守っていたら正反対のことを同時に実行しなければならなくなる。そういう矛盾に気づいて悩み、ついには精神を病んでしまう人もいるだろう。素直さが産んだ悲劇ということだが、どこがどうずれてしまっているのだろうか。たぶん素直という言葉に対する認識の違いにその源がありそうだ。素直とはただ盲目的に人の言うことを聞くと思っている人がいるのではないだろうか。もし、そうだったとしたら、素直を実行することは矛盾の世界へ突入することになる。人の言うことには自分も含めて正しいこともあるだろうし、間違っていることもある。また、人それぞれに考えが違っているだろうから、二つの互いに矛盾するようなことも出てくる。たとえそれらがどちらも明らかに間違っていなくても、正反対の意見はありうるわけだ。そんな世界で自らの考えを差し挟まずに生きようとするのはとても危険なことに違いない。だからと言ってしまうと言い過ぎになるかも知れないが、だからこそ人の意見や行動に対してある程度批判的な目で見る必要があるのではないだろうか。そこで出てきた結論が自分の行動と矛盾するとしても、場合によってはその繰り返しによって自分自身の行動が変わる場合もあるだろうし、そうでないこともあるだろう。そうやって自分の中にある考え方を徐々に変化させていけるからこそ、何とかこんな世の中で生き抜いていくことができるのではないだろうか。そんなたいそうなことはなく、単に自分のやりたいことだけをやり抜くという人も多くいるが、それでも周囲との葛藤がまったく無いわけではないから、周囲の批判の目にさらされ、忠告を浴びせられることで、何らかの変化が生まれることもあるだろう。最近の情勢で少し気になるのは、自分と違う考えを持つ人とは交わらないとか、仲間は共通認識を持つものだけを言うとか、そんな考え方が出てきたことだ。確かに、そうすることで精神的に楽になれるし、何かを強いられることもない。しかし、その世界が崩れてしまったときや、そこから出ていかねばならなくなったとき、どんなことが起きるのか少々心配になる。いつまでも自分の殻に閉じ篭もっていればいいのだという意見があるかも知れないが、それが通用する世界はほんのわずかしかない。また、その閉じ篭もり自体が社会問題になりつつある。批判ばかりしているという意見を言う人たちの多くは、そういう傾向があるのかもしれない。どちらにしても自分のやり方しかできないわけだが、普通でなければならないと思いつつ、そういう世界へ出ていくことに恐れを抱く人たちは、誰かが護り続けなければならないことに気づくことが必要なのではないだろうか。護られているという意識を持たない人々には、そんなことを気づくきっかけさえないのだろうが。

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1月7日(金)−厚化粧

 朝から汚らしいものを見てしまった。前を走っていた高級車、と言ってもおそらく300万円台だろうが、から、ゴミ袋が路上に投げ捨てられたのだ。たまたま、そのまま前を走り続け、コンビニの前に駐車した。中から出てきたのは30代くらいの男性、ほんの5分もすればごみ箱のある場所に行けたのに何故、と思うのはこちらの勝手な論理だろうか。それとも、どうしても捨てねばならぬ理由があったのか。
 ああいう光景を見せられるのはいい迷惑としか言い様がない。朝から気分が悪くなるし、この国の状況を考えさせられてしまうからだ。後を走っていた高級車に乗っている若者は携帯電話をかけていたし、今日は日が悪いのではないかと思えてしまう。車の中を乱雑にするか、それとも綺麗にするかは持ち主の心掛け次第である。しかし、走りながらゴミを車外に捨てるような人の心掛けはまず理解できない。同じ綺麗にするにしても、かなりの隔たりがあるようだ。誰かがその人の家の前に大きなゴミを捨てていったらどんな気持ちがするのだろうか、そんなことを考えたくもなる。ゴミの問題は社会問題の一つであり、どこの自治体でも深刻化している。自分のところさえよければいいという一時の考え方は通用しなくなり、それぞれの組織内で完結するような仕組みの導入を迫られたところが多い。そういう中で究極の分別を導入したところもあれば、相変わらず十把一絡げのところもある。まあ、人それぞれ、自治体それぞれに違った都合があるのだろう。集団の都合が決められてしまうと個人はそれに従わねばならない。ゴミの捨て方もそうだが、電化製品の始末にもそんなところがある。ちょっと郊外に出て、捨て場所を探すなどという輩もいるようで、法律が定められた途端に不法投棄が増えるのは何とも言えない話だ。以前から不法投棄があるならわかるが、法制化された後の方が増加しているというから驚く。最近時々取り上げられるから知っている人もいるだろうが、今度は自動車に関してそういう制度が導入された。そこから想像できるのは、次は車の不法投棄だということ。一部の自治体では既に深刻化している問題で、川沿いの道がその手の車で埋まっているところも珍しくない。法整備は重要なことなのだろうが、ただ単に処分のための金をとるというだけではそれを回避しようとする人々が増えるだけだろう。登録が基本となっているから家庭電化製品ほど簡単には捨てられないという意見が聞こえてきそうだが、はたしてそうなのだろうか。書類上の処分が為されていない場合、所有権は保持されたままである。そうなれば、様々な手続きを経てからでしか、人も車も処分することができない。さて、この辺りどんなことになるのだろう。元々買い替えることを基本として成立してきた世界だけに、そういうやり方をする人々に対する処し方は視野に入っていないような気がする。それにしても、自分の目の前から無くなればそれで良いと思うゴミの処分の仕方はどこから来るのだろうか。上辺の綺麗さと内なる汚れ、そんな組み合わせなのかも知れないが、理解しがたいものだ。

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1月6日(木)−津波

 出合ったこともない災害に遭遇してしまったとき、人はどんな反応をするのだろうか。勘の様なものが働き、結果として正しい対応をすることで生き延びる人もいれば、まったく別の考えを持ち、結果として間違った対応をすることで命を失う人もいる。今回の津波についての報道を見るたびに、知識のあるなしに関わらず、何か別のものが働いたのかと思えてしまう。
 ある国の国立公園では動物達が異様な行動をとったと報道されていたし、象の国でもやはり同じような話があったようだ。どこまで信じるべきかは別にして、野生動物達が何かしらを感じる能力を備えているという話をよく聞く。それに対して人間の方はこういう時何故だか冴えない存在となってしまうようだ。警告が出されなかったからとか、誰も動かなかったからとか、自分の中から出てくる警報よりも、外から入ってくるものに対する依存度が高くなっている。普段の生活からしてそんな具合なのだろうが、それにしてもここまで被害が大きくなると、一部の人々は除いて他の地域の人々に関しては対応によってはと思えるところがあるだけに、こういう時の処し方の大切さを痛切に感じる。ただ、この経験が将来に生きるかどうか、そこら辺は期待できないのかもしれない。言い伝えとして古くから伝承されてきたことは何らかの形でその地域に住む人たちの心の中に残っているといわれる。しかし、実際に災害が起きてしまうと、伝承されたことが守られなかったりして大きな被害を出すことが多い。たぶん、三代も経過してしまえば、人々の心の中の大切なことはその輝きを失い、結局何も知らないのと変わらない結果を産んでしまうのだろう。三代といえば、長くて百年、もっと短いかもしれない。今回の大地震とその後の津波が襲った地域ではほとんどのところが、ここ数百年経験したことのない津波に襲われた。それから考えると大きな揺れが襲ったあとに、海から波がやって来るなどとは誰も思わなかったのだろう。古老からの言い伝えにもなかったのかもしれない。興味深かったのは、それ以前に局地的な津波に襲われた地域で、調査に当たった学者が再び津波がやって来るのかという質問に、数年後か百年後かわからないが必ずやって来ると答えたら、百年やって来ないのなら当分大丈夫と言われて驚いたという話だ。結局は二十年にも満たない間に再び襲われてしまったのだが、前の教訓はそんな事情で活かされることはなかったようだ。大昔と違って、今は文字などでデータを残しておける。今後はどんな形でも良いから、地震と津波の繋がりをきちんと認識させるような仕組みが必要となるだろう。この国からの旅行者の中にも、ふと思い浮かんだけれども異国の地だから大丈夫と思ったという人がいたようだ。そんな考え方に新たな修正が加えられることも必要なようだ。最後に頼りになるのは自分自身と考えれば済むのかもしれないが、これもまた中々難しいことなのだろう。

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1月5日(水)−我慢

 年が変わっても、変わらないものばかりなのかもしれない。こちらが変わらないから、周りが変わるはずもなし、といわれてしまえばその通りである。しかし、相も変わらぬ話し合いの場を続けていくことに、どうも矛盾を感じてしまう。これは別段年の初めだから改めてというわけではなく、単にいつも思い続けていることなのだが、発言者が変わらないのだから仕方ない。
 齢を重ねてくると話がくどくなるという指摘がある。確かに、同じ話を何度もするだろうし、同じ喩えも何度も出てくる。話す方は、相手がその度に違っていると感じていても、複数の人々を相手にすれば同じ人に複数回話すことも出てくるだろう。また、大切なことだからと思って、何度も繰り返す場合もある。それらをすべて聞かされる側に立てば、また同じ話と思ってしまうだろうし、そうなれば聞く気も起こらないだろう。だから、ある事柄を理解させるために同じ話を繰り返すのは逆効果というべきなのかもしれない。でも、くどいと言われようが何だろうが、やはり繰り返してしまう。気になるのだから仕方ないという言い訳が聞こえてきそうなほどだ。しかし、これが年寄りの特徴かといえばそうでもない。年齢を重ねてそういう傾向が出てくる人は、実際には若い頃からそういった行動を示していたと思う。何度も同じ話をするというくどさにもそれが現れているのだが、もっと他のものにそういった傾向が現れているように感じる。それは頑固さとでも言うのだろうか、自分の意見を曲げない言動にである。議論の場での勝ち負けなど意味がないと思う人もいれば、どんなことにも負けたくないと思う人もいる。前者は他人の意見を素直に聞き入れるように振る舞うが、後者はそうでもないようだ。自分の意見を微妙に切換えながら、いつの間にか主張がまるで反対になるのを見たことがある。こういう人たちは、おそらく他人の意見をそのまま受け入れることに抵抗を感じるとともに、自分の意見を引っ込めたくないという感情が働くのではないだろうか。そういう人と議論をしていると疲れてくるからよくわかる。変更のためにいろんな手だてを講じるわけで、どうしても時間がかかってしまう。また、その度にどういう意味なのか理解をしなければならないわけだから、こちらの頭脳活動もかなり強いられる結果となる。でも、行き着いた先は誰かがその前に提案したことだったりすれば、疲れるのは当り前のことなのだ。相手の出方がわかってくれば、結果だけ追いかければいいので、あとは放置しておくという手もあるだろう。結局それを使えばいいだけのことだが、放置しておいては肝心の良い提案には行き着かないことがあるので、どうしても口出しせざるを得ない。まったく、話し合いとは難しいものだと思ってしまう。こういった傾向を持ち合わせている人は別段年長者に限らず、若い人たちにも沢山いるような気がする。十代の若者を集めて議論させる番組があるが、たまに覗いてみるとまさにそんな気がしてくる。まあ、何も言うことが見つからなくて、という人々よりはましなのかも知れないが、実際には議事進行にとって障害となることも多い。そんな議論が年の初めからあったのでは、まさにじっと我慢の子になるしかない。

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1月4日(火)−淘汰

 初詣でに出かけて参道を歩いていると、その凸凹に閉口する。昔なら舗装されていない道が当たり前だったのに、遊歩道とか登山道とか呼ばれるところ以外はすべて蓋がされてしまった。確かに泥道にならないし、平らで歩きやすい。でも、土の軟らかみというか、何かを失ってしまったような、そんな気もしてくる。
 参道の凸凹はちゃんと歩ける人たちにとってはどうということの無いものだが、杖をつく人々や車イスに乗る人々にとってはかなりの障害になるのだろう。周囲を見渡すかぎりそんな人々を見かけることはない。ところが社殿に行ってみると混雑した中にそういう人々を見つけることができる。神社の奥の方まで脇道が整備され、近くの駐車場からすぐに上がれるようになっているからなのだろう。障害者がお参りできないのはおかしいという論調が主流となってから、どのくらいの時が流れたのかよくわからないが、神仏の祭るところであってもというか、そうだからか、整備がなされた結果のようだ。それにしても、こんなところまでやって来る必要があるのか、という考え方はおそらく現代では厳しく批判されるであろう。昔なら、身代わりという方法もあっただろうし、それぞれが工夫して駄目なら諦めるというのが流れだった。しかし、今ではそういうことが差別に繋がると言われ、受け入れる側に整備の責任が負わされる。何となくわかったような気もするが、どこか腑に落ちないところもある。話は大きく逸れてしまうが、昔読んだ本でフィンチという鳥の進化の話があった。天候が良いときには色んな特徴を持った個体が出てくるが、悪くなると姿を消す。元々多様性を備えたものだが、その中で環境に適応できたものだけが生き残るといった話だった。なるほどと思い、だからこそ環境の変化に応じることができるのかと納得したものだ。そんなことを思いつつ、現代社会を見つめてみると、何とも不思議な気持ちがしてくる。今の世の中がまるで天候が良いときのガラパゴスに見えてくるのだ。少しくらいおかしなところがあっても、何とか生き延びることができる。互いに助け合うことの重要性が説かれて、障害を持った人々に対する環境整備が行われている。これらを同じ観点で捉えることは乱暴な話であるが、はたして間違っているのだろうか。表に現れない障害として扱われることの多い、精神の不安定についても同じように考えることができる。様々な治療法や対処法が整備され、何とか騙し騙しでも通常の生活を送ることができる。今はそんな時代だが、いつまでもこういう時代が続くと言えるのだろうか。天候が悪化することで姿を消してしまったフィンチたちと同じように、今後環境が悪化すればどうにかなってしまうのではないだろうか。助け合いを否定するつもりはないが、元々色んな作用で姿を消してしまっていたものについて、自然の摂理とも呼べるものを否定することははたして正しい選択と言えるのか、答えを持っている人はいない。初詣でくらい、誰かに代わりを頼んでもいいのに、というのは傲慢な意見ということなのだろうか。

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1月3日(月)−年賀

 この習慣だけは廃れないものだと感心してしまうのが年賀状である。毎年、毎年、よく届くものだと思う。そうは言っても、こちらもせっせと夜なべをして書いているのだから、人のことは言えない。年に一度の情報交換という意味を込めてやっているだけだが、最近はその前にお知らせが届くこともあり、何とも言えぬ気持ちになる。
 世代交代はとうの昔に済んでいるはずだが、どうもこの習慣に関しては生き残ったようだ。電子メールや携帯メールでの挨拶が増えているとは言え、年末が近づくと途端に印刷機の広告が始まるなど、まだまだ需要が多い。汎用機が一時の流行りだったのだろうが、結局使うのはこの時期だけという人たちは専用機を望んでいたようだ。宛先の情報を入力するだけで印刷まで一手に引き受けてくれる機械が売られている。汎用機の悲しさというべきか、中々思い通りに動かず、痒いところに手が届くとならないのだろう。絵柄の選定なども思案のしどころで、ネット上からとってくる人やらイラスト集といった書籍からとってくる人もいる。自作の味が出せる人は良いのだが、こういうやり方だと中々そんな雰囲気は出せない。昔なら芋版だったところが、今ではせいぜい手描きの絵を家庭印刷機にかけるのだろうか。こちらの機械ももうとっくにお蔵入りなのかも知れないが。いずれにしても、作り方は時代の流れとともに変化しても、出すこと自体には変化が起きていないようだ。売られている葉書の数は減っているのか増えているのかわからないが、パソコン用印刷機のための用紙は今回は余るほど売り出してしまったらしい。足らなくて走り回る人がいるという話があると次は必ずと言っていいほど余ることになる。手書きには向かないこの紙で今ごろ苦労している人たちがいるのかもしれない。習慣は変わっていないとはいえ、変化しているところがあるように思えるのは、誰に出すのかとか誰に出したくないのかといった質問に対する答えを聞いたときである。年末に調査結果が発表されていたが、出したくない相手に上司を挙げる人が多かったのだそうだ。仕事始めは4日のところが多いと思うが、その時にはちゃんと届いていないといけないとか。確かに、三が日の間に届くようにするのが礼儀と言われるが、年始の挨拶は松の内にという話もある。そうなるとその間に会うことが確実な人には直接の挨拶で十分では、という気がしてくるが、世の中そうでもないらしい。いやはやこの辺りの礼儀というのは難しいものだ。嫌なら止めておけ、というわけにも行かず、嫌でも礼儀だけはと励むのだろう。まったく不思議な感覚だが、こういうところだけは慣習を引き継いでいくのだろう。年賀状の交換自体が無くなっても不思議でないものにもかかわらず続いているのだから、そういうところもそのまま続けられるのは当たり前のことといった感じか。それにしても、一言も書き込まれていない賀状をいただいても、どうも有り難みが感じられない。いくら儀礼的なものと言っても、何か一言書いておいて欲しい。せっかくの挨拶なのだろうから。

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