パンチの独り言

(2005年1月24日〜1月30日)
(優待、同意、愉楽、縮図、小賢しい、可塑、配慮)



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1月30日(日)−配慮

 入院している知り合いを見舞うとき、花を持参する人もいるだろう。どんな花が良いのか迷うところだが、たとえば鉢植えは根づきを意味して、入院が長引くことを連想させるからいけないとか、椿は花がぽたりと落ちるから縁起が良くないとか、そんな話がある。そういう気遣いやら配慮やらが要るから、また気が重くなるわけだ。
 しかし、こんな話も受け取る相手から直接言われたらどんな気持ちがするだろう。まったく配慮が無いとか、もう少し気を遣えとか、当の本人から言われるとあまりいい気持ちにはならない。昔は、配慮やら気遣いやらはする側が考えることであって、受ける側がとやかく言うことではないと言っていたと思うが、最近はどうもそうでもないらしい。確かにそういう習慣を知らない人の数が急増し、無知とか世間知らずとか非常識とかそんな言葉が其処彼処で聞かれるようになったから、単に気付くのを待っているだけでは埒が明かないとでもいうところだろう。でも、だからといって、そこまでやってしまったのではこれまた常識と言えるのかどうか怪しくなる。こんな具合に働きかける側が強気とも思える態度に出てくると、それを受け取る側は何となく押しつけられている気がして、被害妄想になる。どっちもどっちと言ってしまえばそれで済むのだろうが、実際に近い存在として付き合っていくためには、そんな意思の行き違いが大きな歪みの原因となるだろう。始めのところでの配慮も重要だが、その後の配慮も重要と言えるわけで、どちらにしても気遣いとか気配りが大切ということなのだろう。自分の側の気持ちは理解できるが、相手の気持ちはとんと解らないという話が多くなっているのが、こんなところにも表れている。相手に対する要求は日に日に大きくなってくるのに、自分を見る目は反比例するように甘くなる。何だかそんな様子が窺えるような話だと思う。権利の話をするときに最近特に強調されるのは義務との関係だが、この辺りもこういう状況から出ていることかもしれない。権利を主張するのは要求を出すのとよく似た行動であり、独り善がりの考えに基づくものであるとおかしな姿に見える。声高に主張すればするほど、そこに矛盾が感じられ、なるべく関わりたくないという気持ちになる。ただ、当人にとってみれば、入院している人と同様に何かしら弱いところを持っているわけで、弱者救済を訴えているだけに過ぎないのだろう。強い弱いとか勝ち負けとかそういう二面性を指摘するのが世の常のようだが、こういうところで取り上げられる弱者が必ずしも弱くないことが多く、相手をする側にとっては悩みの種となる。まあ、なんだかんだと言っても、そこには単純な人間関係があるだけで、そんなに複雑な模様がついているわけでもない。配慮とは、どんな気持ちから出るものか、もっと簡単に考えればいいのに、何かしら複雑なものを採り入れて、訳のわからないものを作り上げている。結局、それだけのことなのだろう。

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1月29日(土)−可塑

 昔話なのかもしれないが、激動の時期を生き抜いてきた人々の話は面白い。そんな昔の話は今に当てはまらないと思う人が多いようだが、環境が変化しても人の心情には大した違いは無い。その時の驚き、悲しみ、喜びなどといった感情はそのままだろうし、出来事に対する思いも根っこのところでは大して違わない。違うと思うのは思う人の思い込みによるのだろう。
 時代の移り変わりとともに、身の回りの品物は次々に変化してきた。まったく新しいものが現れたり、同じものなのに見た目が大きく違ったり、その度に便利になっていく世の中への感謝の念とともに、驚きとも怖れとも違う何とも複雑な思いを抱いた人も多いだろう。何でも新しいものが良いという考えは、石油化学工業が中心となって社会問題化した公害により覆された気がする。新しいもの、便利なものを手に入れるために、失うものもあり、それが大きすぎれば折角のものも手放さねばならない。そんな遣り取りがあって、今のような状態になっているわけだが、それでも新しいものに対する対処は後手に回ったままで、事前の調査がかなり進んだと言え、不十分な点が露見し、大きな問題に繋がる。そんな手順は未だに続けられていて、予測ということ自体の難しさを再認識させられる。石油化学工業の産物で現在身の回りにあるものといえば何を思い浮かべるだろう。種類、量とも断トツなのではないかと思えるのは、プラスティック製品である。ガラスに代わって出てきたもの、金属に代わって出てきたもの、陶器に代わって出てきたものといった具合に、用途も様々だし、材質も多様である。いつ頃から使われ始めたものなのか、まったく想像できないが、こちらの成長期に次々と導入されていたような気がする。当時、軽くて丈夫な、という触れ込みで、半永久的に使えるから欠点なぞ無いという雰囲気だった。更に、色も自由につけられ、成型も自由自在というわけだから、利用範囲はあっという間に広がった。そこで出てきた問題は、捨てるときはどうするのかである。半永久では、新しいものを購入する機会が失われる。それでは困るから、新しいものを買って貰えるように何とか工夫をする。となると、古いものを捨てる算段が必要だ。そんな面倒な考えをした人はいないと思うが、気楽に捨て始めたものが燃やせば熱やらガスやらで問題になり、そのままでは壊れないから邪魔になりといった具合で、社会問題となった。なるほど便利なものはこういう結末になるのかと変に感心したものだが、とにかく焼却処分の仕方を工夫し、自然界で分解されるものを開発してきた。ここまで来て、やはり壊れないことが大きな問題を産んだと思えるのだが、実際にはプラスティックが壊れないとは一概に言えない。冬にしか使わないスキー靴が真っ二つに割れた経験を持つ人もいるのではないだろうか。一年ぶりに出してきて、ゲレンデまで歩いていたら、途中でぱっくりとなってしまうことがある。雪焼けを気にする人は多いが、それだけ大量の紫外線が溢れた環境では頑強なプラスティックといえどもひとたまりも無い。全体を繋ぎ止める糊の役目をする物質が分解されてしまうのだ。半永久とは幻想に過ぎないと思わされる瞬間である。すべてのプラスティックがこうなるわけでもないだろうから、分解の問題は依然として大きいのだろうが、こんな話もあるということだ。

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1月28日(金)−小賢しい

 テレビやゲームは子供たちの生育にとって障害となるという主張が数多くなされている。一方向の情報伝達であり、社会性を育てるために必要な双方向性が無いことが要因の一つとなっているようだ。対戦型のゲームと雖も、ある一定の手順を繰り返すものが多く、そこには習熟度の進歩しかない。ある程度確立された自我を持つ人なら別だが、真っ白な子供にとっては害となるとされている。
 小さな頃にはまだテレビが無かった世代にとっては、この話は中々理解できる代物ではない。ある程度の社会性を身に付けると言われる、幼稚園から小学校低学年の時代までが、上で触れたような話の重要な時期に当たるのだろうから、その頃に肝心なものが存在していなかった世代の人々には、何がどうなるのかを想像することは難しい。だから、今の時代に育つ子供たちにとって、テレビやゲームが害を産むものとするかどうかを自らの経験で語ることはできない。ただ、一方でそういう環境で育ってなかった人々の中で、これらの娯楽を楽しみの一つとしている人たちには、そういうものに触れていてもきちんと育てるためのヒントが見えている場合もあるのではないだろうか。彼らの経験としては、確立したものを持った後でこの手の娯楽に接したわけで、そこでの楽しみ方が真っ白なところから始めた子供たちとは少し違っている可能性がある。そこに明確な違いが見出せれば、それを含んだ形での接し方を教え込めば、害を害として受けることが無くなるかもしれないからだ。さて、しかし、何かあるのかと聞かれると、改めて考え直しても中々出てこないのが実情だろう。自分のテレビの見方が子供とどう違うのかは、実際には自分で気づくより、子供に指摘されるほうがよくわかるようだ。そんなことに思い当たるのは、子供の指摘もあったからだろうが、つい先日もある番組を見ていて、おやと思うことから起きていたような気がする。番組ではある食品の効果を調べるために、あるテストを子供と大人に受けさせて、摂取前と摂取後の成績の違いを表そうとしていた。その違いがどうだったのかは覚えていないのは、別のことに気持ちが移ってしまったからだが、それはそのときの成績の見せ方にある。子供たちの結果は、最高点が何点かという形で示されたのに対して、大人たちの結果は、平均点で示されていた。すぐには意図がつかめなかったが、その後の展開から制作者の意図がはっきりと伝わってきた。その展開とは、どちらも既に数字になっているから、数字として比較をすることができるというごく当り前の手法であり、それによって、子供の最高点の65点と大人の平均点の58点に差があるとするものだった。そこでは既に、最高点とか平均点という言葉は削除されており、子供の65点と大人の58点を比べると、といった表現が使われていた。こうなれば誰しも数字だけに心が奪われるだろう。そこに制作者の意図があり、子供の方が優秀であることを表そうとしていたことが明らかである。ただテレビの前で番組を眺めている人たちにとっては、ある言葉の削除は瑣末なことであり、制作者が意図した本筋とは無関係の出来事となる。そのまま流れて、その後の食品の効果に興味が移ったに違いない。しかし、ここには明らかな情報操作があり、正当な統計処理が行われていないことが明白なのだ。この手の数字の遊びは巷に溢れており、当事者の考えに合致する結果を産むための統計処理が都合よく使われている。こんなことは楽しみでもないから、気にせず流せばいいのだとする声もあるだろうが、一方向と言われるものに接する時にそれを双方向のようにすることは実は難しいことではないことを表している。その様子を子供たちが見ていれば、さてどんなことが起きるのか。

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1月27日(木)−縮図

 祭りになると活躍する人々がいる。その雰囲気にどっぷり浸かる祭り好きの人たちとは違い、あくまでも冷静に全体を見渡している人がいて、その場のしきたりに通じている地に根づいた人たちのようだ。物事を円滑に進めるためには単に準備を整えるだけでは不十分であり、それぞれの場に応じた仕切りが必要となる場合がある。昔からそういう人材がどの町にもいたようだ。
 そんな人の中でも歴史に名を残している人たちは必ずといっていいほど、町の名前を付けた形で呼ばれている。それだけ土地との関わりが強かったのだろう。昭和の半ば頃までは近所のおっちゃんといった風情でそんな人々が周囲に溶け込んでいたのだが、いつの頃からか消えてしまったような気がする。地に根づいた小さな組織より、国全体に展開する大きな組織の方が何かと都合が良く、徐々に侵食されていくうちに姿を消してしまったのだろうか。そうなると周囲に溶け込むこともなく、どこの誰だか知らない人々が街中を闊歩することになる。そんな状況だから揉め事が起こることも多くなり、場合によってはかなり強硬な措置にさらされたようだ。こういう組織が活動を継続するために必要なものは人材と資金であり、これは一般の企業と同じことである。ただ、そこに何を商売の対象とするのかというはっきりとしたものがなく、人材があっても資金の遣り繰りが難しいという状態に陥ることも多かったようだ。当時、話題になったのはスレスレでも合法的な形で資金を調達するために、法律に通じた人材を登用しているという話で、時代も変わったものだと揶揄されていた。そのまま進めば一企業としての活動が可能になったのかも知れないが、実際には規制の強化という対象を絞った措置に苦しむ結果となり、スレスレの意味がなくなってしまったらしい。最近の報道を見るかぎり、ある一定の自己規制の存在は過去のものとなり、資金調達の手段を選ばぬ実情が明らかになっている。直接的に特定されることを避ける形をとっているとはいえ、その裏にいるのは決まった人々であり、そこにある手口はある一定の路線に乗ったもののように見える。金を巻き上げるという結果自体は変わらなくても、そこに一つ二つの緩衝帯のようなものがあり、昔からのイメージとは結びつけられないような工夫がなされているようだ。以前登用した人材がこういうところで活躍しているのではとも思えるが、その辺りははっきりしない。映画が娯楽の王様だった頃、一大ブームを引き起こした物語にあるような「道」の存在はまったく感じられず、利己的な形での展開のみが表面化しているのかもしれない。こんな様子を窺いながら、それをどこか別世界のことのように思う人も多いだろうが、どんなものだろうか。これはまるで今の世の中の縮図のようなものとは言えないだろうか。結果がすべてで、そこには金が絡むとは、どこか身の回りでも見られるもののように思えるのだが。

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1月26日(水)−愉楽

 いつだか書いた話なのだが、また気になってきたので書くことにする。お勉強の話で、つまらない人には本当につまらない話だ。でも、実際にその渦中にあった頃には、別の意味のつまらなさで苦しめられ、何とか抜け出さなくてはと焦った人もいるだろうし、何の役にも立たないのだから時間よ早く過ぎてくれと願った人もいるかもしれない。
 とにかく、学校に通っていた時代は好むと好まざるとに関わらず、何しろどこかにお勉強の影がついて回っていたのだと思う。それが気になるのは、一部での成績重視が原因であったこともあるだろうが、もう一つには毎日の教室での勉強やら自宅での宿題やらが苦痛だったこともある。義務教育とはまったく別の意味であるにも関わらず、教育を受ける義務があるなどという誤解を招くのもこんな事情があるからだろう。毎日毎日、無理矢理狭いところに押し込められて、訳のわからないことをやらされるというのでは辛いのが当り前だ。楽しく勉強しようなどというスローガンが掲げられても、当事者たちの心には楽しいなどといった感覚は芽生えてこない。とにかくあれもこれもと押しつけられていたからだろう。中学時代にいつの間にか定着させられていた主要5科目といった感覚も、高校受験に向いた考え方であり、それぞれの子供たちの将来に役立つとかいった観点は微塵も感じられなかった。そんな中で苦しめられていたせいか、音楽でさえ苦行と感じていた生徒も多く、音楽ではなく、「音が苦」であるという話が出てくるほどだった。字の並びから連想される音を楽しむといった雰囲気はまったく無く、クラシック音楽を聴かされて、こう楽しむべきなどと言われた日には嫌にならないほうがおかしい。音楽でもそんな状態なのに、それが高校で習う化学となるともう学ぶしかないことになる。そんなくらい時代を忘れたいからか、最近は学という文字を使わず、音楽と同じように楽という文字を使おうとする人が出てきた。サイエンスの日本語である科学を科楽と表記しようとするわけだ。もっと楽しんでいろんなことを知ろうとすべきであるという趣旨から考え出されたようだが、現実にはまだまだそういう感覚は根づいていないようだ。逆に言えば、そうだからこそ、こういう言葉を意図的に使おうとするのかもしれない。一方で、楽を楽しいという意味で使えばいいのだが、楽をするという意味に受け取られるので良くないという意見もある。楽をするとはつまりはさぼるという意味であるということなのだろうが、これはちょっとおかしな気がする。確かに楽をしていると言われるとあまりいい気はしないが、一方で、勉強も楽しくやれば効率が上がることを考えると、それが楽になることに繋がるような気もする。楽しめば楽になると思えば、もっといろんなことを学べるだろうし、そうなれば更に楽しいことが増えるかもしれない。落ちこぼれが問題となったときに、負担を軽くすることで解決しようとする動きが起きたが、現状を見るかぎり効果は上がらなかったと言わざるを得ない。負担を軽くすれば多くの子供たちがそれをこなせると考えたのだろうが、それほど単純なものではなかったらしい。最近は、負担そのものより、興味とか楽しさとかそういったことを重視する動きが出ており、方針が変わりつつあるようだ。訳もわからず押しつけられるよりは、楽しさがある押しつけの方がまだましといったところだろう。ただ、この効果については、もう少し様子を見ないと実態は見えてこないと思う。

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1月25日(火)−同意

 深夜のラジオを聴いていたら、ある詩人がゲストとしてでていた。このところ、戦後何年のという件でいろんなところに文を寄せている人物だが、ここではまったく違った役割を負っていた。彼はここ数年米国内を頻繁に旅行しているようで、当夜の番組はその経験を通して彼の国の魅力を語ってもらおうという企画だったらしい。
 企画が成功したかどうかはわからないが、彼を起用した意図は十分に生かされたと言えるのかもしれない。というのは、やはり言葉を操ることを生業としているだけあって、何故、どうしてといった類いの疑問を誰にでもわかる形で解説する能力に長けていることと、ちょっと違った見方をやさしく説明することが上手いことが伝わってきたからだ。誰しも、それまでに見たこともない雄大な風景を見ると感動することがある。しかし、その感情が何故起こるのかを説明せよとなると、急にそれまでの勢いが消え失せてしまう。言葉に表せないほどの感動という陳腐な表現が繰り返されるだけで、何とも要領を得ないからだ。それに対して、言葉を操ることで自分の気持ちを表現したり、目の前の風景を描写することを常としている人々は、何とかして映像の助けを借りずに言葉だけでそれを伝えようと努力する。それが上手くできる人だけが、そういう世界で生き抜いていけるのだと思うが、この詩人はおそらくその一人なのだろう。彼の地の雄大な景色に対して、ちっぽけな国からやって来た人々が何故感動するのかを、彼なりの解釈を交えて説明していた。同席していたある小説家はその解説を聴いて、改めてその時の感動を思い起こし、その理由に思い当たることを話していた。そういう流れを聴いていた人々にはたぶんその感動の雰囲気が伝わっていたのだろうと思う。曰く、この国では滝は見上げるもの、雄大な景色も見上げるものであるのに対して、彼の国ではどちらも見下ろすものだというのだ。遠くから眺められる景色ではなく、何もないところを進んでいくと突然眼下に雄大な風景が現れる。その展開が大きな感動を引き起こすというのが解説の要点だったと思う。なるほどと思う反面、首を傾げたくなる部分もある。ナイアガラの滝やグランドキャニオンを写真などでしか見たことのない人々にとっては、そういう心の動きは受け容れやすいのかもしれないし、それまでに無い経験を表すには適切な表現なのだろう。しかし、実際にその景色を見て、期待を裏切られた人々にはこれらの言葉ははたしてどんな風に映るのだろうか。確かにそういうことはあるのかも知れないが、しかし、自分自身はそれとは違った気持ちになったということを思い起こすのではないだろうか。酷い表現をすれば、ただ大きいだけだと思う人だっているし、なんだこんな程度のものかと思った人もいるだろう。そういう人々にとっては、今更こんな解説をいただいても、彼ら自身の思いは変わらないことが多い。言葉の威力を説く言い回しはあるが、誰にでもわかる絶対的なものがあるわけでもないし、誰にでも受け容れられるものがあるわけでもない。結局のところ、そこに同調があればこそのものであり、同じ方向を向いている前提条件が無ければ、単なる戯言としてしか聞こえないものなのではないか。

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1月24日(月)−優待

 世の中には新製品がでるとすぐに飛びつく人がいるらしい。近くにはそんな人がいないからよくわからないのだが、パソコンで新しいものが出たとか、新しい電化製品が出たとか、そんな調子で次から次へと手を出すとのことだ。文房具くらいなら経費も大したことなく済むのだろうが、電化製品となると十万円単位の出費である。よほど気合いを入れないと、と思うのは貧乏人の悲しさからか。
 新しければ何でもいいという人の場合は「新」という文字がつくかどうかが問題なわけで、それ以外に吟味しなければならない材料はない。パソコンで言えば、ノート型の無線LANを装着したものとか、つい先日発表された一部マニア向けのパソコンの本体のみの発売などにはすぐに飛びつくのだろう。そういう勢力を対象に販売を伸ばそうとする動きもあるが、うまくいけばいいが時にはあまりに趣味的なものとなり当てが外れることもあるだろう。いずれにしても、新たな性能が加えられていさえすればそれで満足できるのだから、新製品の購買層としては固定したものにしかならない。その数値を更に伸ばそうとしたら、新機能の魅力やら何やら、もう一つ二つ訴えるものが必要となる。よほど資金に余裕のある人でないかぎり、常にそこに存在する要因の一つは価格であり、それに見合う魅力が感じられないかぎり、手が出てこないのも無理はない。家庭電化製品ではないが、ある意味電化製品であり、また人によっては頻繁に使うものが幾つかあると思うが、このところ気になるものにETCがある。長距離の移動を常とし、多くの場合車での移動となるからどうしてもこの手の装備が気になる。カーナビなるものも気にはなるのだが、まだ買おうという気にはならない。地図を見れば済むことだし、渋滞の情報やら、抜け道の情報やら、確かに有用なものが搭載されているのだろうが、どうも今一つという気が起きてしまう。一方、ETCについては既にいつか書いたように購入して、装着してある。きっかけは価格の低下と購入時の優待企画である。当時、混雑する料金所をスイスイと通り抜ける搭載車は羨望の的であったが、価格などの経費が嵩むことから思いきれない人が多かったように思う。しかし、同じく経費の問題から料金所にETC専用のレーンを設けることは、管理者の立場から重要だったようだ。車に搭載する機械同様、導入時にはかなりの経費がかかるが、その後の運用経費はかなり少なく済むらしい。それに渋滞の解消も見込めるとなれば、導入せざるを得ない状況にあると言えるだろう。それに対して、車の方はそれほど深刻な問題とは考えられていないから、経費の問題が大きく立ちはだかることになった。最近ではかなり低価格のものが出ているし、ある程度の優待制度が出てきたうえに、カードの特典が縮小したせいもあり、かなりの普及率となってきたようだ。専用レーンをすり抜ける車の数は確実に増加しているように見える。最近の優待制度で一番大きな影響をもつと考えられるのは、深夜通行による割引制度でこれはかなりの節約になる。渋滞の解消との一挙両得を目指したものだが、宣伝効果は今一つのように見える。サービスエリアなどでポスターを見るが、それだけでしかなくあまり効果が上がっているようにもみえない。もう少し工夫が必要なのかも知れないが、機器の新たな購入を促すためには更に一工夫必要なのだろうか。既に出ているのかも知れないが、装着済みの新車が売りだされるようになれば、また一段の変化が現れるのかもしれない。

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