パンチの独り言

(2005年1月17日〜1月23日)
(思い出、怨敵、多病、自立、中立、氷結、すり替え)



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1月23日(日)−すり替え

 世の中には議論のできない人がいる。などと言われると中味もわからず反発する人の多くは、その仲間なのかもしれない。できないというと語弊があるから、実際には議論の場に馴染まないと言ったほうが良いのかもしれない。幾つか特徴があるが、一つには自らの主張を変えられない人、次は議論の対象のすり替えをする人、もう一つは相手の意見を聞かない人だろうか。
 主張を変えない人の意見の扱いには、結構難しいところがあって、一概に悪い意見とは限らないし、部分的には採り入れたいところがあることも多い。しかし、その人の意見を採用しようとするとすべてを受け入れなければならないことも多く、それでは極端になりすぎる場合も多い。部分では駄目となれば、全部駄目とする以外にはなく、結局そういった経緯を辿って不採用になることが多い。これではせっかくのいい話を活かすことができないので、ちょっと形を変えて別のものとして提案し活用する人がいてくれるとありがたい。大元の意見を出した人が気づいてしまうと元も子もないが、それはそれとして議論の進め方の好例の一つだろう。議論のすり替えはあらゆるところで起きているようだが、とにかく自らの間違いを認めない人に多く見られる傾向である。間違いそのものに気づいているかどうかを知る術もないが、とにかく次々に話題が変わっていく。あとから考えてみるとおかしな展開になっている場合でも、その場では議論を導く形で何とか無難に操作しようとしているから、不思議に振り回されてしまうことが多い。しかし、この手の操作が入ってしまうと結局議論の行き着く先はなくなり、うやむやに流れてしまうことになる。議論のための議論を行うことを常としている人たちに多い傾向でもあり、つまりは何も結論を導かないことを始めから意図していることになる。これを意識している人もいるだろうし、無意識の人もいるだろう。どちらがやりにくいかといえば後者になるわけだが、その辺りは経験してみなければわからないかもしれない。最後の他の意見を聞かない人はごちゃまんといるから今更取り上げる必要もない。ただ、議論の場で絶対的な力を発揮するのはこのタイプの人々である。何しろ相手の意見を聞かないのだから、同じ言葉を繰り返すだけで良い。これほど楽なものもないし、それによって相手が折れたら思うつぼなわけだ。こういう人々がいる場で議論が始まると収拾がつかなくなり、結局徒労に終わることが多い。それでも次の展開に向けての展望が開ければいいが、それさえ残らずただただ無駄な時間という印象が残ってしまえばどうにもならない。次の議論の場を設けることさえ憚られることになってしまう。実生活ではなるべくそういう事態に陥らないようにしたいものだが、新聞などのマスコミの世界ではこんなことは日常茶飯事なのだろう。このところ話題になっているものも、圧力云々の話に持ち込みたい人と言った言わないという問題に焦点を絞りたい人が入り乱れて、文字通り収拾がつかなくなっている。新聞の記事という点に絞れば、圧力の有無は本来の主旨に関わるものだけれども、今回取り上げられている問題とは違うところにある。実際に取材対象となった人がそこに書かれたことを話したかどうかが問題なのである。これをまた本来の問題に戻すという形ですり替えを行うと、抽象論が展開されるだけで何ら具体的な話が出なくなる。このところの流れを見るかぎり、巷でよく見かける議論の問題と同じことが起きているように見えるがどうなのだろうか。

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1月22日(土)−氷結

 猛暑のあと、気温があまり下がらないまま冬を迎えかけていたころ、暖冬という長期予報が出されていたような気がする。確かに、秋が過ぎて冬を迎えるころ再び気温が上がって、これじゃあ今年の冬は暖かいに違いないと思わされた。しかし、実際にはその後急転し、被災地の大雪や北の方から低温の話題が届いている。理由の解説はあるが、予報が外れた原因の検証はありそうにもない。
 冬の怖さは車での移動の際に最も如実に現れる。普段安定した走行を保障する機械も、足元が不安定ではどうにもならない。雪が降ったあと、通り過ぎる車に押しつぶされた雪は氷のようになり、通常のタイヤでは掴み所を失う。毎年繰り返される冬道用のタイヤの宣伝を見るたびにちょっと迷うところだが、経費を考えると躊躇してしまう。安全のための出費という考え方もあるが、逆に過信に繋がる場合もあり、一概にそうとも言えないような気がする。チェーンを装着するほうがより確実なわけで、その面倒ささえ気にしなければ何とかなるような気がする。と言ってもやはり面倒は面倒なわけで、なるべくそういう仕掛けの世話にならないような対策も必要だ。除雪はそのためにあるのだろうし、そのついでに融雪剤を散布することも大きな備えとなる。雪が怖いだけでなく、そのあとの気温低下などによる凍結が最も怖い。雪と違って道路表面を見ただけでは見つけられないものだから、油断しているわけでもないがつい滑ってしまう。滑ったら最後、あとのことは運にまかせるしかないわけだ。となれば、とにかく滑らないようにすることが大切で、そのために塩化カルシウムなどを撒いて凝固点降下を狙う。以前は降雪によるダイヤの乱れが頻繁に起きていたある地域は平行して高速道路が走り、そちらも降雪による渋滞が頻繁に起こる。さすがに対策が講じられており、除雪車が融雪剤を散布しながら通行規制を行っている。低速走行をすることで危険な運転をさせないようにして、とにかく事故を減らす工夫をしているようだ。その地域でおそらく十数台の除雪車が動いているのではないだろうか、両方向の通行を制限しながら、融雪を繰り返している。気温が低下したときの路面の変化は想像しにくいが、同じことがフロントガラスに起きると驚かされる。融雪剤はつまりは塩だから、汚れた塩水がはね上げられて、後続車に降り注ぐ。視界が悪くなるからと言って、うっかりウォッシャーを使うと悲惨な結果になるのだ。十分に冷やされたガラス上では水に近い液体はすぐに氷結する。氷は表面が滑らかでないとすりガラス状になり視界を遮る。急に目隠しをされた状態になるわけだ。これはこれで十分に恐ろしい。氷結しにくいような洗剤も売られているようだが、それとてもっと低温になれば凍ってしまうのだろう。視界を良くしようとする行為が仇となって事故に繋がったのではたまらない。そういう意味で、何げない行動が悲惨な結果を招く例の一つなのかもしれない。そんなこんなで冬道の長距離走行はなるべくなら避けたいものである。

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1月21日(金)−中立

 職場にしても、友人関係にしても、他人の揉め事に巻き込まれるのはかなわない。揉めている両者からそれぞれ事情を聞かされ、まったく違う話になっていたりすると、さてどうしたものかとなる。同じものを見ても立場の違いから違うふうに見えるわけだから、こんなことは当り前なのだが、それが論争の核心であるとすると当り前で片付けるわけにも行かない。
 身近でこんなことが起きたらかなわないだろうなあ、と思えることが、今マスコミの世界で起きているようだ。取材をする側とされる側で主張が異なるのは今まで何度も聞いてきたことだから別段珍しいことでもない。新聞に掲載される内容が取材を受けた人の話のほんの一部でしかないことも多く、時には自分の意見を言った部分はすべて削られ、相手の質問に答えた部分だけが残ることもある。つまり、掲載内容は既にある程度設定されており、その確認のためだけの取材もあるわけだ。今回の騒動もその点では以前から横行していた手法が使われていたようだし、その結果として騒ぎが大きくなったように見える。しかし、今回の騒動はそれとはまったく違った面も含んでいるように見える。そこには単純に情報を提供するというだけでなく、何かしらの色を含んだものがあるように感じられるのだ。今のところ、両者の主張は平行線であり、どこまで行っても結論が出るようには思えない。なぜなら、言った言わないというのが主体であり、更にはそこに言外の意味を込めた話が流れているからだ。前者については証拠を示せばいいのだろうが、もしもこれが身近で起きている話と同様に何も記録がとられてない状態のものであれば、証明する手だてが無くなる。記者ではないから常時そういった手だてを講じておくものかどうかわからないが、このところの流れを見るかぎり決定的なものが出てくるようには思われない。録音であればすべての流れを検証する必要が出てくるはずで、その一部だけを取りだして確かに発言したと結論づけても、不十分と指摘されてしまうだろう。そうなれば前後関係も明らかにしなければならず、そこに不用意なものが含まれていたら、証拠の利害がはっきりしなくなる。外野から考えるとそんなことぐらいしか思いつかないが、一方ではそんな用意さえしていなかったのかもという考えもあり、はっきりしなくなるだけだ。その上、後者のように言外の意味を感じ取ったとかという主張が出てくるようになってしまうと、もう歯止めがきかなくなってしまう。現状はまさにそんな雰囲気で、泥仕合の様相を呈しているとする報道がよく表していることになるだろう。こんな問題も、政治家を巻き込んでいるからいかにも大きな問題のように取り上げられているが、それこそ番組の構成に関するいろんな意見という意味からすると、これまでも沢山あったはずの話なのではないだろうか。中立を主張することは簡単だが、実行することは難しい。それは送る側の論理であって、受け取る側が偏向を持っていたら、どうにもならないことになる。たとえそこで流れたものが中立を意図したものであっても、聞こえ方は人それぞれとなる場合もある。送る側にいる人間は違った考え方をするだろうが、受け取る側はそれぞれにそういったことを意識しておく必要があるだろう。

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1月20日(木)−自立

 朝寒くて目が覚めるのだろうか、時々変な時間に目が覚める。昔と違って大人しく寝ているから、布団は異常ないし、寒さは寝るときとさほど変わっていない。単なる加齢現象なのかもしれないと思いながら、昔4時間の睡眠を自慢する上司に辟易したのを思い出した。同じ眠りを強要するわけではないが、自分より長く職場に滞在するのを求めたから同じことだ。
 寝つきが良くない、寝覚めが良くないと愚痴をこぼす人がいる。眠りはリセットのために重要なもので、体力的にも精神的にも大きな影響を及ぼす。人によっては眠れないことから精神的な動揺が始まり、心の病と呼ばれる代物に襲われることもある。実際にはどちらの順序かわからないから、眠りそのものが病気の原因とは言えないが、とにかく休むというのは生き物の活動において重要な要素の一つである。大学に入るまで親元で暮らしていたが、朝の弱さはかなりのものだった。起こされなければいつまででもといった体で、まさに惰眠を貪るという表現が当てはまった。それが遠くの大学に入ることになり、一人で暮らし始めると180度転換した。始業時間より早く学校に来て、学生食堂で朝食を摂り、それから誰もいない教室に向かう。高校時代までなら考えられない行動をとるようになった。理由はわからないが、一番に思いつくのは自立という言葉である。親と暮らしていれば何かと依存することが多く、反発していたとしてもどこかで親を頼りにする。そういう気持ちがあったからか、朝の支度もいろんな点で親に頼っていたのだろう。それが一人暮らしを始めると、親の代わりがいないことに気づかされる。自分でやらなければならないという気持ちだけが早起きを誘発したとは思わないが、どこかで切換えのスイッチが働いたのだろう。遅刻魔と呼ばれた人間はどこかに消え失せてしまった。朝寝坊の原因が依存などの心理的なものである人だけでなく、どこか身体的な問題による人もいるだろうから、誰にでも当てはまる話ではない。しかし、こんな他愛もないことで人間が変わりうることを実感できたのは、良い経験だったと思う。真に肉体的なものに原因があることならばどうにもならぬことなのだろうが、どうも人間の行動の多くは単に精神的なものに依るところがある。この考え方をあまり強くしすぎると、精神論を展開することになってしまうのだが、そこまで行かないまでも少しは考えた方がいい場合もある。病名が安心に繋がる話はまさにそのものであり、なんら治療を必要としないこともある。不安を取り除くことが治療の一つであるという話もよく聞くが、医療の基本と言えるのだろう。ただ単に診断と称して冷たく病名を伝えるだけでなく、そこに何かしらの関わりを持たせることが快復へと繋がる場合も多いようだ。一時の根性論の氾濫が心理的な作用の議論の妨げになっている気もするが、自らの経験から心の関与の大きさに気づいている人は多いはずだ。我慢とか鍛練とかという強制的なものは控えるべきかも知れないが、それとは違った形の心への働きかけの重要性をもっと認識すべきだろう。ただ、これは褒める教育の推進とはちょっと違う点に注意しておいて欲しい。

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1月19日(水)−多病

 自分だけがそう思っているのだろうか、と悩むことが時々ある。大したことではないことに引っ掛かりを覚えたり、無理難題と思えることに反論をしようとする。しかし、動き出す前に様子を窺ってみると、誰も反応しないことに気づく。となれば、誰も問題視していないことになり、成り行きで酷い状況に陥っても構わないと思っているとなる。どうなのだろう。
 目立たぬように生きてきた人々にとっては、そういう行動は当然のことなのだろう。本当に問題があるのであれば、誰か「他の人」がちゃんと指摘してくれるはずだし、どこかで制動がかかるはずという思い込みがあるようだ。そうこうしているうちに後戻りができなくなり、どうにもならない状態に追い込まれる。まさに自業自得のはずなのだが、当人達はそうは思わないらしい。誰か「他の人」がきちんと対応してくれなかったからいけないのだ、という結論に達することが多いようだ。その手の問題は世の中には溢れているはずだが、やはり敢えて手を出すことを避ける人が多いのだろう。ほとんど取り上げられることもなく、記憶の隅に追いやられる。その後で思い出されるのならましなほうで、たぶんそのまま忘却の彼方となるのだろう。それで良いのか悪いのか、すべては結果論でしか論じられない。どうでもいいと考えたことでも、重要な問題となることは多いのだ。そんなものの中で最近ちょっと気になることは病気のことである。自分が病気になるという意味ではなく、病気にされると言ったほうがいいのかもしれない。見たことも聞いたこともない病名が巷に溢れていると感じる人はどの位いるだろうか。以前に比べると病名が急増している気がするし、何かしら身体の異常を訴えるとそこに怪しげな病名が付けられる。的確な診断であり、それによって正しい治療が行われるという場合も多いのだろうが、どうも病名を付けることだけが目的のものも多いようだ。すべての医者がそういう傾向を持つわけではないのだろうが、これだけ多種多様な病名が一般の人々の耳に届くようになるということは、それだけ母数が増えていると考えるべきなのだと思う。この傾向はこの国に限ったものではなく、おそらく海の向こうからやって来たものなのだろうが、そこに医療とは無関係の何かしらの思惑があるように思えて仕方がない。何故、そんなことを思いつくのか自分でもはっきりとした返答はできないが、治療法が確立されていない難病ばかりか、取るに足らない症状と思えることにでも何かしらの名前を押しつけようとする動きを見ていると、首を傾げたくなるのだ。身体の調節機構の変調を表すような病名が増えてきたのもそうだろうし、心の病に関する名前もそんなものが多くなっているように見える。それほど多岐にわたる分類をしなければならないのか、素人には判断がつかないが、次から次へとまるで発明されるが如く出てくる病名には疑惑の目を向けたくなるのだ。軽い気持ちで身体の異常を考えるのは危険である場合もあるのだろうが、一方で精神的な平衡を失う方向に気持ちを向けるのも危険である。病名を言い渡されることで安心する人がどの位存在するのかわからないが、さてこれがまともな状態なのか疑わしいところがある。

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1月18日(火)−怨敵

 以前からあるネット掲示板のことが気になって、時々眺めていた。取り上げられている話題がかなり複雑なこともあり、そこで交わされている議論は主題とはまったく違ったところでの誹謗中傷や情報操作に関するものばかりだが、その原因がそれ以前に存在していた掲示板での揉め事というから、まあ仕方のないところなのかもしれない。
 議論が沸騰してくると、どうにも引っ込みがつかなくなる人は実社会にも存在するが、これがネット社会となると驚くほど多数となるだけでなく、極端さにも大きな隔たりが出てくる。どんなに熱を帯びても落ち着いた調子で対応しようと努力する人がいる一方で、その場その場の盛り上がりに乗って暴言や誹謗中傷に走る人々がいる。どんな場でも議論となればそれを調整する人が必要なわけで、実社会では議長と呼ばれることが多いのだが、ネット社会の掲示板では議論の主題である話題を提供する人という形で、トピックの持ち主、トピ主と呼ばれることが多いようだ。議論の方向は彼らの調整一つで飛んでもないところへ向かうこともあるし、軌道修正がなされることもある。場合によっては、トピ主以外の人々がそういう役割を負うこともあるようで、トピ主自身の暴走を止めることも多いようだ。とにかく、そういった世界で、誹謗中傷が蔓延してしまうと、もうほとんど議論というものが成り立たなくなってしまう。そんな中でテーマが重要であると、何とか元の形に戻そうと努力する人が出てくるのだろうが、容易なことではないようだ。まさにそういう道を辿った掲示板が一度は消され、新たな出発をした経緯があったのだが、結局その時の関係者の思いも虚しく、再び空中分解状態に陥っていた。人の執着ということの恐ろしさを垣間見ることとなったこの辺りの顛末は、やっとのことでそれまでの関係者ではない人の登場で一段落となったようだ。ようだと言わねばならないところには、執着はどこかに残っているわけで、そういうものの捌け口を同じ場に求めてしまう人々にはこのような解決は一段落とならないことが多いということが理由である。被害妄想やら誹謗中傷やら情報操作やら、まったくよくもまあそんなことを思いつくものだと、感心するほどの思考回路の持ち主達が活躍する場をネット社会は提供しているわけで、小手先だけの解決法が通用しないことは明らかなのだ。目の前にいない相手に向かって罵声を浴びせることに慣れてしまうと、実生活では経験したことないほどの興奮状態に陥ることになる。そういうことを避ける手だてを持っている人以外には、一度落ち込んだ穴から抜け出すことは難しいようで、とにかく不満の捌け口としか思えない書き込みが続くわけだ。恐ろしいのは寝る時間も惜しみ、実生活に支障を来すまで、それを続ける人がいることで、ゲームやギャンブルに耽る人々と変わらぬ状況にあると言えるだろう。誰も止める人の無い環境で、この状態が続けば、どんな結末が訪れるのかは明らかである。これまでは博打に走る人々を蔑みを持った目で見つめていた人が、まったく違った形で生活のリズムを狂わせていく。意識していないからこそ恐ろしいわけで、そういう意識を持てるようにすることが大切なのかもしれない。

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1月17日(月)−思い出

 このところ、丸十年を経過したという話が頻繁に取り上げられている。丁度その日である今日は、新聞でも大きく取り上げられ、朝からテレビやラジオで特集番組が組まれていた。忘れ去られようとしている記憶を呼び覚ますかの如くの雰囲気だが、特に昨年大きな地震が起きたこともあり、皆が忘れてはいけないものとして扱われている気がした。
 記憶に残し、それを後世に伝えるというのは、喜ばしい出来事よりも悲惨な出来事の時に話題になる。二度と悲惨な目に遭わないようにするためには、それに対する準備を怠らぬようにということなのだろう。その時の光景が画面に映し出され、再度悲惨な記憶を鮮明にさせようとしている。確かに心の準備ができていなかった人々にとって、突然襲ってきた震災は心だけでなく身体にも大きな衝撃を与えた。直後の混乱を繰り返さないためには、当時何が起きたのかを再検証する必要があるというのは一般的な考え方だろう。それによって、当時とは違った考え方をする人もいるだろうし、問題を再認識することで心の準備を整えられる人もいるだろう。そういう意味でこういう企画は大切であり、メモリアルという形の行事は様々なところで大きく取り上げられる。しかし、最近の考え方ではこのやり方に異論を唱える人もいるのではないだろうか。確かに、被害に遭わなかった人々はこういうものを見せられることによって、自分たちの身に起こるかもしれないことを意識させられ、準備を整えられるわけだが、一方で直接被害に遭った人たちの中には、こういう光景を思い出したくない人も多いと言われる。マスコミに取り上げられる人々の多くは行事に何らかの形で参加した人であり、それの意義を感じ取ることのできた人である。しかし、その一方で二度と思い出したくないと思う人もいて、たとえ他の震災でもよく似た光景が出てくればそれだけで辛くなるということもある。ここに弱者と強者の区別があるわけではないが、そういう情報に対する感覚として物事の受け取り方に大きな違いがあるのは当然かもしれない。近年強調されることの多い弱者保護の立場から見たら、こういう例はどう考えるべきなのだろうか。教訓として参考になることが多いからという主張だけでは、それに対して精神的な痛手を被る人々を納得させることはできないかもしれない。また、見たくない人は見なくていいという論法が通じないのは既に明らかなことだろう。多数と少数の関係を論じても、保護という考え方があるかぎり限界がありそうだ。となれば、どうにも袋小路に追い込まれてしまうことにならないだろうか。何でもかんでも強調することはできないのだが、こういう問題を論じるときに以前であれば個人の利益と社会の利益なるものが取り沙汰されていた。その辺りの考え方があれば何とか解決できそうだが、最近の風潮はそれに対して壁を築いているようにもみえる。弱いものを守ってやる必要を否定することはできないが、守るべき本体が存在しなくなったとき、さてその論理はどこへ向かうのだろうか。

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