パンチの独り言

(2005年1月31日〜2月6日)
(取材、世襲、選挙、集中、眠り、味憶、文化欄)



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2月6日(日)−文化欄

 新聞に、ハンセン病の施設にいた精神科医の話が載っていた。皇室の女性たちの愛読書の著者としての方が有名なのかもしれない。連れ合いや息子が大学で教鞭をとっていても、その世界でしか名前を知られないのに対し、彼女はもっと広い世界で名を知られていた。もう一人の息子は震災後様々なところで大道芸を披露していたが、それを知る人も少ないだろう。
 彼女の生い立ちや受けた教育、さらにはその後進んだ道を手短にまとめた記事だったが、子供を家に置いたまま施設に出かける母を見送って寂しい思いをしたという息子の話が印象的だ。母親の亡くなった年に近づいてきた息子には、その時の彼女の思いが少しずつ理解できるような気がしてきたそうである。新聞を読む目的は、多くの人の場合最新の情報を手に入れるためであろう。確かに、前日に起きたことが報じられているし、最近の話題の解説が記されている。電波を通じて伝えられるものと違って、そこには落ち着いた形の筋の通った話が掲載され、誰に邪魔されることもなくゆっくりと読み進めることができる。音声で伝えられた不確かな情報よりも、誤解も少なく確かな情報になることも多い。しかし、その一方で事件記者や論説委員の憶測に基づく情報や彼らの考えが塗り込まれた記事も多く、誤解ではなく操作あるいは洗脳されてしまう怖れもある。結局のところ、その中にある文字情報から様々な情報を読み取り理解するのは読み手の責任であり、送り手にはそこまでの責任を負わせることはできないだろう。情報を手に入れるために記事を読む場合、特に気をつけておきたいのはそこにあるべき一貫性の有無だろう。新たな情報が入るたびにコロコロ主旨が変えられたのでは、受け取り手はたまったものではない。そういう注意を払いながら記事を読む一方、別の愉しみをもって新聞の頁を繰ることが多い。それは文化とか生活とかその類いの内容を含む記事で、時宜にかなったものであることもあるが、多くの場合その日その時に読まねばならぬものでもない。事件記事と違い、ちょっと位時期がずれても風化することもないし、記憶の箱から消え去ることもない。何かを目的として取り込む情報でもない代わりに、いつでもどこでも気軽に取り込むことができる話題である。目的の有無が重視される時代になって、そういう情報はどこか片隅に追いやられると思われたが、実際にはそうならなかった。教養という言葉が、大学での基礎教育のようにまるで役に立たないものと誤解されて、さらに苦しい立場に追い込まれたようだが、一方でそういうどこで役に立つのかわからないがいつか役に立つこともある情報の重要性が再認識されるようになったのかもしれない。本を読んだり、雑誌を読んだり、資格を取ろうと躍起になっている人から見たら、何とも無駄な時間を過ごしているように見える人々も、実際には人間としての豊かさを高めていると思えば、どんな知識、情報も無駄ということなどない。生かすも殺すも本人次第、そう言ってしまうと当たり前すぎるのかも知れないが。

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2月5日(土)−味憶

 人それぞれに記憶に残る食べ物があるだろう。良いほうの記憶もあれば、悪い思い出もある。思い出は食べ物そのもののことだったり、レストランでのことだったり、これと限ったものがあるわけではない。いずれにしても、何かが強い印象を引き起こし、それが記憶という形でどこかの抽き出しにしまい込まれたに違いない。
 食べ物についての良い思い出となれば、人によっては忘れられない味を求めてどこにでも出かけるということになる。食欲は人間の持つ欲の中でもかなり強いもの、かつ生きるのに欠かせないものである。だから一度その欲の中に記憶という形で何かが居座ってしまえば、そこから始まる様々な欲求に耐えるのは難しいことなのかもしれない。だからこそ、昔出かけたところのあの味を求めて、再びその町を訪ねる人もいるし、その店に出かける人もいる。さすがに毎日毎晩そういうことをする人はいないと思うが、時々頭をもたげてくる欲求に招き寄せられるようにその食べ物を口にする人はいそうな気がする。同じ食材でも、ちょっとした料理の仕方の違いによってまったく違った味になるし、雰囲気だけでも違った味に思えたりする。それを考えると、人の味覚は不思議なものと思えてくる。味そのものだけでなく、何かしら他の要因によってそれが変化するとなれば、これはまた解明不能なものに思えるのだ。こういう話は常に食に通じた人々に限ったものというのは誤解であり、どんな人にも何かしらのものがありそうだ。それとともに、容易には手に入らない高級料理に限った話でもなく、大衆料理についてそんな話があっても不思議ではない。最近ならば、ラーメンがその一つに挙げられそうで、ある店独特の味と評判を呼び、客が集るだけでなく、次には暖簾分けという手順が控えていそうだ。同じ味が大衆化し始めると一気に特徴が失われて、さてどんな味のどんなところが独特だったのかわからなくなる。そんな流れがあって、次々に新しい店が現れ、消えていくことになる。ラーメンとともに大衆料理として、数多くの店が並んでいるのが牛丼を中心とした丼物を出すチェーン店だろう。速くて、安くて、美味いものという言葉の並びが受け入れやすかったからだろうか。一時失われた勢いを回復した後はずっと伸び続けて、業界全体の勢いに繋がっていたように見えた。しかし、海の向こう側からもたらされた衝撃はあまりに大きく、もう長いこと肝心なものが失われた状態が続いている。忘れてしまった人もいるだろうし、忘れられなくてまだ売り続けられている店に足を運ぶ人もいるだろう。根本のところにある問題の解決は未だに図られず、どんな未知があるのかさえ見えてこない。欲求はそんなことでは抑えられるものではないから、さてどうするのか。簡単に手当てできると思えたのは素人の浅はかさで、あそこのあれじゃないとできない味だとプロから言われてしまえばどうにもならない。さて、この話はどう流れていくのだろう。このまま放置され続ければ忘れ去られるだけのように思えるのだが、それに対してどんな対処が考えられるのか。どうも忘れられないようにするための動きが出ているようだが、はたしてそれで十分なのか。思い出させ、経験させた後に、おあずけをくらわすのだとしたら、それは何だか躍らされているだけにも思える。だからうっかり乗せられないようにするのか、それとも楽しみを享受するのか、どちらになるのだろう。

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2月4日(金)−眠り

 中々寝つかれないとか、朝早く目覚めてしまうとか、そんな経験のある人もいるだろう。一方で、加齢現象の一つとして眠りが浅くなることが指摘されていて、場合によってはかなり重篤なものとなり、寝つきの悪さなどとともに睡眠障害とされることがあるようだ。これは精神障害との関連もあり、眠りが健康の基本要素の一つであることが認識できる。
 睡眠障害は、ある程度高齢の人々や精神不安定の症状を持つ人々に特有のものと思われてきたが、最近まったく違うタイプの人々について報告され始めたそうだ。乳幼児の睡眠障害と言われても、ほとんどの人はピンとこないだろう。赤ん坊は寝るのが仕事と言われるくらいだし、夜泣きをする子でも総合的に見ればどこかで寝ているものだと思われてきた。ところが眠りのパターンに異様なところが見える子供たちについて、詳しく調べた結果から、そこにはまるで大人の睡眠障害のような兆候が見られるというのである。小さな頃から夜更かしする子供がいたり、深夜のレストランに子供連れで現れる大人たちがいるわけだから、確かにそこに何かおかしな症状が現れても不思議はない。子供の好きなようにさせると赤ん坊を抱きながら宣う母親がいたり、深夜に帰宅して子供に相手をさせようとする父親がいたり、どこか螺子が外れているような人々の話が流れてくるが、こういう環境で太陽の動きに合わせた生活を送れない子供が出てくるのは当り前のことかもしれない。そういうことが長く続き、どうにも一定の生活リズムを保てない子供が出てくるのだろうか。そのことがかなり大きな社会問題になっているとある番組が取り上げていた。その展開を見ていて首を傾げた人がかなりいるのではないかと思うが、子供は寝かしつけるものだとか、リズムができるようにきちんと管理するとか、あまりにも当り前すぎてどう反応していいものなのかさっぱりわからなかった。子供を寝かすのに子守歌を歌う親がどの位いるのかわからないが、そんなことを習慣づけるのさえきちんとしたマニュアルを与えることではじめて達成されるそうだから、世の中変わったものである。何でもかんでも言われるまで気付かない人々が増えただけといってしまえばそれまでだが、何ともおかしな話である。普通というものは既に存在していないのだろうが、やはりあえて強調したいのは普通に考えたらそんな程度のことはすぐにわかるはずなのだ。そんな簡単なことを思いつけなくなった親が、子供の奇行の責任を押しつけられると言って、何かの障害という病名を欲しがるとなれば、どうにもならない。結局、単純な躾や習慣づけのことを知らないのに、一方で幼児教育に精を出しつつ育児をすることなど、言語道断なのではないだろうか。今回の乳幼児の睡眠障害も別段脳や身体の欠陥からくるものではなく、単純な生活習慣の間違いによるものが多いそうだ。それだけでなく、このところ脳の先天的な欠陥に基づくものと論じられていたある症状についても、睡眠障害の関与を指摘する声も上がりはじめた。将来、どんな結果が出てくるのかわからないが、ごく簡単なことをやれず、ずっと難しいことに取り組もうとすることは間違いの元になりそうだ。まずは単純に考え、基本的なことに目を向けることこそが、育児の基本と言えそうである。

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2月3日(木)−集中

 駅前に二つ、学習塾だか予備校だかよくわからない建物があり、夜に食事に出かけると、その前の歩道に自転車がたくさん止まっているのを見かける。ただ、帰りには、迎えの車が道を塞ぎ、迷惑千万の状態となる。教育熱心な親達がいて、この国も安泰と見る向きがあるかも知れないが、さてどんなものだろうか。心配がないわけではない。
 先日も夜半過ぎに飲酒運転をするわけにもいかず、徒歩で帰宅する途中に、そのうちの一つの前を通った。既に1時を回っていただろうか、十数台の車が寒空の下、エンジンをかけたまま予備校の前の道に駐車していた。受験の季節だから、最後の追い込みで夜遅くまで勉強に励む子供を迎えに来た親だろうか、車の中でじっと待っている姿が目に入った。こういうのを見て教育熱心を思い浮かべる人もいるのだろうが、果たしてそうなのだろうか。確かに、こんな過程を経て、有名校に進学し、大学入学、そして就職へと道が続いているのだろう。しかし、入試に向けての勉強がどれほど人生全体に反映されているのか、進学・就職といった問題以外に、どの程度のものなのか、怪しい気がしてくる。近くにやって来る若い人々の中に、明らかに社会性を失っている人がいるし、記憶ばかりで応用力の欠如が目立つ人もいる。これだけで一概に全体の話をするのは危険なのだろうが、実例は幾らでもあるし、その多様性には驚かされるほどだ。欠けているように見えるものが色々とありすぎて、これという一つのものに絞り込めないほどで、逆に言えば一つのことしかやって来なかったのではないかと思える。受験という一つの目標に向かって邁進することに意味がないとは言わないが、目標がそれだけであったとしたら恐ろしい気がする。いろんな経験を積んだはずの親達が、まったく同じ見方しかできず、近視眼的に目の前の目標にのみ注意を払うようでは、何とも悲しくなる。尻をひっぱたいてでも勉強させることにどれほどの意味があるのかわからないが、何かしらの働きかけによって夜中までの勉強を強いているのではないかと思える。何とか良い学校に入ってくれるようにというのは、親の子を思う気持ちから出ていることとする向きもあるが、果たしてそんなものだろうか。子供たちが苦しんだ末に、やっと入学した大学で、目標を失い無為に過ごしたとしたら、その苦しみは何のためにあったというのだろう。各段階で、その中で出される新たな目標に向かう必要があるはずだが、それが単なる標的にしか過ぎず、まるで射的場のように的に当てることに終始するのでは、何とも虚しいものになるのではないか。駐車している車の中で待つ親達が、それに加担しているだけだとしたら、何に熱中しているというのだろう。勝ち抜くためには訓練が必要で、そのために塾の存在が欠かせないとするのは安直すぎて、そうでもしないと何ともならない人間を増やしているだけなのではないだろうか。そういう段階を経ても、学ぶことを楽しめる人間に成長する子供もいるのだろうが、こんな時期に夜半過ぎまで塾にいることが、人間の成長に良い影響を及ぼすとはとても思えない。

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2月2日(水)−選挙

 年度末が近づいてくると次の年度のことが気になる。どんな体制で進むのか、何か改革するものはあるのか、決算から予算のことも気になる。といっても実際にこの手のことを決めるのは年度末ではなく、ずれた時期になることが多い。どのみちバタバタするときに、さらに荷物を背負い込むのは得策ではないからだ。だから気になるのは単に気にするからだけなのだ。
 一方で、時期がずれたとしても、結局はそういう変化がどこかで起きるわけで、その度にいろんな動きが見られることになる。表立った動きもあるのだろうが、ほとんどのものは水面下で、当事者以外にはまったく知られることはない。特に人の異動ともなれば、影響も大きく出るだろうから、慎重に動くことが多いようだ。どこかの組織で決まることならば、そういう形で最終結果のみが皆に知らされるのだが、選挙という手段を用いる場合には経過も含めていろんな段階で情報を得ることができる。首長選挙も、議員選挙も、かなり整備された環境で行われるから、不正も何も起きないということになっているが、一方で毎度逮捕者が出ることを考えると、環境整備だけでは無理があると思える。だからと言うわけでもないだろうが、もっと小さな組織で行われる選挙の場合、さらに怪しい動きが其処彼処に見られることがある。疑心暗鬼にかかってしまえば、すべてのことが疑わしく思え、誰も信じられないという状況になることもあるのではないだろうか。自治会の長の選挙、父母の会の長の選挙、ある集まりの長の選挙など、いろんなものがあるが、そういうことがあるたびに裏で活躍する人がいるのはまことに不思議な感じがする。政治家は様々な思惑や画策の中で動き回るものと相場が決まっているが、まさに小さな組織での政治家のごとく暗躍する人々がいるわけだ。しかし、政治家は政治をするのが仕事であり、そのために思惑やら画策がなされるわけで、そこには正当と言えるかどうか怪しいとはいえ何となく繋がりがあるような気がする。一方、小さな組織の方はと言えば、本来の業務は別のところにあり、単に長を選ぶときのみに出される思惑やらの政治だから、何とも的外れなものにしか思えない。それでも精を出す人々は一生懸命になるようで、興味の無い人からしたら驚くほどの活発さを見せる。それだけのことをして何の得があるのか、というのも首を傾げる理由の一つになるが、おそらく新体制による利益がどこかにあるのだろう。人のため、組織のためと言っていても、そこにはやはり自分のためという大きな動機が存在するに違いない。とにかく、水面下の活動が行われたことの無い組織に、そういう動きが導入されるとその効果は絶大である。あっという間に大勢を制することができ、思い通りに物事を運べる。ただ、それが良い結果を産むかどうかはわからない。何しろ、誰かが個人の利益を重視して考えた方針である。その特定個人以外の人々にとっても同じ結果になる保障などどこにもないのだ。しかし、出てきた結果を受け容れるのはそういう段階を踏んで行われたものであれば、組織の人間として当然のことである。そこでまた別の動きが出てしまったら、大きな混乱を招くことになり、収拾がつかなくなる。まあ、そんな話はどこにでもころがっているのだが。

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2月1日(火)−世襲

 景気は良くなっているように思える。しかし、悪い材料が出ればたちまち広がり、回復の鈍化や更なる悪化を論じる人々が増える。まあ、悲観主義者の言葉にはある程度耳を傾けるとして、分析結果には注意を払ったほうがよさそうだ。家電各社が軒並み悪い数字を出していても、そこには二つ三つの処理が入り、如何様にも解釈できそうなのだから。
 経済状況が好転しても、一度傾いたところを立て直すのは容易なことではない。傾きを止めるだけでは良くなるはずもないし、ほとんどの手だてが悪化の速度を落とす効果をもっていても、それを逆向きにするほどの特効薬となるのは難しいからだ。景気回復が表舞台でも語られるようになって、逆に窮地にある企業の実態が白日の下に晒されるようになったような気がする。ちょっと良い知らせがあれば、それと抱き合わせにすることで悪い知らせの印象を薄めてしまおうとする思惑でもあるのだろうか。企業の再生に向けていろんな手法がとられ、それぞれに抵抗したり、協力したり、人事の刷新などの思いきった措置をとるところもある。それまでの経営形態が悪かったから、業績が悪化したのだと指摘されてしまえば、何かを変えていくしか方法はない。一番簡単なのは経営陣の首の挿げ替えだろうが、効果のほどはわからないというしかないだろう。今朝の新聞の片隅に小さくほんの十行ほどの記事が載っていた。地方の商社の再生についての記事だったが、医療機器の商社として先がけ的な存在だっただけに、ちょっとびっくりした。おそらく既に代替わりしているのだと思うが、前の社長には少なくとも二人の子供がいて、上の娘はかなり売れた歌手になった。既に引退して、結婚し、他の国で暮らしていると、時々話題になることがある。下は息子で、たぶん跡を継いだとしたら、彼になっているのだろう。四十代半ばでどんな様子なのかはわからないが、とにかく経営は悪化の一途を辿ったようだ。経済状況が良いと言われる地域でそういう状態になってしまったのは、おそらく何か別の理由があったからだろうか。そこまで調べる気にはなれない。世襲制が当り前だった時代には、縦の繋がりが安心できる横の繋がりを産みだし、地域全体の活性を高める役を担っていたのだと思うが、最近はそんなことはとんと聞かれなくなった。家業を継ぐこと自体、大きな組織であればあるほど難しいものとなり、大切に扱われるとしても二代目、三代目がその存在感を示すことは困難となっている。そういえば同じ地域の食品会社の二代目は、厄年の頃病に倒れた。帰らぬ人となった彼が残したのは、まだ小さな子供たちだったから、おそらく世襲制の維持は難しいものになってしまっただろう。地方で展開する企業も、全国展開する企業も、ある程度の大きさを超えてしまうと、跡継ぎ問題が難しくなる。設立者の気概をその子供たちが同じように持ち合わせているわけではないから、順風満帆ならまだしも荒波の中を進むことは困難なのだろう。実際にそんな状況で起きた事件なのかどうかはわからないが、ほんの十行ほどの小さな記事からそんなことを思い起こし、そこの娘が唄った歌が頭の中に響いていた。

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1月31日(月)−取材

 あるテレビ局が放映において事実を歪曲したと報道されていた。実際の取材期間と番組中に映された期間とに差があったためで、単なる思い違いではなく何かしらの意図に基づくものであったようだ。最近の情勢から局側はすぐに調査に乗り出したようだが、この動きを珍しいものと捉える向きもあったのではないだろうか。
 こういうのは捏造と言われても仕方のない行為だが、今に始まったことではないようだ。新聞やテレビといったマスコミと呼ばれる世界の常識となっているのは、取材の結果として世間に発表する場合にも取材を受けた人々に事前に内容を説明する必要はないということらしい。番組の編集作業の問題もあるのだろうが、一方で事前に情報が漏れることを怖れるという話もある。更には、今回の例の場合に考えられることは、事前に間違いを指摘されたとき再編集を余儀なくされるわけで、そういう手間を避けようとする気持ちもあるのではないか。そういう話があまり外に出てこない理由には、たとえ虚偽があったとしても、あるいは事実の歪曲があったとしても、それらを指摘する声に対して密室内での対応に留める習慣があったからなのだろう。そういう点で今回の話は、今までに無い動きだし、今後の展開を期待する声も出てくるだろう。さすがに厳しい処分が下される結果になるとは思えないが、それでもこういう話が表沙汰になること自体に意味がありそうだ。大衆を相手にした情報伝達機関においては、一度衆目に触れたものについては引き下げることができないという主張があった。つまり、ニュースになったものは変更できないというわけだ。しかし、取材対象にされた人間にとっては、話してもいないものを話したと書かれたり、一部のみを切り取られて編集された談話が流されたり、そんな形で誤解を産む情報を大衆の目に晒されたのでは、たまったものではない。内容がねじ曲げられた結果として何かしらの不利益を被った場合、まずは当事者に対して訂正やら謝罪やらを求めるのが筋だが、多くの場合編集上の理由やら何やら訳のわからない事情が戻ってくるだけで、何も起こらないのが普通だ。その辺りが今回の話を珍事と受け取る理由なのだろう。かなり前のことだが、当時はまだ専門的な研究はほとんど評価されず、新聞沙汰になることはせいぜい何かを受賞したときくらいのものだった。そんな時代に研究現場に似付かわしくない報道がなされることがあった。ある学会で重要な研究の発表があるという報道で、記者が自ら取材したというより、その業界の人間が意図をもって情報を流した雰囲気があった。ところが、記事にするためにはそこに専門家の意見が必要となったらしく、分野としては少し外れたところにいる大学教授の意見が掲載されていた。これには裏話がくっついていて、どうもその時記者はかなり多数の学者に接触を試みたというのだ。しかし、そのほとんどから色よい意見が聞かれず、結局行き着いたのが掲載された人間だったというわけだ。この経過から想像するに、記者は取材途上で研究成果の質に対して何かしらの疑いを抱く機会があったはずで、掲載を思い止まることもできただろう。しかし掲載は既にどこかで決まったものであり、そのために必要な情報を集めることが彼の使命だったのだ。思惑に基づく情報収集ではこういったことはよく起きるのだろうが、それを知らずに記事を読む人がいたとしたら、さてどんな結果を産みだすことになるのだろう。

(since 2002/4/3)