人から相談を受けることがある。誰でもそうだろうが、困っているからか、迷っているからで、一人で解決できなくなったからといったところなのだろう。面白いと思うのは、そういう時の持ちかけ方に大きく分けて二つの型があることだ。一つは正の方向、もう一方は反対の負の方向である。同じような相談でも正反対のやり方があることが面白い。
持ちかけ方に正と負があると言われても、すぐにはピンとこない人もいるかもしれない。相談すると言っても、まったく零の状態で話を始めるわけではなく、どこかしら自分なりの着地点をある程度決めていることが多い。その着地点に対して、真直ぐ向かうような持ちかけ方が正であり、逆に向かうようなものが負というわけだ。自分が向かいたい方向に素直に向いて、話を持ちかけられれば、相談を受けた方もそれなりの忠告を加えることはあっても、本人の意向を尊重する形でまとめやすくなる。それに対して、本心では逆のことを考えているのに、それについての自信がないがために、つい正反対の意見を持っているかのごとく振る舞う人がいる。これは多くの場合、一筋縄では行かない相談事となる。あれこれ意見をしても、何故だか自分の思いと違う方の考えを主張するような素振りを見せ、結局本心で思っている方向に向かいたくないと表明しているような状況となる。それでも色々と反対してもらって、自分の意見の正しさを実感したいと思っているのかも知れないが、これは相談を受ける側にとっては見極めも難しく、また無駄な時間がかかる重い仕事となる。出発点からして、この二つの違いははっきりしており、結局その人の性格なのか考え方なのか、そんなものが支配しているような気がする。それをよく理解している人を相談相手として選べる人はまだ幸せで、ちゃんと対応してくれるから良いが、そうでない人を手当たり次第に選ぶ人はどうにもならない結果を招く。本人は相談した相手が悪かったと思っているようだが、実際にはそんなことを思うこと自体間違っているような気がする。つまり、その人を相手として選んだのは、自分自身であるということをすっかりどこかに置き忘れているのだ。誰でも正面から問題に取り組むのは気後れするし、疲れることも多い。しかし、だからといって、逆に出ることで気を楽にしようとしているとしたら、それはそこでするべき苦労を他人に押しつけていることになるのだ。そういうことに気づかぬ人に限ってこんな行動をするのだから、今更忠告しても仕方がないと言う人もいる。確かにその通りかも知れないが、本人のためにならない諦めなのではないか。その後も何度も持ちかけられるたびに、何度も同じ道を辿るのを見ていると、そろそろどうにかして欲しいという気持ちになる。真直ぐに取り組んで、自分のしたいことをはっきりと主張し、それが正しいかどうかの判断を仰ぐという形であれば、ほんの一言で済む相談事が、逆に進むことで遠回りをし、障害にぶつかりながらの遣り取りとなれば、相手もかなわないだろう。そういうことで相手が少なくなることに対しても、自分に非はないと信じる人が多い。結局そういった考え方が根底にあるからこそ、こんなことが起きるのだろうが、自分の意見に自信がないという話と非はないと信じる話がどうにも矛盾しているように感じられるのは、こちらが違う考え方をしているからだけなのだろうか。
暖冬という予報は見事に外れ、被災地には近年にないほどの雪が降っているとのこと、狂いが生じた家屋にとってはかなりの重荷のようで、すでに倒壊してしまったところもある。予報が的中していても、それほどの違いはなかったのかもしれないが、こういう図式はなんとも皮肉な印象を与える。
豪雪地帯でなくても、というか、ないからこそなのかもしれないが、雪が降って困ることは多い。特に足元がおぼつかなくなるのが一番大きく、歩くだけでも大変な状態となれば、同じ道を走っているものにとってはかなりの変化があると言える。電車は別の形で大きな影響を受けるのだが、道路を走るバスなどの公共交通機関はかなり大きな影響を受け、移動がままならなくなってしまう。そんな状態では自分で車を走らせてもうまくいくはずはなく、事故に巻き込まれたり、こちらが事故を起こしたりする場合も多くなる。雪道が滑るのは当たり前で、ちょっとしたことでいつもと違う挙動を示し、あっという間に制御を失うこともある。基本的には路面状況を把握して、それに合った運転を心掛ければ済むことだが、慣れていなければ難しいし、自分だけがうまくやっても周囲がそうなっていなければ、無理も出てくる。路面が変わっても安全にということから、冬用タイヤなるものを装着している車があるが、どの程度安全なのか経験がないからわからない。広告を見る限り、かなりの性能を有し、どんな道でも何とかなるかのごとくの幻想を抱くが、実際にはそうでもないらしい。高速道路の規制でも、冬用タイヤ装着かあるいはチェーン装着を義務付けるものがある一方で、さらに状況が悪化するとすべての車にチェーン装着が義務付けられる。ということは、冬用タイヤの有効性はある程度の路面状態までで、凍結の状態や積雪の量によっては対応できないことを意味している。しかし、広告はそんなことを言ってくれないから、信じ込む人々にとっては大丈夫という気持ちが働くのではないだろうか。規制箇所でいちいち点検されるのなら、個人が勝手な振る舞いをすることもできないが、自分で規制を理解し行動に移すとなればそうも行かない。それで事故を誘発してしまえば、運転者の責任ということになる。先日、ある高架道路で壁を突き破って下に落ちてしまった車があったと報じられていた。曲線道路の外側に飛び出し、それほど丈夫でもない壁を大きな車が破ったということだが、なぜこんなことが起きたのだろうか。報道には冬用タイヤを装着していたとあったが、その有効性が疑われるべきなのだろうか。真相はわからないが、どんなにタイヤが頑張ったとしてもその性能を超える負荷をかけてしまえば、どうにもならなくなるのは当然だろう。この場合も、大きな遠心力がかかり、それが大きすぎた結果だとすれば、仕方がないとなる。あわてて制動をかければさらに状況は悪化するわけで、その結果が落下となったのかもしれない。いずれにしても、過信することは運転技術にしても、機械の性能にしても避けるべきということなのだろう。
いろんな機械が日々の生活に入ってきて、便利になったことは確かである。こんな書き込みがどこからでもできることもその一つであり、またそれを誰でも自由に見られるのもそうだろう。しかし、所詮は電気製品を介したものであり、大本になる電気が断たれてしまうとなんともならない。手も足も出なくなる。
今の状況はまさにそうで、機械本体に異常がないことはパソコンの本来の機能がちゃんと働いていることからわかるし、通信に異常があればどこかから知らせがあってもよさそうだ。どちらでもないがどうにも動かないことから、少し調べてみたら、どうもハブと呼ばれる機械の電源系統に異常がありそうな気がしてきた。特殊なケーブルを使用しているようだから、何か別のもので代用することもできないようだし、さて管理会社の対応を待つしかないようだ。便利な世の中になるとこういうときにどうにもならないことがよくわかる。便利とはそれほど大切なことだが、一方でその脆弱性に呆れるばかりだ。特に、日常的に使用するものに限って、自分が異常事態に対する対策を練っていないことをこういう機会に痛感する。だからといって、同じようなことが起きることがわかっていても、結局は何の対策も講じないわけだから、どうにもならない。どうも現代人は自分も含めてそういう対処は誰か別の人が考えてくれると思っている節がある。そして、何かしらの災害が起きると、その途端に大慌てになる。でも、何にもできないわけだ、心の準備も、実際の準備も何もしていないのだから仕方がない。自己責任という言葉がこういうことに当てはまるのかどうかはっきりしないが、責任の所在が他にあるとしても、何かしらの対策を自分なりに講じておくのがいいのだろう。その一つに考えられるのは、同じような機能を持つ機械を別に用意するということで、これは企業やらの責任の重い部署における対策として考えられる。しかし、一般の人がそれをしなければならないとしたら、負担が大きすぎてどうにもならない。では、別の道があるとしたら、なんだろうか。今実際にそういう手段を使っているわけだが、それは別の方法を使うということだ。最近は至る所にネットカフェのようなものが出現し、それなりに商売になっているようだ。まんが喫茶という形式を持つところもあるし、インターネットのみを扱うところもある。地方都市でも整備されつつあるようで、確かに便利である。自然災害の場合に地域全体が被害に遭うからこの方法は使えないが、自分だけの問題が生じた場合にはいい逃げ道となる。でも、これはこれで結局何とかなるさと思わせるだけで、自分なりの対策には結びつかないだろう。まあ、それも含めて、今の社会は依存性の強いものだから、それでよしとすべきなのかもしれない。
設計上の欠陥から事故を招いただけでなく、その後の対応にも様々な問題があったとして、社会的な制裁が加えられた感じの自動車メーカーは系列会社による支援で、何とか向かう方向だけは定まってきたようだ。そんな状況でも国内メーカーの生産台数は増え続けているようで、本家を凌ぐ勢いとなっている。たぶん、良いことなんだろう。
経済発展に破綻を来した後も、一部の企業は業績を伸ばし続け、リストラの嵐が吹いた企業を尻目に販売台数を増やし、関連企業の勢いも止まらない様子だ。一時の馬鹿げたほどの高級志向は影を潜めていたが、最近では景気が回復してきたのか、再び大きな車、過剰なほどの装飾を施した車などといったものに注目が集まっている。そりゃあ、確かに、大きな車でゆったりと走ったほうが快適であり、走行音もほとんどない静かな車内で寛ぐほうが同乗者にとってもありがたいに違いない。崩壊前に既にその勢いは頂点に達していたのだろうが、重厚長大の極みといった雰囲気の車が各社から出されて飛ぶように売れていた。その後の凋落で、さすがに苦しい商戦を繰り広げざるを得なかったが、一度変化した大きさが元に戻されるはずもなく、ここに来て再び売れ始めたとなれば、また製造販売に注力されることになるだろう。なるほど、大きな車の方が良い点が多いが、しかし国土が狭く、道幅も十分にとれない道路事情の中で、そういう車の存在はどんな印象を持たれているのだろうか。大きさは厳密に比較してみないと気がつかない要素を含んでおり、先日も都心に住む知り合いの家を尋ねて、そのことを実感した。狭い敷地に建てられている家の横には、これまた狭い車庫があり、家の前の狭い道路とともに、車の出し入れには神経を遣うという。以前は5ナンバーの車を所有していたが、やはり快適さを追求する気持ちからか、3ナンバーの車に買い替えようということになったのだそうだ。そこではたと気づいたことがあるわけだ。排気量が大きくなると自然と車の大きさも増す。大きさには三つの要素があって、長さ、高さ、幅ということになる。狭い道路と車庫で、一番大きく影響されるのは幅であり、快適さの追求で要求されるのも幅の拡大である。そこに矛盾が表出してくるわけで、国産車を見渡してみても、車庫に収まるものが見つからなかったという。本家はさらに厳しい状況にあって、選択肢はあまり残っていなかったそうで、結局欧州車を選んだとのこと。この話になったのは、車庫に止めてあった車のエンブレムを見て、おやと思ったことから尋ねたのがきっかけで、なるほどと納得した。高級車の代名詞のようなエンブレムを装着した車は、意外なほど車幅が小さく、狭い車庫にすっぽりと収まっていた。考えてみればこの結果はごく当り前のことで、やたらに広い国土と整備された道路をもつ本家では馬鹿でかい車がごく自然の選択肢として存在するが、この国同様に狭い国土と長い歴史の上に立つがゆえに狭い道をもつ国ではある程度の制限が必要となる。拡大の方向性はあってもそこに限界のある考え方に立てば、そういう答えが当然と言えるわけだ。では、何故この国では実情に反するような動きが起こってしまったのか。その答えは、私たちの心の中にあると言うべきなのかもしれない。何に憧れ、どちらを向き、誰にすり寄ってきたか。極端な言い方をすれば、維新以降欧州に学ぶことが多かったものが、戦後急激に海の向こうの国に顔を向けるようになった。その道筋がこんなところにも現れているのではないだろうか。実情との整合性を加えた形で答えを出す国もあれば、そんなことはおかまいなくただ真似をする形の答えに至る国もある。そんなところかもしれない。
昨年の暮れ頃から、地元の新聞に書き物を寄せている。二ヶ月に一度の調子だから大した負荷でもないし、分量はこれと同じ程度だ。名を明かしたものだから、職業に関わる話題を引き合いに出せる。どちらが楽なのかはっきりとはしないが、とにかくどちらも愉しめる存在である。もうすぐそこに、三度目の締切が迫っているのだが。
何かものを書くとき、自分が書いたものを読み返し、推敲を重ねるという手法を使っている人が多いと思う。当然、自分が書いたはずのものを他人のもののように振る舞って、それを批判する目をもちながら読む必要がある。周囲を見渡してみると、これができる人とできない人がいることに気づく。自分の書いたものは記憶の中にあるが、他人が書いたものは記憶の中にないからだろう。自分の書いたものさえ忘却の彼方へ押しやってしまう人間には、その区別ができることさえ理解不能であり、ふと気がつくと原稿用紙を真っ赤にしていたなどという事態に陥る。これはこれでかなりの苦労が伴うものなのだろうが、それよりも赤の他人の書いた文章を読まされる方がかなわないと思う。最近そういったことが頻繁に起きており、なるべく穏便に片付けたい気持ちもあるのだが、どうもうまくいかない。読むという行為は単純にそこにある言葉を受け取ることと思っている人がいるかも知れないが、実際にはそうではないと思う。一方的な情報の流れではなく、まるで人と語らうかの如く、そこにある言葉たちと会話をすると言ったほうが正しいのではないだろうか。自分の考えと、その文章を書いた人の考えを照らし合わせて、そこにある違いや一致を楽しみ、さらに別の考えに向かっていくといった雰囲気なのだ。そこで大切になることは読むべき対象が理解可能な言葉の繋がりで構成されているかどうかということである。普段の会話であれば、ちょっと引っかかったところなど、相手の話の腰を折って、尋ねることができる。しかし、読み物となれば、そこにあるものがすべてであり、分からなければ分からないままにするしかない。だから、並んでいる文章が意味をなさないものであったり、前後関係が希薄で論理性の低いものだと、疑問点ばかりが目立つことになる。書くことで一番大切なのは、どんな話題を取り上げるのかとか、どんな提言をするのかということではなく、まずは読んで理解できる文章を作ることなのだ。こんな当り前のことを書かなければならないのは、最近の世に出回る文章を見ると、意味不明なものが多いからだ。誰でも他人の目に触れるものを書くことができるようになったのは、ネット社会の恩恵の一つと言われる。誰かが読んでくれるということ自体を楽しみにする人がいるからだ。しかし、そこに並んでいる意見を読むかぎり、ネット社会の暗い面を見ている気がしてくる。唯我独尊、独り善がり、などといった類いのものが多いのにも閉口するが、何を書いているのか分からないものが多いのは深刻である。一方で、他人の書いた文章の内容を理解できない人が増えているのもどうやら事実のようで、すんなり直接的な表現で書いてあれば分かるのに、そこにちょっとした含みがあるともうお手上げという人がいる。どちらも普段の生活で人との会話を楽しめないのかと想像したりするが、当人はそう思っていないだろう。自分の意見はしっかりしたものであり、人の意見を理解できると思うわけだ。そんな人、近くにいませんか。
世の中がせわしくなったからだろうか、通信販売が流行っているそうである。買い物に出かける手間が省け、支払いもカード決済、ローンも組めるとなれば、先立つものがなくても何とかなる。しかし、現物を見ることもなく、雑誌やテレビの宣伝文句につられて買ってしまい、大いに反省することになった人も多いのではないだろうか。
通信販売の売り上げが伸びている理由の一つには、確かに手間が省けることがあるが、もう一つ忘れてならないのは品物を直接手に取ることを省く消費者が増えたことだろう。店を構えて、従業員を雇い、時間をかけて少数の品を売るという商法は、遠い昔のものとなってしまったように映る。店にしろ、従業員にしろ、店頭の品が売れようが売れまいがかかる経費であり、それだけのものを販売によって回収しなければならない。通販でもテレビで大々的に宣伝しているものはかなりの経費をかけているのだろうが、一つ一つの品物の販売での回収を基にして考えれば、目論見は立てやすいように思える。一方、そんな状況がさらに好転しそうな商法が登場し、その後も急速に業績を伸ばしている。ネット商法というといかがわしさばかりが目立つが、その走りとも言えるのが書籍のネット販売で業界一位を占めているアマゾン・ドット・コムだろう。身に付けるものや生活必需品のように、試着や直接見てみることが必要なものでは、今でも実際に店に足を運ぶ人がいるだろう。たとえそこで気に入ったものがあっても、まったく同じ品物が通販で手に入るとは限らず、結局店で購入する道を選ぶことが多い。それに対して、書籍については文字情報としてネット上でその本に関する情報を手に入れることが可能だし、どうしても中味を見たければ書店で確認することもできる。一番の違いは、書店で売られているものとネット上で売られているものが同一で何も変わらないことなのだ。わざわざ足を運ぶ必要がないから、書店の少ない地方でも便利であるという触れ込みがあるが、それよりも大きなことは書店がひしめき合う場所でも、さらに低い価格で購入することが可能になり、お得であるということなのではないだろうか。この手の話で最近当り前のように語られるのは、安ければそれで良いということで、所狭しと本が並んでいる書店の存在が蔑ろにされている。それに拍車をかけているのが、全国展開をしている古書店でこちらも資源の再利用という意味から重要な存在となっているが、業界全体に与える影響が大きい。手に入れやすさが購買意欲をそそるような形で現れてくるなら良いが、本を読まない人々にはこんなことは瑣末なことで、読む面倒は金銭とは無関係なところにある。つまり、この手のことでは購買層の広がりは期待できそうもなく、少ない牌を奪い合う結果を導くだけなのだ。そうなると、最近の情勢からすれば、安いところが勝つことになり、店を構えないネット販売や安く仕入れて安く売る廉価多売の古書店に軍配が上がることになる。いかにも論理的な話なのだが、こういう図式が展開されると、古くからの形態をとっている町の本屋の末路ははっきりしてしまう。本の値段が決められているのがいけないと主張する人々がいるが、これについてもその後の展開を想像してみれば、どうなるかは火を見るより明らかなのだ。これまでは消費者の必要に応える商売をする側のことばかりに注目が集まってきたが、これからはもっと消費者の行動に関する考え方に目を向けるべきなのではないだろうか。
景気回復の兆しが本物になり始め、回復基調に入ったと思った途端に、いつの間にかその足取りが重くなる。そんな経過を辿ってきたとき、景気が踊り場にあるという表現がよく使われる。この一年は小さな上下があるものの、結局は同じところを行ったり来たりするという意味で、階段の途中にある平らな部分を指す踊り場を比喩に使ったものだ。
ある年齢まではこんな言葉を聞いても何の抵抗もなく光景が浮かんでくるのだろうが、低年齢層となるとどんなものだろうか。踊り場と言われた途端に、踊る場所、古い表現になるがダンスホールとか、そんなものを思い浮かべるのではないだろうか。さすがにダンスホールも無理だから、演劇やバレエを演じる舞台を使ったほうが良いのかもしれない。そんなところが上がりも下がりもしないという比喩に使えるとは思えず、何を言われているのかとんと分からないということになるのだろう。言葉は時代の流れとともに、現れ消えるのが当り前であり、今までもそうだったとしてしまえば簡単なことだが、そんなことをうっかり受け容れてしまうと、結局世代間の断絶を招くことに成りかねない。そんなに大層なことでもなく、そのうち言葉の意味を学び取り、何とか話が分かるようになるはずと、放っておいても問題のなかった時代は遠い過去のものとなっているようだ。小学生の漢字能力に関する調査についての報道があったが、そこで議論されていることもおそらくこの話に関係するものなのだろう。教育関係者でも意見が分かれ、これだけ減らされた授業時間の中でこれだけの正答率があったことは素晴らしいという人もいれば、こんなに変な回答をする子供がいるのでは教育の仕組み自体を考え直す必要があると警告する人もいる。どちらもどちらであり、それぞれに反論することは容易なのだが、それ以前に論じて欲しい部分があることを思う人はどれくらいいるのだろうか。漢字の読みの間違いはそれぞれの字がいろんな読み方をすることに気付かないことから始まるのだろうが、書く方の間違いはそれとは少し違ったことに理由がありそうに思える。今回問題ありとして取り上げられていたものに、「楽書き」「電園地帯」「積乱運」などがあったという。それぞれを珍答として紹介していたものだが、珍しいというのは間違いとしか思えない部分がある。それはそれらの答えが全体のどれだけを占めていたかに現れていて、33%、34%、29%とどれもが約三分の一を占めていることになる。これを珍しいというのはいくら何でもおかしい気がする。そこにはその答えを書いた必然性があるはずで、その議論をしないまま教育云々を論じても的外れになりそうだ。これらの間違いはどれも同じ音(おん)をもつ漢字を使っていることから、言葉の意味を連想できそうな意味をもつ漢字で音が同じものを選び出したことによると考えるのも一つである。落書きは楽しいものと思う子供がいてもおかしくないからだ。しかし、田園地帯や積乱雲はかなり違ったところに理由がありそうだ。田(た)や雲(くも)は、これらの読みで習うものから、「でん」とか「うん」という読みを習っていく過程で、こういう熟語を身に付けていく。そこには連想も必要だろうし、体験も必要だろう。想像力が豊かな子供時代にそれを抑えるような教育を家庭でも学校でもしていれば、そういう機会に恵まれない子が出てきても不思議はない。そしてそれらの子供が大人になったとき、踊り場は既に死語と化しているのかもしれない。