記憶にはないが、その後何度も取り上げられているので、何となく印象に残っているという話は沢山ある。その一つかも知れないが、三十年あまり前の出来事で繊維ショックというのがあった。といっても、実際にはドル・ショックよるものであり、輸出に頼っていた産業が大打撃を受けた結果の一つということらしい。繊維産業はその一つだったわけだ。
バブル期以降の輸出産業の衰退は記憶に新しいが、このときは大企業からの下請けを受けていた中小企業が大打撃を被り、未だに回復していないところもある。その一方で、それを機に独自の道を歩み始めたところも珍しくない。何も起きなければそのままの状態で進むところを、大きな変化が起きたために大変革を強いられ、それによって潰れてしまったところもあれば、新たな市場を開拓したところもある。変化によって変革を強いられることはよくあるが、そういう荒波を従来通りを継続することで乗りきってしまうところもあるようだ。どれがいいのか、確かに潰れてしまっては改革も意味がないわけだから、変わることが必ずしもいいとは限らないことを表しているような気がする。繊維産業の大変革も、それによって多角化に走ったところもあれば、やめてしまったところもある。場合によっては、町全体が傾いてしまい、その後は新たな産業も現れないまま、あちこちに昔の面影が残るのみとなってしまったところもあるようだ。そんな町の周辺を訪ねてみると、当時そのままに細々と仕事を続けている感じのする小さな会社の看板が目立つ。華やかさはなくなってしまったが、遺された技術はまだまだ利用されているのだろうとわかる。そんな中に、起毛という名を付けた会社の看板があった。起毛とは、毛を起こすわけだからと想像していくと、毛羽だった布地を作る作業のことを指しているのだろうというところに行き着く。そういえば昔はそんな布地をよく見たが、最近はほとんど見かけなくなった。まず思い出すのはビロードだろうか。調べてみるとこの言葉を載せているところもあるが、それとよく似たもので別珍を出しているところもある。レーヨンと綿の違いとあるから、繊維の違いによるのだろうか。別珍はvelveteenの音に、漢字を当てはめたいわゆる当て字である。作り方が書いてあってもさっぱり理解できないが、まあこういうのを起毛ということだけはわかる。同じ綿でも、少し違ったものにコール天があり、corduroyを見たらなるほどと思うように、コーデュロイと言われることもある。こちらは布地全面に毛羽だちがあるのではなく、縦に毛羽だった部分とそうでない部分が縞模様のように並んでいるものを言う。どれも三十年ほど前にはよく見かけたが、最近はあまり見ないようになった気がする。単にそういう場所に行かなくなったからだけなのかも知れないが、街中でもあまり見ないから少なくなっているのではないだろうか。起毛はこういう布地に対するものだけでなく、毛布にも施される。そちらの方がどちらかと言うと馴染み深いのかもしれない。起毛によって肌触りがよくなり、何となく暖かい感じがしてくる。不思議な感覚だが、はじめに考え出した人は凄いなあと思える。何か特殊な技術が必要だとしたら、こういう小さな町工場が支えているだけというのは、何とも心もとない気もしてくる。
目の前に書類の山ができている。整理整頓が基本と教える職場もあるようだが、自分自身ができないのでは教えてもほとんど意味がない。家庭でもそうなってしまう人がいるようで、いつだったかそれが多動症と呼ばれる一群の疾患によるものという話があった。真偽のほどは定かでないが、その一言で安心したという主婦の言葉には受け容れがたい印象を持った。
原因と結果が何かしらの関連を持つことは当然だが、結果によって苦しめられている人間が原因を教えてもらって安心するというのは理解できない。原因が解決に結びつくものならば対処法が明らかになるだろうから、これからは安心できるということになり、なるほどと思うわけだが、この例も含めて多くの場合原因は単にきっかけになることを示すだけで、なんら解決法に繋がらない。そんなところで、よく知られているものだとしても、得体のしれない病名を貼り付けられて、それが安心に結びつくというのは不思議な感覚だ。残念なことにその主婦のその後の報告は取り上げられていないから、生活改善ができたのか、あるいは別の解決法が見つかったのか、はたまた何も変わっていないのか、さっぱりわからない状態だが、あの手の行動欠陥については、未だに決定的な話は聞こえてこない。にもかかわらず、教育現場では大きく取り上げられ、対策も練られていると聞く。但し、それらの対策は必ずしも解決に結びつくものではなく、応急処置のようなものであることも多い。他の子供たちとの関係をどうするのか、本人の無意識の行動にどう対処するのか、更に薬物投与の問題はどんな具合かなどといった課題が山積しており、原因についても様々な見解が発表されているようだ。行動欠陥が脳の何らかの欠陥によるものとするのはいかにも当然のことのように見えるが、脳の発達は常に続いているわけだから、それが不変のものなのか、今後変化が現れるのか、そこがわからない以上対処の仕方も的外れになりかねない。いずれにしても、今くらい多数の患者の報告があったことはなく、それだけをとってみても矛盾を感じる人がいるのではないだろうか。結果に対する議論は徐々に深まっているとはいえ、それだけですべてを論じることができるわけでもないし、見る角度を変えただけで違うものに見えるかもしれないのだ。にもかかわらず、現場では問題を重視するあまり、怪しい対象にまでラベルを付けようとする動きがある。さらに、制度の変更がなされるとなれば、それ自体が良い影響を及ぼすことになるのかどうか、不安が広がるのではないだろうか。いつものことながら説明は不足し、不安が煽られる。直接そういう現場にいる人たちにとっては、何もしないわけにもいかず、暗中模索の日々が繰り返されるのであろうか。いつものことという意味では、そんなことで起きる変化は小さいものということになるかもしれない。それにしても、そういう特徴を持った子供たちが何故増えたのか、不思議に思っている人は多いのではないだろうか。
朝、東の空が明るくなり始めた頃、目を覚ますことがある。元々早寝早起きでなく、遅寝遅起きと言うのかどうかわからないが、まさにそんな状態だから想定外の出来事となる。きれいな朝焼けの時もあれば、どんよりと曇っていてすぐには明るくなりそうにもないこともある。いずれにしても、このところの寒さも加わり、爽やかにとはいかないのが辛いところだ。
ところで、東の空が明るくなるという表現について、どんな印象を持つだろうか。東の方が明るくなるとか、両者合わせて東の方の空が明るくなるとか、そんな表現を使う人がいるだろうか。方という言葉は、方向や方角という表現があるようにある向きを表す。それとは別に、二つ以上のもののうち一つを選ぶときにも、方を使うこともある。確かに、向きには幾つかあるし、角度にも幾つかあるから、そのうちの一つを選ぶということで、方向とか方角とか言うのかも知れないが、その語源は良くわからない。幾つかあるうちの一つを選び出すという意味に絞って考えてみても、最近の言葉遣いで気になるものには少し違和感があるようだ。何でもかんでも「方」をつけた表現が巷に溢れているように感じないだろうか。コンビニなどに行けば、おつりの方とか、お箸の方とか、そんな言葉が飛び交っているし、食堂に行っても、お飲み物の方はとか、お食事の方はとか、何度も念を押されているような気さえしてくる。何かと別のものを比較するために使われているのではなく、どこか丁寧な印象を与えるために使われているようだ。言われたほうからすれば、どこにも丁寧さは感じられないし、あえて言うなら冗長な表現であり、蛇足でしかないように見える。しかし、丁寧さを訴えなければならない人々には便利な表現として頻繁に使われているようだ。若者だけの限定かといえばそうでもないところもあり、たとえば天気予報を聴いていても何度も出てくる。お天気の方は、気温の方は、といった具合で、何かと比べているわけでもないから、お天気は、気温は、で十分に思える。しかし、使うことに慣れてしまった人たちにとっては、冗長でもなくただ必要不可欠な言葉の一つになっているようだ。安心するために使われているものを禁止することはおそらく良い影響を及ぼさないだろう。そうなれば、不快感があったとしても、聞かされる側はただ聞き流すしかないと言える。既に皆が使うようになっているのだから、という理由もよく聞こえてくるがこの手は使って欲しくないものだ。明らかな間違いでも、皆が使えば正しい表現になると言われている気がしてくる。そうなると、昔の正しい表現が間違っていることになり注意される。そこは多勢に無勢といった体で、皆が使っているという一言ですべてが押し通される。何もかにもいちいち目くじらを立てるのもどうかと思うが、気にせず流していると孤立無援になりかねないわけだから、時には一言言っておく方が良いだろう。ところで、こういう時の「方」は、さて、正しい用法なのだろうか。
風邪が流行っているのだろうか。職場でも休んでいる人が目立ち始めた。中途半端な状態で出てきてうつされたらかなわないから、それよりはしっかり休んでもらって構わないという考え方もあるが、一方でいい加減仕事が進んでいないのだから、このうえ皺寄せをされてはもっとたまらないという考え方もある。実際に症状がひどいときはもううつらないという説もある。
何がどうあろうとも、何かしらの職業に就いていれば、仕事の進行を妨げるわけには行かない。無理を押してでも出かけたという経験を持つ人も多いだろう。その一方で、無理していい加減な仕事をするくらいなら、思いきってきちんと休み、その後で遅れを取り戻せばいいという人もいるだろう。どちらが正しく、どちらが間違っているか、などという疑問を抱く人もいないと思うが、まあ、時と場合によるわけだ。選択の余地が無いときも多く、そういう時ほど症状がひどかったりするから泣きっ面に蜂という雰囲気となる。本人もかなわないのだろうが、そういう光景を見せられる周囲の人間もやはり辛いものだ。何とか手助けしてやりたいが、どうしてもと出てくる人の仕事はやはりその人でないとこなせない。そんな状況だと、下手に手を出せば更に負担が増えて、かえって仇となってしまう。だから、心中穏やかでなくとも、じっと見守るほうを選ぶ人が多いのだと思う。風邪を引いた本人は、そんな周囲の乱れを感じ取る余裕もなく、ただただ仕事に没頭するしかない。といっても、やはり能率も悪く、結局無駄という結果に陥ることも多々ある。まあ、普段からの摂生の問題というしかないわけだが、そういう人に限って不摂生の典型だったりするから困る。上司がそうであるのはもう仕方のないこととして、部下がそうだった場合、上司はかなり困惑するのではないだろうか。何とかしなければと思っても、そう簡単に改善ができるわけもなく、また摂生などというものは自分の心掛けから来るわけだから、そんなに簡単に心変わりができるわけもない。そんなこんなで不安を抱きながら見守っている間に、風邪の季節が過ぎ、何事もなかったかのごとくの日々がやって来る。そして、それが毎年繰り返されるのであれば、風邪引きの本人は何も変わらない生活を送り続けるわけだ。他人事のように書いていても、自分でもそういった部分があることを意識しているわけで、ある部分に関してはそうでなくても、別の部分はやはりそんな傾向があるに違いない。それがどうしたというわけでもないが、この季節になると身体の管理に対する考え方に気持ちが行くことが多い。風邪を引きやすいとか、そんな体質の人は既にそういう機会を得ているわけだから、逆の意味でそれから逃れるような術を身に付けねばならないだろう。いずれにしても、容易なことではなく、ああまたかという反省の念とともに、季節が過ぎていくことが多いのだろうが。
子供たちの教育に重要なことは沢山あるだろう。しかし、これという絶対的なものはないようだし、また最低限といったものもなさそうだ。時代の変遷とともに、教えることが変化し、それを受けた人々は大人になり、また変化を繰り返す。「方丈記」に出てくる話のようだが、まあ教育とはそれほど儚いものなのかもしれない。
そんなことを言っていても、次の世代が現れてくるし、何もしないわけには行かない。当然のことながら、自らの経験に基づく何かしらを伝えていこうと努力するのだろう。その一つとは言えないかも知れないが、こういう場の話の中によく出てくるものに資産運用がある。国の助けが頼りにならなくなり、自分の中で何かしらの解決法を見つけなければならない状況に追い込まれている世代にとって、次の世代にはそういう精神的な苦労をさせたくないと思うのは無理もないことだ。だから小さな頃からそういう感覚を養い、先々の余計な心配をしなくて済むように準備を整えさせるのは当り前の考えなのかもしれない。それがそのまま金に対する執着に結びつくかどうかはわからないが、こういう話が出てくるたびに何となく守銭奴という言葉が頭に浮かんでくる。その話をすると必ず反論が返ってくる。それは金だけのことを考えるのではなく、もっと現実的に老後の生活設計をするためのものであるといったものが多い。確かにその通りだろうが、子供たちに金の価値だけを伝えることになりはしないかと余計な心配をしたくなる。金で苦労した人間は金に執着すると聞くが、それは金がなくて苦労したということに限らず、バブル期のように金が溢れたあと衝撃に襲われた場合にも当てはまりそうだ。最近の流れはどちらかと言うとそんな形のようで、金がないわけでもないが苦労をした人々の経験に基づくもののように見える。金ですべての価値を計るのは、物と物との価値の比較が難しくなったことから当然のことだろうし、それによって便利になることも多い。しかし、だからと言って人間の価値や人生の価値までも計る必要はないだろう。そんなことは言っていないと思っている人でも、意外なところでそういう話に触れていることに気がつくべきではないだろうか。たとえば、発明報酬の裁判で何億円かで和解したという報道があったとき、金を受け取る本人が金がすべてでなく、対価として当り前のことと主張していた。そして同じような境遇にある人たちに役立てばという話も出ていた。一種の美談のような扱いをしていたが、実際に本心がどうなのか本人にしかわからない。それよりも気に障ったのは、発明によってそれだけの報酬を手に入れられるということは、これから育ってくる子供たちにそういう分野に進むきっかけになればといった主旨の発言だ。それに対して、評論家なる愚者達はそういうものがまるで子供たちの教育に良い影響を与えるかのごとく、これで科学に関心を持つ子供が増えるなどと宣っていた。金という価値基準をすべてに当てはめようとする心がそこにあることに気づかず、ただ子供たちの教育にと主張するのは大きな間違いと思う。今回報酬を受けた発明者がかねかねと言って育ってきたのならその主張も頷けるだろうが、本人もそう言われたくはないだろう。にもかかわらず、馬鹿げた発言をするのは結局のところ本心はそこにあると暴露していることにはならないだろうか。
学校での虐めが問題になっていたのはもう20年以上前のことだろうか。上の学校から下の学校へ、低年齢化するたびに手口は酷くなっていった。年齢が増すとともに身に付く巧妙さは無くなるが、その一方で程度の心得も身に付いていない。虐め自体が良いわけもないが、止め所が無くなったときその結末は悲惨なものとなる。そこに幼児性を見た人も多かったのではないか。
同じ教室で短くても一年一緒に暮らす同級生に対して、憎しみのような感情が芽生えると扱いに困るのだろう。子供は忘れやすいものという認識は甘いようで、執念深いところも沢山ある。そんなところから積もり積もった不満の捌け口として虐めが出ていた場合もあるだろう。お互い様という言葉が聞こえてくるのもそんなところからなのかもしれない。一方的な感情かも知れないが、それが芽生えるきっかけは一方的なものとは限らないという意味で。その後も学校での虐めは大きな問題として取り上げられ続け、未だにその勢いは衰えを見せていない。何故そうなるのかを議論することにこそ意味があると思うのだが、今はそれよりも対処に追われているようだ。何とか問題を少なくしようと努力するのだが、それはそこでの効果しか期待できない。次から次へと上がってくる子供たちに対して、何度も同じことを繰り返したり、新たな方策を講じたりしなければならない。これといった絶対手法が無いから仕方のないところだが、そろそろ原因にも目を向けるべきだろう。一方、虐めが横行する時代に育った世代が子育てに入り始めてからもずいぶんと時間が経過している。その間どんな変化が起きたのか、どこかにそういう研究があるのだろうか。最近の親子の問題を見ていると、何かしらの影響が出ているような気もしてくる。子供を親が虐める話は毎日のように報道されるが、それは死に至った場合が多く、そこまで極端でないものを含めたら一体どのくらいあるのか恐ろしくなってくる。以前は折檻という言葉が使われていたが、最近はとんと聞かなくなった。どこか微妙に意味が違うのかとも思うが、理由はよくわからない。いずれにしても、子供が言うことを聞かないとか、泣き声がうるさいとか、他人から見たら取るに足らないと思える理由で虐待を繰り返し、死に至らしめる。自分大事の心掛けが前面に出た結果と言えるのかも知れないが、何とも馬鹿げた話と思える。学校での虐めとは質の違ったものかも知れないが、程度に対する無理解を考えるとき、そこに存在する幼児性に気がつく。乳幼児を前にして、親が心の幼児性を顕にしているのだ。幼児でなくても子育てにおいて問題視されていることの多くは、そんなところを端緒としているのではないだろうか。子供の言い分を頭ごなしに否定し、自分の意見を強制する。他人とのやり取りが上手くいかない人たちに多い性向だが、それがすべてのところに現れてしまうことがいけないような気がする。まして、泣き声でしか言い分を訴えられない乳児に対して抱く感情を考えると、そこに大きな歪みを感じずにはいられない。子育てとともに成長するはずの親の心が、その準備さえできていないのでは困ってしまう。
休みに入って、晴れ着を着た若い女性を見かけた。おや、初詣でにでも行くのかな、と思っていたが、そうではなかったらしい。夕方くらいから見慣れぬ集団が街を闊歩し始めた。抑圧されたものを吹き出すかの如く、好き勝手な振る舞いをする。最近の儀式の定番のようだが、見苦しい以外の何ものでもない。彼らから見た大人がそういう人間ばかりではないだろうに。
まだ日が明るいときから既に無法者と化した集団が、まるで無礼講のような振る舞いをする。そういう連中を相手に問題を起こしたらこちらが損なだけと思う人々は、飛んでくる火の粉を避けるのに一生懸命に見える。まるで幼児としか思えない若者の精神性は、こういうところで大いに発揮されるようだ。何しろ子供のことを叱りつける大人は、既に絶滅危惧種に指定されそうな状況なのだ。普段は小心者でもこの日だけはとどこかでスイッチが入るらしく、無茶な行動が目立つように思う。これが日中だからせいぜい車の往来を妨げる程度のことで済むが、更に酒の量が増したと思われる夜中となれば、権力を持つ大人たちが規制に乗りだすほどに発展する。何か特別なことをする計画もなく、ただ集まって酒を飲んだ集団には、それだけでは不満が残っているというのだろう。店の前でたむろしている中で喧嘩が始まったり、他の集団と衝突したりする。歯止めが効かなくなった人々が集団で行動するときには思わぬ力がでるものらしく、喧嘩を避けようとする気持ちは働かないようだ。当然、騒ぎが大きくなり、警察の出動となる。以前ならすぐにしょっぴかれていたものが、最近はどうも説得しようとするようで、騒ぎが大きくなるだけだ。いくら権力を笠に着た人々でも、制動の無くなった集団を相手にするとかなり危険なのではないだろうか。本人のためという配慮さえ無駄骨のように見える騒ぎは、おそらく夜半過ぎまで続いたのだろうと思う。強者どもが夢のあと、といった風情など微塵も残っていない街角を過ぎて、はて昨夜の狂騒は一体何だったのかと考えてみても、何も浮かんではこない。たぶん、一つの節目だったのだろうが、儀式としての必要性などとはまったく無関係な単なる鬱憤晴らしの出来事だったのだろう。ここ数日の間は、恒例の行事となった全国で起きた式中の事件の報道が熱を帯びてくる。ただ漫然と取り上げ、そこに映っている若者を批判する人々が、面と向かって叱っている姿を見たいものだと思う。常軌を逸した集団を相手にそんな無茶なことをする人はいないだろう。でも、普段から周囲にいる若者相手に少しは意見を言ってもいいのではないか。自己責任という逃げ口上をすぐに出してしまうのでは、結局何も変えられないのだ。今年はどんなとんでもないことが起きるのか楽しみにはしたくないが、やはり起きてしまうのだろう。